■ 2024年11月16日、第8回国際ピースウォーク「感謝・国際安全区」開催
■ 2024年新資料の発表会を開催
■ アイリス・チャンご逝去20年 南京の専門家が偲ぶ
■ 2024年12月13日に行われた南京大虐殺犠牲者国家追悼式
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■ 2024年新資料の発表会を開催
■ アイリス・チャンご逝去20年 南京の専門家が偲ぶ
■ 2024年12月13日に行われた南京大虐殺犠牲者国家追悼式
南京紀念館から南京国際平和通信第60号が送られてきました。
<60号の目次案内>
■ 第三陣の南京大虐殺歴史記憶継承者がスタート
■ 南京防衛戦で戦死したパイロットの子孫が訪ねた
■ 音声による歴史記憶の構築
渡部公一
上演と講演の夕べ
12月13日(金)、18時半からカメリアプラザ(江東区亀戸文化センター)で上記集会がありました。参加は、中高年の中、学生も多数いて、会場が埋まり70人を超える参加でした。
当日は、加賀美さんの司会で始まりました。
はじめにノーモア南京東京の会の田中宏さんから開会のあいさつがありました。
次に映画監督の武田倫和さんが制作のドキュメンタリー映画「老華僑は黙らない」1時間のパイロット版上映。
上映後、町田さんから、林伯耀さんにずうっと同行してきたこと、中国から掛け軸「徳如海壽如山」を日本のものだからと預かってきたことなどが話されました。
次に林伯耀さんから、初めに南京の犠牲者のためにみんなに30秒間の黙とうの提案。黙とうの後、軍備を増強し、中国敵視政策を強める日本政府をはじめ今の状況を非常に憂慮しているとのこと。この中で日本被団協がノーベル平和賞を受賞したことは、これからの平和運動を進めていくうえで素晴らしいこと。この時一緒に、なぜ日本に原爆が落とされたのか、加害の日本のことも一緒に語ってほしかった。そして、南京大虐殺に従軍した梶谷健郎さんが描いた絵を掲示し、当時の4列縦隊死の行進をさせた加害の事実を語った人がいたことを話してくれました。最後に耿諄さんと中国で最後に会ったことについて話してくれました。新美隆弁護士が既に鬼籍に入り、彼が命をかけて花岡事件に取り組んだ彼の著書と一緒に、写真撮影をお願いしたが、考え抜いた末できないと言われた。無言のまま振り返ることなく別れたこと。 その後、耿諄さんが亡くなり、墓参したことが話されました。
集会最後に、映画監督の武田倫和さんから、自身が制作している「老華僑は黙らない」についてお話がありました。武田監督は、林伯耀さんらと同行し、このドキュメンタリー映画、600時間ある中、今日のために7時間ぐらいに編集し、さらに1時間に編集したとのこと。武田監督は学生時代に制作したドキュメンタリー映画「ウトロ 家族の街」で有名です。
私は、林さんのお話で、日本被団協がノーベル平和賞の受賞をたたえながら、戦争を引き起こした加害の歴史にも触れてほしいとの思いに共感しました。また、武田監督制作中のドキュメンタリー映画ともシンクロしますが、林さんが耿諄さんを訪問し新見弁護士にふれた映像のシーン、亡くなってから町田さんと一緒に墓参した映像を見ることができ、和解と寛容についてとても考えさせられました。
受付で、パンフ「18歳、22歳のあなたへそしてご家族、友人の皆さんへ 湯煙の後ろに?が立っていませんか」大分敷戸ミサイル弾薬庫問題を考える市民の会発行、「本当に『中国は攻撃して来る』のだろうか?」ノーモア沖縄戦・えひめの会発行などの配布がありました。
<お願い>
武田倫和監督のドキュメンタリー映画「老華僑は黙らない・老華僑ブルース」完成に向け、サポート募集中だそうです。
ゆうちょ銀行 店名418 店番418普通預金 口座番号 7845123 タケダ トモカズ
武田倫和監督のメール nomadic118@yahoo.co.jpまで「お名前」「ご住所」「お電話番号」をお知らせください。お名前を映画本編のエンドロールに載せさえていただきますので、記載の有無もお知らせください。
