カテゴリー別アーカイブ: 日中労交の活動

日中労交および日中労働情報フォーラムの活動

第9次「日中不再戦の誓いの旅」

日中友好の思いを南京から

伊藤彰信(第9次訪中団団長)

2014.12.19

 第9次「日中不再戦の誓いの旅」は12月12日から15日までの4日間、南京を訪問しました。南京大屠殺死難者国家公祭に参加するとともに、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館、利済巷慰安所旧址陳列館、ジョン・ラーベ紀念館など南京大虐殺関係施設を見学し、南京師範大学の林敏潔教授ならびに学生と交流してきました。
 訪中団は、団長=伊藤彰信(日中労交会長、元全港湾委員長)、副団長=新崎盛吾(日中労交副会長、元新聞労連委員長)、秘書長=中原純子(全労協常任幹事)、団員=松尾直樹(「社会新報」記者)、吉田武人(早稲田大学4年)、工藤優人(立教大学4年)の6名です。
 現在、南京大虐殺の幸存者は34名になってしまいました。南京大虐殺をどう伝承していくか、南京紀念館の努力を感じることができました。昨年はコロナ期間中のブランクを取り戻すために交流をつなぐ旅でしたが、今年は受け入れ側の態勢も整い、若い団員の活躍もあり、次の世代に伝えていく展望をつかむことができた旅でした。
 以下、旅の経過と概要を簡単に報告します。

<12月12日(木)>
 成田空港を13時に出発し、16時に南京空港に到着しました。直行便が毎日飛ぶようになり、移動時間が短縮されました。南京空港には、中国職工対外交流センターの石晶晶さん、江蘇省職工サービスセンター副主任の盛卯弟さんが出迎えてくださいました。石晶晶さん、盛卯弟さんには全行程を同行して通訳を務めていただき、本当にお世話になりました。
 宿泊先の天豊大酒店(南京市総工会が経営するホテル)で劉月科江蘇省総工会副主席が主催する歓迎宴が開かれ、焦勇南京市総工会副主席、庄誠江蘇省総工会弁公室主任、付光宇南京市総工会弁公室副主任と親しく懇談しました。

    新しい「誓いの碑」

<12月13日(金)>
 南京大屠殺死難者国家公祭に参加するため、8時30分にホテルを出発し南京紀念館に向いました。紀念館の庭園が整理され、日中労交の「誓いの碑」も新しいデザインになりました。国家公祭は10時前から始まり、国家斉唱、黙祷(サイレン)、花輪奉奠、李書らい(石が三つ)・中央宣伝部長の主催者あいさつ、平和宣言(中学生が朗読)、平和の鐘打鐘、放鳩とすすみ30分程度で終了しました。
 日本からの参加者が昨年に比べてさらに減り、日中友好団体の代表が5名に絞られる中、別枠で日中労交6名の参加が認められたことは、国家公祭に毎年参加している実績と若い人を連れて行っていることが評価されているのではないかと思いました。
 南京市内には虐殺現場20数か所に紀念碑があり、10時から各紀念碑でも追悼式が行われます。そのひとつである長江のほとりの中山埠頭紀念碑を訪れました。献花が置いてあり、テレビ局が取材を続けているところでした。

    ジョン・ラーベ紀念館

 昼食後、ジョン・ラーベ紀念館を見学しました。その後、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館を見学し、17時30分からの国際平和集会に参加しました。昨年から宗教色が消え、小中学生を中心とした集会になりました。国際安全委員会のメンバーのロバート・ウィルソン医師のひ孫さんがあいさつし、南京紫金草芸術団の小学生が紫金草の歌を歌いました。大型スクリーンを置いてクレーンやドローンを駆使した撮影、デジタル画像を組み合わせた演出は、素晴らしいものでした。

