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中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い (11月19日)

2019年10月31日

村山首相談話の会の諸活動でお世話になっております皆さまへ

村山首相談話の会・理事長 藤田高景

連日のご奮闘に心から敬意を表します。
 さて、来たる11月19日(火)午前9時から、東京都港区の「芝公園23号地」で、「第2回・中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い」(詳細は添付のチラシをご参照下さい) を開催いたします。
 中国から遺族・幸存者・宗教者ら50名も来日し、参加されます。
 皆さま方のご出席をお待ちしております。

●なお、本集会開催の趣旨は下記の通りです。
 第二次世界大戦末期、日本は国内の労働力を補うために、4万人に近い中国人を大陸から強制連行して、全国135カ所の鉱山や港などで奴隷労働を強制し、酷い待遇と虐待で多くの中国人が異国他郷で亡くなりました。
 今年は、中国から日本に強制連行されて殉難した中国人の遺骨が、秋田県岡
で発掘されて(1949年8月)から、丁度70年目に当たります。
 戦後、日本政府が作成した「外務省報告書」によれば、日本に強制連行されて亡くなった中国人の数は6830名に上ります(実数はこれより遙かに多い)。戦後、在日華僑、在日朝鮮人、宗教界、友好団体、労働組合などが中心となって進めた遺骨送還運動によって、当時は国交未回復という状況の中にもかかわらず、多くの困難を克服しながら、計2300体余の遺骨が中国に送還されました。故周恩来総理は、日本から来た遺骨捧持代表団を北京に招き、その友好と人道の精神を賞賛しました。現在、これらの遺骨は2006年に新たに建設された天津の在日殉難烈士・労工紀念館に、日本軍国主義の中国侵略の鉄証として大切に保管されています。
 しかし、なお多くの遺骨がこの日本の山野に埋もれたままになっています。
 この為、2009年の第一回慰霊法要に引き続き、今回、中国より約50名の御遺族をお招きし、中国人俘虜殉難者の為の日中合同追悼の集いを開催する事となりました。多くの日本の皆さんのご参加をお待ちしております。
(なお、当日は、午前9時から会場で追悼の6830足の靴並べを行ないます。中国から来られたご遺族とともに、日本の市民の皆さんもご一緒に追悼の意味をこめて靴並べを行ないたいと思いますので、早朝で恐縮ですが、当日は、午前9時までに芝公園23中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い号地に御集合いただきますようお願いいたします。)

          記

主催:中国人俘虜殉難者日中合同慰霊実行委員会

共同代表:田中宏(一橋大学名誉教授)
     内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授) 
     林康治(熊本華僑華人総会名誉会長)

後援:中華人民共和国駐日本国大使館  
   真宗大谷派運行寺(なつめ寺)
   公益社団法人日本中国友好協会(会長 丹羽宇 一郎)
   中日合同慰霊法要旅日華僑協賛会
   南京大虐殺60ヵ年全国連絡会、 
   山谷労働者の会、 他

協力:村山首相談話を継承し発展させる会(理事長:藤田高景)

会場:芝公園23号地(港区芝公園3の4)
    都営三田線「御成門」徒歩5分
    都営浅草線、大江戸線「大門」徒歩8分
    JR「浜松町」徒歩12分

●お願い……「当日の配布資料」や「追悼の生花」の調達・準備のため、ご出席いただける方は、恐縮ですが11月12日までに、下記のメールアドレスまたは携帯に、ご連絡を、お願いいたします。
 E-mail  murayamadanwa1995@ybb.ne.jp
 携帯 090-8808-5000(藤田高景)

第6「日中不再戦の誓いの旅」参加報告 ― 池田和則

池田和則(N関労西執行委員)   

はじめに

列車から見た東北の田園地帯
列車から見た東北の田園地帯

 標記の旅行が8月19日~25日にあり、参加してきました。行き先は、北京、ハルピン、瀋陽、大連(と旅順)でした。さすがに大陸は広く飛行機、高速鉄道(中国の新幹線)での移動でした。午前に移動で、午後に見学という感の旅行でした。鉄道での移動は、15年戦争(アジア・太平洋戦争)中、「満洲国」と日本で呼ばれたところでした。車窓に広がるのは見渡す限りの大平原で、土は黒く、耕されていて「トウモロコシ」と「水稲」(ハルピンは稚内と同じくらいの緯度だそうですが、熱帯・亜熱帯性の稲をしかも陸稲ではなく、水田で作っていました)が植えられており、葉葉(はば)が一面に揺れていました。日本も欲しかったのでしょうが、よそ様のものを奪ってはいけません!

 さて、旅の主催は「日中労働交流協会」で、中国側の受け入れは「中国職工対外交流センタ」でした。そのため、私も「N関労西執行委員」の肩書での参加でした。また、歓迎夕食会がセットされる形式がとられて、先方のそれなりの幹部の方も参加されるので、各「宴会」では肩が凝る思いでした。が、我慢して聞いていますと、社交辞令とともに日中間の今日的な情勢の反映などもありで、双方に微妙な意見の違いなども垣間見られ、一般的な観光旅行ではえられない経験ができました。考えさせられるところがありました。が、初めて触れた私には難しくて最後まで十分に理解したとは言えないところです。少しずつ慣れて「肩の凝り」は減りました。

 参加の動機について

 鳥取県においては1987年より「反核・平和の火リレー」を始めましたが、‘85年から始めていた広島県から学んだことが多かったと思います。「原爆被爆者の被害の実相に限りなく近づく」を私たちの姿勢として強調しつつも、「加害責任」を忘れてはならないとも言われました。栗原貞子さんの詩「ヒロシマというとき」が紹介され、「<ヒロシマ>というとき、<ああヒロシマ>とやさしくこたえてくれるだろうか、(中略)<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>(中略)<ヒロシマ>といえば血と炎のこだまが返ってくるのだ(中略)<ヒロシマ>といえば<ああヒロシマ>とやさしいこたえがかえって来るためにはわたしたちはわたしたちの汚れた手をきよめねばならない」でした。さらに、「中国帰還者連絡会」が紹介され、鳥取でも会員のかたの講演を企画したりもしました。鳥取高教組青年部員の勧めで、旬刊「中帰連」を会の解散・廃刊まで購読しました。「撫順の奇跡」はもとより、「三光作戦」、「戦時性奴隷」、「731部隊」、「毒ガス作戦」、「南京事件」、「重慶爆撃」……と中国に対する加害と犯罪が特集されていたし、当時の日本の「右翼」側の「妄言」への冷静な反批判なども載っていました。いつか直接現地に行って見たいと思っていました。今回それが実現しました。

ハルピン

731部隊犯罪陳列館
731部隊犯罪陳列館

ハルピンでは、郊外にある「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」を見学しました。「陳列館は1985年に開館し、2015年に新しい陳列館がオープンしました。陳列館の展示は、細菌研究基地の建設、細菌戦部隊の設立、特別移送扱い、細菌研究の実験と生産、細菌戦の実施、731部隊の逃走、細菌戦犯罪者の裁判と系統的に展示されています。731部隊は約3000人の「マルタ」を虐殺しましたが、敗戦を目前にした撤退時に生き残っていたすべての「マルタ」を殺し、建物を破壊して証拠隠滅を図りました。罪証陳列館に多くの遺品が展示されていました。また、本部、研究棟、生物飼育場、農場、飛行場、鉄道駅、宿舎、運動場、小学校まであり、広大な敷地を占めていました。」。(伊藤団長文より引用)