日中友好の思いを南京から
伊藤彰信(第9次訪中団団長)
2014.12.19
第9次「日中不再戦の誓いの旅」は12月12日から15日までの4日間、南京を訪問しました。南京大屠殺死難者国家公祭に参加するとともに、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館、利済巷慰安所旧址陳列館、ジョン・ラーベ紀念館など南京大虐殺関係施設を見学し、南京師範大学の林敏潔教授ならびに学生と交流してきました。
訪中団は、団長=伊藤彰信(日中労交会長、元全港湾委員長)、副団長=新崎盛吾(日中労交副会長、元新聞労連委員長)、秘書長=中原純子(全労協常任幹事)、団員=松尾直樹(「社会新報」記者)、吉田武人(早稲田大学4年)、工藤優人(立教大学4年)の6名です。
現在、南京大虐殺の幸存者は34名になってしまいました。南京大虐殺をどう伝承していくか、南京紀念館の努力を感じることができました。昨年はコロナ期間中のブランクを取り戻すために交流をつなぐ旅でしたが、今年は受け入れ側の態勢も整い、若い団員の活躍もあり、次の世代に伝えていく展望をつかむことができた旅でした。
以下、旅の経過と概要を簡単に報告します。
<12月12日(木)>
成田空港を13時に出発し、16時に南京空港に到着しました。直行便が毎日飛ぶようになり、移動時間が短縮されました。南京空港には、中国職工対外交流センターの石晶晶さん、江蘇省職工サービスセンター副主任の盛卯弟さんが出迎えてくださいました。石晶晶さん、盛卯弟さんには全行程を同行して通訳を務めていただき、本当にお世話になりました。
宿泊先の天豊大酒店(南京市総工会が経営するホテル)で劉月科江蘇省総工会副主席が主催する歓迎宴が開かれ、焦勇南京市総工会副主席、庄誠江蘇省総工会弁公室主任、付光宇南京市総工会弁公室副主任と親しく懇談しました。
<12月13日(金)>
南京大屠殺死難者国家公祭に参加するため、8時30分にホテルを出発し南京紀念館に向いました。紀念館の庭園が整理され、日中労交の「誓いの碑」も新しいデザインになりました。国家公祭は10時前から始まり、国家斉唱、黙祷(サイレン)、花輪奉奠、李書らい(石が三つ)・中央宣伝部長の主催者あいさつ、平和宣言(中学生が朗読)、平和の鐘打鐘、放鳩とすすみ30分程度で終了しました。
日本からの参加者が昨年に比べてさらに減り、日中友好団体の代表が5名に絞られる中、別枠で日中労交6名の参加が認められたことは、国家公祭に毎年参加している実績と若い人を連れて行っていることが評価されているのではないかと思いました。
南京市内には虐殺現場20数か所に紀念碑があり、10時から各紀念碑でも追悼式が行われます。そのひとつである長江のほとりの中山埠頭紀念碑を訪れました。献花が置いてあり、テレビ局が取材を続けているところでした。
昼食後、ジョン・ラーベ紀念館を見学しました。その後、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館を見学し、17時30分からの国際平和集会に参加しました。昨年から宗教色が消え、小中学生を中心とした集会になりました。国際安全委員会のメンバーのロバート・ウィルソン医師のひ孫さんがあいさつし、南京紫金草芸術団の小学生が紫金草の歌を歌いました。大型スクリーンを置いてクレーンやドローンを駆使した撮影、デジタル画像を組み合わせた演出は、素晴らしいものでした。
<12月14日(土)>
9時にホテルを出発し、10分ほどで利済巷慰安所旧址陳列館に着きました。陳列館ができて9年目になりますが、年々充実しているように感じました。昼食後、ウィルソン医師が活躍した鼓楼病院の歴史陳列館を訪ねましたが一般公開はされておらず、当時の建物を見て回りました。
