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中帰連平和記念館を訪ねて

伊藤彰信(日中労働者交流協会会長)

 11月25日(土)、埼玉県川越市笠幡にある中帰連平和記念館を訪れた。記念館では10月29日から12月27日まで関東大震災から100年を記念して「仁木ふみ子と『平和の環』展」が行われており、11月25日には記念講演会「王希天から仁木ふみ子へ」と追悼座談会が行われた。

 私は仁木ふみ子さんについてまったく知らなかった。日教組の婦人部長をしていたという経歴から、労働運動として日中友好運動にどのようなかかわりをしていたのか興味があった。また、「平和の環」として、仁木ふみ子、宋慶齢、周恩来、王希天、遠藤三郎、藤田茂の名前が上げられているが、この環のつながりを知ることも私の参加理由であった。

 展示のひとつに月間「総評」1982年11月号に仁木さんが書いた関東大震災時の中国人虐殺事件の原稿があった。月刊「総評」は全港湾の組合事務所にも送られてきていたので、私は読む機会があっただろうに、記憶にない。

 講演会ははじめに関東大震災で日本陸軍に密殺された王希天の碑を浙江省温州に建てた記録である30年前に作成された32分のDVD「関東大震災の中国人虐殺-謝罪と償いの旅」が上映された。続いて仁木さんが1980年に上海の華東師範大学の日本語教師として赴任したとき、通訳兼助手だった王智新さんが「王希天-仁木ふみ子へーその精神を受け継ぐにあたって」と題して次のように話された。

 仁木先生は、中国の革命運動に関心があったようである。中国共産党の初代女性部長の向警予の調査をしていた。ある日、「民国日報」を調べていたら関東大震災時に中国人労働者が虐殺されたという記事が目に留まった。どうすれば調べられるかと聞かれたので、温州市政府に手紙を出したが返事がない。そこで地方史を研究する政治協商委員会に手紙を書き、やっと返事をもらった。政府による調査が行われていない中で、日本人がひとりで当時のことを聞きに来た。政治協商委員会が手配して受難者の親戚など関係者が座談会の会場に集まってきたが、日本人を殴ってやりたいと思っている人がほとんどだった。仁木先生は、日本に帰国後、江東区の大島に住んで中国人虐殺事件の調査を続けた。日本政府は中国人虐殺事件が国際問題になることを恐れて隠ぺいを図った。今でも、関東大震災時に虐殺があったという資料はないと言い続けている。日本では8月になると平和問題を取り上げるが、それは戦争被害である。加害のことはあまり触れていない。仁木先生は、相手がどのよう被害を受けたのか、どう思ったのかということを調査していた。相手を理解しようとする努力がなければ、戦争による傷痕、恨みをほぐすことは出来ない。中国人は、日本人は過去に歴史を反省していないのではないかと思っている。不信感をなくし、不信の連鎖をなくすことが必要だ。お互いの理解や尊重があって信頼と友好が築かれる。

 午後の座談会では、仁木さんが取り組んできた、大分県立盲学校、図書館活動、読後感想文指導、全国高校女子教育問題研究会、「関東大震災の時、殺された中国人労働者を悼む会」、中国山地教育支援、無人区への教育支援、中国帰還者連絡会(中帰連)との接点、撫順の奇跡を受け継ぐ会代表、中帰連平和記念館館長という経歴を振り返りながら、それぞれ参加者が思い出を語った。聞いているうちに、「平和の環」が見えてきた。仁木さんは、孫文の妻であった宋慶齢の研究者であり、1979年に「宋慶齢選集」を発行している。宋慶齢から娘のようにかわいがられたという。周恩来は、王希天が設立した中国人労働者の救済組織である僑日共済会で活動していたことがある。遠藤三郎は、野戦重砲第一連隊大尉であったが、王希天殺害を隠蔽した人物であり、戦後は平和運動に貢献している。藤田茂は、陸軍中将であったがシベリア抑留後、撫順戦犯管理所に移され、禁固18年判決を受け、帰国後の中帰連の初代会長となり、日中戦争での加害の事実を語っていた。

 仁木さんが、「平和は座して待つものではなく、たたかいとるものだ」と宋慶齢の言葉を引用し、「日本の平和教育は、被害の事実を知ることから、加害の事実を知ることに視野を広げてきたが、さらに抵抗の事実を知らなければならない。抵抗の事実こそ、ひとをひとたらしめるものであり、その立場に立ってこそ、戦争の意味と平和の意味を正しく伝えることができ、加害の残虐さを見つめる勇気をもつことができる。」と語っていたという話が印象に残った。

 当日出来上がったばかりの「仁木ふみ子追悼文集」を買った。170名ほどの執筆者の名前を見たら、結構知っている名前があった。「平和の環」の広さを知った次第である。