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6月29日と30日を日中友好の日にしよう!

ー 中国人殉難者慰霊式に参加して ー

渡部公一(目黒区職員労働組合 前委員長)

花岡事件と出会う

私は、山形出身ですが、東京に就職するまで花岡事件について何も知りませんでした。30年ぐらい前になると思いますが、芝居「勲章の川」で知りました。その後、目前のことに追われ、再びこの事件に直面するのが日中労交の一員として「中国人殉難者慰霊式」(以下式典という)の参加でした。
日中労働者交流会の会長、伊藤彰信さんからメーリングリストで送られてきた参加要項やパンフ、事務局長の藤村妙子さんから紹介された本の中から野添憲治の一冊と大館市のホームページで昨年と一昨年のコロナ禍の式典をビデオで見ました。そこで、前日の6/29フォーラムと6/30式典とフィールドワークにどのように参加しようかなと考えました。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 01
大館市郷土博物館「のびゆく大館」の中央のホワイトボードに「花岡事件」の解説

大館市が式典を継続

オンラインzoomの日中友好カフェで、戦争中、強制連行など中国人や朝鮮人を過酷な作業と環境の中で使役させ、多くの犠牲者を出してきたことは紛れもない事実で、国をはじめ、数ある自治体の中でなぜ大館市が自治体として慰霊の式典を継続してきたか、話題にしました。1950年から山本花岡町長が個人ではじめた慰霊が、隣接する矢立村と合併、平成の大合併を経て今日の大館市になるまで、保守革新を問わず、継続して式典を開催していることは、とても素晴らしいことだと思います。今回の訪問で少しでも知りたいと考えました。
たまたま私は、往復飛行機だったので、6/29の10時過ぎに到着と15時から始まるフォーラムの間に大館市郷土博物館に行き、大館市の歴史、この中で花岡事件ついて見学したいと思い、幸い往復ともバスに乗車できました。郷土博物館は、「のびゆく大館」のコーナーに「花岡事件」、「花岡ものがたり(版画と解説)」があり、丁寧な展示だと思いました。また、「鉱山と曲ワッパづくり」の街として栄えていたことが知れ、「先人顕彰コーナー」で安藤昌益、小林多喜二(生誕地、5歳から小樽に移住)らの紹介もあり、期待どおりの展示でした。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 02
大館市郷土博物館「花岡ものがたり」版画と解説の連作

プレ企画、フォーラムin大館

「フォーラムin大館」は、同じ飛行機に搭乗していた池田香代子さんが岩間さん(認定NPO花岡平和記念会)とセッション、主なテーマは池田さんの著書「花岡の心を受け継ぐ(2021年7月発刊)」にある、大館市が中国人犠牲者を慰霊し続ける理由でした。
その後の参加者交流会で驚いたのは、認定NPO高麗博物館(東京、大久保)の仲間たち15人で、多くがシニア世代で10人は女性の参加です。しかも交流会の席は、お仲間で固まらず、他団体の席に相席するなど、知的好奇心・自己実現の旺盛な人たちでした。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 03
6/29「中国人強制連行 フォーラムin大館」に全国から60人余が参加
中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 04
6/29参加者交流会の様子「熱烈歓迎 日中友好 花岡事件生存者遺族関係者様 御一行」ステージは高麗博物館の仲間たち(前列のテーブル席が、李克金(故人)さんの遺族3人、大館市長代理:福祉部長ほか)

式典を日中友好の日に

ところで日本は、地理的に北方領土でロシア、竹島で韓国、尖閣諸島で中国と領土問題を抱えています。ロシアのウクライナ軍事侵攻が長期化する中、自公政権は、バイデン大統領の中国敵視政策と一体化し、「台湾有事は、日本の有事」と南西諸島のミサイル基地化、防衛費GDP5%など東北アジア平和外交を放棄し、軍備拡大路線まっしぐらです。あわせて、北朝鮮(共和国)の拉致問題も日本自らの課題とし対話すらしていません。
今年の式典は、参議院選挙直前の日程になってしまいましたが、例えば、中国と友好を求める全国の仲間へ、6/30大館市の式典と前日6/29「フォーラムin大館」を中国と日本の友好の日と位置付け、参加を広く募ったらと思います。また、参加者の中に映像作家や、ビデオカメラマン・監督もいました。せっかくの「フォーラムin大館」を有料配信も含め、リモート視聴による参加もできたらなと思いました。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 05
「中国人殉難者慰霊式」 前列、右から3人までが、李克金(故人)さんの遺族、その隣が福原淳嗣大館市長、その隣の女性(左から2人目)が中国大使館の参事官

現地ボランティアに感謝

最後に「フォーラムin大館」は、大館労働福祉会館で開催され、実行委員会の中に認定NPO花岡平和記念会の人たちをはじめ、大館市職労の若い委員長や、連合大館の役員の皆さんが参加していました。6/29のプレ企画だけでなく、6/30式典後のフィールドワークの案内やバスや昼食の手配などたいへんお世話になりました。
ありがとうございました。

慰霊を続けることが同じ過ちをしない誓いとなる  ー花岡慰霊(2022.6.30)の旅に参加してー

藤村 妙子 日中労交事務局長

花岡フォーラム 池田さんと実行委員の方

 日中労交は、6月29日~30日秋田県大館市で開催された1945年6月30日にあった花岡鉱山鹿島組において働かされていた中国人労働者が蜂起した「花岡事件」犠牲者の慰霊式に参加した。日中労交からの参加者は東京から3名、小名浜から2名だった。
「花岡事件」とは、戦争末期日本は鉱物資源の採掘、生産のため足りなくなった労働力を補うため中国から捕虜や農民などを強制連行し鉱山などで働かせた。この一つが現在の秋田県大館市花岡鉱山鹿島組の現場である。ここでは、最盛期986人(別に来日までに死亡者7人)が使役され、粗末な食事と過酷な労働のなか酷使された。中国人労働者達は、座して死を待つより闘おうと1945年6月30日深夜に蜂起した。しかし、翌日から行われた山狩りで検挙され、共楽館前の広場に集められ3日3晩食事も水も与えられずに置かれ、中心人物とみなされた人たちは過酷な拷問にあった。蜂起までに130名が死亡しており、蜂起後7月~敗戦までに116人、敗戦後166人合計419人が死亡している。

