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「満蒙開拓」欺かれし阿智村の悲劇

高橋恒美(フリージャーナリスト)

■阿智(あち)村にある「満蒙開拓平和記念館」を見学した。
 館内は戦争の悲劇に満ち満ちていた。阿智村は恵那山の東、岐阜県と隣接する長野県の村で、満蒙開拓に大量190人を送り込んだ。そして帰国できたのは、わずか47 人という辛酸をなめた村だ。

満蒙開拓平和記念館

 先の戦争を知らない若者には、そのイロハから説明する必要があるだろう。昔、映画「ラストエンペラー」で知られる「満州国」という国があった。日本軍が中国大陸を侵略し、1931 年(昭6)、内モンゴル(蒙古)に隣接する東北部に、でっち上げた傀儡(かいらい)国だ。そのエンペラーは溥儀(ふぎ)皇帝。もちろん、世界から大きな非難が起きた。
 日本政府は「満州へ行けば広大な農地がもらえる」と、宣伝して全国から開拓民を募った。その名も「満州農業移民100 万戸移住計画」。侵略の手先として国民を騙したわけだ。
 寒村の阿智村が、これに応じて村を挙げて「満蒙開拓団」を結成したのは、無理からぬ事態だった。他県の成功が報じられ、村のお偉いさんの「お国のために、ぜひ」の勧誘もあったことだろう。時は、敗戦間近い1945 年(昭20)5 月のことだった。

■しかし事態は、すぐに暗転する。
 8 月に入るや、連合国に加わったソ連の軍隊が侵攻して来る。成人男性は軍に招集され多くが死んだり、捕虜になったり。残された女・子ども・老人は、当ての無い大陸での逃避行が待っていた。土地を奪われた恨みの現地住民から襲撃を受け、集団自決や捕らわれて収容所へも。
 全国から赴いた27 万人のうち8 万人が命を落とした。阿智の人々も先に述べたように、約100 人がこの地で亡くなり、帰国が叶ったのは47 人だった。
 館内展示の中には、生き延びた人々が逃亡する際の様子や、極寒の収容所での修羅が書き記されている。「もう死んだ方がいい」と、互いに石で殴り合うのだが、死に至らない悲劇の様も。
 この記念館の建設。「戦争は二度としてならない」という村の意志が表れている。「中国残留孤児」の帰国問題で日本が揺れた時があったが、この残留孤児は、阿智の人らが逃避行の際に、わが子を中国人に託した子どもたちに他ならない。
 シベリア抑留から帰った村の僧侶が、帰還運動に奔走し、それが口火となった。

■記念館の庭に「前事不忘、後事之師」と刻んだ記念碑がぽつり。胸にグサリと突き刺さってきた。その意味は「前事を忘れず、後事の教訓とする」。
 この「ツネじい通信」の前々号で、「欺されることの責任」と題して、先の戦争は「騙された側にも、戦争責任はある」と紹介したのだが、こんな阿智村の“自戒の例”を突きつけられると、二の句がつけない思いになる。翻って、ごっそり国民を騙して地獄の渕に追いやった国のあり様に、怒りを覚えてならない。

■ 安倍首相が政権を投げ出し、安倍政治の大番頭というか実行委員長だった菅官房長官が、その後継者に決まった。
 「アベ政治の悪事にフタをし、さらに継承するぞ」ということを意味している。
 「安倍の7 年8 か月」は、「戦争法」を強行採決するなど憲法9条に守られた「戦後の平和路線」をなし崩しにする“悪夢の時”だった。しかし、国民の多くは「安倍さんお疲れ様」と、内閣支持率アップする形で反応した。何ともノー天気な話だ。
 その安倍さん、引退記念に特別談話の形で「敵基地攻撃の保有能力」保持を、政治のまな板の上に乗せる提案をした。安倍さんが最後の最後まで終着したのはコロナでも災害対策でも、貧困対策でも無かった。「国民の命」よりも、「軍事」だったのだ。
 何とも惨(みじ)めな最期ではないか。

 安倍さんや麻生さんに「阿智村の叫び」を突きつけたとするなら、彼らは多分こう言うことだろう。「それは、うまい騙しのテクニックだったな。見習わねば」と。
 阿智の人たちが騙されたのは、貧農から抜け出したい思いが強かったからだろうが、今でも形は変われど同じだ。
 「景気をよくして生活を楽にしたい」、だから「アベノミクスに期待してみるか」。言ってみれば、「貧農」が「生活苦」に変わっただけの話。
 今も騙しの手口は変わっていない。