その後、南京師範大学を訪ねて林敏潔教授をはじめ日本語学科の大学院生と歴史記憶の伝承について懇談・交流しました。日本人が南京紀念館を見てどのような印象を持つのか、日本では国家公祭について反日意識を高めるために開催していると報道されている、中国人は被団協のノーベル平和賞の受賞をどう思っているのかなど、突っ込んだ話もありました。中国では日本が侵略したことを知っていても日本での強制連行や被爆のことを良く知らない、日本では原爆や沖縄地上戦のことを知っていても中国での虐殺や慰安婦(戦時性奴隷)のことを良く知らない、ということが良く分かりました。
夕方、南京市職工療養所を見学しました。療養所とは保養所のことです。一般にも公開され、会議や宿泊ができる施設です。労働模範になると療養所で休暇を過ごすことができます。療養所で夕食をとった後、近くの金陵小鎮を見学しました。金陵小鎮は六朝時代の南京を体験できるテーマパークで、ライトアップされた夜景がとてもきれいでした。
<12月15日(日)>
ホテルを5時15分に出発し、南京空港8時10分発の飛行機で12時に成田空港に戻りました。
<南京国際平和通信No59 目次案内>
■ 抗日戦争勝利の日、勝利のラッパが鳴り響く
■ 中秋の節に生存者お見舞い
■ 歴史を忘れるな、9月18日を忘れるな
■ 国際平和デーに国内外の青少年が記念館で平和を願って歌った
■ 烈士記念日に英雄の手紙を読み上げる
10月13日(日)に第27回大阪中国人強制連行受難者追悼会が開催されました。
以下、大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会の冠木克彦代表のあいさつと日中労働者交流協会の伊藤彰信会長のあいさつを掲載します。
本日は第27回大阪中国人強制連行受難者追悼会に御参列いただき心より敬意を表します。また、本日は、中華人民共和国大阪総領事様の御参列をいただきました。心から御礼を申し上げ、後に御挨拶をいただきます。
さて、この追悼会も27回を数えることになりましたが、最近、日中労働者交流協会から、この冊子「南京に『日中不再戦の誓い』の碑を建てて」が出版されました。私はこれを読み、日本軍国主義のすさまじい中国侵略により殺戮・強奪等筆舌に尽くしがたい被害を加えられた中国の人達と、加害国民である私達がいかにして信頼と友好を作り上げてきたか、その歴史を詳しく知ることができました。中国は1972年9月29日調印された「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」以来、日本軍国主義と日本人民を明確に区別して友好を広げ深めていただいてきたことに心から感謝を申し上げたいと思います。
そして、私達日本国民側は、政府の冷たい仕打ちに屈せず、労働組合を中心として、自主的に中国人民との信頼関係を作り上げてきたことを確認できます。日中国交回復がなされた1972年9月、北京に到着した田中角栄首相は「私は、長い民間交流のレールに乗って、本日、ようやくここに来ることができました」と語りました。
日中友好の主役は私達民衆であることを確認することができると思います。
ところで、私達の意思とかけ離れたところで、日中間を離反させ、対中国に対する嫌中意識をあおり、台湾有事などとありもしない危機意識をたきつけて、再び軍事的挑発をしようとする勢力がうごめいています。
このような動きに対し、私達は、日中間には安定的な発展と未来を切り開く、「日中共同声明」(1972)、「日中平和友好条約」(1978)「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」(1998)、「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」(2008)という4つの重要な基本文書が日中間でとり交わされているということを声を強くして主張し、日中間自体には何ひとつ戦争の火種になるものはなく、問題は、ただ一つ、アメリカが日本を先兵としてこき使おうとして軍事的要求を強めていることをくりかえし批判しなければなりません。