6月29日フォーラムと交流会 
「歴史に学ぶ」という事は、現実を直視することでもある

 地元をはじめ全国各地から集まった人たちは、まず大館市労働福祉会館「2022.6.30現地実行委員会」主催で開かれた「中国人強制連行 フォーラムin大館」参加した。まず、川田繁幸現地実行委した員長が「今のロシアのウクライナ侵攻は1931年~45年までのわが国ととても似ている。実際は侵略戦争なのに宣戦布告することなく「満州事変」などといい、今回ロシアはウクライナへの侵攻を「特別軍事作戦」と称している。こうした時だからこそ、実際にこの地あったことを慰霊することは大切なことである。そして、私たち市民が中国との関係をことは、今だからこそ大切です。」と開会の挨拶をした。
その後、田中宏一橋大学名誉教授が「歴史に学ぶとはどういうことだろう」と題する基調講演を行った。田中氏は、伊藤博文が1千円札の肖像画となったときに、在日コリアンの友人に「日本人の薄気味悪さを感じる。私たちの国を侵略した象徴的人物をお札に刷り込み毎日使うことに違和感を持たない。」という話をされたときに、自分がいかに歴史を学んでこなかったのかを意識した。1965年12月21日に国連総会において人種差別撤廃条約を採択した後一週後の12月28日文部省は「民族性又は国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校は、わが国の社会にとって、各種学校の地位を与える積極的意義を有するものとは認められないので、これを各種学校として許可すべきではない」という文部次官通達を出している。そして、2010年には朝鮮人学校を高校無償化から排除している。などの例を挙げながら日本政府が未だにアジア諸国で起きたことを反省していないことを問題にしながら、この大館地で毎年開かれている市主催の慰霊式は、国を超えた大切な行事であると語った。

 花岡の心を受け継ぐ       

 続いて『花岡の心を受け継ぐ』(かもがわ出版)の著者のひとり池田香代子さんのお話があった。池田さんは、2000年に鹿島と和解したことを知り「花岡事件の場所を見てみたい」と初めて花岡の地を訪れた以降何度も来て、何も知らないからいろいろな人たちにインタビューをした。この皆さんの声が結実したものがこの『花岡の心を受け継ぐ』となったと語った。そして、「延べ24000人の人たちが決起して逃げている中国人を探して動員された、まさに地域が加害者となったことをインタビューの中で実感した。しかし、戦後花岡町は、慰霊を行い、骨を収集し、慰霊碑を建設した。これは、保守・革新の違いを超えた『人として当たり前のこと』として現在も受け継がれている」と語った。そして会場にいる当時を知る地元の人も証言をした。「1940年生まれの自分は当時5歳。母親からブドウ畑にあった豚小屋の中に隠れ豚の餌を食べている中国人がいたと聞かされた。自分は、中国人の人たちが捕まえられて並ばされていた共楽館前の広場に行き『チャンコロ捕まった』とはやし立てたことを覚えている。」と語り当時、町中を巻き込んで中国人狩りが行われていた姿を語った。記念館を作った川田NPO花岡平和記念会理事長は「加害の歴史をしっかり伝えていくことが大切であると記念館を作った」と語った。池田さんは「慰霊式は謝罪する場などではなく、痛み続ける傷を癒し『あなたが受けた扱いは不当な事であった』と分かち合う場。その本質を胸に刻み市民の皆さんが手を携え合って臨みましょう」と結んだ。
 この後、参加した団体・個人の自己紹介がありこの集まりに花岡に心を寄せる人たちがたくさん来ていることを確認してこの日の行事を終えた。

6月30日 慰霊式
「事件を後世に語り継ぐことは市民の使命」大館市長の哀悼の辞

 6月30日は中国殉難烈士慰霊碑がある大館市花岡町の十瀬野公園墓地の「中国受難者慰霊式」に参加した。式では福原大館市長が「どのような状況下であっても人の自由、尊厳を奪い傷つける心無い行為は決して許されるものではない。長い年月が経過しようとも、事件を後世に語り継ぐことこそが私たち市民の使命」と哀悼の意を示した。遺族を代表して日本に住んでいる3名の方が参加した。「今年は日中国交正常化50周年。戦争に反対し、平和を守ることが共通の願い。」と慰霊の言葉を述べ、献水が行われた後、全参加者による献花が行われた。

花岡 中国殉難烈士慰霊之碑
花岡 中国殉難烈士慰霊之碑

受難の地を見学 
この場所で働き傷つき、立ち上がり 死んでいった人たちに思いをはせる

 続いて花岡体育館(旧共楽館)で昼食を食べた後、バスで信正寺と花岡記念館に向かった。信正寺は、決起後捉えられ、炎天下に晒され又は拷問された結果死亡した中国人労働者遺骨を安置した寺である。この寺の裏山には1949年鹿島が作った粗末な供養塔の前に2001年に建立された供養塔が建っていた。そばにある碑文には決起の日が7月1日となっていた。このことについて質問すると、「決起は6月30日の夜中に起きた。警察や町が知ったのは翌朝の7月1日だったので当初7月1日に起きたとも言われていたが、生存者の証言により6月30日夜であったことが確定している」とのことであった。

花岡 信正寺 新旧供養碑
信正寺 新旧供養碑
花岡 信正寺 慰霊の記
信正寺 慰霊の記

 続いて花岡平和記念館に行った。記念館は、2010年4月にオープンした。当時の花岡町の様子や労働者の姿や決起後死亡した人たちの氏名などが展示され、当時の死亡者についての記録もあった。