   利済巷慰安所旧址陳列館

<12月14日(土)>
 9時にホテルを出発し、10分ほどで利済巷慰安所旧址陳列館に着きました。陳列館ができて9年目になりますが、年々充実しているように感じました。昼食後、ウィルソン医師が活躍した鼓楼病院の歴史陳列館を訪ねましたが一般公開はされておらず、当時の建物を見て回りました。
 その後、南京師範大学を訪ねて林敏潔教授をはじめ日本語学科の大学院生と歴史記憶の伝承について懇談・交流しました。日本人が南京紀念館を見てどのような印象を持つのか、日本では国家公祭について反日意識を高めるために開催していると報道されている、中国人は被団協のノーベル平和賞の受賞をどう思っているのかなど、突っ込んだ話もありました。中国では日本が侵略したことを知っていても日本での強制連行や被爆のことを良く知らない、日本では原爆や沖縄地上戦のことを知っていても中国での虐殺や慰安婦(戦時性奴隷)のことを良く知らない、ということが良く分かりました。
 夕方、南京市職工療養所を見学しました。療養所とは保養所のことです。一般にも公開され、会議や宿泊ができる施設です。労働模範になると療養所で休暇を過ごすことができます。療養所で夕食をとった後、近くの金陵小鎮を見学しました。金陵小鎮は六朝時代の南京を体験できるテーマパークで、ライトアップされた夜景がとてもきれいでした。

南京師範大学の林敏潔教授・学生と

<12月15日(日)>
 ホテルを5時15分に出発し、南京空港8時10分発の飛行機で12時に成田空港に戻りました。

訪中報告2024.9.2~9.6

伊藤彰信(日中労交会長)

 このたび、中国国際交流協会のご招待により、9月2日から6日までの5日間、中国を訪問し、北京、福州、泉州を訪問してきました。訪中団は、日本NPO法人世界、日中友好協会、ベルボ会、国際IC日本協会、創価学会、日本青年会議所、日中労交の7団体9名です。団長を務めた日本NPO法人世界理事長の中田選さんは広島県議を長く務めた公明党の議員です。参加者の政治傾向をみても、公明党、自民党、立憲民主党、共産党、社民党・新社会党ということになります。

 正面右が劉洪才副会長、一番左が伊藤氏

 北京での中国国際交流協会の劉洪才副会長のあいさつは次のようなものです。古くから日中友好運動を行っている日本の7団体の一行とお会いできて嬉しい。皆さん方はそれぞれ長い間日中友好の活動をおこない、友好交流を具体的に積み重ねてきた。いま、日中関係は厳しい状況であるが、両国関係を後退させることなく、前進させなければならない。国交正常化は戦争状態を終結させて、両国関係を発展させることであった。今、戦争状態に戻すことがあってはならない。敵をつくることではなく、友達をつくることである。両国関係を順調に平和的に友好的に発展させなければならない。持続可能な発展を強化し、改革開放をすすめ、中国の現代化を進めるためには平和的な関係が必要である。新しい発展を通じて友好関係をつくるために民間団体が努力しなければならない。

 劉洪才副会長との面談に先だって「新時代の要求に合致する中日関係の構築に民間の力を貢献する」座談会が開かれました。中国国際交流協会の朱桂傑副秘書長が進行役になって、中国側の専門家・学者と日本側の参加者との意見交換が行われました。

 清華大学国際関係学部の劉江永教授が、最初からストレートに問題提起をしました。彼の話は次のようなものです。新時代とは、ウクライナ戦争、パレスチナ問題が起き、東アジアでの平和は保たれているが、第三次世界大戦の前夜とも言える状況である。8月29日にサリバン米大統領補佐官が訪中し、「ひとつの中国政策に変わりはない、新冷戦を繰り広げるつもりはない、中国の国家制度を変えようとはしない、中国が同盟関係を広げることに反対しない、台湾独立を支持しない、台湾を紛争の道具に使わない」とアメリカの立場を述べた。中国はアメリカを最大の競争相手とみているが、追随するつもりはない。日本は日米同盟を強化すると言っている。日本政府は独自の対中政策を持ち合わせていない。アメリカの言うとおりに動く。日中関係が動くとしたら、米大統領選挙後だろうと述べ、暗にトランプが当選することを期待しているようだった。そして、尖閣問題を持ち出し「尖閣列島は中国の固有の領土である」と説明した。