私達の追悼実行委員会の活動は、ささやかな活動ではありますが、その「心」としては、広く、大きく、そして、穏やかな、日中友好の活動です。可能なかぎり、当初結成した頃のように労働組合に深く浸透し、多くの支援をいただきたいと考えております。今後とも御支援のほどをお願いし、代表挨拶といたします。
日中労働者交流協会会長の伊藤です。以前、全港湾という港で働く労働者の労働組合で中央執行委員長をしていました。私は今回初めて大阪の追悼会に参加しました。実行委員会が1998年より毎年追悼会を開催していることに敬意を表します。そして、このような席で発言の機会をいただいたことに感謝いたします。
はじめに、私は、中国からここ大阪の地に強制的に連行され、粗末な宿舎や食事しか与えられず、危険な重労働に従事させられ、亡くなられた方々に心からの哀悼の意を表します。大阪に連行された中国人の多くは港湾労働に従事させられていました。日本に強制連行された中国人は約4万人です。土木建設、鉱山、港湾、造船で働かされました。日本で6830人が亡くなりました。1931年の満州事変以降、中国本土で日本軍の捕虜となり、また拉致されて強制連行・強制労働させられた中国人は約4000万人といわれています。日本に連れてこられたのはその0.1%ですが、私たちは日本にいて戦地における加害の状況を知ることができるこの事実から目を背けることは許されません。
日中労交は1974年8月、総評系の産別24組織、9地県評、中立労連、海員組合が参加して結成されました。初代会長は市川誠総評議長、初代事務局長は兼田富太郎全港湾委員長です。日中労交は、総評の解散、天安門事件の影響もあって機能停止に陥りましたが、個人加盟の組織として再建しました。その後も解散の危機に陥ることもありましたが、なんとか今年結成50周年を迎えることができました。
日中労交の50年の歴史を残すために編集委員会を組織して「南京に『日中不再戦の誓い』の碑を建てて」と題する本を発行しました。本を書くにあたって、二代目事務局長であった平坂春雄が、この人は全港湾関西地本の書記長をした人ですが、残してくれた日中労交の機関誌「日中労働者交流」を読み返しました。平坂資料の整理を担当したのは、元全港湾大阪支部副委員長の平石昇です。「日中労働者交流」2005年11月5日号に実行委員会代表の冠木弁護士が「追悼記念『彰往察来』碑の建立除幕」と題する文章を寄稿しています。50年史の中に「彰往察来」碑のことを書き残しておかなければならないと思いました。大阪市との交渉に関する資料も出てきました。櫻井さんから大阪における強制連行の実態や1950年代の慰霊祭、「彰往察来」碑建設に関する資料を提供していただき、第9章を書くことができました。櫻井さんに改めてお礼申し上げます。第9章は平坂春雄が関西で取り組んだ活動を記述した章になっています。
「日中労働者交流」に兼田富太郎が寄稿した「日中友好運動の黎明」という文章があります。兼田富太郎は1953年3月、朝鮮戦争が膠着状態になったとはいえ休戦する前の時期に、在華同胞帰国協力船の乗船代表として、中国に残留していた日本人を帰国させる事業の中心的役割を果たします。その時の手記です。50年史にこの手記を全文掲載しましたが、この帰国事業と中国から強制連行されて日本で亡くなった方の遺骨送還運動とが、労働者による日中友好運動をつくっていきました。ここまで書くと、国交正常化と戦後補償裁判について書かざるを得なくなって、日中共同声明を国家間の和解、戦後補償裁判を民間企業・国家との司法上の和解と捉えてみました。強制連行裁判での中国側原告の請求は、①加害の事実と責任を認め謝罪する、②金銭的な給付を支払う、③慰霊碑を建て、将来に向けて歴史教育を行うの三つでした。「彰往察来」碑は、まさに「過去を明らかにすることによってこそ、正しく未来を察することができる」という意味をもつものです。
