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日中労交2024年度総会報告

伊藤彰信

 日中労交の2024年度総会が4月27日に東京・蒲田の日港福会館で開かれました。

伊藤会長あいさつ

 伊藤会長は「日中労交の現在の最大の課題は『台湾有事』を阻止することである。安保三文書によって、中国を仮想敵国として、防衛費の拡大、日米共同軍事体制の強化、南西諸島のミサイル配備、戦闘機の輸出、軍事産業の育成など進められている。経済安保体制は職場でのレッドパージに通じるものであり、人権や民主主義を抑圧する政策がすすめられている。『台湾有事』となれば、全国の自衛隊基地から、民間の空港・港湾を利用した兵器・部隊の輸送が行なわれる国家総動員体制づくりが進んでいる。また、練馬の森の朝鮮人追悼碑撤去にみられるように強制連行と発言することが許されない状況になった。日中労交は、昨年4年ぶりに訪中し、コロナ後の交流を再開することができた。日中労交50周年の今年は、50年の歴史をふり返りながら、新しい会員を獲得し、日中平和友好の強化のために活動していきたい」とあいさつしました。

第一部「総会議事」

 議事では、2023年度活動報告を藤村事務局長が、2024年度活動計画(案)を伊藤会長が、2023年度決算報告を伊藤事務局次長が、会計監査報告を水摩会計監査委員が、2024年度予算(案)を伊藤事務局次長が、それぞれ提案し、承認されました。

 今年度の活動計画の重点は、50周年記念事業を成功させることです。今年度の総会で議論した50周年記念事業のイメージは、昨年度の総会で議論していたものとは変化してきてきました。今年度の議論は、「台湾有事」を阻止するにはどうしたらよいか、日中労交の存在意義、役割はどのようなものなのか、50年を振り返りながら考えようというものです。

 「50年のあゆみ」の出版、8月24日のシンポジウムの開催について確認しました。問題は、その財政の確保です。カンパを集めると同時に「50年のあゆみ」の販売促進です。本の販売促進、シンポの企画運営を行うために50周年事業実行委員会を設置することを確認していただきました。運営委員だけでは力量不足ですので、会員からも実行委員になってもらい、組織をあげて50周年記念事業を成功させたいと思います。

第二部「日中労交の50年を語ろう」 

 第二部の「日中労交の50年を語ろう」では、「50年のあゆみ」の執筆者である藤村事務局長が、日中労交の前史にあたる在華同胞帰国事業と中国人俘虜殉難者遺骨送還運動について説明をしました。平石昇さんは、平坂春雄元事務局長が大阪エルライブラリーに寄贈した段ボール200箱を超える資料から、日中労交関係の資料を見つけ出し整理した3年以上にわたる作業の苦労話をしました。伊藤会長は、日中関係の緊張の高まりに押されて単なる記録ではなく日中友好運動のなかで日中労交が占めた位置と役割を記述せざる得なくなったこと、和解を国家間和解と民衆間和解のふたつの視点から描いたこと、中国人の戦後補償裁判では謝罪、補償、歴史伝承の3っつが和解の条件であったこと、南京に碑を建てた意味は若い人への歴史伝承になること、日中友好運動の入門書になるよう書いたことなどを語りました。

 参加者の語らいの中では、「50年のあゆみ」に詳しく書かれていない、旅順大虐殺、関東大震災時の中国人虐殺、日中友好協会の分裂、技術交流などが議論されました。それぞれの日中関係の事象を断片的に捉えるのではなく、権力を握った中国の労働者と権力を握ったことがない日本の労働者との交流が、時代の変化の中で揺れ動いていく様子を見ていくべきではないかという話になりました。

和解を味わい、日中友好を思う

 10月15日(日)に催された広島安野の「第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」に初めて参加しました。前日の集会と集いを主催した「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」(以下「継承する会」)の皆さんには大変お世話になりました。

 以前から安野の追悼式に参加しようと思っていましたが、内田雅敏弁護士から「西松安野友好基金運営委員会による追悼式は終了して、継承する会が行うようになった」と聞いて、少し参加意欲が低くなっていました。参加しようと決意したのは、昨年10月26日、日中国交正常化50周年を記念して中国国際交流協会が主催したオンライン会議で原水禁の金子哲夫共同代表と同席したことです。

 私は席上、日中労働者交流協会(以下「日中労交」)が日中国交正常化を受けて1974年に25単組・9地県評が結集してつくられた組織であること、1985年8月15日、中曽根首相が初めて靖国神社を公式参拝した日に、市川誠初代会長(元総評議長)が侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(以下「南京紀念館」)の開館式に出席し、日中不再戦の誓いを刻んだ「鎮魂の時計」を南京市に寄贈したこと。その誓いを碑にして2009年12月13日に南京紀念館に建立したこと、日中労交は「日中不再戦の誓い」の精神を継承し、日中の平和友好のために活動していることを報告しました。

 金子さんは、1955年の第1回原水爆禁止世界大会に国交のない中国から代表が参加し被爆者に5万元(当時の日本円で720万円)を寄付したこと、その一部を被爆者医療のために広島市に寄付したこと、それがきっかけになって原爆医療法が成立したこと、安野で中国人強制連行受難者の追悼式を行っていることを報告しました。

 その話を聞いた私は、金子さんに詳しい話を聞かせてと連絡して、今回の参加を約束しました。

 10月14日(土)14時から継承する会の主催で「和解を導いた力Part3―西松建設裁判原告・宋継堯さんの闘いをふりかえる」という集会が開かれ、50人ほどが参加しました。私は、西松安野裁判のことは最高裁で敗訴したが付言にもとづいて和解が成立したということぐらいしか知らなかったので、この集会は非常に興味深いものでした。集会は、元西松安野友好基金運営委員の杉原達さんの司会あいさつではじまり、テレビニュースなどを編集した「ニュース映像で見る宋継堯さん」が上映されました。続いて「宋継堯さんを語る」と題して、陳輝(通訳)さん、老田裕美(通訳)さん、足立修一弁護士が発言しました。

 宋継堯さんは、16歳の時、国民党軍の遊撃隊に参加、日本軍の捕虜となって日本へ強制連行されました。安野の発電所工事でトロッコに石を積んで運び出す作業をしていましたが、トロッコが脱線して転倒し失明しました。病気やケガをして働けなくなった人と一緒に中国に帰されましたが、失明のため仕事もできず、乞食同然の生活をしていました。河北大学の調査によって安野の生存者であることが確認され、西松建設との交渉を始めましたが、進展せず、裁判の原告となりました。最高裁で敗訴したあと、和解成立直後に亡くなっています。安野に連行された中国人は360人、被爆死の5人を含めて29人が日本で死亡しています。