 中田団長が「政治問題については、伊藤さん答えてくれ」と振るので、日中労交が50周年を迎えたこと、南京に「日中不再戦の誓いの碑」を建てる際に中国国際交流協会にお世話になったことにお礼を述べたあと、次のように述べました。日中友好運動は平和運動だと信じていたが、今では中国は仮想敵国であり、日中友好を語ることが敵国の手先と非難されるようになった。今年の春闘は大手で満額回答、防衛産業では要求を上回る回答があった。防衛予算が大幅に増額されたからである。労働者が賃上げするためには、防衛産業で働くか防衛産業に協力することである。麻生氏は「戦う覚悟を持て」と言ったが、意識レベルの問題ではなく、今や産業・社会の状況が戦闘態勢になっている。「拡大抑止」とは核抑止であり、アメリカの核の下での核戦争が準備されている。今年の原水禁世界大会長崎大会での中国人民軍縮協会の安月軍秘書長の「核兵器相互先制不使用条約」の提案に関する発言は素晴らしかった。中国は平和国家なのだから、中国がグローバルな平和・軍縮のイニシアティブを発揮してほしい。

 夕食会で私は関東大震災中国人受難者追悼式の話をしました。劉教授と隣の席でしたので、「今、領土問題を持ち出すことは敵対を煽ることになる」「尖閣問題は棚上げになっていると中国側はなぜ言わないのか」「アメリカのジャパンハンドラーが日本政府を完全に牛耳っているから、米大統領選挙でトランプが勝とうがハリスが勝とうが対日政策は変わらない」などと私の意見を述べ、議論をしました。関東大震災で密殺された王希天さんのお孫さんで毎年メッセージを送ってくださる王旗さんは精華大学の先生だということを初めて知りました。出発前日に木野村間一郎さんから預かった「山河慟哭」を寄贈してきました。もちろん日中労交をアピールするため、「南京に『日中不再戦の誓い』の碑を建てて」、記念集会プログラム、バンダナ、リーフレットを日本側の参加者、中国側の参加者に贈呈してきました。

 福建省に行くということなので、台湾との交流の実態を見ることができるかと思っていましたが、出来ませんでした。泉州海外交通史博物館などの見学は、宋元時代の貿易を知る上で私には興味のある見学でしたが、「琉球との交易がすすんでいたんだ。尖閣は中国の領土だ」とアピールしているようにも思えました。

 「以民促官」とは、官が言えないことやれないことを民が率先して言いやることによって、官を動かすことです。民が官と同じこと言っていたのでは、「以民促官」にならないだろうと感じました。中国国際交流協会が日本の様々な団体と交流関係を持っていることに感心しました。この7つの団体は日本で相互に協力して日中友好運動をしているわけではありません。初めて中国で顔を合わせたわけです。中国国際交流協会が持っているつながりが重要な役割を持っていることを感じました。


【参考資料】

「原水爆禁止に関する世界平和会議」開会式でのスピーチ(2024年8月7日、長崎)
安月軍(アン・ユエジュン)中国人民平和軍縮協会事務局長
 安月軍の全文PDFはここをクリック

平和共存五原則発表70週年記念大会におけるスピーチ(2024年6月28日)中華人民共和国主席 習近平

習近平国家主席の全文PDFはここをクリック

日中労働者交流協会結成50周年記念集会を開催(報告)

会場のアルバム写真はこちらから

 日中労働者交流協会結成50周年記念集会が、2024年8月24日(土)午後、東京都内のホテルで開催され、50名が参加した。

 はじめに、「日中労交50年の記録」として「南京に『日中不再戦の誓い』の碑を建てて―日中労働者交流協会50年のあゆみ」に使われた写真のスライドが上映された。続いて主催者を代表して伊藤彰信日中労交会長があいさつした。伊藤会長は、「現役時代に憲法第18条の『奴隷的拘束及び苦役からの自由』をよりどころに軍事物資輸送拒否のストを闘ってきた。戦争協力は強制労働にほかならない。今春闘では防衛産業で要求を上回る賃上げが行われた。軍官民挙げての戦闘態勢がつくられようとしている。『憎悪と敵対の悪循環』を断ち切り『友好と平和の好循環』をつくっていかなければならない。『和解から友好へ』の道筋を共に考え、共に歩んでいきたい」とあいさつした。