■コロナ禍を差し置いて「軍事拡張」を譲らぬ安倍さんに抗するかの様に、「いま英知が試されている」と説くお方がいる。名古屋大学名誉教授の池内了さんだ。「ぎふ平和のつどい実行委員会」が、この27日に予定している「憲法公布74 周年記念講演会」の講師だ。
 池内さんは中日新聞「時のおもり」(8 月1 日)で、こんな自説を述べておられる。大いに共感できる記事だ。その内容を筆者流に紹介すると―。

 《 コロナを戦争相手国のように例える政治家がいるが、お門違いだ。コロナに立ち向かうには、戦争とは真逆の世界の協調行動が求められている。拡大する一方の軍事費をコロナ対策に充当させれば、はからずも平和に貢献できる。また資源・エネルギーを無駄遣いしなくてよい。それが英知というものだ 》

■「戦争をする国づくり」を志向し、中国、朝鮮半島を侵略した過去を、まっとうに反省することなく、敵視・嫌悪する空気を醸し出す「アベ的な政治」。記念館の庭に掲げられた「前事不忘、後事之師」の「前事を忘れず、後事の教訓とする」の誓いが泣くというものだ。
 私たちは、未だ「政治を選択できる」選挙という権利を有する。菅政権は即刻、総選挙に打って出る構えを見せているが、阿智の人たちの多大な犠牲の末に手にしたこの教訓を、忘れてはなるまい。

(2020/9/14 記)

「ツネじい通信」 NO91 2020/9/14 より転載
発行者 高橋恒美(岐阜県羽島郡笠松町東陽町36-4)
Eメール tune0402@ccn2.aitai.ne.jp
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差別排外主義を煽る社会を断つ―関東大震災97周年中国人受難者追悼集会

関東大震災97周年中国人受難者追悼集会(9月6日、江東区東大島文化センター)
関東大震災97周年中国人受難者追悼集会(9月6日、江東区東大島文化センター)

「関東大震災97周年中国人受難者追悼集会」が9月6日、江東区東大島文化センターで開かれました。主催は関東大震災中国人受難者を追悼する会です。今年はコロナ対策のため、参加者を40名に制限したため、参加をお断りした人がかなりいたそうです。また、例年、中国からご遺族の方が参加していましたが、今年は実現しませんでした。張玉彪(南京芸術学院教授)さんが描いた「東瀛大屠殺」(関東大震災中国人虐殺の図)が披露されました。

主催者を代表して田中宏があいさつのあと、中国人遺族からのメッセージが紹介されました。日本政府が、虐殺の事実を認め、謝罪し、賠償すること、紀念館の建設と教科書に記載することを要求しています。来賓として、地元の中村まさ子江東区議会議員があいさつしました。参加者が献花をし、追悼式は終了しました。

そのご、中国人虐殺を考える集いが開かれました。開会のあいさつに立った林伯耀さんは、関東大震災後、伯父さんが身の危険を感じ、親戚一同が警察に保護を求め、習志野の収容所にいたことを話しました。

張玉彪(南京芸術学院教授)さんが描いた「東瀛大屠殺」(関東大震災中国人虐殺の図)
張玉彪(南京芸術学院教授)さんが描いた「東瀛大屠殺」(関東大震災中国人虐殺の図)

事務局の木野村間一郎さんが「政府が扇動する排外主義とヘイト」と題して問題提起をしました。今、コロナで危機管理が問われ、自粛警察、感染者やその家族などへの差別が問題になっている。関東大震災の際、朝鮮人・中国人を虐殺したのは、流言飛語に踊らされた日本人民衆であるといわれている。それは、差別意識が社会的に蔓延していたこと、その差別意識が虐殺に至らしめる社会構造が存在していたことが問題である。戒厳令、自警団の組織化、軍による情報操作が虐殺をもたらした疑う余地はない。当時、軍は総力戦を戦えるよう民衆を治安管理に動員する意図をもって、在郷軍人会、警察、町会、青年団などの組織化をすすめていた。後方を固めなければ、前方で戦闘はできないのである。米騒動や大正デモクラシーの人権意識、民衆運動の高まりが、関東大震災を契機に治安維持法、軍国主義の流れになり、社会運動、労働運動が弾圧され、南京大虐殺につながる侵略の道になる。コロナ対策では政府の言う通りみんなが自粛した。支配権力への同調や強権的政治への願望の意識が、排外主義的差別意識と同様に恐ろしい。木野村さんの話は、関東大震災をとおして、コロナ時代の危機管理体制のあり方を問う内容でした。

閉会のあいさつを内海愛子さんが行い「追悼式を行い、私たちの問題意識を積み上げ、それをいかに若い人に繋いでいくことが課題です」と訴えました。

(報告・写真:伊藤彰信)