集会「和解を導いた力Part3―西松建設裁判原告・宋継堯さんの闘いをふりかえる」

 このような集会では、原告から強制連行とその苛酷な労働、悲惨な生活が語られることが多いですが、すでに生存者はいないので、原告の宋さんの闘いを振り返る形での集会企画になったようです。中国人と日本人の通訳が、宋継堯さんの人柄や、戦後の中国での生活状況を紹介しながら思い出を語ったことが、聞いている身としては、重いものを突き付けられるというよりは、宋さんの生き様を客観的に眺めることができ、優しく温かい目で和解に至る経過を知ることができたような気がします。
 三人の発言で、印象に残った点を記してみます。陳さんは、「宋さんは西松建設に『謝罪、補償、記念碑建設』の3点を当初から要求していた」、「戦争は国の指導者、政治家が起こすものであって、庶民が起こすものではない」と発言しました。老田さんは「日本軍は中国で2000万人以上の中国人を殺した。いたるところに万人坑がある。中国国内でも何百万人の強制連行があった。日本に強制連行された中国人4万人は取るに足らぬ数字という人がいるが、それは間違いである」と語りはじめ、中国人強制連行に関する日本での16の裁判について紹介しました。「被害者を利用するのではなく、被害者の生活の中から聞き出すことが大切である」、「新美隆弁護士に『なぜ、花岡裁判、安野裁判では国を訴えなかったのか』と聞いたことがあるが、新美弁護士は『国を訴えない方が早く解決する』と答えた」、「強制連行された中国人4万人のうち、花岡で986人、西松安野で360人、西松信濃川で180人、大江山で6人(原告のみ)、三菱マテリアルでは下請けも含めて3765人、計5297人が和解できた意味は大きい」と発言しました。足立弁護士は、訴訟の経過を振り返りながら、「宋さんは、当時としては珍しく学校に6年通った人であり、高級官僚になれる道を歩んでいた。記憶が鮮明で、冷静な語り口は証言者として最適な人だった。失明に対する特別な賠償を要求することはなかったが、西松が和解に傾いていく過程では宋さんの存在は大きかった」と発言しました。
 私は全港湾の委員長を退任して9年になります。16の中国人強制連行訴訟のうち港湾に関係する訴訟は、新潟、山形酒田、石川七尾の三つの裁判です。いずれも、国と企業を相手取った裁判でしたが「1972年の日中共同声明によって中国政府は戦争賠償の請求を放棄したので、個人の請求権も消滅している」という理由で原告敗訴になっています。新潟裁判では、第一審で原告が勝訴し、国と企業に対して原告一人当たり800万円の支払いを命じました。この判決を巡って、被告企業の従業員である全港湾組合員の中でも様々な意見がありました。「企業が賠償金を支払えば、賃上げに支障が出るのではないか」、「企業は国の政策にもとづいて中国人を使用したまでで、賠償金は国が全額支払うべきではないか」などの意見です。戦後補償裁判について、全港湾は「日中共同声明によって個人の賠償請求権までも放棄されたものではない」という立場で支援していました。新潟裁判の原告を支援していた新潟平和運動センターの議長は全港湾の役員でした。支援に消極的な組合員との間で板挟みになっていました。国の責任を認めた初めての判決だったので、国の責任を強調していたことを覚えています。

フィールドワーク、第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い、善福寺での追悼法要

 10月15日(日)には、フィールドワーク、第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い、善福寺での追悼法要に参加しました。この7月に発行したフィールドワーク資料であるパンフレット「安野発電所中国人強制連行・被爆の歴史を歩く」(500円)は、とてもうまくまとめた分かりやすい資料だと感心しました。毎年、原水禁大会のフィールドワークを受け入れている「継承する会」ならではのパンフレットだと思いました。

 安野中国人受難之碑には、強制連行された360人全員の名前が刻まれていました。強制連行されて日本で亡くなった方の慰霊碑ではないことに気づかされました。慰霊式であれば、発言者は慰霊碑に向って参列者には背を向けて発言します。集いでの発言者は、受難の碑に一礼したあと参列者に向って発言していました。主催者挨拶は継承する会の足立修一世話人代表、来賓挨拶は安芸太田町長、善福寺住職、広島県教組委員長、メッセージが遺族、中国大阪総領事から寄せられていました。碑を建てた場所は、現在でも稼働している発電所のすぐ上の中国電力の土地で、今は安芸太田町が管理しているとのことです。慰霊式ではなかったので、善福寺での追悼法要が営まれたのだと納得しました。碑文や碑を建てた土地、式典のすすめ方は、それぞれの地域で違いがあり、地域状況、運動状況を反映したものだということが分かりました。

 帰りのバスの中で、内田雅敏弁護士が、前日おこなわれた秋田県の尾去沢での中国人殉難者慰霊祭の報告をしました。三菱マテリアルとの和解によって昨年11月に「日中友好平和不戦の碑」が建てられましたが、今年初めて遺族の方が参加しました。遺族のお孫さんは「祖父が戦時中突然いなくなり、家族を見捨てて蒸発したものだと思っていた。三菱マテリアルの和解によって遺族調査が行われ、あなたの祖父は強制連行されて尾去沢で亡くなったという連絡があった。今まで蒸発した祖父を恨んでいたが、尾去沢に来て初めて祖父の人生を知ることができた。」と挨拶したことを話してくれました。

日中労交は「和解から友好へ」をスローガンに活動しています。今回、西松建設に碑を建てることを要求した宋さんの思い、碑の前で遺族が語る思いを知ることができました。日中共同声明で中国政府は「中日両国国民の友好のため」に戦争賠償を放棄したわけです。いわば政府間の和解が1972年に成立したいえます。しかし、民衆の和解はひとり一人の人生から解きほぐしていくものだと感じました。いま日本政府は、和解の精神を忘れ、戦争の加害責任がなかったように振る舞い、日中関係を友好どころか敵対関係に仕上げています。

 広島で継承する会が続けている活動に触れることができ、和解事業として碑を建てる意味、後世に伝える意味を改めて考え、友好に向けて動いていることを感じる旅となりました。日中労交は、南京に「日中不再戦の誓い」の碑を建てたわけです。私は「碑守」として、毎年12月13日に南京紀念館で行われる南京大虐殺受難者追悼の国家公祭に参加すること、「誓い」を後世の人に伝えていくことの責任の重みを感じました。

「日中平和友好条約締結45周年記念大集会」報告

2023年8月10日

日中平和友好条約締結45周年記念大集会を開催

 日中平和友好条約締結45周年記念大集会が8月10日、衆議院第一議員会館で開かれ、定員300人の会場が満杯になった。

 主催者を代表して村山首相談話の会の藤田高景理事長が「米国の言いなりになって『台湾有事』を口実に反中国包囲網をつくり、着々と戦争準備に突き進んで良いのか。日中平和友好条約の精神に立ち返って善隣友好関係を取り戻さねばならない」とあいさつした。

 

政府は台湾独立不支持の表明を―鳩山友紀夫元総理

鳩山友紀夫元総理の来賓あいさつ

 来賓の鳩山友紀夫元総理は「日本は過去に中国に侵略し多大な損害を与えた。傷つけられたものが許すまで無限責任を負っている。日本政府は、棚上げしていた尖閣諸島を国有化して緊張を高め、『台湾有事は日本有事』と危機感を煽った。麻生自民党副総裁は『日米台は戦う覚悟を示すべき』と言っているが、日中平和友好条約には『すべての紛争を平和的手段で解決し』と書かれている。日中共同声明で『日本政府は、台湾が中国の領土の不可分な一部であるという中国の立場を十分理解し、尊重する』としている。台湾は中国の内政問題である。日本政府は台湾の独立を支持しないと表明することが肝要だ。」と述べ、地球環境問題などでの日中協力の実績を積み重ねる重要性を語った。

 

