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10月1日、キャンプ・シュワブ前で「日中友好・不再戦」を掲げて辺野古基地反対の大集会で内田雅敏さんはアピールした

「佐渡おけさ」をもう一度 日中が「敵対的な相互依存」から抜け出すには

内田雅敏・弁護士
2022年9月29日

 日中共同声明調印後、上海に向かう田中角栄首相(当時)ら政府代表団を空港で見送る子供たち=中国北京の北京空港で1972年9月29日、同行特派員団撮影日中が国交正常化した50年前には、保守の政治家にも先の大戦で日本が中国を侵略したことについての申し訳なさがあり、また中国の文化への敬意もあった。50年前にお互いが何を約束したのか、そこに立ち返る必要がある。
 1972年の日中共同声明は「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省」とした。そのうえで、お互いに覇権国家とならないとし、台湾問題については、日本は台湾が中国の一部であるとする中国側の見解を尊重するとした。尖閣諸島の帰属については棚上げした。
 その後も両国はこの姿勢を繰り返し確認してきた。2007年の温家宝首相(当時)の国会演説では尖閣諸島問題について「両国は係争を棚上げし、共同開発をする原則にのっとって(中略)平和・友好。強力の海にすべきです」と述べている。

 台湾問題についても、日中共同声明に戻れば、日本の立場は明らかだ。いたずらに台湾有事とあおり、防衛費を増額し、米国の軍事産業から兵器を「爆買い」していれば、中国の軍拡派の口実になるだけだ。不信の連鎖を喜ぶ人たちが両国にいる。敵対的な相互依存関係になってしまう。これでは外交とは言えない。
 08年の胡錦濤国家主席(当時)が来日した際の共同声明では「日本側は、中国の改革開放以来の発展が日本を含む国際社会に大きな好機をもたらしていることを積極的に評価し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築に貢献していくとの中国の決意に対する支持を表明した。中国側は、日本が、戦後60年余り、平和国家としての歩みを堅持し、平和的手段により世界の平和と安定に貢献してきていることを積極的に評価した」と互いにエールを交換した。
 それほど昔のことではない。たかだか14年前のことだ。胡氏は早稲田大学での講演で「我々は歴史を刻みつけなければならないと強調するが、恨みを持ち続けるべきではない」とも言つている。
 こうしたことをお互いが理解していれば、両国関係はまた違った形になるはずだ。この50年だけをとってみても、日中関係が現在のような状況になったのは、つい最近のことだ。

民間交流の積み重ね

 中国人強制連行。強制労働など戦後補償問題の訴訟に関わってきた経験から言えば、歴史問題は判決とその執行だけで解決するものではない。一つめに事実関係を認め、責任を求めて謝罪をする。二つめに謝罪の証としてなんらかの金銭的な補償をする。二つめに同じ過ちを起こさないために将来に向かっての歴史教育を行い、その被害者に対する追悼事業を継続する。
 この二つは並列ではなく、三つめをすることによってはじめて、一つめの謝罪が本当に被害者とその遺族に理解されてくる。謝罪した側も二つめのことを遂行するなかで、もう一度、加害の事実を捉え返す。
 私が関わった花岡事件の訴訟でも、西松建設や三菱マテリアルの訴訟でも、裁判で和解した時点では被害者側には不満もある。しかし、たとえば花岡事件では地元の自治体が毎年、追悼事業を実施し、その事業を地元の市民が下支えしている。交流するなかで、中国の遺族も「本当に反省してやってくれている」と感じるようになる。

 国交正常化40周年の12年の時は尖閣諸島の国有化の問題があり、日中関係は非常に厳しかった。広島県安芸太田町で実施している西松建設の強制連行を巡る追悼式では、中国側が参加しない懸念もあった。しかし実際には、人数は減ったものの来てくれて「来てよかった」と言ってくれた。国の関係が厳しい時であっても、民間の交流を途絶えさせてはならない。
 日中国交正常化の際、田中角栄首相は周恩来首相に「私は長い民間交流のレールに乗って、今日ようやくここに来ることができました」と述べている。中国側もレセプションで田中氏の地元の「佐渡おけさ」を演奏することで応えた。
 そのような関係が50年後のいま、どうして変わってしまったか。もちろん日本の政治家が歴史を十分に認識していない問題があるが、中国側にも問題はある。たとえば四つの基本文書(※ )の一つである98年の日中共同宣言では中国は日本のODA(政府開発援助)に謝意を表明している。こうしたことを中国はどこまで認識しているか。
 四つの基本文書の内容は日本でも中国でもまだ十分理解されていない。このような平和資源を双方の民衆が自分のものにして、それぞれの為政者に迫っていく。一見遠回りに見える道しか方法がないのではないかと思つ。

※四つの基本文書

(1)国交を正常化し、中国が戦争賠償請求を放棄した1972年の日中共同声明(2)紛争解決を武力に訴えないことを確認した78年の日中平和友好条約(3)両国首脳の相互訪問を決めた98年の日中共同宣言(4)戦略的互恵関係の推造を約束した2008年の日中共同声明――の四つを指し、日中関係の礎と位置付けられている。習近平国家主席も14年11月11日の安倍晋三首相(当時)との日中首脳会談で「四つの基本文書を踏まえ、戦略的互恵関係にしたがって日中関係を発展させたい」と述べた。

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10月1日、キャンプ・シュワブ前で「日中友好・不再戦」を掲げて辺野古基地反対の大集会で内田雅敏さんはアピールした

「日中国交正常化50周年記念大集会」開催(2022年9月28日)

日中友好こそ最大の安全保障

 1972年9月29日は、田中角栄首相と周恩来首相が日中共同声明に調印し、日中両国の戦争状態を終結し国交を正常化した記念すべき日である。あれから50年、「日中国交正常化50周年記念大集会」が9月28日、衆議院第一議員会館で開かれ、280名が集まった。