村山富市元総理大臣

村山談話に託した想い(談話)

2020年8月15日

 元内閣総理大臣 村山富市

 「光陰矢のごとし」と言いますが、私が内閣(村山内閣)を率いていた時(1995年8月)に、閣議決定を経て、日本国政府の公式見解として「村山談話」を発出してから、はや25年の歳月が流れました。この「村山談話」は、中国・韓国あるいは米国・ヨーロッパなど、世界各国の人々や政府から、高い評価を受け続けているようで、光栄なことだと思います。
 「村山談話」を発出したのは、1995年8月ですが、その10年前の1985年8月15日、時の中曽根康弘首相は、戦後初めて、首相として靖国神社に公式参拝したのです。その同じ日、中国・南京には「南京大虐殺紀念館」が開館しています。私も紀念館を訪れたことがありますが、その館名は鄧小平氏の揮毫になるものです。
 翌86年8月、後藤田正晴官房長官は、「靖国神社がいわゆるA 級戦犯を合祀していること等もあって、…我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国がさまざまな機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある。…諸般の事情を総合的に考慮し、…明8月15日には、内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」との重要な談話を出しました。
 又、日本のかつての同盟国のドイツ、具体的には西ドイツの、ワイツゼッカー大統領は、同じ戦後40年にあたるドイツ敗戦記念日の1985年5月8日に、連邦議会で「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」との記念演説を行い、内外に感銘を与えました。
 私は、こうしたことも念頭にあったので、総理大臣在任の時が、まさに敗戦50年の歴史的な日を迎える事となるので、その節目に、けじめをつける意味で、過去の歴史的事実を謙虚に受け止め、平和と民主主義、国際協調を基調とする日本の針路を明確に闡明(せんめい)する必要があると思って、「村山談話」を、作成する事を、決断したのです。多くの方々の協力で、この談話は出来上がりました。特に、当時の自民党総裁であった河野洋平さんのご協力には、感謝しております。
 私の後を継いだ、橋本龍太郎首相以降、今日に至るすべての内閣が「村山談話」を踏襲することを明らかにしていますが、それは当然のことと言えます。中国・韓国・アジアの諸国はもとより、米国・ヨーロッパでも、日本の戦争を、侵略ではないとか、正義の戦争であるとか、植民地解放の戦争だったなどという歴史認識は、全く、受け入れられるはずがないことは、自明の理であります。
 当時、私は「村山談話」の作成に際し、作成実務を担った担当幹部に対して、一番、肝心な事は、侵略と植民地支配によって、中国・韓国・朝鮮など、アジア諸国の人々に耐えがたい被害と苦痛を与えた歴史的事実を明確にして謝罪の意思を示し、二度と侵略や植民地支配を繰り返さない決意を表明する事だと、強く指示しました。村山談話にも、「我が国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました」との認識が綴られています。
 日本の著名な学者・文化人・弁護士・ジャーナリスト・市民活動家が中心となって、2013年11月に、「村山首相談話を継承し発展させる会」が結成されました。歴史の事実を正面から受け止めて、二度と再び、侵略や植民地支配を繰り返してはならないとの立場から、集会・シンポジウム・外国との交流など、活発な活動を続けておられることには、敬意と感謝の気持ちを表したいと思います。日本の多くの良心的な人々の歴史に対する検証や反省の取り組みを「自虐史観」などと攻撃する動きもありますが、それらの考えは全く、間違っています。日本の過去を謙虚に問うことは、日本の名誉につながるのです。逆に、侵略や植民地支配を認めないような姿勢こそ、この国を貶(おとし)めるのでは、ないでしょうか。
 村山談話では、また「わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会に一員として国際協調を促進し、それを通じて平和の理念と民主主義とを押し広めていかねばなりません」とありますが、これは日本国憲法が求めていることでもあります。「村山談話」の最後には、「我が国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります」と、日本の国際社会への貢献についても提起しました。戦後50年という節目における「村山談話」が、今後の日本、アジア、そして世界の和解、平和、発展に貢献してくれることを期待したいと思います。
 日本にとって、かつての侵略戦争で多大の犠牲と被害を与えた中国との間に、末永く平和と繁栄の友好関係を保持し、築きあげて行くことが、極めて肝要なことは言うまでもありません。アジアの平和と安定の構築のためには、日中両国の、安定的な政治・経済・文化の交流・発展を築いていかねばなりません。
 その成就を祈るばかりです。

資料:「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話 1995年)

平坂春雄(日中労働者交流協会元事務局長)

平坂春雄さん(日中労交元事務局長)が逝去―心からご冥福を!