花岡平和記念館 中国人労働者
花岡平和記念館 中国人労働者
花岡平和記念館 当時の様子の木版画
花岡平和記念館 当時の様子の木版画

 次に中国人労働者たちが劣悪な環境の下に置かれた中山寮があった第二滝野沢ダムと寮を見下ろす山の上に建てられた「日中不再戦友好の碑」に向かったが、残念ながらクマが出没していて、バスを降りることは危険だと判断されていくことができなかった。是非、次回は行ってみたいと思った。
 次に「滝之沢暗渠跡」に行った。これまで中国人労働者が働いていたのは花岡川の改修工事だと言われていたが、鹿島建設と藤田組(現同和鉱山)の工事請負契約には「中国人使役条件」として「排水暗渠」「築堤」「山腹水路」に300人をと書かれている。使役とは強制連行して働かせることである。1944年8月8日に299人が中山寮に到着している。ここに働いていた生存者の証言でもこの場所で働いていた事が示されている。花岡川改修工事は、1944年11月から始まり、ここへは第二次強制連行以降であるという事が最近判明したとのことであった。

この史実を多くの人に伝え続けたい

花岡 滝ノ沢暗渠跡
滝ノ沢暗渠跡

  私は、市主催の慰霊式には中国人の人たちも参加している事の大切さを感じた。蜂起の中心人物だった耿諄大隊長が以前訪日した後『花岡は第二の故郷だ』と語ったというように、日本人が侵した行為によって奪われた命はもう戻らないが、こうした慰霊を続けていくことが二度と同じ過ちをしないという誓となると思った。しかも、市主催で行われている事の大切さを感じた。そして、この史実を是非多くの人たちに伝え続けたいと思った。

第6「日中不再戦の誓いの旅」参加報告 ― 池田和則

池田和則(N関労西執行委員)   

はじめに

列車から見た東北の田園地帯
列車から見た東北の田園地帯

 標記の旅行が8月19日~25日にあり、参加してきました。行き先は、北京、ハルピン、瀋陽、大連(と旅順)でした。さすがに大陸は広く飛行機、高速鉄道(中国の新幹線)での移動でした。午前に移動で、午後に見学という感の旅行でした。鉄道での移動は、15年戦争(アジア・太平洋戦争)中、「満洲国」と日本で呼ばれたところでした。車窓に広がるのは見渡す限りの大平原で、土は黒く、耕されていて「トウモロコシ」と「水稲」(ハルピンは稚内と同じくらいの緯度だそうですが、熱帯・亜熱帯性の稲をしかも陸稲ではなく、水田で作っていました)が植えられており、葉葉(はば)が一面に揺れていました。日本も欲しかったのでしょうが、よそ様のものを奪ってはいけません!

 さて、旅の主催は「日中労働交流協会」で、中国側の受け入れは「中国職工対外交流センタ」でした。そのため、私も「N関労西執行委員」の肩書での参加でした。また、歓迎夕食会がセットされる形式がとられて、先方のそれなりの幹部の方も参加されるので、各「宴会」では肩が凝る思いでした。が、我慢して聞いていますと、社交辞令とともに日中間の今日的な情勢の反映などもありで、双方に微妙な意見の違いなども垣間見られ、一般的な観光旅行ではえられない経験ができました。考えさせられるところがありました。が、初めて触れた私には難しくて最後まで十分に理解したとは言えないところです。少しずつ慣れて「肩の凝り」は減りました。

 参加の動機について

 鳥取県においては1987年より「反核・平和の火リレー」を始めましたが、‘85年から始めていた広島県から学んだことが多かったと思います。「原爆被爆者の被害の実相に限りなく近づく」を私たちの姿勢として強調しつつも、「加害責任」を忘れてはならないとも言われました。栗原貞子さんの詩「ヒロシマというとき」が紹介され、「<ヒロシマ>というとき、<ああヒロシマ>とやさしくこたえてくれるだろうか、(中略)<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>(中略)<ヒロシマ>といえば血と炎のこだまが返ってくるのだ(中略)<ヒロシマ>といえば<ああヒロシマ>とやさしいこたえがかえって来るためにはわたしたちはわたしたちの汚れた手をきよめねばならない」でした。さらに、「中国帰還者連絡会」が紹介され、鳥取でも会員のかたの講演を企画したりもしました。鳥取高教組青年部員の勧めで、旬刊「中帰連」を会の解散・廃刊まで購読しました。「撫順の奇跡」はもとより、「三光作戦」、「戦時性奴隷」、「731部隊」、「毒ガス作戦」、「南京事件」、「重慶爆撃」……と中国に対する加害と犯罪が特集されていたし、当時の日本の「右翼」側の「妄言」への冷静な反批判なども載っていました。いつか直接現地に行って見たいと思っていました。今回それが実現しました。

ハルピン

731部隊犯罪陳列館
731部隊犯罪陳列館

ハルピンでは、郊外にある「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」を見学しました。「陳列館は1985年に開館し、2015年に新しい陳列館がオープンしました。陳列館の展示は、細菌研究基地の建設、細菌戦部隊の設立、特別移送扱い、細菌研究の実験と生産、細菌戦の実施、731部隊の逃走、細菌戦犯罪者の裁判と系統的に展示されています。731部隊は約3000人の「マルタ」を虐殺しましたが、敗戦を目前にした撤退時に生き残っていたすべての「マルタ」を殺し、建物を破壊して証拠隠滅を図りました。罪証陳列館に多くの遺品が展示されていました。また、本部、研究棟、生物飼育場、農場、飛行場、鉄道駅、宿舎、運動場、小学校まであり、広大な敷地を占めていました。」。(伊藤団長文より引用)

その後、スターリン公園から松花江を眺め、中央大街を散歩しました。団員のT氏が松花江の先の「チャムス」の生まれとのことで、思いもひとしおであったのだろうと思います。

瀋陽

 次に瀋陽に移動しました。「はじめに」でも触れましたが、高速鉄道は時速300キロだそうです。この区間に限れば(広い大陸ですから、チベットなど条件は種々違うでしょうが)、起伏も少なく、トンネルもなく、カーブも少ないとなれば建設コストも比較的にかからずで、スピードも出やすいとのことでした。

9.18歴史博物館の前で
9.18歴史博物館の前で―左から2人目が池田和則さん

「午後から9・18事変陳列館を見学しました。1931年9月18日、柳条湖において鉄道爆破した関東軍は、これを中国軍の仕業と偽り、一気に遼寧省、吉林省、黒竜江省を占領しました。いわゆる満州事変です。その経過が描かれ、日本の侵略に抵抗して闘った抗日軍民の様子が展示されています。」(伊藤団長文より引用)

