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花岡を訪ねて

藤村 妙子 日中労交事務局長

加害の歴史を心に刻んで

  秋田県大館市において開かれた「2023年6.30フォーラムin大館」(6月29日大館労働福祉会館)と「中国人殉難者慰霊式」(30日大館市花岡町十瀬野公園墓地)に、日中労交からは伊藤会長をはじめ6名が参加した。
 今年はコロナ禍で途絶えていた中国からのご遺族3名の他支援者3名と河北省紅十字会訪日団4名が4年ぶりに参加した。
 「フォーラム」では、主催者の川田現地実行委員長から「ロシアのウクライナ侵攻は、戦中の日本を想起させる。いつも犠牲になるのは民衆である。私たちは、日本の中国をはじめとするアジアへの侵略をしっかりととらえ返さなければいけない。この花岡の地で起きた中国人労働者への虐待・虐殺を決して忘れず加害の事実を直視することが大切である。」との開会のあいさつがあった。
 続いてご遺族へのインタビュー形式の証言があった。張徳健さんは、おじいさんの張根惠さんが日本に連れ去られてからの生活をおばあさんやお父さんから聞いた話を語った。「おじいさんがいなくなってからは、当時2歳だったお父さんとおばあさんだけでは暮らしていけず、おばあさんの実家や色々なところに渡り歩いて暮らした。おじいさんが残してくれた家も土地も奪われてしまった。おじいさんが花岡で亡くなったことを戦後知ったが、どのようにして亡くなったのかはよくわからない。侵略戦争の中で自分の家族のようにバラバラになり、苦しい生活を強いられた人はたくさんいる。子孫としては、日本政府は、中国人の尊厳を奪った歴史を心に刻み、正しい歴史観をもって伝えてほしい。」と語った。
 王竜旺さんは、「自分は父親の王世清が帰国してから生まれた。」「父親の親であるおじいさんが中国国内で日本に連れ去られ行方不明になってしまった。おじいさんを探すためにおばあさんはいろいろ苦労したが、具合が悪くなり亡くなってしまった。父親は生き延びて日本と戦いたいと国民党軍に参加したが、日本軍に捕まり捕虜となり、花岡に連れてこられた。ここで足を怪我してしまった。父親からは、満足に食事も与えられなかったことや1945年6月30日に決起したことを聞いた。中国に帰国してからも足が悪く力仕事ができなかったので、家族はとても苦労をした。花岡であったことは決して忘れてはいけない。日本政府に謝罪と賠償を望んでいる。」と語った。
中国人強制連行フォーラムin大館

死者の恨(ハン)・生者の恥辱(ツゥルゥ)

 次に花岡平和友好基金運営委員の林伯耀さんから基調講演があった。林さんは「死者の恨(ハン)をそのままにしているのは、生者の恥である」という中国の故事を題名とした。「中国人が人間らしく生きようとしたことが花岡の地では踏みにじられた。その後日本人と中国人が何十年もかけて行動してきたが、いまだに尊厳は回復されてはいない。」と語り始めた。日本側の頑迷な中国・朝鮮に対する排他的差別観と侵略戦争への無反省があること。とりわけ、鹿島側が「裁判所から勧告された金額を拠出し『花岡平和友好基金』の設立を含む和解条項に、合意いたしました。なお、本基金の拠出は、補償や賠償の性格を含むものではありません」というコメントを2000年11月29日に発したことに対する花岡事件生存者や遺族の落胆と怒についてのお話は真の和解とはなにかを考えさせられる内容だった。