 主催者を代表して藤田高景(村山首相談話の会)さんが「日本政府は安倍元首相の国葬をするのではなく、日中国交正常化を祝う集会を行うべきだ。中国は日本にとって最大の貿易相手国である。中国を仮想敵国に仕立て上げて、戦争準備に突き進んで良いのか。良好な日中関係こそ、最大の安全保障である」とあいさつした。

 村山富市元首相がビデオメッセージを寄せ「アジアの平和のためには、日本と中国の良好な関係を築くことが必要である」と訴えた。鳩山由紀夫元首相は「日本は中国に対して侵略戦争をした。日本は無限責任を負うべきだ。その気持ちをもてば日中関係はもっと良くなる。尖閣問題、台湾問題も50年前に答えは出ている。原点に立ち返って話し合いで解決していくことを全国に広めることが私たちの使命である」とあいさつした。

鳩山由紀夫元首相
鳩山由紀夫元首相
羽場久美子(青山学院大学名誉教授)さん
羽場久美子(青山学院大学名誉教授)さん

楊宇駐日中国首席公使は、この50年間の日中関係の発展・繁栄を振り返りつつ、今後50年の新しい日中関係について「中国を脅威と見るのではなく、お互いをウィンウィンのパートナーとして相互認識すること。相互信頼にもとづく安全保障を実現するため、恒久的な平和友好関係を謳った日中平和友好条約を遵守すること。矛盾と意見の相違について小異を残して大同につく善意と誠意をもって対処すること。民間友好交流の伝統を発揮し、友好・協力の絆を強めること」と訴えた。

楊宇駐日中国首席公使

 森田実(政治評論家)さんは「日本は米国の自発的隷従主義者になってしまった」と指摘し「アジアの平和と繁栄の肝は日中の協調と友好である」と述べた。羽場久美子(青山学院大学名誉教授)さんは「日本と中国は50年前に恒久的な平和友好関係を誓っている。中国敵視・封じ込めは、アメリカの世界戦略でありアジアで覇権の継続を意図したものである。日本は同じ文化圏の兄弟国に対してアメリカを守るために沖縄をはじめ日本を戦場にして戦うことがないようにしなければならない」と述べ、「沖縄にCSCE(全欧安全保障協力会議)のような東アジアの平和のための話し合い場を市民の手でつくろう」と提唱した。

 中国文化財返還運動を進める会の東海林次男さんの連帯の挨拶のあと、東方文化芸術団による歌、民族楽器の演奏、構成詩の朗読が披露され、会場は和やかな雰囲気になった。

 浅井基文(元広島平和研究所所長)さんが「9条及び声明・条約の初心に戻ろう」と題して記念講演を行った。浅井さんは「米ニクソン政権の対中戦略の見直しが日中国交正常化を可能にした」と指摘した。1972年2月28日の上海共同声明は、米中の考え方を併記した声明であって、アメリカは「『一つの中国』、『台湾は中国の一部』とする台湾海峡両岸のすべての中国人の主張を認識し、その立場に異論を唱えない」、「中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての関心を再確認する」と述べた。「米国政府は、台湾からの全ての米国軍隊と軍事施設を撤退ないし撤去するという最終目標を確認する」と述べながら非平和的統一に対する軍事的介入の可能性を残している。中国は対日交渉を、過去の戦争の反省、「一つの中国」「台湾は中国の一部」の承認、両国は覇権を求めず、両国間で起こりうる問題・紛争は話し合いで解決の3点に絞り込んだ。日本はサンフランシスコ体制(対米追随)堅持を大前提とする国交正常化という考え方で臨んだが、結局、中国側の要求を受け入れた。すなわち、日中共同声明は、日米安保体制というよりは日本国憲法の9条の精神でつくりあげた。日本は、日華平和条約は終了したという立場をとり、アメリカよりも踏み込んだ。アメリカは、1979年に米中国交を樹立するが、同年、台湾関係法を成立させ、平和手段以外の台湾の将来の決定は西太平洋地域の平和と安全に対する脅威と規定し、台湾に対する武器援助を行うようにした。普通の国家では国際条約が国内法より上位にあるが、アメリカの場合は国内法が国際法より上位にある。日中関係は脆弱であり、台湾とアジアにおける覇権を維持したい考えるアメリカの対中戦略が変化するたびに、日本の対中政策が親9条的になったり反9条的になったりしていると分析した。

 最後に伊藤彰信(日中労働者交流協会)さんが「中国が戦争賠償請求を放棄した理由は『日中両国国民の友好のために』である。社会制度の相違があるにもかかわらず、平和友好関係を樹立したのである。隣の国と仲良くすることこそ一番の安全保障である。アジアの平和のために日中友好を促進しよう」と閉会の挨拶を述べた。

6月29日と30日を日中友好の日にしよう!