 来賓のあいさつとして、中国職工対外交流センターの張広秘書長のビデオメッセージ、中国大使館の王琳公使参事官のあいさつがあり、南京紀念館のメッセージが紹介された。

 東京大学大学院の外村大教授が「新たな時代の『歴史問題の和解』の展望―日中労交の活動を踏まえて」と題して記念講演を行った。外村さんは、加害の意識化が市民運動によってつくられてきた経過を説明したあと「日本経済の高度成長が終わると、経済的繁栄の余韻として肯定的に語られてきた戦後補償は目立たないものになって行く。加害を語ることが『自虐的』と否定的になり、嫌韓、反中の風潮、歴史自体を意識しない傾向が強まる。侵略戦争は悪だと言いながら、植民地支配は善政であったという意識は強い。侵略戦争は侵略者と非侵略者の人間関係は限定的であるのに対して、植民地支配では支配・被支配の構造はあるといっても人間的な交流が築かれたことも確かである。日中戦争は帝国主義国同士の戦争とは異なる。日中間の歴史問題の和解は、意識的に人間関係を作り、維持する努力が相対的に多く求められている。あと何十年もすれば、家族・親族が先祖代々日本人であるケースはなくなる。非日本人と付き合うことを前提とする社会になる。国の論理を超えた交流やその可能性を過去の事象の中で見出し、つながりを意識していく。労働者という枠組みの交流は、過去について考え、現在のあり方を考える上で重要である。」と述べた。

 パネルディスカッション「和解から交流へ―日中労働者交流の新しいチャンス」が日中労交の藤村妙子事務局長の司会ですすめられた。

弁護士の内田雅敏さんは「歴史問題の解決の要素として、①加害の事実と責任を認め謝罪する、②金銭的な給付を支払う、③将来に向けて歴史教育を行うの三つがある。①が重要だと思っていたが、最近は和解事業を行うことによって③を深めていくことが重要だと思っている。花岡和解の時は、すべてのメディアが歓迎し『次は国の責任だ』と言った。西松和解の時は産経だけが『戦後体制が崩れる』と批判した。三菱マテリアル和解の時は産経と読売が『国は民間和解を放置していてよいのか』と批判した。2018年韓国大法院判決をすべてのメディアが批判した。日本社会の変わり様は大きいが、日中関係の4つの基本文書を平和資源として友好関係を築く以外にないと思う。」と述べた。

 移住連共同代表理事の鳥井一平さんは「日中労交が技術交流を行ったことは意味があった。日本政府は移民政策を取らないと言って1990年に『研修』という在留資格を創設し、研修・技能実習制度をつくった。研修は留学、実習は労働という曖昧な制度によって外国人低賃金労働者が増えるようになった。人権侵害も起きたが、日本の労働組合はどう対応したのか。強制連行や徴用工問題の反省があったら、労使対等原則が担保された多民族・多文化共生社会を目指すことができたと思う。技能実習制度は廃止されるが、日本と中国、アジアの国々との市民社会(労働者)の連帯のあり方が問われている。」と述べた。

 月刊『地平』編集長の熊谷伸一郎さんは「日中労交との関りは『ジョンラーベ』の上映運動の時。私が中国に関心をもったのは本多勝一の『中国への旅』である。百人斬りを行った遺族が本多勝一を訴える。本多さんの支援を行った。日本兵が中国やアジアで何をしたか取材してきた。それが縁で雑誌の編集を行うようになる。この間、内閣が吹き飛ぶような政策が平気で国会を通過していく。自衛隊は米軍と中国は仮想敵国とした共同作戦計画をつくっている。共同通信がすっぱ抜いたが、他のメディアは報道しない。特定秘密だから。戦後民主主義を若い人と議論してバージョンアップする中で、アメリカは同盟国、中国は敵国という状況を変えていくことが課題だと思っている」と述べた。