その後、スターリン公園から松花江を眺め、中央大街を散歩しました。団員のT氏が松花江の先の「チャムス」の生まれとのことで、思いもひとしおであったのだろうと思います。

瀋陽

 次に瀋陽に移動しました。「はじめに」でも触れましたが、高速鉄道は時速300キロだそうです。この区間に限れば(広い大陸ですから、チベットなど条件は種々違うでしょうが)、起伏も少なく、トンネルもなく、カーブも少ないとなれば建設コストも比較的にかからずで、スピードも出やすいとのことでした。

9.18歴史博物館の前で
9.18歴史博物館の前で―左から2人目が池田和則さん

「午後から9・18事変陳列館を見学しました。1931年9月18日、柳条湖において鉄道爆破した関東軍は、これを中国軍の仕業と偽り、一気に遼寧省、吉林省、黒竜江省を占領しました。いわゆる満州事変です。その経過が描かれ、日本の侵略に抵抗して闘った抗日軍民の様子が展示されています。」(伊藤団長文より引用)

「養父母の像」((9・18歴史記念館)
「養父母の像」((9・18歴史記念館)

 「同陳列館」の出口の手前に日本人孤児を真ん中に両側から手をつないでいる養父母の像がありました。私は涙がこぼれました。「奪いつくし、焼き尽くし、殺し尽くした」日本人の子どもを育てる中国人の夫婦。養父母の貧しさは、想像できますし、親兄弟、親戚、親友を日本人に殺されたり、傷つけられたりしていたかもしてないのに。次の「撫順戦犯収容所」でも触れますが、中国の人の心の奥底にある「究極の人としてのやさしさ」に心打たれました。どの民族であれ究極の人間らしさは持ち合わせていると思いますが、世界のすべての人が、日本人が、その中の私がとなると確信はありません。売店で買ったその「像」を自宅の本棚に飾りました。

 また、「同陳列館」の「あとがき」にあたる文章には「中華民族の団結」、と「中国共産党の功績」が主張されているように感じました。間違いではないのですが、ただ、強調しすぎると「民族主義」は「排外主義」につながりますし、世界第二位の大国の「民族主義」は「覇権主義」ともなることもありましょう。また、「抗日戦争」勝利は、中国共産党の功績ですが、だけでなく、国民党の功績もありましょうし、名も知れぬ中国民衆の抵抗、貢献もあったでしょう。在外華僑の支援もあったでしょう。世界の反ファッショ勢力の力もあったでしょう。

一歩引いた余裕もあったらとも思いましたが、いつまでも「安倍政権を許している」日本で活動している者が大きな顔して言わないほうがいいとも思います。つぶやきです。

撫順

 翌日、撫順を訪れました。撫順は、巨大な露天掘り(すり鉢状を想像していましたが、見学した露天掘り炭鉱はⅤ字カットでした。)炭鉱があり、石炭の町として有名です。余談ですが、撫順の石炭は満鉄で大連に運ばれ、八幡製鉄所で鉄作りの原料に供されたそうです。近くの鞍山に製鉄所があるのに?

撫順戦犯管理所の窓
撫順戦犯管理所の窓

 「午前は撫順戦犯収容所を、午後は平頂山惨案遺址紀念館を見学しました。

 撫順戦犯収容所は、日本人戦犯約1000人が収容され、教育、坦白、認罪という思想改造が行われたところです。食事、健康にも配慮した生活が行われ、戦犯は処刑されることなく日本に帰国しました。満州国皇帝であった溥儀も収容されていたところです。

 平頂山惨案遺址紀念館は、1932年9月16日、日本守備隊や警察は、抗日軍が日本人を襲撃したことに対する仕返しとして、平頂山村の住民約3000人を野原に集めて射殺し、遺体にガソリンをかけて燃やし、山を爆破して埋めるという虐殺事件の現場に建てられた記念館です。遺骨館には発掘された遺骨がそのままの姿で横たわっていました。折り重なるようになった遺骨には、子供や赤ん坊、妊婦の遺骨もあり、脇にある黒くなった坑木やガソリン缶が惨状をリアルに伝えていました。」(伊藤団長文より引用)

 「撫順戦犯収容所」では中国人の見学者が多いので当然ですが、「日本人戦犯」より溥儀をはじめとした「中国人戦犯」に力点がおかれていました。が、ともあれ、ここから「日本鬼子」に改造されていた「日本人戦犯」が再び、「人間」に還っていく場所であったと思い、私にとって、貴重なフィールドワークであったと思います。「中帰連」の皆さんが帰国後に果たした日中友好への功績は計り知れないものです。帰国が遅く、しかも革命後の中国からということで、「アカ」呼ばわりで周りから警戒されたり、公安に監視されていた人もいたといいます。そのために、安定した就職につけず生活に窮した会員もいたとのことです。日本側の革新団体の事情に翻弄されたこともあったようです。が、死ぬるまで、自らの加害責任・戦争責任に向き合い、講演をし、書籍を広め、加害地に赴き謝罪を続けるという真摯な態度は何よりも美しい。「日本鬼子」の限りを尽くした人達とその時代に甘い汁を吸った旧支配層とその末裔たちはその事実に触られたくないのでしょうが、「謝罪」することをせず、よりにもよって、あったことを無かったこととしようとする「再びの加害」をおこなっています。謝ってもいないのに、「何度謝ればいいんだ」と平気で言う。そこからは、中国とも、南北朝鮮ともアジア各国とも真の「和解」はあり得ない。日本は「戦後責任」を果たさないままで時を重ねてはいけません!私たち「老人」は、自分たちを経由して、若い人に「継承」していく責任があります。それが戦争責任・加害責任を背負う日本に生まれた私たちの責任です。かっこ悪くても、謝って、謝って、謝って、被害者からもういいから、気持ちは分かったからといわれてはじめて「許され」本当の「和解」になると思うのです。であるなら、そういう政府を作らねばなりません。

平頂山虐殺遺跡記念館の展示
平頂山虐殺遺跡記念館の展示

「平頂山惨案遺址紀念館」で観たものは覚悟をしていたとはいえ、あまりにむごいものでした。「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」でも感じたのですが、人はここまで残酷になれるものなのでしょうか。信じられないことが行われました。大陸に来る前は善良な農民であったり、妻子(つまこ)を愛する工員だったかもしれない。軍隊や国家に改造され、生きた人間を「解剖」し、撃ってもこない人々を機関銃でなぎ倒し、一人一人銃剣でとどめを刺す。そのことに何も感じない。(大体、日本は「侵略」されたことは有史以来ありません。もとい蒙古がありますか!「侵略」したことはいっぱいあります。)そんなことをさせる、軍隊も国家もなくてもいいのです。