ー 中国人殉難者慰霊式に参加して ー

渡部公一(目黒区職員労働組合 前委員長)

花岡事件と出会う

私は、山形出身ですが、東京に就職するまで花岡事件について何も知りませんでした。30年ぐらい前になると思いますが、芝居「勲章の川」で知りました。その後、目前のことに追われ、再びこの事件に直面するのが日中労交の一員として「中国人殉難者慰霊式」(以下式典という)の参加でした。
日中労働者交流会の会長、伊藤彰信さんからメーリングリストで送られてきた参加要項やパンフ、事務局長の藤村妙子さんから紹介された本の中から野添憲治の一冊と大館市のホームページで昨年と一昨年のコロナ禍の式典をビデオで見ました。そこで、前日の6/29フォーラムと6/30式典とフィールドワークにどのように参加しようかなと考えました。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 01
大館市郷土博物館「のびゆく大館」の中央のホワイトボードに「花岡事件」の解説

大館市が式典を継続

オンラインzoomの日中友好カフェで、戦争中、強制連行など中国人や朝鮮人を過酷な作業と環境の中で使役させ、多くの犠牲者を出してきたことは紛れもない事実で、国をはじめ、数ある自治体の中でなぜ大館市が自治体として慰霊の式典を継続してきたか、話題にしました。1950年から山本花岡町長が個人ではじめた慰霊が、隣接する矢立村と合併、平成の大合併を経て今日の大館市になるまで、保守革新を問わず、継続して式典を開催していることは、とても素晴らしいことだと思います。今回の訪問で少しでも知りたいと考えました。
たまたま私は、往復飛行機だったので、6/29の10時過ぎに到着と15時から始まるフォーラムの間に大館市郷土博物館に行き、大館市の歴史、この中で花岡事件ついて見学したいと思い、幸い往復ともバスに乗車できました。郷土博物館は、「のびゆく大館」のコーナーに「花岡事件」、「花岡ものがたり(版画と解説)」があり、丁寧な展示だと思いました。また、「鉱山と曲ワッパづくり」の街として栄えていたことが知れ、「先人顕彰コーナー」で安藤昌益、小林多喜二(生誕地、5歳から小樽に移住)らの紹介もあり、期待どおりの展示でした。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 02
大館市郷土博物館「花岡ものがたり」版画と解説の連作

プレ企画、フォーラムin大館

「フォーラムin大館」は、同じ飛行機に搭乗していた池田香代子さんが岩間さん(認定NPO花岡平和記念会)とセッション、主なテーマは池田さんの著書「花岡の心を受け継ぐ(2021年7月発刊)」にある、大館市が中国人犠牲者を慰霊し続ける理由でした。
その後の参加者交流会で驚いたのは、認定NPO高麗博物館(東京、大久保)の仲間たち15人で、多くがシニア世代で10人は女性の参加です。しかも交流会の席は、お仲間で固まらず、他団体の席に相席するなど、知的好奇心・自己実現の旺盛な人たちでした。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 03
6/29「中国人強制連行 フォーラムin大館」に全国から60人余が参加
中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 04
6/29参加者交流会の様子「熱烈歓迎 日中友好 花岡事件生存者遺族関係者様 御一行」ステージは高麗博物館の仲間たち(前列のテーブル席が、李克金(故人)さんの遺族3人、大館市長代理:福祉部長ほか)

式典を日中友好の日に

ところで日本は、地理的に北方領土でロシア、竹島で韓国、尖閣諸島で中国と領土問題を抱えています。ロシアのウクライナ軍事侵攻が長期化する中、自公政権は、バイデン大統領の中国敵視政策と一体化し、「台湾有事は、日本の有事」と南西諸島のミサイル基地化、防衛費GDP5%など東北アジア平和外交を放棄し、軍備拡大路線まっしぐらです。あわせて、北朝鮮(共和国)の拉致問題も日本自らの課題とし対話すらしていません。
今年の式典は、参議院選挙直前の日程になってしまいましたが、例えば、中国と友好を求める全国の仲間へ、6/30大館市の式典と前日6/29「フォーラムin大館」を中国と日本の友好の日と位置付け、参加を広く募ったらと思います。また、参加者の中に映像作家や、ビデオカメラマン・監督もいました。せっかくの「フォーラムin大館」を有料配信も含め、リモート視聴による参加もできたらなと思いました。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 05
「中国人殉難者慰霊式」 前列、右から3人までが、李克金(故人)さんの遺族、その隣が福原淳嗣大館市長、その隣の女性(左から2人目)が中国大使館の参事官

現地ボランティアに感謝

最後に「フォーラムin大館」は、大館労働福祉会館で開催され、実行委員会の中に認定NPO花岡平和記念会の人たちをはじめ、大館市職労の若い委員長や、連合大館の役員の皆さんが参加していました。6/29のプレ企画だけでなく、6/30式典後のフィールドワークの案内やバスや昼食の手配などたいへんお世話になりました。
ありがとうございました。

「中国人強制連行フォーラムin大館」の新聞報道

 6月29日は、「中国人強制連行フォーラムin大館」に参加しました。翌30日は、
大館市主催の中国人殉難者慰霊式に参列し、その後、フィールドワークに参加し
ました。3年ぶりに県外からの参加者を迎え入れての開催でした。
 日中労交としては、初めての参加でしたが、非常に勉強になった2日間でした。
参加者から、報告と感想が寄せられると思います。私は、地元の秋田県北部の新
聞である「北鹿新聞(ほくろくしんぶん)」の切り抜きを添付して、先ず、雰囲
気を伝えます。
 大館の報告会は、7月23日(土)19時30分からの日中友好カフェで行います。
伊藤 彰信

慰霊を続けることが同じ過ちをしない誓いとなる  ー花岡慰霊(2022.6.30)の旅に参加してー

藤村 妙子 日中労交事務局長

花岡フォーラム 池田さんと実行委員の方

 日中労交は、6月29日~30日秋田県大館市で開催された1945年6月30日にあった花岡鉱山鹿島組において働かされていた中国人労働者が蜂起した「花岡事件」犠牲者の慰霊式に参加した。日中労交からの参加者は東京から3名、小名浜から2名だった。
「花岡事件」とは、戦争末期日本は鉱物資源の採掘、生産のため足りなくなった労働力を補うため中国から捕虜や農民などを強制連行し鉱山などで働かせた。この一つが現在の秋田県大館市花岡鉱山鹿島組の現場である。ここでは、最盛期986人(別に来日までに死亡者7人)が使役され、粗末な食事と過酷な労働のなか酷使された。中国人労働者達は、座して死を待つより闘おうと1945年6月30日深夜に蜂起した。しかし、翌日から行われた山狩りで検挙され、共楽館前の広場に集められ3日3晩食事も水も与えられずに置かれ、中心人物とみなされた人たちは過酷な拷問にあった。蜂起までに130名が死亡しており、蜂起後7月~敗戦までに116人、敗戦後166人合計419人が死亡している。