日中共同声明の第5条は戦争賠償請求放棄の条項ですが「中華人民共和国政府は、中日両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」と書かれています。日中友好のために賠償請求を放棄したのです。周恩来総理が中国人民を説得した論理は、日本軍部と日本人民の「二分論」です。悪いのは軍部であって日本人民ではない。「賠償請求すれば苦しむのは日本の民衆だ。苛酷な賠償に苦しんできた中国民衆はそのことを良く分かっている。中国は日本から賠償金を取らなくても建設できる」と周恩来総理は民衆を説得したといわれています。中国が苛酷な賠償に苦しんだというのは日清戦争のことです。
日中労交は、1985年8月15日に市川会長が侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の開館に際して贈った「誓い」の精神に基づいて活動しています。1985年8月15日は、中曽根康弘総理が初めて靖国神社を公式参拝した日です。中国はA級戦犯を靖国神社に合祀したこと、教科書の日中戦争の記述を「侵略」から「進出」に書き換えたことなどを日本軍国主義の復活と捉えています。
「誓い」には「われわれは、1931年および1937年を契機とする日本軍国主義の中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止し得なかったことを深く反省し」と書かれています。周恩来総理は1972年9月25日、田中角栄首相を迎えた歓迎晩さん会で「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略によって、中国人民はきわめてひどい災害を蒙り、日本人民も大きな損害を受けました」とあいさつしています。中国は、日中戦争を50年戦争として捉えています。日清戦争時の1894年11月、日本軍は旅順で約2万人の市民を虐殺しています。1923年9月1日に起きた関東大震災で、6000人を超える朝鮮人、800人近い中国人、社会主義者、労組合活動家が虐殺されました。世界でも例のない震災を契機とした虐殺をどう見たらよいのか。「ヘイトだ」「差別だ」と捉える差別排外主義批判だけでは不十分だと思います。戒厳令が発令されたということは、内乱の鎮圧であり、植民地の反乱分子、間接侵略を企てる者は虐殺しても構わないということだったと思います。
愼蒼宇(法政大学教授)は「1894年甲午農民戦争からの植民地戦争」と言います。山田朗(明治大学教授)は「植民地戦争とは、植民地獲得の侵略戦争と植民地における治安戦争の二側面をもつ」と言い、「後者についてはハーグ陸戦規定が適用されなかった」と言っています。植民地における虐殺は国際法上許されていたということです。安倍元首相は「侵略の定義はいろいろあるので、日中戦争が侵略戦争だったとは言えない」として、南京大虐殺は無かった、慰安婦はいなかった、強制連行は無かったとしています。「大東亜戦争」は植民地解放のための正しい戦争であったという皇国史観です。浅井基文(元外務省中国課長)は「植民地支配を謝罪した宗主国はない」といっています。「植民地支配は良いことだった」という宗主国の考え方が、歴史認識問題と和解の壁として横たわっています。
戦争は突然始まるものではありません。仮想敵国の設定、外敵や内敵への憎悪・排斥、軍備拡張、治安維持強化などを経て始まるものです。1921年、大阪では石炭荷役に従事する中国人労働者を雇用することを禁止しました。1922年、東京の隅田川沿岸水揚水夫は中国人を退去させるよう陳情しています。第一次大戦後の不況の中で、日本の港湾労働者は低賃金では働くことを厭わない中国人労働者を排斥・追放する運動の先頭に立っていました。天皇の軍隊である皇軍の兵士は、労働者・農民です。中国人を殺りくしたもの、中国人を強制労働に駆り立てたのも労働者・農民です。中国人強制連行裁判では、企業も労働者も「国の政策に従ったままであり、私たちには責任がない」と言っています。しかし、今私たちは、国民主権を謳った日本国憲法の下で暮らしているわけです。戦争を「労働者人民の闘争によって阻止する」主体的な取り組みが問われています。