人的交流の促進を―呉江浩駐日中国大使

呉江浩駐日中国大使
呉江浩駐日中国大使の来賓あいさつ

 呉江浩駐日中国大使は「日中平和友好条約は、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させることを双方共通の義務として法的に定めた。そして、内政に関する相互不干渉、すべての紛争の平和的手段による解決、覇権を確立しようとするいかなる国の試みにも反対する基本原則を確認した。中日両国は条約の義務を誠実に履行しなければならない。新しい時代の要請にふさわしい中日関係を構築することが求められている。平和を断固として守らなければならない。今日の日本では一部の人たちが歴史の教訓を忘れたかのように中国脅威論を騒ぎ立て、台湾有事を煽り、『強い抑止力』、『戦う覚悟』とまで言い出す人が出てきている。我々は友好の旗を高く掲げなければならない。友好こそ両国の利益に合致するものである。中日関係の四つの基本文書に従い両国関係の大局を守るべきである。中日の経済活動は深く絡み合っており、平等互恵の関係が両国民に大きな利益をもたらしている。一部の人がその関係の弱体化を図り、ひいては切断を企てて、中国の発展を抑制しようとしている。このような情勢において、人的交流を促進し相互理解を図ることが大事になっている。今日から中国からの団体旅行を解禁した。引き続きビザなし渡航をめざして努力していく」とあいさつした。

 

親米反中路線は破滅の道・平和外交の促進を

 元広島平和研究所所長の浅井基文さんが「バイデン・岸田対中国対決政治は清算しなければならない」と題して記念講演を行った。「日本人は、アメリカに好感度を持っているが、中国に対してはアメリカ政府や日本政府の対応に追従している。アメリカはエゴの塊であって世界一極支配を維持しようとしているが、そうはならない状況が出てきている。経済制裁乱発による世界的な脱ドル化の動き、他国からの軍事援助なしには戦えないウクライナ戦争、無理な中国封じ込めなどバイデン政権の対外政策は行き詰まっている。岸田政権は、親米反中路線をとり、アメリカの軍事戦略に全面的に加担し、安全保障三文書を閣議決定した。先制攻撃準備、対米兵站支援、ミサイル基地建設、民間施設の軍事転用などをすすめている。台湾問題、南シナ海問題について、日本のマスコミはアメリカがいうとおりの情報しか流さないので、正確な認識を持たないと友好関係は築けない」と切り出した。

 そして台湾問題については「中国は国内問題、アメリカは国際問題という基本認識の違いがある。米中間の3つの基本文書は玉虫色になっており、アメリカの解釈は一概に否定できない。1970年代80年代に中国は台湾に『台湾独立』を叫ぶ勢力ができ政権を取るとは思っていなかった。アメリカは中華人民共和国成立、朝鮮戦争以降、台湾は絶対に中国に返さないという方針である。中国は国内法よりも国際法が優先する立場、アメリカは世界でも稀な国際法よりも国内法が優先する立場である。台湾関係法で台湾有事が起これば軍事介入する余地を常に残している。日中共同声明では『日本政府はポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する』とあり、ポツダム宣言では『台湾は中国に返還されるべき』と書かれている。ところが返還されてないのだから、日本政府はアメリカの立場を尊重し、従っている。いま中国は台湾に『九二共識』を遵守せよと迫っている。『一つの中国』原則を順守してくれれば、中国は百年河清を待つ用意はあると思う。ところがアメリカと日本は中国に武力行使をしないと約束しろと迫る。中国は、台湾は内政問題だから外国は口を出すなと言っている。台湾が独立すると言ったら中国は武力解放することになる。その場合、アメリカには3つの選択がある。不介入、台湾への武器供与(ウクライナ方式)、米中全面戦争である。日本にも3つの選択がある。不関与(日中平和友好条約遵守)、米軍基地提供兵站支援(日米安保条約履行)、中国との全面戦争(安全保障三文書)である。関与すれば中国からの報復攻撃の可能性がある。日本滅亡の可能性がある。日本にとって台湾有事がそれほど大事なのか。日中共同声明、日中平和友好条約に立ち返っても、今の状況を解決できないかもしれない。それを一歩進めて日中不戦条約を締結する必要がある」と述べた。

 さらに南シナ海については「中国は歴史的国際法的に九段線の内側は中国の領土だと主張していた。1960年当時まで誰もが認めていた。1969年に南シナ海に大量の石油資源が埋蔵されている可能性があるといわれ始めて領有権問題が浮上してきた。日本は日華平和条約で南沙諸島、西沙諸島は中国のものであることを認めている。中国は隣接海域についても国連海洋法条約にもとづいて権利主張をしている。係争地域については、関係国との間で主権問題を棚上げにして共同開発を提案している。アメリカは国連海洋法を批准していない」と述べた。

 最後に「米中関係悪化の原因はひとえにアメリカ側にある。日本は米中のいずれの側にも与することなく、平和憲法の原点に立ち返り、平和外交を積極的に営まなければならない」と結んだ。

 

「戦わない覚悟」が求められている

 各界からの発言として、元経済産業省の古賀茂明さんは、中国政府関係者との話として「2027年までに中国が台湾を進攻すると言っているのはアメリカです。中国が台湾に進攻したら台湾住民の反感を買うでしょう。台湾の産業や生活を破壊して意味がありますか。アメリカや日本が武力援助して台湾を独立させるなら、武力解放も辞さないと言っているだけです。中国が進攻すると言えば、台湾や日本は武器を沢山買ってくれるからでしょ。中国と台湾が仲良くすれば、自然に統合の気運は醸成される。中台の経済関係は互恵関係ですよ。ゆっくり時間をかけてやればよい」と紹介した。そして、「2027年までの進攻はウソ、『台湾有事』はアメリカか日本がおこす、日米は間違ったメッセージを台湾に送っている、日本は台湾を守る義務は負っていない、アメリカは『台湾有事』の際は日本の基地を使うことを前提としている、日本は平和主義をすでに放棄している」と指摘した。

 人材派遣会社ザ・アールの創始者の奥谷禮子さんは、女性経営者の交流を通じて「中国が、女性の活躍を含めて、人材育成を戦略的、計画的に行ってきたことを痛感した」と話した。

 ピース・フィロソフィー・センター代表の乗松聡子さんは、「日本が行ってきた他国への侵略や、植民地支配の事実、それを支えてきた民衆の差別感情を克服するような教育はほとんどされていない。長崎にある大村飛行場は中国への渡洋爆撃の起点であり、広島は軍都であった歴史に触れ、長崎も広島も原爆投下で凄まじい被害を受ける大前提として、加害の地であったという史実を日本人として記憶しておかねばならない」と語った。

 沖縄大学地域地域研究所特別研究員の泉川友樹さんは、中国と日本の輸出入総額は国交正常化以降50年で130倍に増えていることを指摘し、経済協力を振り返りながら、今は新しいルール構築の時代に入っていると分析した。