「養父母の像」((9・18歴史記念館)
「養父母の像」((9・18歴史記念館)

 「同陳列館」の出口の手前に日本人孤児を真ん中に両側から手をつないでいる養父母の像がありました。私は涙がこぼれました。「奪いつくし、焼き尽くし、殺し尽くした」日本人の子どもを育てる中国人の夫婦。養父母の貧しさは、想像できますし、親兄弟、親戚、親友を日本人に殺されたり、傷つけられたりしていたかもしてないのに。次の「撫順戦犯収容所」でも触れますが、中国の人の心の奥底にある「究極の人としてのやさしさ」に心打たれました。どの民族であれ究極の人間らしさは持ち合わせていると思いますが、世界のすべての人が、日本人が、その中の私がとなると確信はありません。売店で買ったその「像」を自宅の本棚に飾りました。

 また、「同陳列館」の「あとがき」にあたる文章には「中華民族の団結」、と「中国共産党の功績」が主張されているように感じました。間違いではないのですが、ただ、強調しすぎると「民族主義」は「排外主義」につながりますし、世界第二位の大国の「民族主義」は「覇権主義」ともなることもありましょう。また、「抗日戦争」勝利は、中国共産党の功績ですが、だけでなく、国民党の功績もありましょうし、名も知れぬ中国民衆の抵抗、貢献もあったでしょう。在外華僑の支援もあったでしょう。世界の反ファッショ勢力の力もあったでしょう。

一歩引いた余裕もあったらとも思いましたが、いつまでも「安倍政権を許している」日本で活動している者が大きな顔して言わないほうがいいとも思います。つぶやきです。

撫順

 翌日、撫順を訪れました。撫順は、巨大な露天掘り(すり鉢状を想像していましたが、見学した露天掘り炭鉱はⅤ字カットでした。)炭鉱があり、石炭の町として有名です。余談ですが、撫順の石炭は満鉄で大連に運ばれ、八幡製鉄所で鉄作りの原料に供されたそうです。近くの鞍山に製鉄所があるのに?

撫順戦犯管理所の窓
撫順戦犯管理所の窓

 「午前は撫順戦犯収容所を、午後は平頂山惨案遺址紀念館を見学しました。

 撫順戦犯収容所は、日本人戦犯約1000人が収容され、教育、坦白、認罪という思想改造が行われたところです。食事、健康にも配慮した生活が行われ、戦犯は処刑されることなく日本に帰国しました。満州国皇帝であった溥儀も収容されていたところです。

 平頂山惨案遺址紀念館は、1932年9月16日、日本守備隊や警察は、抗日軍が日本人を襲撃したことに対する仕返しとして、平頂山村の住民約3000人を野原に集めて射殺し、遺体にガソリンをかけて燃やし、山を爆破して埋めるという虐殺事件の現場に建てられた記念館です。遺骨館には発掘された遺骨がそのままの姿で横たわっていました。折り重なるようになった遺骨には、子供や赤ん坊、妊婦の遺骨もあり、脇にある黒くなった坑木やガソリン缶が惨状をリアルに伝えていました。」(伊藤団長文より引用)

 「撫順戦犯収容所」では中国人の見学者が多いので当然ですが、「日本人戦犯」より溥儀をはじめとした「中国人戦犯」に力点がおかれていました。が、ともあれ、ここから「日本鬼子」に改造されていた「日本人戦犯」が再び、「人間」に還っていく場所であったと思い、私にとって、貴重なフィールドワークであったと思います。「中帰連」の皆さんが帰国後に果たした日中友好への功績は計り知れないものです。帰国が遅く、しかも革命後の中国からということで、「アカ」呼ばわりで周りから警戒されたり、公安に監視されていた人もいたといいます。そのために、安定した就職につけず生活に窮した会員もいたとのことです。日本側の革新団体の事情に翻弄されたこともあったようです。が、死ぬるまで、自らの加害責任・戦争責任に向き合い、講演をし、書籍を広め、加害地に赴き謝罪を続けるという真摯な態度は何よりも美しい。「日本鬼子」の限りを尽くした人達とその時代に甘い汁を吸った旧支配層とその末裔たちはその事実に触られたくないのでしょうが、「謝罪」することをせず、よりにもよって、あったことを無かったこととしようとする「再びの加害」をおこなっています。謝ってもいないのに、「何度謝ればいいんだ」と平気で言う。そこからは、中国とも、南北朝鮮ともアジア各国とも真の「和解」はあり得ない。日本は「戦後責任」を果たさないままで時を重ねてはいけません!私たち「老人」は、自分たちを経由して、若い人に「継承」していく責任があります。それが戦争責任・加害責任を背負う日本に生まれた私たちの責任です。かっこ悪くても、謝って、謝って、謝って、被害者からもういいから、気持ちは分かったからといわれてはじめて「許され」本当の「和解」になると思うのです。であるなら、そういう政府を作らねばなりません。

平頂山虐殺遺跡記念館の展示
平頂山虐殺遺跡記念館の展示

「平頂山惨案遺址紀念館」で観たものは覚悟をしていたとはいえ、あまりにむごいものでした。「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」でも感じたのですが、人はここまで残酷になれるものなのでしょうか。信じられないことが行われました。大陸に来る前は善良な農民であったり、妻子(つまこ)を愛する工員だったかもしれない。軍隊や国家に改造され、生きた人間を「解剖」し、撃ってもこない人々を機関銃でなぎ倒し、一人一人銃剣でとどめを刺す。そのことに何も感じない。(大体、日本は「侵略」されたことは有史以来ありません。もとい蒙古がありますか!「侵略」したことはいっぱいあります。)そんなことをさせる、軍隊も国家もなくてもいいのです。

大連・旅順

 次に大連に移動しました。高速鉄道は上野駅を模して造られたという大連駅まで延伸していたそうです。

大連駅(上野駅を模して造られた)
大連駅(上野駅を模して造られた)