6月29日フォーラムと交流会 
「歴史に学ぶ」という事は、現実を直視することでもある

 地元をはじめ全国各地から集まった人たちは、まず大館市労働福祉会館「2022.6.30現地実行委員会」主催で開かれた「中国人強制連行 フォーラムin大館」参加した。まず、川田繁幸現地実行委した員長が「今のロシアのウクライナ侵攻は1931年~45年までのわが国ととても似ている。実際は侵略戦争なのに宣戦布告することなく「満州事変」などといい、今回ロシアはウクライナへの侵攻を「特別軍事作戦」と称している。こうした時だからこそ、実際にこの地あったことを慰霊することは大切なことである。そして、私たち市民が中国との関係をことは、今だからこそ大切です。」と開会の挨拶をした。
その後、田中宏一橋大学名誉教授が「歴史に学ぶとはどういうことだろう」と題する基調講演を行った。田中氏は、伊藤博文が1千円札の肖像画となったときに、在日コリアンの友人に「日本人の薄気味悪さを感じる。私たちの国を侵略した象徴的人物をお札に刷り込み毎日使うことに違和感を持たない。」という話をされたときに、自分がいかに歴史を学んでこなかったのかを意識した。1965年12月21日に国連総会において人種差別撤廃条約を採択した後一週後の12月28日文部省は「民族性又は国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校は、わが国の社会にとって、各種学校の地位を与える積極的意義を有するものとは認められないので、これを各種学校として許可すべきではない」という文部次官通達を出している。そして、2010年には朝鮮人学校を高校無償化から排除している。などの例を挙げながら日本政府が未だにアジア諸国で起きたことを反省していないことを問題にしながら、この大館地で毎年開かれている市主催の慰霊式は、国を超えた大切な行事であると語った。

 花岡の心を受け継ぐ       

 続いて『花岡の心を受け継ぐ』(かもがわ出版)の著者のひとり池田香代子さんのお話があった。池田さんは、2000年に鹿島と和解したことを知り「花岡事件の場所を見てみたい」と初めて花岡の地を訪れた以降何度も来て、何も知らないからいろいろな人たちにインタビューをした。この皆さんの声が結実したものがこの『花岡の心を受け継ぐ』となったと語った。そして、「延べ24000人の人たちが決起して逃げている中国人を探して動員された、まさに地域が加害者となったことをインタビューの中で実感した。しかし、戦後花岡町は、慰霊を行い、骨を収集し、慰霊碑を建設した。これは、保守・革新の違いを超えた『人として当たり前のこと』として現在も受け継がれている」と語った。そして会場にいる当時を知る地元の人も証言をした。「1940年生まれの自分は当時5歳。母親からブドウ畑にあった豚小屋の中に隠れ豚の餌を食べている中国人がいたと聞かされた。自分は、中国人の人たちが捕まえられて並ばされていた共楽館前の広場に行き『チャンコロ捕まった』とはやし立てたことを覚えている。」と語り当時、町中を巻き込んで中国人狩りが行われていた姿を語った。記念館を作った川田NPO花岡平和記念会理事長は「加害の歴史をしっかり伝えていくことが大切であると記念館を作った」と語った。池田さんは「慰霊式は謝罪する場などではなく、痛み続ける傷を癒し『あなたが受けた扱いは不当な事であった』と分かち合う場。その本質を胸に刻み市民の皆さんが手を携え合って臨みましょう」と結んだ。
 この後、参加した団体・個人の自己紹介がありこの集まりに花岡に心を寄せる人たちがたくさん来ていることを確認してこの日の行事を終えた。

6月30日 慰霊式
「事件を後世に語り継ぐことは市民の使命」大館市長の哀悼の辞

 6月30日は中国殉難烈士慰霊碑がある大館市花岡町の十瀬野公園墓地の「中国受難者慰霊式」に参加した。式では福原大館市長が「どのような状況下であっても人の自由、尊厳を奪い傷つける心無い行為は決して許されるものではない。長い年月が経過しようとも、事件を後世に語り継ぐことこそが私たち市民の使命」と哀悼の意を示した。遺族を代表して日本に住んでいる3名の方が参加した。「今年は日中国交正常化50周年。戦争に反対し、平和を守ることが共通の願い。」と慰霊の言葉を述べ、献水が行われた後、全参加者による献花が行われた。

花岡 中国殉難烈士慰霊之碑
花岡 中国殉難烈士慰霊之碑

受難の地を見学 
この場所で働き傷つき、立ち上がり 死んでいった人たちに思いをはせる

 続いて花岡体育館(旧共楽館)で昼食を食べた後、バスで信正寺と花岡記念館に向かった。信正寺は、決起後捉えられ、炎天下に晒され又は拷問された結果死亡した中国人労働者遺骨を安置した寺である。この寺の裏山には1949年鹿島が作った粗末な供養塔の前に2001年に建立された供養塔が建っていた。そばにある碑文には決起の日が7月1日となっていた。このことについて質問すると、「決起は6月30日の夜中に起きた。警察や町が知ったのは翌朝の7月1日だったので当初7月1日に起きたとも言われていたが、生存者の証言により6月30日夜であったことが確定している」とのことであった。