 日中一帯一路促進会の大野芳一さんは、ココム時代に中国にコンピュータを輸出した経験を語り、アメリカがいかに自分勝手な経済制裁や人の拘束を行ってきたかを語った。

  最後に日中労働者交流協会の伊藤彰信さんが「戦争、虐殺、差別をなくし、平和・友好を促進していこう」と閉会のあいさつを述べ、大集会は成功裏に終了した。

花岡を訪ねて

藤村 妙子 日中労交事務局長

加害の歴史を心に刻んで

  秋田県大館市において開かれた「2023年6.30フォーラムin大館」(6月29日大館労働福祉会館)と「中国人殉難者慰霊式」(30日大館市花岡町十瀬野公園墓地)に、日中労交からは伊藤会長をはじめ6名が参加した。
 今年はコロナ禍で途絶えていた中国からのご遺族3名の他支援者3名と河北省紅十字会訪日団4名が4年ぶりに参加した。
 「フォーラム」では、主催者の川田現地実行委員長から「ロシアのウクライナ侵攻は、戦中の日本を想起させる。いつも犠牲になるのは民衆である。私たちは、日本の中国をはじめとするアジアへの侵略をしっかりととらえ返さなければいけない。この花岡の地で起きた中国人労働者への虐待・虐殺を決して忘れず加害の事実を直視することが大切である。」との開会のあいさつがあった。
 続いてご遺族へのインタビュー形式の証言があった。張徳健さんは、おじいさんの張根惠さんが日本に連れ去られてからの生活をおばあさんやお父さんから聞いた話を語った。「おじいさんがいなくなってからは、当時2歳だったお父さんとおばあさんだけでは暮らしていけず、おばあさんの実家や色々なところに渡り歩いて暮らした。おじいさんが残してくれた家も土地も奪われてしまった。おじいさんが花岡で亡くなったことを戦後知ったが、どのようにして亡くなったのかはよくわからない。侵略戦争の中で自分の家族のようにバラバラになり、苦しい生活を強いられた人はたくさんいる。子孫としては、日本政府は、中国人の尊厳を奪った歴史を心に刻み、正しい歴史観をもって伝えてほしい。」と語った。
 王竜旺さんは、「自分は父親の王世清が帰国してから生まれた。」「父親の親であるおじいさんが中国国内で日本に連れ去られ行方不明になってしまった。おじいさんを探すためにおばあさんはいろいろ苦労したが、具合が悪くなり亡くなってしまった。父親は生き延びて日本と戦いたいと国民党軍に参加したが、日本軍に捕まり捕虜となり、花岡に連れてこられた。ここで足を怪我してしまった。父親からは、満足に食事も与えられなかったことや1945年6月30日に決起したことを聞いた。中国に帰国してからも足が悪く力仕事ができなかったので、家族はとても苦労をした。花岡であったことは決して忘れてはいけない。日本政府に謝罪と賠償を望んでいる。」と語った。
中国人強制連行フォーラムin大館

死者の恨(ハン)・生者の恥辱(ツゥルゥ)

 次に花岡平和友好基金運営委員の林伯耀さんから基調講演があった。林さんは「死者の恨(ハン)をそのままにしているのは、生者の恥である」という中国の故事を題名とした。「中国人が人間らしく生きようとしたことが花岡の地では踏みにじられた。その後日本人と中国人が何十年もかけて行動してきたが、いまだに尊厳は回復されてはいない。」と語り始めた。日本側の頑迷な中国・朝鮮に対する排他的差別観と侵略戦争への無反省があること。とりわけ、鹿島側が「裁判所から勧告された金額を拠出し『花岡平和友好基金』の設立を含む和解条項に、合意いたしました。なお、本基金の拠出は、補償や賠償の性格を含むものではありません」というコメントを2000年11月29日に発したことに対する花岡事件生存者や遺族の落胆と怒についてのお話は真の和解とはなにかを考えさせられる内容だった。

今こそ日中友好を

 最後に、日本人団体からの活動報告として「中国人強制連行を考える会」から今回の訪日団の紹介と昨日浅草の運行寺で張徳健さんがおじいさんの位牌と対面したことや河北省紅十字会から書が贈られたことの報告があった。「日中労交」の伊藤会長からは、南京にある碑に「日本軍国主義の中国侵略を労働者人民の闘争によって阻止しえなかったこと」そして、今また同じ歴史が繰り返そうとしている。今こそ、日中の平和友好が大切なこと。そして、日中労交が発足する前に花岡にあった遺骨を中国へ返還する事業に協力していた」と発言した。また「ノーモア南京の会」の方から、「現在大分市内に弾薬庫が作られようとしている。反対の闘いへの支援を」との発言があった。
 場所をプラザ杉の子に移動して「6.30歓迎夕食会」が行われた。夕食会には、大館市福祉部長のあいさつがあり、石田寛秋田県議員が乾杯の音頭を行った。
 李政美(イ・ジョンミ)さんの歌声を聞きながら料理を堪能した。そこかしこで交流の輪が広がる友好の夕べだった。
李政美(イ・ジョンミ)さんの日中友好の歌声
熱烈歓迎 日中友好交流会

大館市主催の「中国人殉難者慰霊式」に参加

 6月30日は、時々強い雨が降る中で大館市主催の「中国人殉難者慰霊式」が十瀬野公園墓地にある「中国殉難烈士慰霊之碑」の前で開かれた。
主催者の福原大館市長は「人の自由や尊厳を奪い、傷つける心なき行為は決して許されることではない。恒久平和を実現するため事件を風化させず、悲惨な歴史を後世に語り継いでいくことが私たち大館市民の使命」と式辞を述べた。秋田県知事の慰霊の言葉を代読した。
 遺族を代表して張恩竜さんが、「先輩たちが鞭の下、残忍なる苦役に付された惨状を決して忘れない。圧迫に抗して1945年6月30日、決死的花岡暴動を起こしたことを忘れない。加害企業の鹿島との間で和解達成した。大館市民がコロナ禍でも厳粛な慰霊式典を続けてきたことを忘れない。血の教訓を忘れず平和を希求する。2021年3月24日大阪にて日本政府を提訴した。判決では「中国人労工の強制連行は日本政府の全面的参与による」としつつもわれらの要求は棄却された。われらは、最終的勝利を、この地に惨死した先輩たちに伝えたい。戦争反対は両国民の共通の願いである。歴史を心に刻み、中日代々の友好のためたゆまぬ努力を行う」と追悼の辞を述べた。
 この後献水と大館市議会議員や各界代表者の献花があった。私たちも、李政美さんの歌声と共に献花を行い、慰霊式を終えた。
中国人殉難者慰霊式の会場
中国殉難烈士慰霊之碑

フィールドワーク 花岡事件の実相に触れる

 小雨の降る中、足場が悪いなどの理由で「日中不再戦の碑」や「滝ノ沢暗渠跡」には行かれなかったし、中山寮跡もバスの中からの見学となってしまった。
 昼食は、共楽館跡地に建てられた体育館で食べた。この場所で3日3晩さらされた場所である。外にはこの事実を伝えるレリーフと碑が立っている。
 花岡平和記念館では、展示を見ながら案内の方から説明を受けた。「強制連行された中国人は日本全国で41,762人いた。中国国内の収容所で2,015人、船内で564人、国内の事業所に到着するまでに248人が死亡している。鹿島組花岡出張所へは1944年8月8日から三回に分けて986人いた。1945年6月30日までに渡航中死亡7人も含め137人が死亡している。6月30日の一斉蜂起後、拘束され飲まず食わずの状態で3日間共楽館の広場に晒され、共楽館内や警察署では取り調べや拷問が行われた。その結果、282人の計419人が死亡している。「殉難碑」には同和鉱山での死者10名も含めた549名が慰霊されている。」などが展示物を見ながら説明を聞いた。
 遺骨が中国に返還されるまで安置されていた「信正寺」では、「華人死没者追善供養塔」を見学した。鹿島は、火葬が大変だからと死体は穴を掘って埋めていた。1945年10月6日アメリカ占領軍にこのことが発見され、掘り出し焼いた後400余りの木箱に詰めて信正寺に安置した。その後も散乱する遺骨が「ひと鍬運動」などによって掘り出された。1949年に鹿島はコンクリート製の粗末な供養塔を立てた。鹿島は2000年の和解成立後、新しい供養塔を立てて古いものは撤去しようとしたが、生存者や遺族そして地元の人々の支援者などが反対し、両方ともこの地に置かれている。
 どの場所も、花岡事件の実相を伝えている。ぜひ来年も慰霊祭に参加して、この事実を多くの人たちに伝えていきたい。
花岡平和記念館
信正寺、「華人死没者追善供養塔」
10月1日、キャンプ・シュワブ前で「日中友好・不再戦」を掲げて辺野古基地反対の大集会で内田雅敏さんはアピールした