大連・旅順

 次に大連に移動しました。高速鉄道は上野駅を模して造られたという大連駅まで延伸していたそうです。

大連駅(上野駅を模して造られた)
大連駅(上野駅を模して造られた)

「大連現代博物館を見学しました。アヘン戦争以後、遼東半島は、渤海の防衛拠点として重要な位置を持ち、清が旅順を開発、日清戦争で日本が旅順を占領、「三国干渉」でロシアがハルピンから旅順までの鉄道敷設権を得て大連を開発、日露戦争で日本統治へと目まぐるしく変わります。日本軍国主義の残虐行為を展示するだけでなく、大連の歴史を民衆の視点から「多元文化の交流と融合」と見る博物館の捉え方に敬服しました。近くの星海広場を散策し、景勝地の老虎灘をドライブしてホテルに戻りました。」(伊藤団長文より引用)

 翌日、大連から1時間ほど離れた旅順を訪れました。旅順と大連と合併して、「旅大」となり、さらに、「現在は大連市の行政区だそうです。1894年11月21日に旅順を占領した日本軍は、4日間にわたって民間人を含めて約2万人を虐殺しました。その犠牲者を祭った墓が萬忠墓です。萬忠墓紀念館は、日清戦争の経過と虐殺の様子、その報道、萬忠墓の建立経過が展示されています。日本の中国侵略は、当初から虐殺を伴っていたことが分かりました。なぜここまで残忍なことができるのか?

 差別意識とナショナリズムの恐ろしさを改めて考えさせられました。」(伊藤団長文より引用)

 さらに、詳しく、藤村秘書長は「日清戦争、日露戦争の戦場となった大連、旅順」と題して、次のように記述されています。「日本は1894年日清戦争、1904年日露戦争を行いました。今回の旅でこの二つの戦争は、戦場が大連、旅順のある遼東半島であり、この半島の領有を争うものであったことを改めて実感しました。日本軍は、日清戦争時の1894年11月に旅順を占領しました。この際、日本軍は旅順で中国人たちを虐殺する大量殺人を行っていたことを「大連現代博物館」や「萬忠墓記念館」で知りました。当時の日本人新聞記者は市内の死体が放置されている様子をスケッチしていました。また日本兵は手紙の中で「市内は日本兵ばかりだ、死体の他に支那人(当時中国人を指す蔑称)が見つからない。ここの支那人はほとんど絶滅した」ということを書いていました。アメリカ人やイギリス人たちもこの惨状を伝えています。私は、中国国内の炭鉱などや日本軍による虐殺などで中国人が沢山殺されていることは知っていましたが、それは1932年の以降のことだと思っていたので、日清戦争の時既に皆殺しの行為を行っていたことを知り、暗澹たる思いがしました。そして、戦争が人間性を破壊することを改めて感じました。」

 そうなのです、日露戦争はロシアの領土でも、日本の領土でもなく、中国の領土内で行われました。理不尽と思いませんか。家を焼かれ、工場や店を破壊され、田畑を荒らされる中国人の視点が必要だと思いませんか?

旅順大虐殺(大連博物館)
旅順大虐殺の写真(大連現代博物館)

昔、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を面白く読んだのですが、ここでも「中国人の視点」は全くありませんでした。だからといって司馬氏に押し付けて、「責任」のがれをするわけにはいきません。旅順港を一望できる白玉山に上がりました。旅順港の出入口は本当に狭く、つい、広瀬中佐が「杉野はいずこ、杉野はいずや」と部下を探し回り、砲弾の直撃を受け戦死したことを思ってしまいます。また、203高地はこっちの方向と説明版にあると、昔見た映画の仲代達矢演ずる乃木大将の悲壮な表情を思い出してしまうのです。

 しかし、先に引用したお二人の文のとおりで、日清戦争の旅順陥落で2万人の中国人が日本軍に虐殺されたことを、今まで知りもしませんでした。司馬氏の本であったか定かではありませんが、日露戦争では、欧米各国の評判を気にし、捕虜を丁重に扱ったと読んだ記憶があります。第一次世界大戦でのドイツ人捕虜の徳島での収容所での扱いの話、ベートーベン「第9」の初めての演奏とまあ「事実」なのでしょう。私も無差別の民間人も含めた日本軍による虐殺行為は満洲事件前後からだろうと思い込んでいました。澤地久枝さんの「記録ミッドウェイ海戦」だったと思いますが、澤地さん本人の解説で、「日本軍に捕虜となったアメリカ兵は0人であった。なぜなら、捕虜は取らない全員殺したからだ。」とのことでした。

でも、やはり当初から日本の中国侵略は、虐殺を伴っていたのです。なぜここまで残忍なことができるのか?ロシア人やドイツ人の扱いには、気を使うが、中国人(や、朝鮮人、さらに、アジア人)には、別の扱い方をする、殺しても構わないとすれば、日本人はアジア人だが、欧米グループ内、悪くても大東亜の盟主ということでしょうか?差別意識、蔑視感は明治維新からわずか25年で定着したと見なければならないでしょう。改めて恐ろしさを感じました。

 おわりに

 いくら「おもてなし」だからといって、宴会の料理が多すぎる宴会以外の食事も)。朝食など3/4も残ってしまう。もったいない。地球の資源は有限です。

ショッピング客でにぎわうハルピンの中央大街
ショッピング客でにぎわうハルピンの中央大街

 ハルピンで、マトリョショカのストラップを買ってしまった。近くの店員さんに購入品を記載してもらい、カウンターで金を払い、その領収書を再び店員さんに見せて、品を袋に入れてもらう。旧ソ連の国営店の方式?

 やはり後発国は有利でした。

日本では有線での電話網を国土の隅々に張り巡らすのに膨大な費用が掛かりました。国土の広い中国はもっと困難だと思われましたが、携帯・スマホで有線網の必要が少なくなり同様の負担の必要はなくなりました。また、スマホといえば、この旅行中わが団のお世話をしていただいた李さんはたばこ一箱をスマホで購入されていました。キャッシュレス化は日本より何歩も進んでいます。さて、日本の銀行は、人員削減のため、ATMを社会の隅々まで配置したが、キャッシュレス化で不要となるでしょう。ATMの廃棄は、たいへんな負担となるのではないでしょうか!