花岡 信正寺 新旧供養碑
信正寺 新旧供養碑
花岡 信正寺 慰霊の記
信正寺 慰霊の記

 続いて花岡平和記念館に行った。記念館は、2010年4月にオープンした。当時の花岡町の様子や労働者の姿や決起後死亡した人たちの氏名などが展示され、当時の死亡者についての記録もあった。

花岡平和記念館 中国人労働者
花岡平和記念館 中国人労働者
花岡平和記念館 当時の様子の木版画
花岡平和記念館 当時の様子の木版画

 次に中国人労働者たちが劣悪な環境の下に置かれた中山寮があった第二滝野沢ダムと寮を見下ろす山の上に建てられた「日中不再戦友好の碑」に向かったが、残念ながらクマが出没していて、バスを降りることは危険だと判断されていくことができなかった。是非、次回は行ってみたいと思った。
 次に「滝之沢暗渠跡」に行った。これまで中国人労働者が働いていたのは花岡川の改修工事だと言われていたが、鹿島建設と藤田組(現同和鉱山)の工事請負契約には「中国人使役条件」として「排水暗渠」「築堤」「山腹水路」に300人をと書かれている。使役とは強制連行して働かせることである。1944年8月8日に299人が中山寮に到着している。ここに働いていた生存者の証言でもこの場所で働いていた事が示されている。花岡川改修工事は、1944年11月から始まり、ここへは第二次強制連行以降であるという事が最近判明したとのことであった。

この史実を多くの人に伝え続けたい

花岡 滝ノ沢暗渠跡
滝ノ沢暗渠跡

  私は、市主催の慰霊式には中国人の人たちも参加している事の大切さを感じた。蜂起の中心人物だった耿諄大隊長が以前訪日した後『花岡は第二の故郷だ』と語ったというように、日本人が侵した行為によって奪われた命はもう戻らないが、こうした慰霊を続けていくことが二度と同じ過ちをしないという誓となると思った。しかも、市主催で行われている事の大切さを感じた。そして、この史実を是非多くの人たちに伝え続けたいと思った。

日中労交2022年度総会  ~100年に一度の大変動の時代に「日中不再戦の誓い」の意義を確認

藤村 妙子(日中労交事務局長)

総会において更に活動を発展すると確認

 5月8日午後 東京大田区蒲田の日港福会館において日中労働者交流協会(日中労交)の2022年度総会が開かれました。総会はWEB併用で行われ、委任状も含め38名で行われました。そして、総会当日に新たに加入した方がいたことは、大変良かったと思います。

 第一部の議案については、「2021年活動報告」「2022年活動計画」「決算・予算案並びに会計監査報告」「役員選出」がそれぞれ提案され、了承されました。

 コロナ禍の中、昨年は訪中も国内でのツアーもできませんでしたが、日中国交回復50年の節目の年として集会を行ったことや南京から毎月のように送られてくる「南京国際平和通信」や「人民網日本語版」を会員に知らせるとともにホームページに載せ日中友好の糧としてきました。そして、今年は引き続き日中国交回復50年の各種催しを他団体と協力しながら行うことを決めました。また、国内ツアーの第一弾として6月30日に行われる大館市主催の「花岡事件 中国人殉難者慰霊式」に参加する予定です。また、秋には長野の「満蒙開拓記念館」へ訪問する計画であることが了承されました。この国内ツアーには、是非とも若い人たちの参加を呼び掛けたいと思っています。

憲法と「日中共同声明」に基づく外交を

 第二部は伊藤会長の「日中共同声明を発展させ、日本国憲法に基づく国連憲章の改正を」という講演でした。私は、2021年4月の日米首脳会談において「台湾条項」が書き加えられ、再び日中戦争が起きるかのような喧伝が行われている中で私たちが考えていく視座を提起するとても有意義な講演だと思いました。しかも現下の「ロシアによるウクライナに対する侵略」という事態の中で、これを奇禍として軍事費増強、敵の中枢への攻撃をも行う「反撃能力」の整備、更には憲法改悪まで目論まれている中で、労働者市民が現政権批判において不十分な点を明らかにした示唆に富んだものでした。

 日中共同声明を結んだ田中角栄が「一番の安全保障は隣国と仲良くすることだ」と言っていたと伝えられています。しかし、現政権は隣国と仲良くするどころか、過去の反省もなく、アメリカと一緒に隣国への非難の急先鋒に立っています。そして、平和運動の側でも隣国との平和友好のために交流と連帯を行うことを躊躇する傾向が残念ながらあります。私たちの役割は「子々孫々、世々代々にわたる両国労働者階級の友好発展を強化し、アジアの平和を確立する」(「日中不再戦の誓」より)ことだと改めて思いました。

 また、今回の講演で「目から鱗」だったのは、私たちが今回のウクライナで起きていることを批判する時によって立つ立場は「日本国憲法」と「日中共同声明」にあるという事でした。

ロシアのウクライナ侵略は「国連憲章違反」と言われていますが、「武力による威嚇と武力の行使を慎む」(国連憲章第2章4項)というように「慎む」と書かれているだけで明確に否定していません。そして、お互いに「武力の行使を慎もう」と呼びかけても紛争(戦争)が止まらない場合は、国連軍が到着するまで「自衛権の行使」を認め、また「集団的自衛権

」も認めています。そして、「国連軍」が武力による制定を行うと定めています。話を聞きながら「朝鮮戦争」を思い浮かべていました。朝鮮戦争時には「国連軍」が武力をもって威嚇し、停戦となりました。現在も「終戦」していないので、「朝鮮戦争国連軍本部」は日本の米軍横田基地内の一角にあります。まだ終わっていない戦争が現実にあります。ロシアや中国が(今回以外の戦争ではほとんど場合アメリカが)常任理事国として「拒否権」を使うから戦争が終わらないのではなく、「武力のバランスによる平和を謳う国連憲章」(レジュメより)だから難しいという証左ではないでしょうか。