「佐渡おけさ」をもう一度 日中が「敵対的な相互依存」から抜け出すには

内田雅敏・弁護士
2022年9月29日

 日中共同声明調印後、上海に向かう田中角栄首相(当時)ら政府代表団を空港で見送る子供たち=中国北京の北京空港で1972年9月29日、同行特派員団撮影日中が国交正常化した50年前には、保守の政治家にも先の大戦で日本が中国を侵略したことについての申し訳なさがあり、また中国の文化への敬意もあった。50年前にお互いが何を約束したのか、そこに立ち返る必要がある。
 1972年の日中共同声明は「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省」とした。そのうえで、お互いに覇権国家とならないとし、台湾問題については、日本は台湾が中国の一部であるとする中国側の見解を尊重するとした。尖閣諸島の帰属については棚上げした。
 その後も両国はこの姿勢を繰り返し確認してきた。2007年の温家宝首相(当時)の国会演説では尖閣諸島問題について「両国は係争を棚上げし、共同開発をする原則にのっとって(中略)平和・友好。強力の海にすべきです」と述べている。

 台湾問題についても、日中共同声明に戻れば、日本の立場は明らかだ。いたずらに台湾有事とあおり、防衛費を増額し、米国の軍事産業から兵器を「爆買い」していれば、中国の軍拡派の口実になるだけだ。不信の連鎖を喜ぶ人たちが両国にいる。敵対的な相互依存関係になってしまう。これでは外交とは言えない。
 08年の胡錦濤国家主席(当時)が来日した際の共同声明では「日本側は、中国の改革開放以来の発展が日本を含む国際社会に大きな好機をもたらしていることを積極的に評価し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築に貢献していくとの中国の決意に対する支持を表明した。中国側は、日本が、戦後60年余り、平和国家としての歩みを堅持し、平和的手段により世界の平和と安定に貢献してきていることを積極的に評価した」と互いにエールを交換した。
 それほど昔のことではない。たかだか14年前のことだ。胡氏は早稲田大学での講演で「我々は歴史を刻みつけなければならないと強調するが、恨みを持ち続けるべきではない」とも言つている。
 こうしたことをお互いが理解していれば、両国関係はまた違った形になるはずだ。この50年だけをとってみても、日中関係が現在のような状況になったのは、つい最近のことだ。

民間交流の積み重ね

 中国人強制連行。強制労働など戦後補償問題の訴訟に関わってきた経験から言えば、歴史問題は判決とその執行だけで解決するものではない。一つめに事実関係を認め、責任を求めて謝罪をする。二つめに謝罪の証としてなんらかの金銭的な補償をする。二つめに同じ過ちを起こさないために将来に向かっての歴史教育を行い、その被害者に対する追悼事業を継続する。
 この二つは並列ではなく、三つめをすることによってはじめて、一つめの謝罪が本当に被害者とその遺族に理解されてくる。謝罪した側も二つめのことを遂行するなかで、もう一度、加害の事実を捉え返す。
 私が関わった花岡事件の訴訟でも、西松建設や三菱マテリアルの訴訟でも、裁判で和解した時点では被害者側には不満もある。しかし、たとえば花岡事件では地元の自治体が毎年、追悼事業を実施し、その事業を地元の市民が下支えしている。交流するなかで、中国の遺族も「本当に反省してやってくれている」と感じるようになる。

 国交正常化40周年の12年の時は尖閣諸島の国有化の問題があり、日中関係は非常に厳しかった。広島県安芸太田町で実施している西松建設の強制連行を巡る追悼式では、中国側が参加しない懸念もあった。しかし実際には、人数は減ったものの来てくれて「来てよかった」と言ってくれた。国の関係が厳しい時であっても、民間の交流を途絶えさせてはならない。
 日中国交正常化の際、田中角栄首相は周恩来首相に「私は長い民間交流のレールに乗って、今日ようやくここに来ることができました」と述べている。中国側もレセプションで田中氏の地元の「佐渡おけさ」を演奏することで応えた。
 そのような関係が50年後のいま、どうして変わってしまったか。もちろん日本の政治家が歴史を十分に認識していない問題があるが、中国側にも問題はある。たとえば四つの基本文書(※ )の一つである98年の日中共同宣言では中国は日本のODA(政府開発援助)に謝意を表明している。こうしたことを中国はどこまで認識しているか。
 四つの基本文書の内容は日本でも中国でもまだ十分理解されていない。このような平和資源を双方の民衆が自分のものにして、それぞれの為政者に迫っていく。一見遠回りに見える道しか方法がないのではないかと思つ。

※四つの基本文書

(1)国交を正常化し、中国が戦争賠償請求を放棄した1972年の日中共同声明(2)紛争解決を武力に訴えないことを確認した78年の日中平和友好条約(3)両国首脳の相互訪問を決めた98年の日中共同宣言(4)戦略的互恵関係の推造を約束した2008年の日中共同声明――の四つを指し、日中関係の礎と位置付けられている。習近平国家主席も14年11月11日の安倍晋三首相(当時)との日中首脳会談で「四つの基本文書を踏まえ、戦略的互恵関係にしたがって日中関係を発展させたい」と述べた。

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10月1日、キャンプ・シュワブ前で「日中友好・不再戦」を掲げて辺野古基地反対の大集会で内田雅敏さんはアピールした

「日中国交正常化50周年記念大集会」開催(2022年9月28日)

日中友好こそ最大の安全保障

 1972年9月29日は、田中角栄首相と周恩来首相が日中共同声明に調印し、日中両国の戦争状態を終結し国交を正常化した記念すべき日である。あれから50年、「日中国交正常化50周年記念大集会」が9月28日、衆議院第一議員会館で開かれ、280名が集まった。

 主催者を代表して藤田高景(村山首相談話の会)さんが「日本政府は安倍元首相の国葬をするのではなく、日中国交正常化を祝う集会を行うべきだ。中国は日本にとって最大の貿易相手国である。中国を仮想敵国に仕立て上げて、戦争準備に突き進んで良いのか。良好な日中関係こそ、最大の安全保障である」とあいさつした。

 村山富市元首相がビデオメッセージを寄せ「アジアの平和のためには、日本と中国の良好な関係を築くことが必要である」と訴えた。鳩山由紀夫元首相は「日本は中国に対して侵略戦争をした。日本は無限責任を負うべきだ。その気持ちをもてば日中関係はもっと良くなる。尖閣問題、台湾問題も50年前に答えは出ている。原点に立ち返って話し合いで解決していくことを全国に広めることが私たちの使命である」とあいさつした。

鳩山由紀夫元首相
鳩山由紀夫元首相
羽場久美子(青山学院大学名誉教授)さん
羽場久美子(青山学院大学名誉教授)さん

楊宇駐日中国首席公使は、この50年間の日中関係の発展・繁栄を振り返りつつ、今後50年の新しい日中関係について「中国を脅威と見るのではなく、お互いをウィンウィンのパートナーとして相互認識すること。相互信頼にもとづく安全保障を実現するため、恒久的な平和友好関係を謳った日中平和友好条約を遵守すること。矛盾と意見の相違について小異を残して大同につく善意と誠意をもって対処すること。民間友好交流の伝統を発揮し、友好・協力の絆を強めること」と訴えた。