 8月2日に亡くなられた平坂春雄元事務局長(元全港湾関西地本書記長)の葬儀
が、8月4日通夜、5日告別式の日程で兵庫県尼崎市で執り行われました。
 私が参列したのは告別式ですが、コロナ対策がしっかり行われ、椅子も間隔を置いて配置され、参加者はマスク着用、導師もマスクしての読経でした。20人ほどの参列者でしたが、通夜には、もっと多くの方がお別れにみえていたとのことです。
 弔電拝読では、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館の弔電が最初に読み上げられました。会員の方からも多数弔電をいただきました。喪主の長男匡史様からは「故人の遺志をついでこれからも頑張ってください」と逆に激励されました。

 平坂さんは、養成工として尼崎製鋼所に入社。1954年の尼鋼闘争を指導。1955年兵庫県評書記となり、中小企業対策オルグとして数々の争議を指導しました。 1966年全港湾のオルグとなり、登録日雇港湾労働者の組織化を手掛けました。1967年全港湾神戸支部書記長、1981年全港湾関西地本書記長を歴任しました。
 日中労交には結成当時から参加。初代事務局長の兼田富太郎さんのあとを継いで、1985年から日中労働者交流協会の事務局長に就任し、市川会長と共に1985年8月15日の侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館の開館式典に参加しました。以来、南京大虐殺展の開催、毒ガス展の開催、中国人強制連行犠牲者の慰霊、中国人研修生問題などに取り組み、日中友好活動を積極的に行った方です。
 市川会長の「日中不再戦の誓い」の碑を南京紀念館に立てることを提案し、2009年12月13日 の除幕式に参加しました。その後、事務局長を退任し、最近は、高齢者施設で療養生活を送っていたところです。
 8月2日永眠されました。93歳でした。心からご冥福をお祈りいたします。

侵華日軍南京大虐殺史国際学術シンポジウム(1997 年8月南京)で発言する平坂さん
侵華日軍南京大虐殺史国際学術シンポジウム(1997 年8月南京)で発言する平坂さん

伊藤 彰信 (日中労働者交流協会代表)

「歴史問題の和解を考える~市民活動の可能性に着目して~ 」外村大(東京大学教授)の講演をお聞きして

 藤村 妙子 (中労交事務局長 )

 2020年7月18日の総会において外村教授の講演があった。語られた内容はこれからの国際連帯活動を考えるうえで大変示唆に富む内容だった。詳しくは、別紙当日外村教授から配布されたレジュメに是非目を通していただきたいが、ここでは感想も交えてレジュメの他に語られた内容について書いていきたい。

2020年7月18日の総会において外村教授の講演
第6回総会(7/18)の第2部特別講演として外村 大(東京大学教授)に「歴史問題の和解を考える~市民活動の可能性に着目して~」をお願いした

「和解」を研究する「和解学」の設立

 東京大学で総合文化研究科において地域文化研究に取り組んでこられた外村教授は、「和解学」の創造を掲げる研究プロジェクトに参画しているとのことだ。「和解学」とは政治学、歴史学と哲学などの学際的な領域の研究テーマである。「歴史の歪曲」が起きる要因の多くは政治的な野心である。しかし、人々がその「歪曲された歴史」を受け入れているという中にあって、過去の過ちと向き合うとは何なのか、どうしたら被害者と加害者が和解する事ができるのかを様々な市民活動などと出会う中から考えてきた中で「和解学」の設立しようと思い至ったと外村教授は語った。私は、この「和解学」設立のプロジェクトに参加とようと経過をお聞きし、外村教授の研究室にこもっていないアクティブな研究の姿勢にとても感銘を受けた。
 敗戦後から日本人が過去の過ちとどう向き合ってきたのかという経過が語られた。敗戦後すぐには余裕もなく、「アジアの諸民族批判を受け止めないままの民主化、戦争被害国や被支配国不在の講和」から出発した日本。この日本国民が1950年代になってようやく「日中、日朝の友好運動」が、遺骨の収集や奉還などから始められた。しかし、戦後日本の主力労働組合であった炭労の「田中委員長問題」それは「田中委員長は朝鮮人だ」という噂話が広がる中で労働組合に動揺が起き、田中委員長が辞職した問題に表れるように闘う労働者と言われた炭労の組合員も差別から自由ではなかった。私はこの話を聞きながらこの問題後あった戦後労働運動の最大闘争である三井三池闘争の過程で被差別部落民への差別意識を利用した会社側の分断工作があったことを思い出した。権力者は私たちの中にある差別意識を利用して、分断をして来ること。差別と向き合い被差別者との連帯は、労働運動の課題であることを改めて実感した。