戦争は、帝国主義間戦争、植民地戦争、そして今は「テロとの戦い」と変化してきています。イスラエルのネタニヤフ首相は、パレスチナに対する侵攻を「これは文明と野蛮の戦いだ」といっています。日清戦争のときに福沢諭吉が言った言葉と同じです。
今年の春闘の特徴は、大企業のほとんどが満額回答だったことです。ある産別では要求を上回る回答がありましたが、それは防衛予算が増額されたからです。賃金を上げるには、防衛産業で働くこと、防衛力強化に協力することが一番早い道になってしまいました。防衛産業強化法、経済安全保障情報保護法が成立しました。敵基地攻撃能力をもつことは、軍官民挙げて戦闘態勢をつくりあげることです。日米安保条約によって統治される日本は、「拡大抑止」と称してアメリカの核の傘のもとで核戦争を行う準備をはじめています。すでに「戦う覚悟」のレベルではなく、「戦う社会・産業体制」が出来上がっています。
平和は守るものではなく、創り出すものです。日中共同声明も日中平和友好条約も反覇権・平和共存5原則を明記しています。反覇権・平和共存5原則は、相互尊重を前提とする平和外交の基本です。価値観を共有する者が同盟を結び、敵対を煽るのではなく、社会制度の相違を認め合いながら、様々な価値観を持つ多民族・多文化が共生する世界を築くことです。「憎悪と敵対の悪循環」を断ち切り、「友好と平和の好循環」を創り出さなければなりません。そして、「子々孫々、世々代々」の日中平和友好交流を続けていくことだと考えています。
ご清聴ありがとうございます。
10月19日、広島弁護士会館で「被爆者・于瑞雪さんの生涯をふりかえる」と題して和解を導いた力 Part4が開催された。今回の集会で特筆すべきは、コロナ禍が一定の収束を迎えて、于瑞雪さんの遺族である娘さん二人が参加されたことである。三女の于蘭芬さんと四女の于栄春さんである。
お二人からの話を聞く中で、于瑞雪さんの安野での苦しい生活と苛酷な労働が浮かび上がった。同時に、大隊長や3班班長を撲殺したことを「蜂起」したと語っていたことに大きな衝撃を受けた。単に食料分配をめぐる争いから事件が起きたのではなく、抑圧に逆らい、生死をかけた蜂起だったのだ。于瑞雪さんの尊厳をかけた闘いであった。
また、中国に帰国してから工場のトップを務めるまでに活躍されたこと。しかし、日本に強制連行された事実を詮索されないために人民解放軍には入らなかったことなど、政治的立場を配慮してであろう苦悶に胸を締め付けられる思いがした。
われわれが安野発電所建設に係わる中国人強制連行・強制労働に関して、知り得ている事実は本当に部分的なものでしかない。これまでの「和解を導いた力」Part1から4に至る取り組みで明らかになっていることは、当たり前ではあるが、強制連行された中国人ひとり一人の人生があり、その人生に大きな苦難を強いたものだったという事実である。
いま、日本は日米安保体制のもとに再び中国との戦争を準備していると感じられる。再び戦争の惨禍を引き起こすようなことをしてはならない。日中不再戦・日中友好の旗を高く掲げて進んでいかなければならない。これが中国人強制連行・強制労働の歴史事実に対するわれわれの反省と実践でなければならないだろう。
10月20日、現地安野発電所・安野中国人受難之碑前において、第17回「中国人受難者を追悼し、平和と友好を祈念する集い」が開かれた。
今回の追悼集会には、中国人受難者遺族として、于蘭芬さんと于栄春さんが参加された。また、中国駐大阪総領事館の王宏偉副領事、同じく李子楊領事アタッシュが参加された。
追悼式は、厳かな雰囲気の中で進行した。はじめに「継承する会」代表の足立修一弁護士からあいさつがあった。遺族を代表して于栄春さんがあいさつした。その中で、父、于瑞雪さんの苦難の歴史を紹介した。同時に、川原さんをはじめとする中日友好関係者に感謝の意を述べ、こう締めくくった。「世界に永遠に戦争がなく、歴史が繰り返されず、中日両国の各世代が友好を保ち、両国の人々が無事で幸福であることを祈ります。」