楊宇駐日中国首席公使

 森田実(政治評論家)さんは「日本は米国の自発的隷従主義者になってしまった」と指摘し「アジアの平和と繁栄の肝は日中の協調と友好である」と述べた。羽場久美子(青山学院大学名誉教授)さんは「日本と中国は50年前に恒久的な平和友好関係を誓っている。中国敵視・封じ込めは、アメリカの世界戦略でありアジアで覇権の継続を意図したものである。日本は同じ文化圏の兄弟国に対してアメリカを守るために沖縄をはじめ日本を戦場にして戦うことがないようにしなければならない」と述べ、「沖縄にCSCE(全欧安全保障協力会議)のような東アジアの平和のための話し合い場を市民の手でつくろう」と提唱した。

 中国文化財返還運動を進める会の東海林次男さんの連帯の挨拶のあと、東方文化芸術団による歌、民族楽器の演奏、構成詩の朗読が披露され、会場は和やかな雰囲気になった。

 浅井基文(元広島平和研究所所長)さんが「9条及び声明・条約の初心に戻ろう」と題して記念講演を行った。浅井さんは「米ニクソン政権の対中戦略の見直しが日中国交正常化を可能にした」と指摘した。1972年2月28日の上海共同声明は、米中の考え方を併記した声明であって、アメリカは「『一つの中国』、『台湾は中国の一部』とする台湾海峡両岸のすべての中国人の主張を認識し、その立場に異論を唱えない」、「中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての関心を再確認する」と述べた。「米国政府は、台湾からの全ての米国軍隊と軍事施設を撤退ないし撤去するという最終目標を確認する」と述べながら非平和的統一に対する軍事的介入の可能性を残している。中国は対日交渉を、過去の戦争の反省、「一つの中国」「台湾は中国の一部」の承認、両国は覇権を求めず、両国間で起こりうる問題・紛争は話し合いで解決の3点に絞り込んだ。日本はサンフランシスコ体制(対米追随)堅持を大前提とする国交正常化という考え方で臨んだが、結局、中国側の要求を受け入れた。すなわち、日中共同声明は、日米安保体制というよりは日本国憲法の9条の精神でつくりあげた。日本は、日華平和条約は終了したという立場をとり、アメリカよりも踏み込んだ。アメリカは、1979年に米中国交を樹立するが、同年、台湾関係法を成立させ、平和手段以外の台湾の将来の決定は西太平洋地域の平和と安全に対する脅威と規定し、台湾に対する武器援助を行うようにした。普通の国家では国際条約が国内法より上位にあるが、アメリカの場合は国内法が国際法より上位にある。日中関係は脆弱であり、台湾とアジアにおける覇権を維持したい考えるアメリカの対中戦略が変化するたびに、日本の対中政策が親9条的になったり反9条的になったりしていると分析した。

 最後に伊藤彰信(日中労働者交流協会)さんが「中国が戦争賠償請求を放棄した理由は『日中両国国民の友好のために』である。社会制度の相違があるにもかかわらず、平和友好関係を樹立したのである。隣の国と仲良くすることこそ一番の安全保障である。アジアの平和のために日中友好を促進しよう」と閉会の挨拶を述べた。

6月29日と30日を日中友好の日にしよう!

ー 中国人殉難者慰霊式に参加して ー

渡部公一(目黒区職員労働組合 前委員長)

花岡事件と出会う

私は、山形出身ですが、東京に就職するまで花岡事件について何も知りませんでした。30年ぐらい前になると思いますが、芝居「勲章の川」で知りました。その後、目前のことに追われ、再びこの事件に直面するのが日中労交の一員として「中国人殉難者慰霊式」(以下式典という)の参加でした。
日中労働者交流会の会長、伊藤彰信さんからメーリングリストで送られてきた参加要項やパンフ、事務局長の藤村妙子さんから紹介された本の中から野添憲治の一冊と大館市のホームページで昨年と一昨年のコロナ禍の式典をビデオで見ました。そこで、前日の6/29フォーラムと6/30式典とフィールドワークにどのように参加しようかなと考えました。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 01
大館市郷土博物館「のびゆく大館」の中央のホワイトボードに「花岡事件」の解説

大館市が式典を継続

オンラインzoomの日中友好カフェで、戦争中、強制連行など中国人や朝鮮人を過酷な作業と環境の中で使役させ、多くの犠牲者を出してきたことは紛れもない事実で、国をはじめ、数ある自治体の中でなぜ大館市が自治体として慰霊の式典を継続してきたか、話題にしました。1950年から山本花岡町長が個人ではじめた慰霊が、隣接する矢立村と合併、平成の大合併を経て今日の大館市になるまで、保守革新を問わず、継続して式典を開催していることは、とても素晴らしいことだと思います。今回の訪問で少しでも知りたいと考えました。
たまたま私は、往復飛行機だったので、6/29の10時過ぎに到着と15時から始まるフォーラムの間に大館市郷土博物館に行き、大館市の歴史、この中で花岡事件ついて見学したいと思い、幸い往復ともバスに乗車できました。郷土博物館は、「のびゆく大館」のコーナーに「花岡事件」、「花岡ものがたり(版画と解説)」があり、丁寧な展示だと思いました。また、「鉱山と曲ワッパづくり」の街として栄えていたことが知れ、「先人顕彰コーナー」で安藤昌益、小林多喜二(生誕地、5歳から小樽に移住)らの紹介もあり、期待どおりの展示でした。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 02
大館市郷土博物館「花岡ものがたり」版画と解説の連作

プレ企画、フォーラムin大館

「フォーラムin大館」は、同じ飛行機に搭乗していた池田香代子さんが岩間さん(認定NPO花岡平和記念会)とセッション、主なテーマは池田さんの著書「花岡の心を受け継ぐ(2021年7月発刊)」にある、大館市が中国人犠牲者を慰霊し続ける理由でした。
その後の参加者交流会で驚いたのは、認定NPO高麗博物館(東京、大久保)の仲間たち15人で、多くがシニア世代で10人は女性の参加です。しかも交流会の席は、お仲間で固まらず、他団体の席に相席するなど、知的好奇心・自己実現の旺盛な人たちでした。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 03
6/29「中国人強制連行 フォーラムin大館」に全国から60人余が参加
中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 04
6/29参加者交流会の様子「熱烈歓迎 日中友好 花岡事件生存者遺族関係者様 御一行」ステージは高麗博物館の仲間たち(前列のテーブル席が、李克金(故人)さんの遺族3人、大館市長代理:福祉部長ほか)

式典を日中友好の日に

ところで日本は、地理的に北方領土でロシア、竹島で韓国、尖閣諸島で中国と領土問題を抱えています。ロシアのウクライナ軍事侵攻が長期化する中、自公政権は、バイデン大統領の中国敵視政策と一体化し、「台湾有事は、日本の有事」と南西諸島のミサイル基地化、防衛費GDP5%など東北アジア平和外交を放棄し、軍備拡大路線まっしぐらです。あわせて、北朝鮮(共和国)の拉致問題も日本自らの課題とし対話すらしていません。
今年の式典は、参議院選挙直前の日程になってしまいましたが、例えば、中国と友好を求める全国の仲間へ、6/30大館市の式典と前日6/29「フォーラムin大館」を中国と日本の友好の日と位置付け、参加を広く募ったらと思います。また、参加者の中に映像作家や、ビデオカメラマン・監督もいました。せっかくの「フォーラムin大館」を有料配信も含め、リモート視聴による参加もできたらなと思いました。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 05
「中国人殉難者慰霊式」 前列、右から3人までが、李克金(故人)さんの遺族、その隣が福原淳嗣大館市長、その隣の女性(左から2人目)が中国大使館の参事官