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日中労働情報フォーラム第8回総会(7/18)開催

日中労働情報フォーラム第8回総会
日中労働情報フォーラム第8回総会(2020/7/18)

 7月18日、コロナ感染で延期になっていた総会が開かれました。「感染拡大中の東京へは行きたくない」という声も多く無事開催できるのか危ぶまれましたが、委任状等も含めて定足数35を上回る50名の参加があり、総会は成立しました。 

垣沼副代表が開会のあいさつ
垣沼副代表が開会のあいさつ

 まず、伊藤彰信代表からあいさつがありました。「フォーラムは交流の実績を上げてきた。しかし、日中関係はコロナ問題と香港問題に直面している。中国では日本に好感を持つ人が増えてきたが、日本では〝習 近平来日阻止〟や〝国連が中国に牛耳られている〟と叫ぶ人がいる。米中関係は冷戦構造になりつつあるので、私たちの立ち位置が難しくなっている。フォーラムは友好交流団体なので、友好を損なわないように労働者間の友好連帯をつくっていこう。」と。

伊藤彰信代表が活動方針を提案
伊藤彰信代表が活動方針を提案
藤村事務局長が経過報告を行う
藤村事務局長が経過報告を行う

 次に、議事に入り、2019年度活動報告、2020年度活動方針、2019年度決算及び会計監査、2020年度予算案について提案と討論があり、全て承認されました。 討論では、ユニオンみえや関西生コンの闘いの報告もなされました。

 それから、「日中労働情報フォーラム」の名称を「日中労働者交流協会」に変更に関する会則改正、運用要綱改正、趣意書改正について話し合われました。「日中労働情報フォーラム」を解散して「日中労働者交流協会」を再建するわけではなく名称変更であるということで、会則改正、運用要綱改正は承認され、趣意書改正については三役一任となりました。

伊藤光隆事務局次長の議長で会議を進めた
伊藤光隆事務局次長の議長で会議を進めた

最後に、新役員の選出・承認が行われました。役員体制に大きな変化はありません。

 なお、総会には、中国職工対外交流センター秘書長 馬進さんからメッセージが届いていました。
   

第2部で外村大(東大教授)先生が「歴史問題の和解を考える」の講演を行った
第2部で外村大(東大教授)先生が「歴史問題の和解を考える」の講演を行った

(文責  伊藤光隆)

新型コロナ拡大で退職通知  製造会社、中国実習生に「不当扱い」増える恐れも

(「共同通信」 2020年03月10日)

 新型コロナウイルス感染症の拡大を理由に、埼玉県越谷市の製造会社が、中国人技能実習生の女性(33)に2月付の退職を通知していたことが10日、関係者への取材で分かった。中国に一時帰国し、訪日規制の対象外地域にいたため日本に戻れた女性に対し、待機を指示。その後、実習中断と退職の同意確認書を送った。女性は退職に同意していない。労働問題に詳しい弁護士は「不当な退職勧奨だ」と指摘している。 感染拡大の先行きが見えない中、こうした立場の弱い労働者への不利益な扱いが増える恐れがある。外国人労働者の支援団体は、女性の例は氷山の一角とみて情報提供を呼び掛けている。

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「アジア言語文化研究」創刊号(2019/6)が発行

「アジア言語文化研究」創刊号(2019/6)の表紙
「アジア言語文化研究」創刊号(2019/6)の表紙

 3月19日のシンポジウムで南京師範大学の林敏潔教授にお会いした時、「アジア言語文化研究」創刊号(2019/6)をいただきました。昨年6月、南京でお会いした時は、印刷中ということでしたが、今回いただいた本は刷り上がったばかりの第2版でした。
 内容は、林先生がテーマにしている「日本民間反戦記憶に関する多分野研究」を 特集したものです。中国の研究者や学生が、日本の反戦文学、漫画、映画に関する研究について発表しています。ページをめくると、中国語の論文と日本語の論文が混在するものでした。どのような論文なのか、皆さんに紹介するため、取り急ぎ目次を整理してみました。

伊藤 彰信

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緊急特別シンポジウム「コロナウイルス渦とアジア防疫食品安全システムの構築」開催