王宏偉副領事は、薛剣総領事のメッセージを代読された。薛剣総領事は、「強制連行は、日本軍国主義が侵略戦争において犯した重大な犯罪行為です。」と強く指弾するとともに、「継承する会」などの正義の行動を高く評価し、「私たちは皆さまと共に、歴史を鑑とし、未来に向かって友好の旗印を高く掲げ、中日関係の持続的発展にたゆまず努力していきたい」と述べられた。
式典は、二胡の荘厳な調べを受けながら、参加者全員で献花をして終わった。
投稿者 広島T会員
尊敬するご友人の皆様へ
記録的な夏を過ぎて、冬寸前になりました。
ご無沙汰しております。
まだ発送していない『通信』をやっと整理できて、一つのPDFにまとめて発送いたします。
次回から、通常通りの月一回の送付ができるようになると思います。
引き続きのご支持とご指導よろしくお願いいたします。
南京国際平和通信第53号-第58号はこちらをクリック(一括ダウンロード)
和平之花紫金草が館内で満開、南京大虐殺生存者陳桂香さん死去、彼女たちの力
清明節:欠席のできない追悼式、最後の手紙、世界中からもっと多くの人が記念館に来てほしい、ドイツのディーターフルト市長が当館を訪問
チャールズ・ヘンリー・リックス氏の子孫ら南京を訪問、幸存者の情報、歴史記憶の継承、訪問者の声
中国の伝統的な端午の節句を迎え、多くの見学者が記念館を訪門、幸存者の情報、歴史記憶を受け継ぐ、見学者の声
当館で中国抗日戦争勃発87周年記念行事を開催、真夏日にサービス最適化で見学者の体験を高める、南京大虐殺生存者石秀英さん死去、亡くなった南京大虐殺者を追悼する消灯式が行われた、南京大虐殺生存者周志林さん死去、台湾の弁護士が当館に貴重な書籍を寄贈、日本「平和の旅訪中団」が当館を訪問
8月15日「日本の無条件降伏79周年」記念活動、第2回若手研究者南京大虐殺史シンポジウムが開催、医療関係者と共に生存者を訪問、アイリス・チャン氏を記念するビデオ作品「あの夏に戻る」を公開
追伸:今回送信した『通信』の最後にはアイリス・チャンさんを偲ぶ映像のことを紹介しています。
PDFファイルに映像を入れられないので、ご興味がございましたら、以下の新華社のURLで単独に視聴いただけます。(英語版)
伊藤彰信(日中労交会長)
このたび、中国国際交流協会のご招待により、9月2日から6日までの5日間、中国を訪問し、北京、福州、泉州を訪問してきました。訪中団は、日本NPO法人世界、日中友好協会、ベルボ会、国際IC日本協会、創価学会、日本青年会議所、日中労交の7団体9名です。団長を務めた日本NPO法人世界理事長の中田選さんは広島県議を長く務めた公明党の議員です。参加者の政治傾向をみても、公明党、自民党、立憲民主党、共産党、社民党・新社会党ということになります。
北京での中国国際交流協会の劉洪才副会長のあいさつは次のようなものです。古くから日中友好運動を行っている日本の7団体の一行とお会いできて嬉しい。皆さん方はそれぞれ長い間日中友好の活動をおこない、友好交流を具体的に積み重ねてきた。いま、日中関係は厳しい状況であるが、両国関係を後退させることなく、前進させなければならない。国交正常化は戦争状態を終結させて、両国関係を発展させることであった。今、戦争状態に戻すことがあってはならない。敵をつくることではなく、友達をつくることである。両国関係を順調に平和的に友好的に発展させなければならない。持続可能な発展を強化し、改革開放をすすめ、中国の現代化を進めるためには平和的な関係が必要である。新しい発展を通じて友好関係をつくるために民間団体が努力しなければならない。
劉洪才副会長との面談に先だって「新時代の要求に合致する中日関係の構築に民間の力を貢献する」座談会が開かれました。中国国際交流協会の朱桂傑副秘書長が進行役になって、中国側の専門家・学者と日本側の参加者との意見交換が行われました。