さらに、ガソリン車から電気自動車への転換も急でしょう。ハイブリッド車は飛び越えられようとしている。日本の自動車会社はついていけるのか。

戦争責任に向き合い心からの「謝罪」の上の真の「和解」が不可欠

日本は世界第2位の「経済大国」から滑り落ち、予想年は忘れましたが、インドにも抜かれるそうです。過去の栄光を引きずって、アメリカ合衆国の子分であり続けても、取り残されるだけでしょう。今後、発展が有望視される、中国、統一されるであろう朝鮮、そして、アジア諸国との友好が、日本の「少しの成長」と「安定」の土台となるでしょう。そのためには、大日本帝国の犯した加害責任、戦争責任に真摯に向き合った心からの「謝罪」の上の真の「和解」が不可欠だと思います。結局、またここに還って来ました。

いい旅行でした。皆さんにお薦めします。が、先の長い若い人に特に、お薦めです。

掲載写真はすべて団員の津和崇さんが撮影

「公文書を生かす 情報公開法成立20年」第5回 公的記録少ない満蒙開拓 市民活動が解明補う

会員の活動が毎日新聞に載りました。

 会員の藤村妙子さんが共同代表を務める「東京満蒙開拓団を知る会」の活動と、著書「東京満蒙開拓団」の内容紹介などが。毎日新聞の下記の記事に掲載されました。

「公文書を生かす 情報公開法成立20年」第5回 公的記録少ない満蒙開拓 市民活動が解明補う 

2019年8月26日毎日新聞朝刊

 1932(昭和7)年から推計約27万人が農業移民として中国東北部に送り出され、敗戦後の逃避行で約7万2000人の死者を出したとされる「満蒙開拓団」。寒村の救済策とのイメージでとらえられがちだが、東京発も全国9位の約1万1000人いた。

 どんな人たちが東京から大陸に渡ったのか、長らく実態は分からなかった。「東京府(都)の文書の中に開拓団の資料が残っていないからだ」。この問題に詳しい加藤聖文・国文学研究資料館准教授は解説する。「(開拓業務を所管した)拓務省がなくなると、戦後は外務省、農林水産省、厚生労働省などにばらばらに引き継がれ、文書が廃棄または所在不明になっていった。地方も同じような事情だったのだろう」

 例えば39年に作られた農業移民のための訓練施設「東京府拓務訓練所」(東京都日野市)と訓練を受けた人々について、公的にはどう記録されているのか。日野市郷土資料館で助言を受けた後、東京都公文書館(世田谷区)を訪ねると、いくつかの文書が見つかった。用地購入を巡る書類のほか、府(都)公報に設置や廃止の記載があった。それによると山林や畑を買収して開設。「訓練所規定」では、訓練生は定員100人で6カ月間、農業実習のほか、「皇道精神」や「農民道」を学び、教練や柔剣道をすることになっていた。訓練を受けた人々の姿が分

かる文書は見つからなかった。公文書からたどることに限りがある中で、東京発の開拓団の全体像をつかんだのは、東京都大田区でミニコミ誌「おおたジャーナル」を発行していた今井英男さん(2013年に死去)たちのグループだった。地元から開拓団が出ていたことに驚いて07年、調査を始めた。公文書館だけでなく、史料館、図書館などに通って新聞・雑誌の記述、民間の資料を収集したほか、生還者の証言を集めた。12年に書籍「東京満蒙開拓団」(ゆまに書房)にまとめた。

 この本を読むと、32年に恐慌による都市の生活困窮者が送り出されたのが始まりで、戦争が始まって職を失った中小の商工業者、最後は空襲で家を失った人々が集められたことが分かる。今井さんたちによると、東京府拓務訓練所は、ブラジルへの移民が頓挫して満州への大量移民が始まる時期に、初の府直営施設として誕生。移民送り出しに重要な役割を果たした。送られた人たちには、過酷な運命が待ち受けていたのだろう。

 後世にこうした事実を受け継ぐことはできるのか。「東京満蒙開拓団」の著者の一人、藤村妙子さん(65)と7月、日野市程久保の訓練所跡地を訪ねた。多摩都市モノレールの駅から坂を登って30分近く。福祉施設や養護学校に変わっていた。施設職員らに訓練所跡について尋ねたが「何もない」「分からない」と言われた。藤村さんは「ここに来ても訓練所のことが分からない。過去にあったことの表示をすべきだ」と話した。

 藤村さんは、大陸に渡った人、亡くなった人たちの氏名が一部しか伝えられていないことも気にかける。「正確な歴史を伝えることが悲劇を繰り返さないようにすることだ」と話す。

満蒙開拓団

 関東軍が1931年に満州事変を起こして作った中国東北部のかいらい国家「満州国」の支配を確立するため日本の国策で32~45年に送った農業移民団。敗戦後の逃避行で集団自決などがあったほか、残留孤児・婦人約1万1000人(推定)を出した。敗戦間際に軍に召集された人の多くは旧ソ連により抑留された。

歓迎あいさつ 常品超(中国職工対外交流センター副秘書長)

皆様と北京でお会いできて誠に嬉しく思います。私は、中国職工対外交流センターを代表して皆様の来訪を熱烈に歓迎します。皆様は、歴史を尊重し、平和を愛する友好的な信念を持って中国を訪問されました。私たち中国労働組合の友達であり、また中国人民の友達でもあります。伊藤先生は私たち職工センターの老朋友です。今年の6月に南京大虐殺遇難同胞紀念館の招きに応じて、日中労交と南京紀念館の開館以来の交流の歴史のインパクトを語られたそうですが、貴協会と南京紀念館のホームページで見ました。私たちは、それを見て当時の貴重な歴史を振り返ることができ、また中日友好の基礎が民間であることを再確認することができました。本日はこの場をお借りして、日本の右翼と果敢に闘い、長期にわたり中日友好と世界平和に取り組んでこられた皆様に崇高の敬意を表したいと思います。

常品超副秘書長の顔写真
常品超副秘書長

中国労働組合の状況

ここで中国社会、中国労働組合の主な状況について紹介したいと思います。紹介を通じて中国に対する理解を深めることができれば嬉しいです。

 現在、中国で話題になっているホットな言葉があります。それは「初心を忘れず、使命を胸に刻む」です。これは実際に中国共産党が上から下まで展開している特別教育活動です。つまり、刃を自分に向けた革命です。中国共産党員の初心と使命は、中国人民の幸福そして中華民族の復興の実現です。中国共産党は設立して以来、初心と使命をしっかり守っています。そして人民の強固な支持を得ています。初心と使命を守ることによって、中国共産党は小さな党から世界で一番大きな党に成長しました。今年は新中国成立70周年にあたります。それは中国共産党が全国で政務を執ることが70周年になるということです。中国では古い言葉があります。「勇敢に生き、安楽に死す」です。

習近平総書記は「私たち共産党は世界第一の党であり、私たちを倒す敵はありません。私たちを倒すことができるのは私たちです。」と言いました。ですから、「初心を忘れず、使命を胸に刻む」という教育活動を展開することは、現在、共産党内部に存在する初心と使命に背く問題を見出して、すぐに直して、中国の特色ある社会主義が新時代に入った肝心な時期に、共産党全員が力と認識を合わせて、全人民を率いて美しい生活へのあこがれを実現するように活動することです。

 皆様はご存知のことと思いますが、中国の労働組合は、結成以来、中国共産党の指導の下に活動を展開し、党と労働者大衆を結びつける架け橋であり絆です。今回の特別教育活動の中で、中国労働組合は労働組合の特色に応じて以下の活動に取り組んでいます。