「大連現代博物館を見学しました。アヘン戦争以後、遼東半島は、渤海の防衛拠点として重要な位置を持ち、清が旅順を開発、日清戦争で日本が旅順を占領、「三国干渉」でロシアがハルピンから旅順までの鉄道敷設権を得て大連を開発、日露戦争で日本統治へと目まぐるしく変わります。日本軍国主義の残虐行為を展示するだけでなく、大連の歴史を民衆の視点から「多元文化の交流と融合」と見る博物館の捉え方に敬服しました。近くの星海広場を散策し、景勝地の老虎灘をドライブしてホテルに戻りました。」(伊藤団長文より引用)

 翌日、大連から1時間ほど離れた旅順を訪れました。旅順と大連と合併して、「旅大」となり、さらに、「現在は大連市の行政区だそうです。1894年11月21日に旅順を占領した日本軍は、4日間にわたって民間人を含めて約2万人を虐殺しました。その犠牲者を祭った墓が萬忠墓です。萬忠墓紀念館は、日清戦争の経過と虐殺の様子、その報道、萬忠墓の建立経過が展示されています。日本の中国侵略は、当初から虐殺を伴っていたことが分かりました。なぜここまで残忍なことができるのか?

 差別意識とナショナリズムの恐ろしさを改めて考えさせられました。」(伊藤団長文より引用)

 さらに、詳しく、藤村秘書長は「日清戦争、日露戦争の戦場となった大連、旅順」と題して、次のように記述されています。「日本は1894年日清戦争、1904年日露戦争を行いました。今回の旅でこの二つの戦争は、戦場が大連、旅順のある遼東半島であり、この半島の領有を争うものであったことを改めて実感しました。日本軍は、日清戦争時の1894年11月に旅順を占領しました。この際、日本軍は旅順で中国人たちを虐殺する大量殺人を行っていたことを「大連現代博物館」や「萬忠墓記念館」で知りました。当時の日本人新聞記者は市内の死体が放置されている様子をスケッチしていました。また日本兵は手紙の中で「市内は日本兵ばかりだ、死体の他に支那人(当時中国人を指す蔑称)が見つからない。ここの支那人はほとんど絶滅した」ということを書いていました。アメリカ人やイギリス人たちもこの惨状を伝えています。私は、中国国内の炭鉱などや日本軍による虐殺などで中国人が沢山殺されていることは知っていましたが、それは1932年の以降のことだと思っていたので、日清戦争の時既に皆殺しの行為を行っていたことを知り、暗澹たる思いがしました。そして、戦争が人間性を破壊することを改めて感じました。」

 そうなのです、日露戦争はロシアの領土でも、日本の領土でもなく、中国の領土内で行われました。理不尽と思いませんか。家を焼かれ、工場や店を破壊され、田畑を荒らされる中国人の視点が必要だと思いませんか?

旅順大虐殺(大連博物館)
旅順大虐殺の写真(大連現代博物館)

昔、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を面白く読んだのですが、ここでも「中国人の視点」は全くありませんでした。だからといって司馬氏に押し付けて、「責任」のがれをするわけにはいきません。旅順港を一望できる白玉山に上がりました。旅順港の出入口は本当に狭く、つい、広瀬中佐が「杉野はいずこ、杉野はいずや」と部下を探し回り、砲弾の直撃を受け戦死したことを思ってしまいます。また、203高地はこっちの方向と説明版にあると、昔見た映画の仲代達矢演ずる乃木大将の悲壮な表情を思い出してしまうのです。

 しかし、先に引用したお二人の文のとおりで、日清戦争の旅順陥落で2万人の中国人が日本軍に虐殺されたことを、今まで知りもしませんでした。司馬氏の本であったか定かではありませんが、日露戦争では、欧米各国の評判を気にし、捕虜を丁重に扱ったと読んだ記憶があります。第一次世界大戦でのドイツ人捕虜の徳島での収容所での扱いの話、ベートーベン「第9」の初めての演奏とまあ「事実」なのでしょう。私も無差別の民間人も含めた日本軍による虐殺行為は満洲事件前後からだろうと思い込んでいました。澤地久枝さんの「記録ミッドウェイ海戦」だったと思いますが、澤地さん本人の解説で、「日本軍に捕虜となったアメリカ兵は0人であった。なぜなら、捕虜は取らない全員殺したからだ。」とのことでした。

でも、やはり当初から日本の中国侵略は、虐殺を伴っていたのです。なぜここまで残忍なことができるのか?ロシア人やドイツ人の扱いには、気を使うが、中国人(や、朝鮮人、さらに、アジア人)には、別の扱い方をする、殺しても構わないとすれば、日本人はアジア人だが、欧米グループ内、悪くても大東亜の盟主ということでしょうか?差別意識、蔑視感は明治維新からわずか25年で定着したと見なければならないでしょう。改めて恐ろしさを感じました。

 おわりに

 いくら「おもてなし」だからといって、宴会の料理が多すぎる宴会以外の食事も)。朝食など3/4も残ってしまう。もったいない。地球の資源は有限です。

ショッピング客でにぎわうハルピンの中央大街
ショッピング客でにぎわうハルピンの中央大街

 ハルピンで、マトリョショカのストラップを買ってしまった。近くの店員さんに購入品を記載してもらい、カウンターで金を払い、その領収書を再び店員さんに見せて、品を袋に入れてもらう。旧ソ連の国営店の方式?

 やはり後発国は有利でした。

日本では有線での電話網を国土の隅々に張り巡らすのに膨大な費用が掛かりました。国土の広い中国はもっと困難だと思われましたが、携帯・スマホで有線網の必要が少なくなり同様の負担の必要はなくなりました。また、スマホといえば、この旅行中わが団のお世話をしていただいた李さんはたばこ一箱をスマホで購入されていました。キャッシュレス化は日本より何歩も進んでいます。さて、日本の銀行は、人員削減のため、ATMを社会の隅々まで配置したが、キャッシュレス化で不要となるでしょう。ATMの廃棄は、たいへんな負担となるのではないでしょうか!