清華大学国際関係学部の劉江永教授が、最初からストレートに問題提起をしました。彼の話は次のようなものです。新時代とは、ウクライナ戦争、パレスチナ問題が起き、東アジアでの平和は保たれているが、第三次世界大戦の前夜とも言える状況である。8月29日にサリバン米大統領補佐官が訪中し、「ひとつの中国政策に変わりはない、新冷戦を繰り広げるつもりはない、中国の国家制度を変えようとはしない、中国が同盟関係を広げることに反対しない、台湾独立を支持しない、台湾を紛争の道具に使わない」とアメリカの立場を述べた。中国はアメリカを最大の競争相手とみているが、追随するつもりはない。日本は日米同盟を強化すると言っている。日本政府は独自の対中政策を持ち合わせていない。アメリカの言うとおりに動く。日中関係が動くとしたら、米大統領選挙後だろうと述べ、暗にトランプが当選することを期待しているようだった。そして、尖閣問題を持ち出し「尖閣列島は中国の固有の領土である」と説明した。
中田団長が「政治問題については、伊藤さん答えてくれ」と振るので、日中労交が50周年を迎えたこと、南京に「日中不再戦の誓いの碑」を建てる際に中国国際交流協会にお世話になったことにお礼を述べたあと、次のように述べました。日中友好運動は平和運動だと信じていたが、今では中国は仮想敵国であり、日中友好を語ることが敵国の手先と非難されるようになった。今年の春闘は大手で満額回答、防衛産業では要求を上回る回答があった。防衛予算が大幅に増額されたからである。労働者が賃上げするためには、防衛産業で働くか防衛産業に協力することである。麻生氏は「戦う覚悟を持て」と言ったが、意識レベルの問題ではなく、今や産業・社会の状況が戦闘態勢になっている。「拡大抑止」とは核抑止であり、アメリカの核の下での核戦争が準備されている。今年の原水禁世界大会長崎大会での中国人民軍縮協会の安月軍秘書長の「核兵器相互先制不使用条約」の提案に関する発言は素晴らしかった。中国は平和国家なのだから、中国がグローバルな平和・軍縮のイニシアティブを発揮してほしい。
夕食会で私は関東大震災中国人受難者追悼式の話をしました。劉教授と隣の席でしたので、「今、領土問題を持ち出すことは敵対を煽ることになる」「尖閣問題は棚上げになっていると中国側はなぜ言わないのか」「アメリカのジャパンハンドラーが日本政府を完全に牛耳っているから、米大統領選挙でトランプが勝とうがハリスが勝とうが対日政策は変わらない」などと私の意見を述べ、議論をしました。関東大震災で密殺された王希天さんのお孫さんで毎年メッセージを送ってくださる王旗さんは精華大学の先生だということを初めて知りました。出発前日に木野村間一郎さんから預かった「山河慟哭」を寄贈してきました。もちろん日中労交をアピールするため、「南京に『日中不再戦の誓い』の碑を建てて」、記念集会プログラム、バンダナ、リーフレットを日本側の参加者、中国側の参加者に贈呈してきました。
福建省に行くということなので、台湾との交流の実態を見ることができるかと思っていましたが、出来ませんでした。泉州海外交通史博物館などの見学は、宋元時代の貿易を知る上で私には興味のある見学でしたが、「琉球との交易がすすんでいたんだ。尖閣は中国の領土だ」とアピールしているようにも思えました。
「以民促官」とは、官が言えないことやれないことを民が率先して言いやることによって、官を動かすことです。民が官と同じこと言っていたのでは、「以民促官」にならないだろうと感じました。中国国際交流協会が日本の様々な団体と交流関係を持っていることに感心しました。この7つの団体は日本で相互に協力して日中友好運動をしているわけではありません。初めて中国で顔を合わせたわけです。中国国際交流協会が持っているつながりが重要な役割を持っていることを感じました。
【参考資料】
「原水爆禁止に関する世界平和会議」開会式でのスピーチ(2024年8月7日、長崎)
安月軍(アン・ユエジュン)中国人民平和軍縮協会事務局長 安月軍の全文PDFはここをクリック