  労働者の合法的権益を擁護し、労働者に奉仕する

一番目の活動は、労働者の合法的権益を擁護し、労働者に奉仕するという労働組合の基本的職責を果たすことです。現在、各レベルの労働組合組織は、調査・研究を行って現場労働者が最も関心のある、最も差し迫った難しい問題を解決して、大きな成果を上げました。例えば、今話題の中米貿易摩擦、サプライサイドの構造改革、労働者権益の問題を重視して過剰生産能力の削減の過程における労働者の就職の道を確保して生活を保障します。

もうひとつは、都市部における困難ある労働者の貧困脱却です。過去3年間において、各レベルの労働組合は合わせて252万世帯の困難ある労働者を救助して貧困脱却を実現しました。そして、2020年までに中国の労働組合は、現在登録している困難ある労働者の全員の貧困脱却を実現する見込みです。

もうひとつは、例えば、出稼ぎ農民工、トラック運転手、じん肺症労働者などの特別グループに注目して、彼らが理性的に自分の要求に応えるように指導して、関連部門と協力して彼らの問題を解決するように努力しています。全国総工会と交通運輸部は共同で「運転手の家」を建設する活動をしました。「運転手の家」とは、運転手が集まっているところ、例えば高速道路のサービスエリア、貨物・物流の集散地、物流の作業基地などに運転手のためにつくられた休憩場所です。「運転手の家」で運転手は、お湯を飲んで、あったかいご飯を食べて、シャワーを浴びて、睡眠をとることもできます。現在「運転手の家」は全国で76箇所がオープンしてます。今年の年末までに100箇所オープンする見込みです。

産業労働者の技能レベルと待遇レベルを引き続き向上させる

二番目の活動は、産業労働者の技能レベルと待遇レベルを引き続き向上させることです。インターネット、人工知能などの新興産業の発展につれて、伝統的な産業に働く労働者が沢山の問題とチャレンジに直面しています。問題は、例えば、所帯地位の弱化、職業発展進路の狭さ、養成システムの不完備、待遇レベルの欠陥などです。これらの問題を解決するために、2017年4月に中国共産党中央と国務院は、新時期における産業労働者チームづくり改革法案を打ち出しました。中華全国総工会は、この改革法案を実施するにおいて先導的な役割を果たしています。この改革法案は、国レベルの法案ですが、実施の任務は労働組合に与えられました。それも、労働組合の地位の重要さを表していると思います。というのは、この改革法案を実施する任務は、政府の行政部門が入っていますが、これらの行政部門も総工会の指導のもとに実施しています。これから長い間、中国労働組合は改革法案の実施を重要な活動としています。この法案の実施にあたっては、産業労働者の発展の進路をさらに広げて、産業労働者の技能レベル、待遇レベルを向上させて、広大な知識型・技能型・都市型産業労働者待遇づくりに取り組んでいきます。

労働組合の改革をさらに深化して労働組合の活力を強化する

三番目の活動は、労働組合の改革をさらに深化して労働組合の活力を強化することです。伊藤先生は労働組合改革に関する興味が深いと聞いていますので、活動の状況について紹介したいと思います。実は2016年から中国労働組合は力と資源を末端組織に傾けて、末端組織の活力を強化する活動を始めました。現在この改革はある程度成果を上げましたが、また新しい状況と問題に直面しています。中国経済の発展のスピードが非常に早いので、状況もいつも変わってきます。経済の発展の状況に合わせて、今後主に三つの活動に取り組んでいきたいと考えています。

民間企業、配達者(出前持ち)、トラック運転手などのいわゆる非正規労働者の組織化活動に取り組みます。皆様は労働組合の専門家ですので、非正規労働者の組織化が非常に難しい課題であることはご存知だと思います。大手企業労働者の組織化よりは、非正規労働者を既存のグループに加入させることは非常に難しいです。ですので、中国労働組合は力と資源を使ってこれらの労働者を組織するために非常に努力しています。

労働組合の組織率を高める

次に労働組合の組織率を高めるための活動です。労働組合を運営するには三つの条件が必要です。組織、組織のスタッフ・幹部、活動の場所です。全国で、労働組合の組織化、幹部の育成、活動の場所を積極的につくっています。例えば、労働組合の上部組織のスタッフの人数を減らして末端組織のスタッフを増やす。労働組合の会費を末端組織にもっと多く振り分ける。このようにして、末端組織に人手と資金を保障することができます。

インターネットプラスを利用して快適で普遍的なサービスを

もうひとつの活動は、インターネットプラスを利用して労働者にさらなる快適で普遍的なサービスを提供することです。中国労働組合の末端組織は、それぞれ数多くのアプリをつくって、アプリを利用して労働者にサービスを提供しています。会員の利用者は、アプリを通じて、まず労働組合を理解することができます。そして、労働組合から救助、サービスを受けることができます。ひとつ例を上げると、トラック運転手向けにアプリを利用してガソリン代の割引ができます。労働組合はガソリン会社と交渉して、一番多い割引は2割引き、年間で利用者はガソリン代を2万元節約することができます。このアプリによってトラック運転手の収入を月1000元ほど増やすことができました。

以上、中国の労働組合の状況について紹介しました。

皆様は、遠路はるばるいらっしゃった、労働組合の専門家でもありますし、中日友好の民間大使でもあります。現在の中日関係の全体的な勢いは良いです。8月10日に7年ぶりに副部長(次官級)クラスの戦略対話を再びスタートさせました。中日両国の副部長は、大阪で行われた中日首脳会談で達成した重要な書式を徹底して新時代のニーズに合わせる中日関係の構築に努力することを確認しました。皆様が今従事されている仕事は、非常に必要で非常に有意義だと思います。

貴協会に対してふたつの希望

ここで、貴協会に対してふたつの希望を述べさせていただきたいと思います。

まずは、皆様に正義の声を益々広めていただきたい。もっと多くの日本の大衆に本当の歴史を理解して、とくに若い人に正しい歴史観を確立していただきたいです。そして、もっと多くの日本の方々、とくに若い人を中国に連れてきていただいて、中日友好の種を撒くことを期待しています。

二番目は、皆様のホームページで中国労働運動に関するポジティブな報道をもっと多く宣伝していただきたいです。現在はとても怪しいことがあると思います。国外のメディアは中国労働組合に起きているホットな話題に対して報道は多くしていますが、その中で多くの報道は一方的で事実を歪曲する報道です。中国労働運動のこの数年間の成果については無視しています。

貴協会の皆様は労働分野の専門家です。我々両組織は、中日両国の労働組合、そして労働分野における共同の課題に対する研究と検討を強化することができると信じています。その上で中国労働組合のホットな話題にたいする全面的そして事実にあった報道をもっと宣伝していただきたいと思います。

伊藤先生、皆様に、私たちのアドバイスをぜひ検討してもらいたいと思います。

最後になりますが、皆様の今回の訪問が所期の目的を達成し、皆様の滞在中の健康と楽しい旅をお祈りします。

日本の中国侵略50年を見つめて ~北京、哈爾浜、瀋陽、撫順、大連、旅順を訪問~

伊藤彰信(訪中団団長)