今こそ日中友好を

 最後に、日本人団体からの活動報告として「中国人強制連行を考える会」から今回の訪日団の紹介と昨日浅草の運行寺で張徳健さんがおじいさんの位牌と対面したことや河北省紅十字会から書が贈られたことの報告があった。「日中労交」の伊藤会長からは、南京にある碑に「日本軍国主義の中国侵略を労働者人民の闘争によって阻止しえなかったこと」そして、今また同じ歴史が繰り返そうとしている。今こそ、日中の平和友好が大切なこと。そして、日中労交が発足する前に花岡にあった遺骨を中国へ返還する事業に協力していた」と発言した。また「ノーモア南京の会」の方から、「現在大分市内に弾薬庫が作られようとしている。反対の闘いへの支援を」との発言があった。
 場所をプラザ杉の子に移動して「6.30歓迎夕食会」が行われた。夕食会には、大館市福祉部長のあいさつがあり、石田寛秋田県議員が乾杯の音頭を行った。
 李政美(イ・ジョンミ)さんの歌声を聞きながら料理を堪能した。そこかしこで交流の輪が広がる友好の夕べだった。
李政美(イ・ジョンミ)さんの日中友好の歌声
熱烈歓迎 日中友好交流会

大館市主催の「中国人殉難者慰霊式」に参加

 6月30日は、時々強い雨が降る中で大館市主催の「中国人殉難者慰霊式」が十瀬野公園墓地にある「中国殉難烈士慰霊之碑」の前で開かれた。
主催者の福原大館市長は「人の自由や尊厳を奪い、傷つける心なき行為は決して許されることではない。恒久平和を実現するため事件を風化させず、悲惨な歴史を後世に語り継いでいくことが私たち大館市民の使命」と式辞を述べた。秋田県知事の慰霊の言葉を代読した。
 遺族を代表して張恩竜さんが、「先輩たちが鞭の下、残忍なる苦役に付された惨状を決して忘れない。圧迫に抗して1945年6月30日、決死的花岡暴動を起こしたことを忘れない。加害企業の鹿島との間で和解達成した。大館市民がコロナ禍でも厳粛な慰霊式典を続けてきたことを忘れない。血の教訓を忘れず平和を希求する。2021年3月24日大阪にて日本政府を提訴した。判決では「中国人労工の強制連行は日本政府の全面的参与による」としつつもわれらの要求は棄却された。われらは、最終的勝利を、この地に惨死した先輩たちに伝えたい。戦争反対は両国民の共通の願いである。歴史を心に刻み、中日代々の友好のためたゆまぬ努力を行う」と追悼の辞を述べた。
 この後献水と大館市議会議員や各界代表者の献花があった。私たちも、李政美さんの歌声と共に献花を行い、慰霊式を終えた。
中国人殉難者慰霊式の会場
中国殉難烈士慰霊之碑

フィールドワーク 花岡事件の実相に触れる

 小雨の降る中、足場が悪いなどの理由で「日中不再戦の碑」や「滝ノ沢暗渠跡」には行かれなかったし、中山寮跡もバスの中からの見学となってしまった。
 昼食は、共楽館跡地に建てられた体育館で食べた。この場所で3日3晩さらされた場所である。外にはこの事実を伝えるレリーフと碑が立っている。
 花岡平和記念館では、展示を見ながら案内の方から説明を受けた。「強制連行された中国人は日本全国で41,762人いた。中国国内の収容所で2,015人、船内で564人、国内の事業所に到着するまでに248人が死亡している。鹿島組花岡出張所へは1944年8月8日から三回に分けて986人いた。1945年6月30日までに渡航中死亡7人も含め137人が死亡している。6月30日の一斉蜂起後、拘束され飲まず食わずの状態で3日間共楽館の広場に晒され、共楽館内や警察署では取り調べや拷問が行われた。その結果、282人の計419人が死亡している。「殉難碑」には同和鉱山での死者10名も含めた549名が慰霊されている。」などが展示物を見ながら説明を聞いた。
 遺骨が中国に返還されるまで安置されていた「信正寺」では、「華人死没者追善供養塔」を見学した。鹿島は、火葬が大変だからと死体は穴を掘って埋めていた。1945年10月6日アメリカ占領軍にこのことが発見され、掘り出し焼いた後400余りの木箱に詰めて信正寺に安置した。その後も散乱する遺骨が「ひと鍬運動」などによって掘り出された。1949年に鹿島はコンクリート製の粗末な供養塔を立てた。鹿島は2000年の和解成立後、新しい供養塔を立てて古いものは撤去しようとしたが、生存者や遺族そして地元の人々の支援者などが反対し、両方ともこの地に置かれている。
 どの場所も、花岡事件の実相を伝えている。ぜひ来年も慰霊祭に参加して、この事実を多くの人たちに伝えていきたい。
花岡平和記念館
信正寺、「華人死没者追善供養塔」