ではどうすればいいのかという事の答えは、日本国憲法の前文と第9条に象徴される「武力の威嚇・行使の放棄と戦力の不保持」と日中国交回復時の共同声明「主権及び領土の保全の相互尊重、相互不可侵、内政に関する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立する」、「相互の関係において、すべての紛争を平和的手段によって解決し、武力又は武力による威嚇に訴えない」(第6項)「アジア太平洋地域において覇権を求めるものではなく、このような覇権を確立しようとするいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」(第7項)に基づいて「国連憲章を変えるべき」であると話されました。「日本は、日米同盟から脱却し、非武装・非核、中立を貫き、非同盟諸国と共に世界的に平和を築くために努力すべきである」(レジュメの結語)と強調されました。

私は、海に囲まれた島国日本が平和に生きていくためには、近隣諸国との平和友好関係を結ぶことが大切であると考えています。そしてこの平和友好関係を結ぶ際の見本が「日中共同声明」であると思います。今回のウクライナ戦争においても国連で様々な決議や動きがありますが、賛成しているのはヨーロッパやアメリカの同盟国です。世界の人口比から考えれば半分にもなっていません。こんな中で「第三次世界大戦」だという煽られ方もしていますが、誰もが幸せにならない戦争は一刻も早くやめさせなければなりません。日本は、アメリカに協力するようにアジア諸国を廻るのではなく、憲法に基づく平和外交を行うべきだとつくづく思いました。こうした考え方少しずつでも広めるために、今後も活動していくことを改めて思いました。今後WEBを使い「平和友好カフェ」を始めようという試みがあります。こうした100年に一度の転換期だからこそ、自由闊達に意見を交わし、共に考え、私たちの指針である「日中不再戦の誓い」を実践していきたいと思います。

日中労交2022総会(5月7日)

日中労交2022年度総会を開催(5月8日)

日中労交の会員のみなさん

 2022年度総会は5月8日(日)、東京・蒲田の日港福会館で開催されました。会
場出席11名、オンライン出席2名、委任状9名、議決権行使17名、計39名の参加
で、2021年度会費納入者63名の過半数32名を上回り、総会の成立が確認されまし
た。伊藤光隆さんを議長に選出し、議事を行いました。6月30日の花岡での慰霊
祭参加をどうするか、2年後の日中労交結成50周年をどうするかなどの議論があ
りました。議案は提案どおり可決されました。垣沼副会長が閉会の挨拶を行いま
した。
 第二部の学習討論会は、私が「日中共同声明を発展させ、日本国憲法にもとづ
く国連憲章の改正を」と題して問題提起を行い、活発な議論がありました。
 という形式的な報告をとり急いで行って、内容に対する意見、感想については、
参加者から投稿していただきたいと思います。懇親会では、もっとフランクに平
和と日中友好について話し合える場をつくろうという意見も出され、現実の政治
に踏込むと組織分裂を起こすのではないかという私の心配は取り越し苦労だった
と安心しました。
 総会には、中国職工対外交流センターの王舟波秘書長からメッセージが届きま
したので添付します。
 訳文は以下のとおりです。会員の稲垣さんが訳してくれました。

(報告:伊藤 彰信)


祝辞

尊敬する伊藤彰信会長ならびに日中労働者交流協会の友人の皆さま

 新緑に満ち、生気みなぎる初夏の頃、中国職工対外交流センターを代表して、
貴団体の2022年度総会の開催に熱烈な祝辞を贈ります。
 長年にわたり日中労働者交流協会は「歴史を銘記し、平和を愛する」という理
念のもと、日本軍国主義が発動した侵略戦争を深く反省し、台頭する日本の右派
勢力と断乎たたかってこられたみなさまのスタンスと壮挙は、まことに尊敬すべ
きものです。百年に一度の大変動と疫病の流行、そして地政学的な焦点の課題が
相次ぐ時代の転換点において、貴団体が2022年総会を開催され、決して平たんで
はなかった両国国交正常化50周年を振り返り、歴史の教訓と平和友好の初心を再
度確認されることは、きわめて有意義なことです。貴団体が引き続き中国との友
好の理念をかかげ、日本労働界における平和友好の力を確固たるものとして発展
させることを通じて、日中両国の労働者の相互理解と友好的交流を促進すること
に、いっそうの役割を果たすことを願っております。
 貴団体の2022年総会の成功を心よりお祝い申し上げます。早期に皆様とお会い
して友好を深め合えることを願って。

中国職工対外交流センター
秘書長 王舟波
2022年5月6日

王舟波秘書長からメッセージ(原文)

日中国交正常化50周年記念緊急集会(2022/4/14・衆議院議員会館)

日中国交正常化50周年記念緊急集会に参加して

日中労交事務局長 藤村 妙子

 4月14日衆議院議員会館で開かれた集会にスタッフの一人として参加した。当日は、集会開始前から次々と集まり、関心の高さを感じた。そして、参加者たちは、ウクライナで起きている戦争や今日本で流されている報道には満足できず真実を知りたいと真剣な表情で挨拶や講演を聞き入っていた。当日の内容を簡単にレポートしてお伝えしたい。(当日の講演などは、YouTubeで視聴する事ができる。)

日中国交正常化50周年 本来なら国が何らかの行事をすべき

村山談話の会藤田高景理事長 主催者挨拶に立った村山談話の会藤田理事長は「1972年9月29日日中国交回復から50年の今年、本来であれば国が何らかの記念行事をすべきであるが未だにその動きは無いようだ。それどころか中国への敵視政策が行われている。中国は日本の隣国であり、最大の貿易相手国でもある。今、ウクライナで戦争が起きている。故菅原文太氏は『政治の役割は、人々の頭上に爆弾を落とさせないこと、そして人々を飢えさせないこと』といった。しかし、今の日本の政治は真逆のことをやっている。いつまでもアメリカの手先になっているのではなく、自主独立を目指す『キックオフ』の集会にしたい」と語った。