現地ボランティアに感謝

最後に「フォーラムin大館」は、大館労働福祉会館で開催され、実行委員会の中に認定NPO花岡平和記念会の人たちをはじめ、大館市職労の若い委員長や、連合大館の役員の皆さんが参加していました。6/29のプレ企画だけでなく、6/30式典後のフィールドワークの案内やバスや昼食の手配などたいへんお世話になりました。
ありがとうございました。

「中国人強制連行フォーラムin大館」の新聞報道

 6月29日は、「中国人強制連行フォーラムin大館」に参加しました。翌30日は、
大館市主催の中国人殉難者慰霊式に参列し、その後、フィールドワークに参加し
ました。3年ぶりに県外からの参加者を迎え入れての開催でした。
 日中労交としては、初めての参加でしたが、非常に勉強になった2日間でした。
参加者から、報告と感想が寄せられると思います。私は、地元の秋田県北部の新
聞である「北鹿新聞(ほくろくしんぶん)」の切り抜きを添付して、先ず、雰囲
気を伝えます。
 大館の報告会は、7月23日(土)19時30分からの日中友好カフェで行います。
伊藤 彰信

慰霊を続けることが同じ過ちをしない誓いとなる  ー花岡慰霊(2022.6.30)の旅に参加してー

藤村 妙子 日中労交事務局長

花岡フォーラム 池田さんと実行委員の方

 日中労交は、6月29日~30日秋田県大館市で開催された1945年6月30日にあった花岡鉱山鹿島組において働かされていた中国人労働者が蜂起した「花岡事件」犠牲者の慰霊式に参加した。日中労交からの参加者は東京から3名、小名浜から2名だった。
「花岡事件」とは、戦争末期日本は鉱物資源の採掘、生産のため足りなくなった労働力を補うため中国から捕虜や農民などを強制連行し鉱山などで働かせた。この一つが現在の秋田県大館市花岡鉱山鹿島組の現場である。ここでは、最盛期986人(別に来日までに死亡者7人)が使役され、粗末な食事と過酷な労働のなか酷使された。中国人労働者達は、座して死を待つより闘おうと1945年6月30日深夜に蜂起した。しかし、翌日から行われた山狩りで検挙され、共楽館前の広場に集められ3日3晩食事も水も与えられずに置かれ、中心人物とみなされた人たちは過酷な拷問にあった。蜂起までに130名が死亡しており、蜂起後7月~敗戦までに116人、敗戦後166人合計419人が死亡している。

6月29日フォーラムと交流会 
「歴史に学ぶ」という事は、現実を直視することでもある

 地元をはじめ全国各地から集まった人たちは、まず大館市労働福祉会館「2022.6.30現地実行委員会」主催で開かれた「中国人強制連行 フォーラムin大館」参加した。まず、川田繁幸現地実行委した員長が「今のロシアのウクライナ侵攻は1931年~45年までのわが国ととても似ている。実際は侵略戦争なのに宣戦布告することなく「満州事変」などといい、今回ロシアはウクライナへの侵攻を「特別軍事作戦」と称している。こうした時だからこそ、実際にこの地あったことを慰霊することは大切なことである。そして、私たち市民が中国との関係をことは、今だからこそ大切です。」と開会の挨拶をした。
その後、田中宏一橋大学名誉教授が「歴史に学ぶとはどういうことだろう」と題する基調講演を行った。田中氏は、伊藤博文が1千円札の肖像画となったときに、在日コリアンの友人に「日本人の薄気味悪さを感じる。私たちの国を侵略した象徴的人物をお札に刷り込み毎日使うことに違和感を持たない。」という話をされたときに、自分がいかに歴史を学んでこなかったのかを意識した。1965年12月21日に国連総会において人種差別撤廃条約を採択した後一週後の12月28日文部省は「民族性又は国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校は、わが国の社会にとって、各種学校の地位を与える積極的意義を有するものとは認められないので、これを各種学校として許可すべきではない」という文部次官通達を出している。そして、2010年には朝鮮人学校を高校無償化から排除している。などの例を挙げながら日本政府が未だにアジア諸国で起きたことを反省していないことを問題にしながら、この大館地で毎年開かれている市主催の慰霊式は、国を超えた大切な行事であると語った。

 花岡の心を受け継ぐ       

 続いて『花岡の心を受け継ぐ』(かもがわ出版)の著者のひとり池田香代子さんのお話があった。池田さんは、2000年に鹿島と和解したことを知り「花岡事件の場所を見てみたい」と初めて花岡の地を訪れた以降何度も来て、何も知らないからいろいろな人たちにインタビューをした。この皆さんの声が結実したものがこの『花岡の心を受け継ぐ』となったと語った。そして、「延べ24000人の人たちが決起して逃げている中国人を探して動員された、まさに地域が加害者となったことをインタビューの中で実感した。しかし、戦後花岡町は、慰霊を行い、骨を収集し、慰霊碑を建設した。これは、保守・革新の違いを超えた『人として当たり前のこと』として現在も受け継がれている」と語った。そして会場にいる当時を知る地元の人も証言をした。「1940年生まれの自分は当時5歳。母親からブドウ畑にあった豚小屋の中に隠れ豚の餌を食べている中国人がいたと聞かされた。自分は、中国人の人たちが捕まえられて並ばされていた共楽館前の広場に行き『チャンコロ捕まった』とはやし立てたことを覚えている。」と語り当時、町中を巻き込んで中国人狩りが行われていた姿を語った。記念館を作った川田NPO花岡平和記念会理事長は「加害の歴史をしっかり伝えていくことが大切であると記念館を作った」と語った。池田さんは「慰霊式は謝罪する場などではなく、痛み続ける傷を癒し『あなたが受けた扱いは不当な事であった』と分かち合う場。その本質を胸に刻み市民の皆さんが手を携え合って臨みましょう」と結んだ。
 この後、参加した団体・個人の自己紹介がありこの集まりに花岡に心を寄せる人たちがたくさん来ていることを確認してこの日の行事を終えた。

6月30日 慰霊式
「事件を後世に語り継ぐことは市民の使命」大館市長の哀悼の辞

 6月30日は中国殉難烈士慰霊碑がある大館市花岡町の十瀬野公園墓地の「中国受難者慰霊式」に参加した。式では福原大館市長が「どのような状況下であっても人の自由、尊厳を奪い傷つける心無い行為は決して許されるものではない。長い年月が経過しようとも、事件を後世に語り継ぐことこそが私たち市民の使命」と哀悼の意を示した。遺族を代表して日本に住んでいる3名の方が参加した。「今年は日中国交正常化50周年。戦争に反対し、平和を守ることが共通の願い。」と慰霊の言葉を述べ、献水が行われた後、全参加者による献花が行われた。

花岡 中国殉難烈士慰霊之碑
花岡 中国殉難烈士慰霊之碑

受難の地を見学 
この場所で働き傷つき、立ち上がり 死んでいった人たちに思いをはせる

 続いて花岡体育館(旧共楽館)で昼食を食べた後、バスで信正寺と花岡記念館に向かった。信正寺は、決起後捉えられ、炎天下に晒され又は拷問された結果死亡した中国人労働者遺骨を安置した寺である。この寺の裏山には1949年鹿島が作った粗末な供養塔の前に2001年に建立された供養塔が建っていた。そばにある碑文には決起の日が7月1日となっていた。このことについて質問すると、「決起は6月30日の夜中に起きた。警察や町が知ったのは翌朝の7月1日だったので当初7月1日に起きたとも言われていたが、生存者の証言により6月30日夜であったことが確定している」とのことであった。