さらに、ガソリン車から電気自動車への転換も急でしょう。ハイブリッド車は飛び越えられようとしている。日本の自動車会社はついていけるのか。

戦争責任に向き合い心からの「謝罪」の上の真の「和解」が不可欠

日本は世界第2位の「経済大国」から滑り落ち、予想年は忘れましたが、インドにも抜かれるそうです。過去の栄光を引きずって、アメリカ合衆国の子分であり続けても、取り残されるだけでしょう。今後、発展が有望視される、中国、統一されるであろう朝鮮、そして、アジア諸国との友好が、日本の「少しの成長」と「安定」の土台となるでしょう。そのためには、大日本帝国の犯した加害責任、戦争責任に真摯に向き合った心からの「謝罪」の上の真の「和解」が不可欠だと思います。結局、またここに還って来ました。

いい旅行でした。皆さんにお薦めします。が、先の長い若い人に特に、お薦めです。

掲載写真はすべて団員の津和崇さんが撮影

台湾:富士ゼロックス労組がリストラに抗してスト突入(10/31)

富士ゼロックス労組がリストラに抗してスト突入台湾の富士ゼロックスのストライキ(昨日で8日目)の続報ですが、昨日の労使交渉をまえに、台湾全土の富士ゼロックス支部から100人が結集して勤労権を訴えました。
以下、苦労網の報道の訳です。

原文と写真はこちら


台湾:富士ゼロックス
労使交渉をまえに台湾全土から組合員が台北に結集
2018/10/30

苦労報道

張智琦(苦労網記者)

富士ゼロックス労組がリストラに抗してスト突入富士ゼロックス労組のストライキは8日目に突入した。今日(10月30日)午後、労使交渉が行われるが、会社からの回答を促すために、労働組合は台北、三重、中歴、台中、高雄の五つの地域で行われているスト拠点から100余名の組合員を動員して、日本交流協会[国交のない台湾での日本政府の代表機関で外務省・経産省が管轄]に結集し、「日本企業は解雇するな、働く権利を保障せよ!」と声をあげ、日本企業の富士ゼロックスが解雇をやめて、労働者の勤労権を保障することを求めた。

日本企業の富士ゼロックスは台湾で300人の整理解雇を計画している。富士ゼロックス労組は10月23日から台湾全土でストライキを打ち、今日で8日目に入った。労組はこれまでに労働部、外交部に要請行動をおこない、日本交流協会で座り込みなどを展開し、今日の労使交渉に至っている。労組は台湾各地にある倉庫でピケを張っている組合員から100余名を台北に動員し、日本交流協会に申し入れを行い、その後、台北の台湾本社で交渉結果を待つ。

富士ゼロックス労組の鄭炎委員長によると、昨日、台湾富士ゼロックスの勝田昭典董事長と交渉したが、会社側が受け入れたのは組合員に対して懲罰や警告など不利な扱いを行わないということだけで、従業員らの勤労権の保障は難しいとの考えを示したという。鄭委員長は、日本企業はたった200~300人の勤労権さえも保障できないのか、まるでかつての植民地時代のやり方で台湾人を抑圧するのか、「台日友好」とはたんなるイメージだけのものなのか、「日本企業が中華民国憲法で保障されている勤労権の考えに反した行為をしながら、台日友好を語る資格などあるのか?」と厳しく批判した。

三重倉庫の職員で、富士ゼロックス労組の監事の孫元敏によると、会社側は三重の倉庫から在庫を持ち去ろうとしたが、三重倉庫の組合員らがピケを張って会社の侵入を阻止して、ストライキのピケット・ラインの防衛に成功した。孫氏は、この数日間は、組合員が不満を漏らすこともなく、交代で夜を徹して三重倉庫を守っているので、他の地域の組合員も、会社が勤労権の保障を約束するまで、最期まで持ち場を堅持してほしいと語る。

富士ゼロックス労組の上部組合の桃園市産業総工会の荘福凱委員長も応援に駆け付け、赤字も出していない台湾支社でリストラをする日本企業を批判し、日本企業がかつてのような植民地的考えで台湾の労働者に接することのないよう訴え、早急に労使交渉を行うことを呼びかけ、桃園市産業総工会の役員と組合員は全力で富士ゼロックス労組のストライキを支援することを表明した。富士ゼロックス労組がリストラに抗してスト突入

富士ゼロックス労組は日本交流協会への要請行動を終え、一列縦隊で近くの富士ゼロックス台湾本社まで歩き、オフィス街の人々に対して「わたしたち富士ゼロックスの社員はみなさん同じサラリーマンですが、会社からいじめられています。みなさんも労働組合を結成しましょう」と訴えるとともに、勤労権の保障という労働組合の求め会社が応えるよう訴えた。

富士ゼロックス労組がリストラに抗してスト突入

富士ゼロックス労組がリストラに抗してスト突入

沈夢雨:団結はチカラ(2018/7/2)

広州日弘機電(ニッパツの100%子会社)の労働者が2018年に実現した法定住宅積立金と賃上げについて、同社を不当に解雇された沈夢雨さんが論じた文章をざっと訳してみました。懐かしい言い回しなどは、中国の特色ある労働運動ゆえ。


沈夢雨:団結はチカラ
2018-07-02

2018年上半期、日弘公司で、日弘労働者の団結の力を示す二つの事件が発生した。

一、2018年6月19日、日弘は、派遣労働者と派遣から正社員に転換した労働者に対して、派遣身分のときには未納だった法定積立金を遡って納付することとを通知した。これは、日弘労働者たちの要求が実現したということである。

二、2018年の賃金交渉において、経営者とそれにおもねる労働組合執行部の意向を上回る回答を引き出した。当初、経営側は1.66%の基本給引き上げを提示していたが、われわれは6%+200元を勝ち取った。大部分の現場労働者の基本給が400元以上引き上げられる計算になる。年末一時金も経営側の3.5カ月に対して、4カ月+業績分を勝ち取った。

これらの勝利はどのようにして実現したのか。もちろん経営側の恩寵などではない。それは労働者全員の取り組みによって実現したのであり、とりわけ経営側に物申すことを厭わない果敢な労働者の功績が大きい。