アジアの平和と繁栄のために日中の協調と友好を

東日本国際大学名誉教授・政治評論家の森田実氏 東日本国際大学名誉教授・政治評論家の森田実氏が来賓のスピーチを行った。「今の外務大臣林芳正は、以前は日中友好活動をやっていたのに、中国脅威論を喧伝し、近隣国との外交を拒否している。今や中国との関係が大切だということを言う政治家はほとんどいなくなり、中国に対して酷い表現をしている。まるで皆が石原慎太郎になったようだ。隣国との平和を保たなければだめなのに、政治家が感情で動いている。これは非常に危険な兆候だ。アジアの平和と繁栄の肝は、日中の協調と友好にある。」と89歳の年を感じさせられないかくしゃくとしたスピーチだった。
沖縄の風代表伊波洋一参議院議員 続いて来賓の挨拶に立った沖縄の風代表伊波洋一参議院議員は「2019年に日中首脳会談を行った当時の首相安倍は、相互信頼関係、経済関係、国民交流などの33件の合意をした。この合意は今でも生きている。しかし、彼は戦争法を成立させ、安倍を引き継ぐ菅・岸田政権は、与那国や八重山などの南西諸島にミサイルを配備する、重要土地規制法の成立、今や敵基地攻撃能力を持つとまで言っている。台湾有事を日本有事にするための動きが強まっている。米軍に戦争を開始させてはならない。私たちは今、引き返さなければならない所に来ている」と沖縄で進む動きを暴露しながら挨拶をした。

軍国主義の亡霊は今、蘇がえりつつある

林伯耀旅日華僑日中交流促進会共同代表連帯の挨拶は林伯耀旅日華僑日中交流促進会共同代表がおこなった。「孫文は『日本は、西洋覇道の番犬になるのか、東洋王道の干城となるのか』と言った。孫文が生きていたら今も同じ言葉を言っただろう。日本は再び帝国主義者と一緒になって大陸を破壊するのか、東洋の仁義に基づいて平和の要になるのかという事が問われている。1972年に日中国交正常化した。中国ではかつて侵略した国と友好関係を結ぶことに心配する声が沢山あった。」と様々な交流友好の中での経験を語った。そして「今、軍国主義の亡霊が蘇るようだ。『暴支膺懲(ぼうしようちょう)』の時代が再びやってくるようにさせてはいけない。来年は関東大震災から100年になる。過去の歴史をもう一度見つめ直す時だ。」と現下に広がる反中の言説を批判しながら、過去と向き合うことの大切さを力説された。
 挨拶の後、日中友好の歌が田偉東方文化芸術団長から披露された。

日本はアジアを封じ込める役割を果たしてはならない

羽場久美子青山学院大学名誉教授・神奈川大学教授 講演の第一として、羽場久美子青山学院大学名誉教授・神奈川大学教授が「中国は敵ではない。東アジアは平和と繁栄の基礎」と題する講演を行った。「アメリカは中国封じ込めに躍起となっている。こうした中で、ロシアがウクライナに侵攻した。この侵攻の前からウクライナ周辺に武器と部隊が集められてきた。一方ウクライナにはアメリカから武器が持ち込まれ、アメリカ軍がウクライナ兵に訓練を行っていた。ウクライナは、ヨーロッパとアジアを結ぶ要にあり、様々な民族が住んでいる。武器を渡した国ではなく、渡された国が戦場になっている。
 今はパワーシフトの時代だ。世界地図を東を上に回転させると日本列島は、ロシア・朝鮮半島・中国を覆う弓のようにある。アメリカから見ると約3000㎞の自然要塞。ウクライナ戦争に乗じた日本の軍国主義復活を許してはならない。日本は東アジア封じ込めの役割を果たすのではなく、東アジアの共同発展に寄与する存在にならなければいけない。」などを豊富資料絵図(PDF)を使いながら講演した。

アメリカ本土の盾にされる日本

 カンパアッピールが高梨神奈川歴史教育を考える市民の会会長からあったあと、纐纈厚山口大学名誉纐纈厚山口大学名誉教授教授から「日中対立を促すアメリカの軍事戦略」と題する講演があった。「2021年6月のサミットで中国と台湾の『両岸問題が言及された』と日本のマスコミや政府はセンセーショナルに騒ぎたてたが、実はこの問題は70項のうち60項目、中国との距離の取り方は国によって異なる。アメリカは「両岸問題は平和的に解決を促す」というあいまいな態度をとっているが、日本側は「台湾有事の時は、周辺危機事態として対処する可能性がある」とアメリカに伝えている。まるでアメリカから「用意はできているか」と聞かれ「大丈夫です」と答えているかのようだ。アメリカは軍事戦略を変え、自国の軍隊を出さなくても済むように「対等同盟」を結び、旧来の対テロ戦争とは異なり国家間の紛争に対処しようとしている。日本をアメリカ本土の盾にしようと様々軍事物資を売りつけ、アメリカの軍需産業は儲けている。今度のウクライナ戦争では総額100兆円の軍事予算となっている。
 中国が攻めてくるかのような言説があるが、中国は資源大国ではない。14億の人々のために食料を確保し、生活向上のために生産力を高めなくてはならない。貿易の相手国日本を攻め込む必然性はない。「台湾有事」についても台湾の問題は台湾に住む人々の問題であり、中国の内政問題である。他国が干渉するべきではない。」等現在世界を覆う問題に対して鋭く切り込む内容だった。