花岡 信正寺 新旧供養碑
信正寺 新旧供養碑
花岡 信正寺 慰霊の記
信正寺 慰霊の記

 続いて花岡平和記念館に行った。記念館は、2010年4月にオープンした。当時の花岡町の様子や労働者の姿や決起後死亡した人たちの氏名などが展示され、当時の死亡者についての記録もあった。

花岡平和記念館 中国人労働者
花岡平和記念館 中国人労働者
花岡平和記念館 当時の様子の木版画
花岡平和記念館 当時の様子の木版画

 次に中国人労働者たちが劣悪な環境の下に置かれた中山寮があった第二滝野沢ダムと寮を見下ろす山の上に建てられた「日中不再戦友好の碑」に向かったが、残念ながらクマが出没していて、バスを降りることは危険だと判断されていくことができなかった。是非、次回は行ってみたいと思った。
 次に「滝之沢暗渠跡」に行った。これまで中国人労働者が働いていたのは花岡川の改修工事だと言われていたが、鹿島建設と藤田組(現同和鉱山)の工事請負契約には「中国人使役条件」として「排水暗渠」「築堤」「山腹水路」に300人をと書かれている。使役とは強制連行して働かせることである。1944年8月8日に299人が中山寮に到着している。ここに働いていた生存者の証言でもこの場所で働いていた事が示されている。花岡川改修工事は、1944年11月から始まり、ここへは第二次強制連行以降であるという事が最近判明したとのことであった。

この史実を多くの人に伝え続けたい

花岡 滝ノ沢暗渠跡
滝ノ沢暗渠跡

  私は、市主催の慰霊式には中国人の人たちも参加している事の大切さを感じた。蜂起の中心人物だった耿諄大隊長が以前訪日した後『花岡は第二の故郷だ』と語ったというように、日本人が侵した行為によって奪われた命はもう戻らないが、こうした慰霊を続けていくことが二度と同じ過ちをしないという誓となると思った。しかも、市主催で行われている事の大切さを感じた。そして、この史実を是非多くの人たちに伝え続けたいと思った。

日中労交2022年度総会  ~100年に一度の大変動の時代に「日中不再戦の誓い」の意義を確認

藤村 妙子(日中労交事務局長)

総会において更に活動を発展すると確認

 5月8日午後 東京大田区蒲田の日港福会館において日中労働者交流協会(日中労交)の2022年度総会が開かれました。総会はWEB併用で行われ、委任状も含め38名で行われました。そして、総会当日に新たに加入した方がいたことは、大変良かったと思います。

 第一部の議案については、「2021年活動報告」「2022年活動計画」「決算・予算案並びに会計監査報告」「役員選出」がそれぞれ提案され、了承されました。

 コロナ禍の中、昨年は訪中も国内でのツアーもできませんでしたが、日中国交回復50年の節目の年として集会を行ったことや南京から毎月のように送られてくる「南京国際平和通信」や「人民網日本語版」を会員に知らせるとともにホームページに載せ日中友好の糧としてきました。そして、今年は引き続き日中国交回復50年の各種催しを他団体と協力しながら行うことを決めました。また、国内ツアーの第一弾として6月30日に行われる大館市主催の「花岡事件 中国人殉難者慰霊式」に参加する予定です。また、秋には長野の「満蒙開拓記念館」へ訪問する計画であることが了承されました。この国内ツアーには、是非とも若い人たちの参加を呼び掛けたいと思っています。

憲法と「日中共同声明」に基づく外交を

 第二部は伊藤会長の「日中共同声明を発展させ、日本国憲法に基づく国連憲章の改正を」という講演でした。私は、2021年4月の日米首脳会談において「台湾条項」が書き加えられ、再び日中戦争が起きるかのような喧伝が行われている中で私たちが考えていく視座を提起するとても有意義な講演だと思いました。しかも現下の「ロシアによるウクライナに対する侵略」という事態の中で、これを奇禍として軍事費増強、敵の中枢への攻撃をも行う「反撃能力」の整備、更には憲法改悪まで目論まれている中で、労働者市民が現政権批判において不十分な点を明らかにした示唆に富んだものでした。

 日中共同声明を結んだ田中角栄が「一番の安全保障は隣国と仲良くすることだ」と言っていたと伝えられています。しかし、現政権は隣国と仲良くするどころか、過去の反省もなく、アメリカと一緒に隣国への非難の急先鋒に立っています。そして、平和運動の側でも隣国との平和友好のために交流と連帯を行うことを躊躇する傾向が残念ながらあります。私たちの役割は「子々孫々、世々代々にわたる両国労働者階級の友好発展を強化し、アジアの平和を確立する」(「日中不再戦の誓」より)ことだと改めて思いました。

 また、今回の講演で「目から鱗」だったのは、私たちが今回のウクライナで起きていることを批判する時によって立つ立場は「日本国憲法」と「日中共同声明」にあるという事でした。

ロシアのウクライナ侵略は「国連憲章違反」と言われていますが、「武力による威嚇と武力の行使を慎む」(国連憲章第2章4項)というように「慎む」と書かれているだけで明確に否定していません。そして、お互いに「武力の行使を慎もう」と呼びかけても紛争(戦争)が止まらない場合は、国連軍が到着するまで「自衛権の行使」を認め、また「集団的自衛権

」も認めています。そして、「国連軍」が武力による制定を行うと定めています。話を聞きながら「朝鮮戦争」を思い浮かべていました。朝鮮戦争時には「国連軍」が武力をもって威嚇し、停戦となりました。現在も「終戦」していないので、「朝鮮戦争国連軍本部」は日本の米軍横田基地内の一角にあります。まだ終わっていない戦争が現実にあります。ロシアや中国が(今回以外の戦争ではほとんど場合アメリカが)常任理事国として「拒否権」を使うから戦争が終わらないのではなく、「武力のバランスによる平和を謳う国連憲章」(レジュメより)だから難しいという証左ではないでしょうか。

ではどうすればいいのかという事の答えは、日本国憲法の前文と第9条に象徴される「武力の威嚇・行使の放棄と戦力の不保持」と日中国交回復時の共同声明「主権及び領土の保全の相互尊重、相互不可侵、内政に関する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立する」、「相互の関係において、すべての紛争を平和的手段によって解決し、武力又は武力による威嚇に訴えない」(第6項)「アジア太平洋地域において覇権を求めるものではなく、このような覇権を確立しようとするいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」(第7項)に基づいて「国連憲章を変えるべき」であると話されました。「日本は、日米同盟から脱却し、非武装・非核、中立を貫き、非同盟諸国と共に世界的に平和を築くために努力すべきである」(レジュメの結語)と強調されました。

私は、海に囲まれた島国日本が平和に生きていくためには、近隣諸国との平和友好関係を結ぶことが大切であると考えています。そしてこの平和友好関係を結ぶ際の見本が「日中共同声明」であると思います。今回のウクライナ戦争においても国連で様々な決議や動きがありますが、賛成しているのはヨーロッパやアメリカの同盟国です。世界の人口比から考えれば半分にもなっていません。こんな中で「第三次世界大戦」だという煽られ方もしていますが、誰もが幸せにならない戦争は一刻も早くやめさせなければなりません。日本は、アメリカに協力するようにアジア諸国を廻るのではなく、憲法に基づく平和外交を行うべきだとつくづく思いました。こうした考え方少しずつでも広めるために、今後も活動していくことを改めて思いました。今後WEBを使い「平和友好カフェ」を始めようという試みがあります。こうした100年に一度の転換期だからこそ、自由闊達に意見を交わし、共に考え、私たちの指針である「日中不再戦の誓い」を実践していきたいと思います。