第6次「日中不再戦の誓いの旅」

日本の中国侵略50年を見つめて

~北京、哈爾浜、瀋陽、撫順、大連、旅順を訪問~

 日中労交の第6次「日中不再戦の誓いの旅」は、8月19日に出発し、北京、哈爾浜、瀋陽、撫順、大連、旅順を訪問して、25日に帰国しました。「日中不再戦の誓いの旅」としては、2度目の旧満州訪問ですが、今回初めて旅順を訪れました。

訪中団は、団長=伊藤彰信(日中労交会長、元全港湾委員長)、秘書長=藤村妙子(日中労交事務局長、東京の満蒙開拓団を知る会共同代表)、団員=津和崇(ユニオンネットお互いさま特別執行委員)、町田貞一(東京東部労組ディベンロイ労組支部委員長)、池田和則(西日本NTT関連労働組合執行委員)の5名です。全員60歳以上の高齢者の団であったことは残念でしたが、元気に交流、見学の日程を消化してきました。

中国でテレビを見ていると、今年10月1日の中国建国70周年に向けたキャンペーン、ゴミの分別や交通マナーの宣伝などが目に留まりました。

 以下、旅の経過と概要を簡単に報告します。

<北京>

 8月19日、訪中団は、東京・羽田から、また関西空港から北京に着きました。空港には、中国職工対外交流センター技術交流部の李明亮さんが出迎えてくれました。空港で昼食をとったあと、ホテルの職工の家に移動し、中国職工対外交流センターの常品超副秘書長らと懇談しました。

 常副秘書長は「歴史を尊重し平和を愛する友好的信念を持って訪中された皆様を歓迎します」と述べ、現在展開されている「初心を忘れず、使命を胸に刻む」の特別教育活動について、また、中国労働組合の活動として、労働者の合法的権益を擁護し労働者に奉仕する活動、産業労働者の技能レベルと待遇レベルの向上させる活動、労働組合改革を深化して労働組合の活力を強化する活動について説明しました。そして、日中労交への希望として、正しい歴史を広め、多くの人、とくに若い人を中国に連れてきて日中友好の種を撒いてほしい、ホームページで中国労働運動に関するポジティブな報道をもっと多く宣伝してほしいと要望しました。

 伊藤団長は「周恩来首相の『1894年からの半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略』という指摘を学ぶべく、旅順を含めて東北地方(旧満州)を訪れることにした」と述べたあと、香港情勢に触れ「会員の中には日中友好を損なう言動をとる者もいるが、日中労交の目的は、日中友好の促進であること、友好とは相手を尊重し信頼するものであることを確認し、日中友好交流を続けるための議論をしている」と報告しました。そして「米中貿易戦争が激化する中で、日中友好交流は世界平和を築く上で益々重要になっている。中国の労働組合改革の実践から日本の労働組合を改革する視点を見出したいし、グローバル時代、AI時代における日中労働者の友好・連帯を探っていきたい」と述べました。

中国職工対外交流センターの歓迎夕食会(北京)
中国職工対外交流センター主催の歓迎夕食会(北京)

 歓迎夕食会には、中国職工対外交流センターの彭勇秘書長も出席されました。伊藤団長が「日米貿易摩擦で、為替にしろ、関税にしろ、米国の主張を受け入れたことから『失われた30年』が始まり、日本の労働者の賃金が下がってしまった」と話題を提供し、話が弾みました。

<哈爾浜>

 20日は朝早くホテルを出発し、空路で哈爾浜に向かいました。哈爾濱までの飛行時間は2時間です。ホテルに着いて昼食後、郊外の侵華日軍第731部隊罪証陳列館を見学しました。その後、スターリン公園から松花江を眺め、中央大街を散歩しました。

細菌を川に撒く日本軍(哈爾浜の731陳列館)
細菌を川に撒く日本軍(哈爾浜の731陳列館)

陳列館は1985年に開館し、2015年に新しい陳列館がオープンしました。陳列館の展示は、細菌研究基地の建設、細菌戦部隊の設立、特別移送扱い、細菌研究の実験と生産、細菌戦の実施、731部隊の逃走、細菌戦犯罪者の裁判と系統的に展示されています。731部隊は約3000人の「マルタ」を虐殺しましたが、敗戦を目前にした撤退時に生き残っていたすべての「マルタ」を殺し、建物を破壊して証拠隠滅を図りました。罪証陳列館に多くの遺品が展示されていました。また、本部、研究棟、生物飼育場、農場、飛行場、鉄道駅、宿舎、運動場、小学校まであり、広大な敷地を占めていました。

夜は、黒竜江省総工会の韓嘉彬常務副主席による夕食会がありました。

<瀋陽>

 21日、高鉄(新幹線)で瀋陽に移動しました。高鉄は時速300キロ、2時間30分で瀋陽に着きました。午後から9・18事変陳列館を見学しました。1931年9月18日、柳条湖において鉄道爆破した関東軍は、これを中国軍の仕業と偽り、一気に遼寧省、吉林省、黒竜江省を占領しました。いわゆる満州事変です。その経過が描かれ、日本の侵略に抵抗して闘った抗日軍民の様子が展示されています。

遼寧省総工会の楊忠林主席(右)
遼寧省総工会の楊忠林主席(右)

 夜は、遼寧省総工会の楊忠林主席の歓迎宴がありました。

<撫順>

 22日は、瀋陽から1時間ほどの撫順を訪れました。撫順は、巨大な露天掘り炭鉱があり、石炭の町として有名です。午前は撫順戦犯収容所を、午後は平頂山惨案遺址紀念館を見学しました。

 撫順戦犯収容所は、日本人戦犯約1000人が収容され、教育、坦白、認罪という思想改造が行われたところです。食事、健康にも配慮した生活が行われ、戦犯は処刑されることなく日本に帰国しました。満州国皇帝であった溥儀も収容されていたところです。

 平頂山惨案遺址紀念館は、1932年9月16日、日本守備隊や警察は、抗日軍が日本人を襲撃したことに対する仕返しとして、平頂山村の住民約3000人を野原に集めて射殺し、遺体にガソリンをかけて燃やし、山を爆破して埋めるという虐殺事件の現場に建てられた記念館です。遺骨館には発掘された遺骨がそのままの姿で横たわっていました。折り重なるようになった遺骨には、子供や赤ん坊、妊婦の遺骨もあり、脇にある黒くなった坑木やガソリン缶が惨状をリアルに伝えていました。

<大連>

 23日は、瀋陽から高鉄(新幹線)で2時間ほどかけて大連に移動しました。高鉄は上野駅を模して造られた大連駅まで延伸していました。

大連市総工会の超宏副主席が昼食会を開いてくださいました。

大連現代博物館の展示
大連現代博物館の展示

そのご、大連現代博物館を見学しました。アヘン戦争以後、遼東半島は、渤海の防衛拠点として重要な位置を持ち、清が旅順を開発、日清戦争で日本が旅順を占領、「三国干渉」でロシアが哈爾浜から旅順までの鉄道敷設権を得て大連を開発、日露戦争で日本統治へと目まぐるしく変わります。日本軍国主義の残虐行為を展示するだけでなく、大連の歴史を民衆の視点から「多元文化の交流と融合」と見る博物館の捉え方に敬服しました。近くの星海広場を散策し、景勝地の老虎灘をドライブしてホテルに戻りました。