軍事同盟をなくし、相互の人権尊重を

伊藤彰信日中労交会長 最後にまとめとして伊藤日中労交会長から「『争えば共に損し、和すれば共に益する』という言葉がある。最近は『争えば儲けるやつがいる』ともいえるが、争えば殺し殺されるのは民衆である。今こそ、日中共同声明の意義を再確認すべき。そして、軍事同盟をなくし、相互の人権を尊重する世界を作ろう。」と結びの言葉があった。
 集会は、9月28日に大集会を行うことが司会の方から案内がありおわった。

 以上のように盛りだくさんの内容であったが、時節にマッチしたとても有意義なものだった。YouTubeで視聴できるので、多くの皆さんに見て、考えていただきたいと思った。

関東大震災中国人受難者追悼の午後(9/5)

 「関東大震災中国人受難者追悼の午後」が9月5日、東京の江東区東大島文化センターで開かれました。コロナ対策のため40名までの予約制、オンライン併用で行われましたが、当日参加が多く、急遽、第二会場を設定しての開催でした。
 関東大震災で朝鮮人が虐殺されたことは知られていますが、700人以上の中国人が虐殺されたことはあまり知られていません。会場の江東区東大島文化センターは、中国人約300人が虐殺された場所に建てられた施設ですが、虐殺があったことを記す碑も説明文もありません。
 第一部は「中国人受難者追悼式」でした。主催者を代表して田中宏(一橋大学名誉教授)さんが挨拶をした後、関東大地震被屠殺華工温州遺族会が作成したビデオが上映され、犠牲者の名前が一人ひとり読み上げられました。留日学生救国団、僑日共済会のリーダーで虐殺された王希天さんの孫の王旗さんのメッセージが読み上げられました。また、温州ならびに福清の遺族とオンラインで結び、挨拶を受けました。中村まさ子(江東区議会議員)さんと吉池(アジアフォーラム横浜)さんがあいさつしました。

林伯耀さん

 第二部は「関東大震災における中国人虐殺を考える集い」でした。林伯耀さんが「震災当時の中国人労働者排斥の動き」と題して講演しました。「江東区大島町で400人以上の中国人が虐殺された大島事件は、民族排外主義にもとづく中国人への憎悪と敵愾心を根底に、アジア制覇を目指す帝国主義国家日本の体制と威信を保持(治安維持)するために、日本人労働者の自己保身のために、中国人労働者の殲滅を狙った日本の軍・警察・労働者による集団虐殺事件であった」と述べました。大島町事件と同様の事件は神奈川県でもあったこと、1920年代に中国人労働者の排斥運動があったことを資料にもとづき説明しました。
 閉会のあいさつを内海愛子さんが行い「中身の濃い集会でした。それをいかに若い人に繋いでいくのか、もっと工夫しなければなりません」と訴えました。
 第三部は「王希天さん追悼会」でした。逆井橋のたもとで、追悼が行われました。

<報告・写真:伊藤彰信>

南京大虐殺から83年・証言を聞く東京集会―歴史を忘れず、現在の戒めとしよう

南京大虐殺から83年 証言を聞く東京集会

「歴史を忘れず、現在の戒めとしよう」と「南京大虐殺から83年 証言を聞く東京集会」が12月13日、東京都内で開かれた。コロナのため予約制の集会であったが50名弱が参加した。

主催者の「ノーモア南京の会」を代表して田中宏先生(一橋大学名誉教授)が次のように開会のあいさつをした。

田中宏先生(一橋大学名誉教授)
田中宏先生(一橋大学名誉教授)

南京の紀念館がオープンしたのが1985年8月15日、戦後初めて現役の中曽根首相が靖国神社を公式参拝した日です。84年4月に靖国懇がつくられ、神道の参拝形式でなければ憲法違反にならないという答申を受けて、参拝に踏み切るわけです。中国で南京紀念館の建設準備が進んでいることに、日本の外交ルートもマスコミも気が付いていなかった。

靖国懇のメンバーで哲学者の梅原猛さんが新聞にエッセイを書いている。靖国懇に外務省を呼んで「靖国参拝はせっかく良くなってきている日中関係を悪化させることになりはしないか」と聞いたところ、外務省は「何も心配ありません」と答えた。梅原さんはその後、中曽根首相に会ったとき「私の言ったとおり日中関係は悪化してしまった。靖国懇の委員を辞めておけばよかった」と言ったところ「行くなと言っても私は参拝した。そうしなければ自民党はもたなかったから」と言ったと書いている。

歴史と向き合あうことに日本社会は非常に鈍感です。私が初めて南京に行ったのは1987年ですが、南京大学の先生に「なぜ紀念館をつくったのですか」と聞いたら「それは教科書問題です」と二つ返事でした。1987年に韓国に独立記念館ができます。パンフレットを読んでみると「日本で歴史の改ざんが始まった。私たちは歴史を正しく伝えるために記念館をつくった」と書いてあった。1982年が教科書問題でした。宮沢官房長官が「政府の責任で是正する」と談話を発表して収めた。検定基準の中に近隣諸国条項を入れて対応した。教科書がどうしてこんなに問題になるのか分かっていない。

今も歴史とどう向き合うのかという課題は続いている。その重みを感じてほしい。

 集会は、日本軍が行った南京安全区の中国軍敗残兵掃蕩作戦に巻き込まれ、父と兄を殺害された石秀英さんの証言ビデオ「石秀英さんの被害の現場を訪ねて」(ノーモア南京の会制作)と東史郎日記の現場を訪ねる任世淦さんの活動を追った「故郷鎮魂」(山東テレビ制作)が上映された。その後、細工藤龍司さんが「山東省にもあった南京大虐殺」と題して、東史郎日記と任世淦さんの活動について解説した。

南京大虐殺から83年・2020年東京証言集会に行ってきました―― 藤村妙子