「公文書を生かす 情報公開法成立20年」第5回 公的記録少ない満蒙開拓 市民活動が解明補う

会員の活動が毎日新聞に載りました。

 会員の藤村妙子さんが共同代表を務める「東京満蒙開拓団を知る会」の活動と、著書「東京満蒙開拓団」の内容紹介などが。毎日新聞の下記の記事に掲載されました。

「公文書を生かす 情報公開法成立20年」第5回 公的記録少ない満蒙開拓 市民活動が解明補う 

2019年8月26日毎日新聞朝刊

 1932(昭和7)年から推計約27万人が農業移民として中国東北部に送り出され、敗戦後の逃避行で約7万2000人の死者を出したとされる「満蒙開拓団」。寒村の救済策とのイメージでとらえられがちだが、東京発も全国9位の約1万1000人いた。

 どんな人たちが東京から大陸に渡ったのか、長らく実態は分からなかった。「東京府(都)の文書の中に開拓団の資料が残っていないからだ」。この問題に詳しい加藤聖文・国文学研究資料館准教授は解説する。「(開拓業務を所管した)拓務省がなくなると、戦後は外務省、農林水産省、厚生労働省などにばらばらに引き継がれ、文書が廃棄または所在不明になっていった。地方も同じような事情だったのだろう」

 例えば39年に作られた農業移民のための訓練施設「東京府拓務訓練所」(東京都日野市)と訓練を受けた人々について、公的にはどう記録されているのか。日野市郷土資料館で助言を受けた後、東京都公文書館(世田谷区)を訪ねると、いくつかの文書が見つかった。用地購入を巡る書類のほか、府(都)公報に設置や廃止の記載があった。それによると山林や畑を買収して開設。「訓練所規定」では、訓練生は定員100人で6カ月間、農業実習のほか、「皇道精神」や「農民道」を学び、教練や柔剣道をすることになっていた。訓練を受けた人々の姿が分

かる文書は見つからなかった。公文書からたどることに限りがある中で、東京発の開拓団の全体像をつかんだのは、東京都大田区でミニコミ誌「おおたジャーナル」を発行していた今井英男さん(2013年に死去)たちのグループだった。地元から開拓団が出ていたことに驚いて07年、調査を始めた。公文書館だけでなく、史料館、図書館などに通って新聞・雑誌の記述、民間の資料を収集したほか、生還者の証言を集めた。12年に書籍「東京満蒙開拓団」(ゆまに書房)にまとめた。

 この本を読むと、32年に恐慌による都市の生活困窮者が送り出されたのが始まりで、戦争が始まって職を失った中小の商工業者、最後は空襲で家を失った人々が集められたことが分かる。今井さんたちによると、東京府拓務訓練所は、ブラジルへの移民が頓挫して満州への大量移民が始まる時期に、初の府直営施設として誕生。移民送り出しに重要な役割を果たした。送られた人たちには、過酷な運命が待ち受けていたのだろう。

 後世にこうした事実を受け継ぐことはできるのか。「東京満蒙開拓団」の著者の一人、藤村妙子さん(65)と7月、日野市程久保の訓練所跡地を訪ねた。多摩都市モノレールの駅から坂を登って30分近く。福祉施設や養護学校に変わっていた。施設職員らに訓練所跡について尋ねたが「何もない」「分からない」と言われた。藤村さんは「ここに来ても訓練所のことが分からない。過去にあったことの表示をすべきだ」と話した。

 藤村さんは、大陸に渡った人、亡くなった人たちの氏名が一部しか伝えられていないことも気にかける。「正確な歴史を伝えることが悲劇を繰り返さないようにすることだ」と話す。