一、圧力に屈せず団結して積立金をかちとる

経営側は、2018年1月まで、派遣労働者の住宅積立金を一銭も納付してこなかった。それによって、いったいどれだけの搾取が行われてきたのだろうか。

2018年が明けてから、周辺の工場の派遣労働者たちは積立金を勝ち取っていた。日弘の労働者も次々たちあがった。当初、積立金を勝ち取った人間は2~3人だけにとどまっていたが、すぐに20~30人に増えた。みんなで一致団結して、悪徳派遣業者と悪徳経営者に対して知恵を駆使して対峙し、最終的に積立金をかちとったのである。

その過程では、「出る杭は打たれる」といった警告もあった。たしかに最初に要求したときに、会社は見せしめとして、2名の派遣労働者が派遣会社に送り返されたが、それでもみんなは挫けなかった。逆にますます多くの労働者が積立金要求の隊列に加わり、団結した労働者たちを前に、経営側もお手上げとなり、圧力に屈して、積立金を遡って納付することに同意するほかなかった。

現在、200名近くの労働者が派遣身分のときの住宅積立金を遡って勝ち取ることができた。5000元もの積立金を勝ち取った労働者もいた!

当初、積立金を遡って納付するよう求めた労働者が狙い撃ちされたが、そのときは大部分の労働者のあいだに団結する意味が理解されていなかったからであり、いったんそれを理解したあとは、狙い撃ちされることもなくなった。団結こそが労働者の権利を守る最も有効な手段であり、団結した労働者全員を解雇したくても、そんな度胸は経営側にはなかった!

二、団体交渉に積極的に参加して成果をかちとる

賃金の団体交渉は、われわれ労働者の切実な利害に関係する事柄であり、一人一人が積極的に参加すべきである。しかし経営はさまざまな方法を通じて労働者の参加を阻害する。多くの労働者を交渉に参加させたがらない理由はいうまでもない。

2018年の賃金団体交渉は波乱万丈で息をのむ展開だったといえる。われわれ労働者ははじめて民主的権利を行使した。もちろんそれは、あまり徹底したものではなく、さらに大いに改善の余地はあるにしても、まったく行使しないよりも、はるかに意味のあることだった。

今年は、多くの労働者の参加によって、現場労働者の利益を代表して交渉に臨もうとしていた沈夢雨を、交渉員に推薦することに成功した。経営側とそれにおもねる労組執行部はあらゆる方法でそれを阻止しようとしたが、労働者たちは団結してその企みを跳ね返した。

多くの労働者がウェブ上であるいはリアルの世界でわれわれの交渉代表への支持を表明した。組合執行部は代議員大会で沈夢雨の交渉資格をはく奪しようとしたが失敗した。管理者は職権を濫用して労働者を恫喝し報復したが、それに屈しない労働者は、アンケート用紙への記入や彼女ために証言するといった実際の行動で彼女への支持を表明した。

後日、会社と組合執行部は共同で沈夢雨を不当解雇に追い込んだが、労働者の怒りを治めるために、譲歩せざるを得ず、団結した労働者の要求をのまざるを得なかった。

団結は力だ!小団結は小さな成果、大団結は大きな成果だ!

今年、われわれが積立金と賃金交渉においてかちとった成果は、経営者の慈悲によるものではなく、みんなの努力によってかちとったものだ。団結こそ権利実現のカギである。

この過程において、われわれが勝ち取ったもの利益だけではない。同時に尊厳をもかちとったのだ。解雇された者や狙い撃ちされたものもいたが、それは団結を経験した人数に比べたらずっと少ない人数でしかない!

われわれはまた、経営側のひ弱な実態と組合執行部の醜悪な一面を見た。労働者に対する弾圧は物の数ではなく、まさに「一切の反動派は張り子の虎」である。この張り子の虎は、なかば燃えかかっている。さらなる恥ずべき行為は、さらなる憤激を招くだけで、その代償は計り知れなく高くなるだろう。

もちろん、今回の勝利で警戒を解いてもいいというわけではない。

派遣会社が納付していなかった積立金は遡って納付させたが、日弘自体の積立金問題もある。賃金は挙がったが、経営はかならず別な方法で、それを回収しようとするだろう。たとえば生産量の増加、残業の削減[作業速度UP]、高賃金のベテラン労働者の解雇などなどが考えられる。今回の勝利の地平を維持すると同時に、今後おとずれるであろう暴風雨に備えるために、さらなる団結が必要であり、そうしてはじめて煮込んだ鴨鍋が飛び立つ[手にした勝利を逃す]ことを阻止できるだろう。

仲間たち、がんばろう!

中国人強制連行に関する院内集会(11/27)

日時 2017年11月27日(月)午後2時~4時
場所 衆議院第一議員会館 地下1階の部屋(変更になりました) (会館入口で通行証をお渡しします)
・国会議員の挨拶
・弁護団と支援団体の報告
・三菱マテリアル和解当事者中国人被害者が来日・出席!
講演 強制連行事件の全体解決と歴史的意味 ―ドイツとの比較で―(仮題)
講師 石田 勇治 (東京大学大学院総合文化研究科教授)

 1942年11月27日、当時の東条内閣による「華人労務者内地移入に関する件」という閣議決定がなされてから今年で75年になります。この決定による日本軍の武力による中国人の連行は38,939人におよびました。
日本各地の35企業、135ヶ所の事業場で奴隷労働を強いられ、過酷な労働と劣悪な待遇の中で6,834人の中国人が命を失いました。
被害者中国人は10年に及ぶ日本での裁判を闘い、請求は退けられましたが、事実認定と当事者による解決を促す「付言」つき判決を勝取り、西松建設につづき昨年は三菱マテリアル(旧三菱鉱業)事件の画期的な和解も成立させました。
しかし、強制労働を強いた他の企業は未だに事件解決に向きあおうとせず、日本政府は国策で行ったのに、全く解決に動こうとしていません。
75年の節目の年に、中国人強制連行事件の全面解決に向けた運動を前進させるための院内集会を開催いたします。
みなさまのご参加をお願いいたします。

主 催:中国人強制連行事件の解決をめざす全国連絡会
中国人強制連行事件全国弁護団
連絡先:わかばの風法律事務所 FAX :: 03-3357-1788

「中国人強制連行の全面解決を! 院内集会」チラシ

広島で強制連行中国人受難者を追悼し日中友好を誓う集会(10/15)