伊藤 彰信

シンポジウム「コロナウイルス渦とアジア防疫食品安全システムの構 築」
シンポジウム「コロナウイルス渦とアジア防疫食品安全システムの構築」

 緊急特別シンポジウム「コロナウイルス渦とアジア防疫食品安全システムの構
築」が、3月19日、参議院議員会館で開かれた。国際アジア共同体学会、一帯一
路日本研究センター、アジア連合大学院機構が主催したもので、60名ほどが参加した。
 シンポは、共同司会を中川十郎(日本ビジネスインテリジェンス協会理事長)、江原規由(国際貿易投資研究所主席研究員)、挨拶を谷口誠(元国連大使)、伊佐進一(衆議院議員、日中次世代交流委員会事務局長)、林敏潔(南京師範大学教授)、基調報告を矢吹晋(横浜市立大名誉教授)、大西広(慶応義塾大学経済学部教授)、高橋五郎(愛知大学名誉教授)、大野芳一(一帯一路促進会代表)、今井敬喜(健康福祉実践協会理事長)、問題提起を范云▲(▲はさんずいに寿)(亜細亜大学教授)を司会に、岡田充(共同通信客員編集委員)、坂東賢治(毎日新聞論説室専門編集委員)、まとめの発言を進藤榮―(一帯一路日本研究センター代表、国際アジア共同体学会会長)が行った。

日本と中国が知恵を出し合い、協力して行くことが重要

 専門は異なるが、それぞれの分野では第一線の立場の人が新型コロナウイルス
問題について集中して発言したシンポはとても興味深かった。特に興味深かった 発言についていくつか紹介してみたい。
 林敏潔さんは「中国は日本からの支援に感謝している。中国人の日本を見る眼が好転した。これからは中国が恩返しをする番。2月には検査キッドを12,500本送った。9月にはワクチンを届けることができるだろう。日本と中国が知恵を出し合い、協力して行くことが重要」と語った。マスクは、来週には中国から日本に輸出されるようになり、医療関係者など必要なところから行き渡るようになった行くだろうという話もあった。

林敏潔(南京師範大学教授)

 日中関係が好転したのかという問題について、日本側の参加者からは「日本人
は中国をますます敵視するようになったのではないか」という発言が多かった。「外交の安倍は、ロシア、北朝鮮でも成果を上げられず、習近平主席を国賓として招待して成果を上げようとしたが、右派の反発が強かった。2月25日頃、東京オリンピックを予定通り開催することを第一義にする政策に転換した。しかし、誰が見ても予定通りの開催は無理」、「リーダーシップの質が問われている」。

アメリカでは医療を受けられない低所得者層に新型コロナによる死者が増大する

 トランプが「中国ウイルス」、麻生が「武漢ウイルス」などと発言しているが、「今回のウイルスは人工的に変異したものでないので生物兵器ではない。昨年10月18日~27日、世界109カ国が参加して武漢で第7回世界軍人運動会でが開催されたが、参加したアメリカの軍人5人が武漢の感染症病院で診察を受け、2人が入院している。そこで拡散したのではないかと中国は疑っている。アメリカでは報道されているが、日本では報道されていない」、「インフォデミックといわれるデマ情報が世界を混乱させる方がパンデミックより恐ろしい」。
 「アメリカはインフルエンザで2万人以上の死者を出している。皆保険制度の
ないアメリカでは医療を受けられない低所得者層に新型コロナによる死者が増大するだろう。大統領選にも影響する問題であるが、トランプが負けても自国第一主義は変わらないのではないか」。

 「ウイルスは核酸とタンパク質の塊であるが、代謝能力を持っていないので生
物に寄生している。今までは土壌のバクテリアに潜んでいたが、農薬散布によって土の中の微生物が死に、小動物にも潜むことが多くなったのではないか」、
「免疫には自然免疫と獲得免疫がある。微生物による自然免疫力をつける漢方医学の考え方が重要」、「日本の食料自給率はカロリーベースで37%。輸入野菜、穀物にはすべて農薬が使われている」。

東アジア・ヒューマンセキュリティーシステムの構築を

 「コロナショックはリーマンショックを超える不況になるだろう。日本経済へ
の打撃は大きく、アベノミクスの失敗が露呈する」
 進藤先生のまとめは3点。第一にアジア経済が一体化している現実を直視する
こと。第二に日米同盟ではなく日中関係の強化が必要なこと。第三に危機は社会を変えること。具体的には、自国第一主義を捨てて脱「新自由主義」経済社会戦略を展開する、脱国境型の都市連盟をつくる、軍事安全保障戦略から脱却し防疫・防災を重視し食料安全・エネルギーと持続可能な発展に向けた「人間安全保障」戦略へ転換する。軍事力の強化は相手への不信から出発している。同盟ではなく連携が必要。東アジア・ヒューマンセキュリティーシステムの構築を。