<旅順>

万忠墓記念館の入り口
万忠墓記念館の入り口

 24日は大連から1時間ほど離れた旅順を訪れました。現在は大連市の行政区だそうです。1894年11月21日に旅順を占領した日本軍は、4日間にわたって民間人を含めて約2万人を虐殺しました。その犠牲者を祭った墓が萬忠墓です。萬忠墓紀念館は、日清戦争の経過と虐殺の様子、その報道、萬忠墓の建立経過が展示されています。日本の中国侵略は、当初から虐殺を伴っていたことが分かりました。なぜここまで残忍なことができるのか? 差別意識とナショナリズムの恐ろしさを改めて考えさせられました。

 昼食後、旅順港を一望できる白玉山に上がりました。大連に戻り、ショッピングをし、ロシア人街を散策しました。

 翌25日、大連から成田に、関西空港に戻ってきました。通訳として全行程を同行してくださった李明亮さんには大変お世話になりました。

 * 掲載写真は、津和崇さんと伊藤彰信が撮影

34年前紀念館開館式典に3名の 日本人の友人がいました・・・

侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館(2019年6月19日)

私たちが注目すべき、歴史に残すべき記録

1985年8月15日
中国侵略日本軍南京大虐殺遇難同胞紀念館が正式に完成、開幕
式典参列者の客の中に混じるわずかばかりの日本人外国客
彼らは誰か?
彼らはまたどのようにこの紀念館建設を見ているのか?

写真=紀念館建成開幕式

1
「万人坑」遺跡を見て深い思いに触れ、紀念館開幕式典参加を決意

1985年5月7日、42歳の日本人、高幣真公は日中労働者交流協会とともに初めて南京に訪問した。
高幣真公によると、彼らはわざわざ江東門を訪れ「万人坑」遺跡にて現地視察を行った。

累々と積み重なった白骨に協会員銘々の心が震撼した。彼らは冷静に、ただ歴史を正視することで、同じ轍を踏まないことにつながると意識した。

写真=協会が江東門を訪れ「万人坑」遺跡にて現地視察(高幣真公提供)

写真=紀念館建造写真(高幣真公提供)

協会員は当年8月15日、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館が正式オープンすることを知り、帰国後、彼らは直ちに紀念館開幕式典来館参加にむけて計画を始めた。

1985年6月、高幣真公と協会員一同が、協会名義で、南京市総工会に向けて誠意ある手紙で式典に参加させてもらいたいと希望した。

7月27日、南京市総工会は返信でこのように回答した:「式典参加の希望の要望に、我々は大変感動した。あなた方のこのような心情を南京市民に伝えたい。」

高幣真公が経緯を思い起こし、多方面からの尽力で、1985年8月13日、日中労働者交流協会の日本代表が正式に紀念館開館式参加の招待を受けることができたと述べた。

2
「紀念館は日中不再戦、日中友好の新たな出発のために」

1985年8月15日、協会が送り出した団長市川誠、団員平坂春雄と山田順三の3名の代表が、記念館建設完成の開幕式に参加した。

彼らは式典に参加した3人のみの外国の友人でもあった。

後に、市川誠は式典参加にいたる過程を1編の記事『紀念館は日中不再戦、日中友好の新たな基点としよう』に書き上げた。それにはこのように書かれている:

1985年8月15日、中国人の方からすると、この日は反ファシスト戦争に勝利した40周年記念日。午前8時半開館式典が正式に始まり、私たちは列の2列目に立っていた。
まず、中華人民共和国国家斉唱、つづいて南京市長張耀華の言葉。
彼はこのように述べた「侵略戦争のこの歴史は永遠に次世代の心に刻む。中国人民と日本人民がともに過去の歴史を肝に銘じ、歴史の悲劇を繰り返さないよう、共に努力する。」

写真=市川誠が記録した記事

式典参加の代表の一人平坂春雄が回顧録の中で書いている「日本軍侵略戦争を理解しない日本人からすると、紀念館は彼らに大きな衝撃を与えるだろう」。

式典に参加した日本の友人から南京に1つの「鎮魂の時計」が贈られた。上には「中国侵略戦争を反省、謝罪、犠牲者の御霊に弔意を捧げます」 の刻印がある。

3
「中国では平和の願いを表明するが、日本ではほとんどがこの表明を見ていない」

―時は瞬く間に34年経過。

高幣真公はすでに76歳の老人になり、一人の日本人友人の伊藤彰信と再び南京に来訪し、歴史の場所にインタビューで訪れた。

高幣真公は述べる:「日本では南京大虐殺に関する書籍や映像を見たことがある。今回の来館訪問での収穫は大きく、紀念館に展示される多くの詳細な資料が歴史を再現している。多くの日本人が訪れて見学することを希望する。」

写真=伊藤彰信、高幣真公が紀念館を参観

伊藤彰信は記念館を知らなかったわけではないと話した。2005年に初めて南京を訪問し、2009年に再度団を率いて記念碑除幕式のために来館した。2014年以降は毎年南京大虐殺死者国家公祭で南京を訪れていた。

伊藤彰信は述べる。「2005年紀念館はまだ小さな館であったが、数年経て紀念館はどんどん新たな展示でリニューアルを繰りかえし、見学者が歴史の理解を深めることができるようになっている。参観した中で印象深かったのは、日本軍南京大虐殺遇難同胞紀念館だけでなく、中国人民抗日戦争紀念館でも、展示の最後に平和の表明で締めくくり、「過去は忘れず、未来の師とする」と表明していたことだ。日本の博物館では、このような表明はあまり見ない。」

4
中日両国の人々の交流強化を呼びかける

中日友好の交流推進について、高幣真公が述べる:「日本人はもっと中国に来て変化を見るべきで、中国人も日本に来て日本の変化を知ってほしい。双方は交流を基礎にしてのみ、歴史への思考を深め、学習することが可能だ。」

伊藤彰信は特に中日友好の根幹は若い人々にかかっていると強調する。彼は述べる:「日本の世論調査で、日本の若者層が中国への認識に比較的大きな隔たりがあり、より多くの日本の若者が中国を見に来て、学び、青年同士の交流に力を入れてほしい。」

写真=伊藤彰信(左)、高幣真公(右)が紀念館でインタビュー、高幣真公が協会で  撮影した紀念館建設写真を披露


* 紀念館ホームページ中国語記事原文  Wechat 記事

南京大虐殺遇難紀念館の「和平の旅」インタビューのため訪中(7/4)

記念館の庭にある「日中不再戦の誓い」の前でー左端が芦鵬さん(記念館職員)

6月16日(日)から20日まで、南京に行ってきました。
6月13日に侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館から突然電話があり、紀念館が行っている日本の友人の口述史「和平の旅」のインタビューを行いたいというのです。6月末が会計年度の決算日で、予算が残っていたのでしょう。私と事務局次長の高幣さんが行くことになりました。高幣さんは85年の市川誠訪中団の参加者です。