内田弁護士から10月15日に広島県で行われた、中国電力安野発電所建設に
強制連行された中国人受難者を追悼し、日中友好を誓う集会の報告がありました
ので、代理投稿します。 (伊藤彰信)

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内田です。お元気ですか。
西松安野友好基金は任務を終え解散します。今後は、地元の「継承する会」が
引き継いで行きます。別紙参考まで。
2009年10月23日の和解から8年、248名の受難者・遺族(全体は3
60人)に和解金をお届けし、翌2010年から始まった中国からの受難者・遺
族をお招きしての第1回追悼式~今回の第10回(途中、春夏と年2回もあり)ま
で199名の受難者・遺族が来日されました。石原都知事(当時)の尖閣問題挑発
により日中間が最悪になった2012年の追悼式には中国から来ていただけるだ
ろうかと危惧したこともありましたが、途絶えることなく民間の日中交流を続け
てくることが出来ました。
来日した受難者・遺族は、追悼式の後、強制労働の現場を回り、当時の苛酷な
状況に想像力を働かせ、翌日は原爆資料館を見学していただきました。
広島を中心とする市民団体、地元安芸太田町、中国電力、西松建設中国支店等
の協力があったからこそ出来たことです。

第9回「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」(10/15 広島) 内田 雅敏

 広島での第9回「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」に行ってきました。
2009年10月中国人強制労働西松和解の翌年10年から毎年、広島、太田川上流の中国電力発電所の一角に建立した「中国人受難の碑」の前での追悼会です。地元、安芸太田町長、中国電力、在大阪中国総領事館等からも参加を頂いております。
今回は前日に、「中国人強制連行の戦後 民間が拓いてきた日中交流 引揚げ・遺骨送還から和解へ」というシンポジュームを行ないました。
戦後なお中国に残留(いわゆる残留婦人、孤児とは別)していた約3万人の日本人の帰還事業(旅費を中国政府が負担)に対応した、日本からの民間の手による遺骨(強制連行・強制労働の受難者)送還運動→強制連行・強制労働の実態調査→賠償請求→裁判→付言による和解の流れがよく理解できました。
西松安野友好基金も来年で、任務を終え解散し、再来年からは、地元広島の「中国人強制連行・強制労働の歴史を継承する会」が追悼式を引き継ぎます。「中国人受難の碑」がいつか「日中友好の碑」になることを願っています(追悼式に参加した、或る遺族の言葉)。
来年からは、先日和解が成立した三菱マテリアルの追悼式(私の担当は長崎)も始まることになると思います。 続きを読む 第9回「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」(10/15 広島) 内田 雅敏

歴史に向き合い、和解から友好強化へ 内田雅敏講演会(2016年9月30日)

「過ちて改めざる、是を過ちという」、三菱マテリアル社(旧三菱鉱業)が中国人強制連行事件の和解にあたって受難生存労工に述べた謝罪の言葉である。同事件の和解を経て「日中友好の展望」と題する内田雅敏弁護士(戦争をさせない1000人委員会事務局長)の講演会が、9月30日、連合会館で開かれた。930uchida_a2

伊藤彰信(日中労働情報フォーラム代表)
伊藤彰信(日中労働情報フォーラム代表)

はじめに日中労働情報フォーラム伊藤代表が「日本の平和運動の弱さは加害者意識が薄いことである。二度と戦争を起こさないために中国人強制連行・強制労働問題を加害者としての反省を背負いながら考えてみたい」とあいさつした。(伊藤代表のあいさつ詳報)
内田弁護士は、鹿島建設の花岡和解、西松建設の広島安野和解の経験を踏まえながら、今回の和解が「平和資源」と言える内容を持つものだと評価し、次のように講演した。
いままでの和解より前進した点は、①三菱鉱業だけでなく下請先を含む3765人を対象とした、②会社の代表者が中国に赴き受難者に直接謝罪した、③和解金額が大幅に増額された、④その使途も明確に定められた。裁判では、元労工の請求を棄却する決定がなされ、確定しているが、和解ができた根拠は、西松建設事件での最高裁判決の「西松建設を含む関係者(註=国を指す)において、被害者らの被害の救済に向けた努力が期待される」という「付言」である。 続きを読む 歴史に向き合い、和解から友好強化へ 内田雅敏講演会(2016年9月30日)

講演会「日中友好の展望 -三菱マテリアル中国人強制連行事件の和解を経てー 」

日中国交正常化44周年

講師 内田雅敏弁護士

6.12戦争をさせない全国署名提出集会・国会包囲抗議行動で発言する内田氏 (撮影・Shinya)

(戦争をさせない1000人委員会事務局長)

  • 日 時 2016年9月30日(金)18時30分~
  • 場 所 連合会館 2階 201号室

〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台3-2-11
TEL:03-3253-1771(代)
地下鉄千代田線 新御茶ノ水駅 (B3 出口) より 徒歩約 1 分. 地下鉄丸ノ内線 淡路町駅より 徒歩約 6 分. 地下鉄新宿線 小川町駅より 徒歩約 4 分. JR 御茶ノ水駅 (聖橋口) より 徒歩約 7 分.

  • 会場費 500円(日中労働情報フォーラム会員は無料)
  • 主 催 日中労働情報フォーラム
  • 協 賛 平和フォーラム

日本は戦時中、中国人労働者を強制連行し、鉱山、ダム建設、港湾などの労働に従事させました。連行された38、935人のうち6,830人が苛酷な労働のため命を落としています。
今年6月1日、三菱マテリアル(旧三菱鉱業)が強制連行された中国人元労働者に謝罪し、和解金を支払うことで和解が成立しました。今回の和解は、今までの中国人強制連行事件の和解に比べて、対象者が下請け先を含む3、765人と多く、和解金額も大幅に引きあがったものでした。
多くの中国人強制連行裁判に携わってきた内田雅敏弁護士に、今回の和解の意義と課題について報告していただき、昨年の安保法制成立以降、ますます緊張が高まる日中関係のなかで、日中友好を図るにはどうしたらよいか、その展望について語っていただきます。

930内田雅敏講演会
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