南京―日本の加害責任を問う旅に参加して

西日本NTT関連労働組合執行委員

池田和則

はじめに

 第7次「日中不再戦の誓いの旅」が12月11日~15日にあり、参加しました。行き先は、上海経由での南京でした。

 さて、12月13日(1937年の)は南京陥落の日です。その日の前と後、南京城の内と外で日本軍による中国人民に対する大量虐殺が行われました。その跡を自分の目で見たいというのが参加の動機でした。日本では、私の親などが「支那事変」と言っていた日中戦争」を中国では「抗日戦争」というのだそうです。どこから見るのか、または、その性格をどう表すのかで異なる名前になります。

 旬刊「中帰連」の裏表紙には、「前事不忘 後事之師」(チェンシープーワン ホウシ―ズシ=前の経験を忘れず 後の教訓とする)とあります。未来を語る前にまずは、過去を振り返ることから始めることが大切だと思うのです。

 旅の準備として、伊藤団長に紹介いただいた、「南京の日本軍―南京大虐殺とその背景」など藤原彰さんの著作を中心に5部読んで臨みました。

上海から南京へ

11日朝、関空出発組のYさんとおちあい、上海で東京組と合流して全員集合となりました。

高速鉄道の上海虹橋駅

上海から南京までは、高速鉄道(中国の新幹線)でわずか1時間ちょっとの旅でした。夕方となり、窓の外は暗く景色は見えません。が、そこは日本「皇軍」が、南京へ、南京へと侵攻する道程でした。私は、1937年を想像します。上海に上陸した日本軍は、上海を占領したものの予想外の中国軍の抵抗にあい、多数の戦死傷者を出しました。中国軍をなめていたのです。さらに、それらのことは中国人に対する憎しみを増幅させ、捕虜の虐殺など、後の残虐行為の伏線ともなりました。

 現地軍は、中央の戦線不拡大方針を無視し、しゃにむに南京へ南京へと進軍します。中国では「南船北馬」といいます。揚子江流域は多くのクリークが張り巡らされ進軍は思いどおりになりません。中国兵、日本兵の死体の浮いたクリークの「赤い水」で炊いた飯盒の飯を食いながらの進軍であったといいます。

 もともと、日本軍は兵站を軽視していました。ここでも、前線部隊に武器・弾薬の補給が間に合わない。ましてや「食糧」、「医療」、「衛生」など軽視・無視もはなはだしい。橋を落とされたクリークに阻まれ、馬荷や荷車、トラックは立ち往生します。現地の実態を無視した作戦計画の失敗がますます戦況を悪化させました。

 打開方法は、現地調達=徴発=略奪でした。「略奪」は当初の作戦立案時点での前提でした。

進軍中の村々から銃剣で脅して「食糧」、「家畜」などを、略奪し、家は焼き払い、男は拉致して荷役運びをさせ、女性は凌辱する。後続の日本軍部隊は先行部隊と同じコースの進軍を嫌がったといいます。「略奪」し尽くされ、何も残っていないからです。それほど、徹底したものでした。

そもそも軍隊にとっては、占領地においてはすべてのものが戦利品なのです。そんな軍隊の典型が「皇軍」=天皇の軍隊でした。

しかし、侵攻すれば、するほど中国人は諦めるどころか、怒りに燃え、抗日闘争で中国は団結することになりました。

 いずれにしても、「虐殺」は南京で急におこなわれたのではなく、ずっと前から行われていたのです。しかし、「南京虐殺」はあまりに規模が大き過ぎる。いまだに「なかった」という日本人がいるが、どの面さげていっているのか!

南京にて

12日

南京市り水区の「り水経済開発区企画館」と「開沃(スカイウエル)新能源汽車集団有限公司」の工場、午後は南京市総工会の職工服務中心(労働者サービスセンター)を見学しました。その後、江蘇省総工会との交流会がありました。現代の中国、中国の現実には興味を持っていますし、質問もしました。が、一言でいえば、1,2時間の交流、数時間の見学ではよく理解できなかったというのが、本音です。頻繁に交流している方の話や文章で発表されたものも総合して、間違いの少ない理解になると思います。従って、今回私は触れません。他の参加者の報告をお読みください。

ただ、江蘇省総工会との交流で印象に残ったことには触れます。伊藤団長はあいさつの中で「われわれは、1931年および1937年を契機とする日本軍国主義の中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止できなかったことを深く反省」するという日中労交の決意を受け継ぎ、「安倍政権」をはじめとした右翼勢力の動きに対し「労働者人民の闘争によって阻止」したいと決意を述べられました。これに対し、江蘇省総工会の張副主席候補は、「日本軍国主義は中国人民に対して加害者ではありますが、一般の日本人をも被害者にしました。」と述べたうえで、「私は、最近日本のドラマを見ました。おしんというドラマです。主人公のおしんは(アジア太平洋)戦争で息子は戦死し、軍部に協力した夫は自死しました。それは、最愛の夫、息子を失ったおしんも戦争の犠牲者、被害者であると思います。」と。