満蒙開拓団

 関東軍が1931年に満州事変を起こして作った中国東北部のかいらい国家「満州国」の支配を確立するため日本の国策で32~45年に送った農業移民団。敗戦後の逃避行で集団自決などがあったほか、残留孤児・婦人約1万1000人(推定)を出した。敗戦間際に軍に召集された人の多くは旧ソ連により抑留された。

日中労働情報フォーラム事務局長就任にあたってー藤村妙子 

私は、地域の市民運動の仲間たちと東京からの満蒙開拓団の調査研究を行う「東京の満蒙開拓団を知る会」を2007年9月に作り研究の成果を2012年9月にゆまに書房から出版しました。この拙著が会長の伊藤さんの目に留まり、2016年4月16日(くしくもこの日は私の誕生日!) 第4回総会において「なぜ東京から一万人も満州に渡ったのか「東京満蒙開拓団」~その背景と史実から学ぶもの~と題して講演を行ったことが縁で入会しました。

総会で司会を務めた藤村妙子新事務局長

私と中国との関係は、高校生の時から始まります。学園紛争が華々しく闘われた後の1970年4月に入学した高校では様々な教育改革が行われていました。制服はなくなり、自由な雰囲気が漂っていた頃でした。そして、高校2年から「選択授業」が各種あり、私は「中国近代史」を選択しました。週一回中国の近現代史、日本が戦争中に行ったことを本多勝一氏の「中国の旅」をテキストとして学んだり、毛沢東の「実践論」「矛盾論」を読んだりしました。この時の経験が、私のその後の人生を決めたと言ってもいいと思います。

今、毎日中国の事が報道されない日がないほど、世界的な様々な動きと中国の動きは連動しています。中国は日本の侵略とその後の内戦などによる破壊や様々な問題を克服し、日々変化し、発展しています。私は「中国近代史」の授業の時に教師の「中国は広い、変化に富んでいる。今が全てではなく、矛盾の中から次の力が生み出される。日本にいたら感じられないダイナミックなものがある。」という言葉を思い出します。
こうした中で、「中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止し得なかったことを深く反省し(中略)日中不再戦、反覇権の決意を堅持し・・・両国労働者階級の友好発展を強化し、アジアと世界の平和を確立するため、団結して奮闘することをあらたに誓います」という日中労交の初代会長の市川誠氏によって起草された「誓い」の一節は、今も私たちの方向性と決意を示していると思います。
まだまだ、経験の浅い事務局長ですが、先輩諸氏のご指導を受けながら、次の世代にこの運動を繋ぐ役割を微力ですが果たして行きたいと思います。

藤村 妙子 
(東京南部全労協事務局長/東京の満蒙開拓団を知る会共同代表)

参考資料 大田区職労ニュース掲載の藤村妙子のメッセージ

「東京満蒙開拓団」~その背景と史実から学ぶもの~ 講演ビデオ

<日中労働情報フォーラム第4回総会 特別講演(2016/4/16)>

 なぜ東京から1万人も満州に渡ったのか?
「東京満蒙開拓団」~その背景と史実から学ぶもの~

 講師 藤村 妙子(東京の満蒙開拓団を知る会)

講演した藤村妙子さんは東京南部の地域で労働組合の役員や市民運動をしてきた方だ。
2006年地元の高校生が学園際で配ったパンフレット「興安東京荏原郷開拓団の最後」で初めて知ったと時の衝撃は忘れることができないと語る。なぜ東京から開拓団が出たのか、足元の史実が知りたくて仲間と調査を開始したのがきっかけだった。そして、実は東京から1万1111名の開拓団が満州に送られた事実を知った。
多数の開拓団の中に武蔵小山商店街の団がありこれが「荏原郷開拓団」だった。農業と関係ないクリーニングや乾物屋、運送業などに従事した人々がどうして満州の開拓団に参加させられたのか調べていく。その結果、当時(1930年代)は産業も国家予算も民生を圧倒する軍事予算と軍需に急傾斜していく中で商店など仕事を辞めざるを得なかった背景が浮かび上がる。 <ビデオ 49分>

講演の報告記事