南京大虐殺記念館でー左から2人目が張健軍館長

「平和の旅」編集のために私たちをインタビューー左が質問者の盛卯弟(江蘇省総工会国際部)さん

インタビューは17日に行われました。この日は月曜日で紀念館の閉館日。建設中の紀念館しか知らない高幣さんのために、特別に展示を見学することができました。高幣さんはビデオにしっかり収めていました。

張健軍館長に挨拶しました。市川さんが85年8月15日に贈った「鎮魂の時計」が飾られていました。インタビューは午前、午後合わせて4時間ほど行われました。インタビューアーは江蘇省職工対外交流中心の盛卯弟さん。日中労交について設立経過、現在の活動、苦労話、今後の日中平和活動などについて私が答え、1985年5月の訪中、8月の紀念館開館をめぐる交流活動について高幣さんが答えました。昼食は南京一高いビルのレストランで張館長と一緒にとりました。
18日は、ジョン・ラーベ紀念館、利斎港慰安所旧跡陳列館、下関地区の虐殺現場、長江大橋などを見学しました。

南京師範学校の卒業式前ー左から2人目が林敏潔教授

19日は、六朝博物館、鄭和紀念館を見学し、南京師範大学の林敏潔教授と昼食を、江蘇省総工会と夕食をとり、懇談しました。

林敏潔教授とは3月に東京で開かれた日本反戦平和国際シンポジウムでお会いしました。日本文学が専門で民間の平和反戦記憶をどう若い人に伝えていくのかというプロジェクトを行っている方です。6月15日に東京で開かれた第1回「一帯一路東京フォーラム」から帰られたばかり、南京師範大学大学院の卒業式という忙しいなか、会ってくださいました。

歓迎レセプションを開いてくれた高総省総工会の繆建華さん(組織・国際部長)・右

江蘇省総工会とは、組織・国際の責任者である繆建華さんと労働組合改革で新しくつくられた職工服務中心(労働者サービスセンター)の責任者の葉希伯さんと懇談しました。職工服務中心の活動、例えば労災、社会保険の相談、就職あっせん、零細企業で働く農民工の組織化などについて話をしました。職工対外交流中心も職工服務中心に統合されるということですから、海外からの進出企業の従業員の組織化も担うことになるのかなと思いました。
国家公祭に参加する今までの南京訪問とは違った日々を過ごすことができ、今後の交流をすすめるにあたって参考になる訪問となりました。
具体的な点については、追って報告することとし、取り急ぎの報告とさせていただきます。

2015年に修復工事が終わった南京長江大橋の塔上で記念撮影(右・伊藤彰信、左・高幣真公)

高幣さんは、北京に寄って、ゆっくりと中国の旅を楽しんでいますよ。

続きを読む 南京大虐殺遇難紀念館の「和平の旅」インタビューのため訪中(7/4)

事務局長退任に寄せてー 前川武志

前川武志ー南京 2018/12

平坂春雄事務局長から引き継いで10年余り、至らない事務局長ではありますが藤村新局長が引き受けていただいたので身を引かせていただきます。

平坂さんは高野派の重鎮であり、中国とも太いパイプを持つ方でした。尼鋼争議の際に中国からカンパを頂いたのをとても感謝し、事あるごとの費用ねん出に身銭を切っておられました。少しは見習わなければと真似事をしましたがとても足元に及びませんでした。

兼田富太郎事務局長が日中国交回復、平坂氏が八三一部隊や毒ガス弾など日本の戦争犯罪、南京虐殺などに取り組まれ、「不再戦の誓いの碑」の建立の活動に尽力されました。前川はその誓いの碑を守る活動だけでした。事半ばでは有りますが、本業が忙しく、活動の為の時間確保が出来ず、迷惑のかけっぱなしなので、これ以上迷惑をおかけできないので退任を承諾いただきました。皆様の支えで活動できたことに感謝します。また日中労交、日中労働者情報フォーラムの末端をけがしていた事に誇りを感じています。

2019/6/10

前事務局長 前川 武志

日中労働情報フォーラム事務局長就任にあたってー藤村妙子 

私は、地域の市民運動の仲間たちと東京からの満蒙開拓団の調査研究を行う「東京の満蒙開拓団を知る会」を2007年9月に作り研究の成果を2012年9月にゆまに書房から出版しました。この拙著が会長の伊藤さんの目に留まり、2016年4月16日(くしくもこの日は私の誕生日!) 第4回総会において「なぜ東京から一万人も満州に渡ったのか「東京満蒙開拓団」~その背景と史実から学ぶもの~と題して講演を行ったことが縁で入会しました。

総会で司会を務めた藤村妙子新事務局長

私と中国との関係は、高校生の時から始まります。学園紛争が華々しく闘われた後の1970年4月に入学した高校では様々な教育改革が行われていました。制服はなくなり、自由な雰囲気が漂っていた頃でした。そして、高校2年から「選択授業」が各種あり、私は「中国近代史」を選択しました。週一回中国の近現代史、日本が戦争中に行ったことを本多勝一氏の「中国の旅」をテキストとして学んだり、毛沢東の「実践論」「矛盾論」を読んだりしました。この時の経験が、私のその後の人生を決めたと言ってもいいと思います。

今、毎日中国の事が報道されない日がないほど、世界的な様々な動きと中国の動きは連動しています。中国は日本の侵略とその後の内戦などによる破壊や様々な問題を克服し、日々変化し、発展しています。私は「中国近代史」の授業の時に教師の「中国は広い、変化に富んでいる。今が全てではなく、矛盾の中から次の力が生み出される。日本にいたら感じられないダイナミックなものがある。」という言葉を思い出します。
こうした中で、「中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止し得なかったことを深く反省し(中略)日中不再戦、反覇権の決意を堅持し・・・両国労働者階級の友好発展を強化し、アジアと世界の平和を確立するため、団結して奮闘することをあらたに誓います」という日中労交の初代会長の市川誠氏によって起草された「誓い」の一節は、今も私たちの方向性と決意を示していると思います。
まだまだ、経験の浅い事務局長ですが、先輩諸氏のご指導を受けながら、次の世代にこの運動を繋ぐ役割を微力ですが果たして行きたいと思います。

藤村 妙子 
(東京南部全労協事務局長/東京の満蒙開拓団を知る会共同代表)

参考資料 大田区職労ニュース掲載の藤村妙子のメッセージ

台湾:民主主義をかちとるための6・4労働者デモ行進

6月4日、中国では厳しい統制下でしたが、台湾では「台湾工人争民主6.4大遊行」(民主主義をかちとるための6・4労働者デモ行進)という労働者のデモがありました。

6月4日ですが、天安門事件30年とは関係なく、エバー航空やチャイナ・エアラインの客室乗務員らが加盟する「桃園市空服員職業工會」が、スト権投票がおわる6/6のまえに、会社側(エバー航空)に対して、誠実な交渉と要求の受け入れを求めるデモでした。 続きを読む 台湾:民主主義をかちとるための6・4労働者デモ行進