この「言葉の交流」に温かいものを感じました。私も「労働者人民の闘争によって阻止します。」と決意を新たにしました。

会議が終わり、帰りに前を歩いていた中国側通訳の二人の方がこのような話をしておられました。「日本のいろいろな労働組合の訪中団の通訳をするけど、戦争責任に触れるところはないね。日中労交だけだよね」、「中国側から話を切り出すわけにもいかないもんね。」と。

「貴重な」日中労交に誇りを持つとともに、いつまでも「貴重な」存在にしていてはいけない。日中労交の持つ考え方・姿勢を多くの日本の労働組合に広げることも私達の「仕事」だと思いました。

13日

「南京大虐殺受難者追悼国家公祭」が「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞祈念館」の広場でありました。広島や長崎での原爆被爆者追悼集会のイメージでした。言葉がわからないので、政府高官などがどんなメッセージを発したのかはわかりませんでした。ただ、安倍首相のような「心にもないこと」は言っていないでしょう。

午後、「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞祈念館」を見学しました。特に真新しい「事実」発見などはありませんでしたが、現物を、本資料をじかに、自分の目で見ることができ、願いがかないました。

オペラ劇場のホール

夕方、キャンドル祭に参加し、その後、創作オペラ「ラーベ日記」を鑑賞しました。記念すべき初演でした。1937~8年の南京、「南京安全区国際委員会」の委員長を務めたジョン・ラーベをはじめ、ミニー・ヴォートリン、ジョン・マギーたちの南京市民を護る活躍を描いた作品でした。中国語と英語の字幕が出るのですが、知らない単語が多く、詳しいストーリーまでは分かりませんでした。重いテーマですし、すっきりした終わり方ではないので、流行るかはわかりません。「オペラ」というジャンルを見るのは最初で最後かなあ⁉と思いました。

14日

「利済巷慰安所旧址陳列館」を見学しました。中国各地の慰安所、日本、アジアの慰安所の資料が展示されています。南京での強姦、虐殺を契機に慰安所が軍の管理下に置かれるようになり、強制的に女性が連れてこられるようになった経緯が説明されています。

入口を入った中庭に大きなお腹をさすっている少女の像がありました。以前読んだ本の中にあった「写真」に似ていると思いました。でも「写真」とは同じではありません。施設の中に入り、その「写真」がありました。朝鮮から連れてこられたあの少女が収容されたのが、この「利済巷慰安所」だったのです。少女の名は朴永心。この建物の二階19号室は、朝鮮籍「慰安婦」被害者朴永心さんが三年間にわたり、日本軍の性奴隷に強いられたところでした。中庭の像はあの「写真」の少女をモチーフにして作られたとのことでした。

少女たちの青春を奪い、女性たちに癒えることのない傷を負わせた大日本帝国。日本国内に今も残る「大日本帝国」主義者に中国や韓国がうるさいなどと云わせない。日本国内で活動する私たちが「大日本帝国」主義者を黙らせ、真実を広める任務を遂行せねばならない。固く誓いました。 

中山港の大虐殺遇難同胞記念碑
中山港の大虐殺遇難同胞記念碑

その後、長江(=揚子江を中国ではこう呼ぶそうです)ほとりの南京大虐殺遭難者中山港記念碑で頭を垂れました。また、1968年に中国独自の技術で完成した自力更生の象徴である長江大橋を見学しました。展望台に上り、長江の流れを観ました。あまりに大きく全貌は見えませんでした。けれど、その時も長江のほとりで中国人捕虜の虐殺地点にたくさんの×で示す地図と二重写しになりました。敵国の捕虜は「処置」し、日本軍兵士には捕虜となることを許さず、「餓死(飢え死に)」させる。まさに、「日本鬼子(リーベンクイズ)」が泥沼深く沈んでいく通過点だったのです。

  おわりに

 8月の中国東北部(旧「満洲」)に続く今回の旅で「日本の加害責任」を辿る旅に一応の区切りがついた感があります。

 今後も「日中労交」の「第8次」、「第9次」と訪中団が企画されると思います。皆さんに参加をお薦めします。特に、南京は5日と短く、費用もお手頃です。さらに、40歳以下の参加者には「日中交流助成基金」が設立され、中国国内旅費の助成があるそうです。中国側も日本の若者の訪中を期待しているようです。

 「日中労交」の訪中団の案内がきましたら、私からも個別にご案内したいと思っています。

お世話いただいた、「日中労働者交流協会」と受入窓口の「中国職工対外交流センター」には大変お世話になりました。御礼申しあげます。

以上