 新潟県平和運動センター事務局長の有田純也さんは「若いと言っても45歳。昨年、日中不再戦の旅に参加し南京に行った。私は日中友好の時代を知らない。いつ頃から悪くなったのか調べてみたら、今は『中国が嫌いだ』という人が8割以上、1980年代は『中国が好きだ』という人が8割以上である。ソ連が崩壊して社会主義に良いイメージを持っていない。その世代が大学生になって、流行っていたのが小林よしのりの『戦争論』だった。今のSNSはヘイクだらけ。歴史の一面を切り取ってみるというより、自分が信じたい歴史を見るという状況だ。韓国には良いイメージを持っている。韓流やKPOPのおかげ。メイクとかダンスとかキラキラしたものは韓国ですね。本当に交流するためには歴史を知らなければならないが、日中友好も文化から入っていくのもよいのではないか。」と述べた。  会場には、日中労交の機関紙のバックナンバー、職工対外交流センターからの贈答品、南京紀念館が出版した本、南京平和宣言の巻物などが飾られ、友好ムードを高めていた。中国中央テレビが取材に訪れたが、日本の報道機関の取材は無かった。

アルバム日中労働者交流協会結成50周年記念集会

日中労交結成50周年記念集会の報告

「日中労交50年の記録」資料(中国職工対外交流センターからのパンダ皿、南京紀念館の本、バッジや日中労交の機関紙など)の展示と中国中央テレビ局の取材


「日中労交50年の記録」スライド上映

 解説 伊藤彰信:日中労交会長


主催者あいさつ

 伊藤彰信:日中労交会長

伊藤彰信会長

ビデオメッセージ

 張広秘書長(中国職工対外交流センター)

張広秘書長(中国職工対外交流センター)

来賓あいさつ

 王琳:中華人民共和国駐日本国大使館公使参事官

     逐次通訳(大使館の通訳)

王琳(中華人民共和国駐日本国大使館公使参事官)

★ 記念講演★

『新たな時代の「歴史問題の和解」の展望―日中労交の活動を踏まえて』

 講師 外村大(東京大学大学院教授)


★パネルディスカッション★

和解から友好へ 日中労働者交流の新しいチャンス

内田雅敏(弁護士)

鳥井一平(移住連共同代表理事)

熊谷伸一郎(月刊「地平」編集長)

有田純也(新潟県平和運動センター事務局長)


パネルディスカッションの後の懇親会であいさつ

シンポジュームの後であいさつ
羅 慶霞(元江蘇省総工会国際連絡部副部長)

日中労働者交流協会結成50周年記念集会

 日中労働者交流協会は結成50周年を記念して、「和解から友好へ—日中労働者
交流の新しいチャンス」をテーマに、下記のとおり集会を開催します。

○日 時  2024年8月24日(土)13時30分〜16時50分
○場 所  アジュール竹芝 16階「曙」
        東京都港区海岸1-11-2
○記念講演 「和解学から見た日中友好運動」
    講師 外村大(東京大学大学院教授)
○パネルディスカッション
      「和解から友好へ—日中労働者交流の新しいチャンス」
  パネラー  内田 雅敏(弁護士)
        鳥井 一平(移住連共同代表理事)
        熊谷伸一郎(月刊「地平」編集長)
        有田 純也(新潟県平和運動センター事務局長)
○参加費  1500円(学生1000円)
○事前申し込み 会場設営の都合上、事前にメールで参加予約をお願いします。
        office@chinalaborf.org
○交通案内 JR「浜松町駅」北口改札口右折7分
      ゆりかもめ「竹芝駅」1分

結成50周年記念集会のチラシPDFのダウンロード ←ここをクリック

「南京に「日中不再戦の誓い」の碑を建てて—日中労働者交流協会50年のあゆ
み」を発売中
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日中労交結成50周年記念

「日中労働者交流協会50年のあゆみ」を発刊しました!

注文受付中

 日中労働者交流協会(日中労交)は、1974年8月21日、総評系産別24単産、9地県評、同盟系産別1単産、中立労連が結集してつくられました。初代会長は市川誠(総評議長)、初代事務局長は兼田富太郎(全港湾委員長)です。総評解散後も個人加盟の形式で組織を残し、日中労働者の平和友好連帯活動を続けてきました。

 1985年8月15日、中曽根首相が靖国神社に公式参拝した日、市川会長は南京の侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の開館式に出席し、「日中不再戦の誓い」を刻んだ「鎮魂の時計」を南京市に寄贈しました。日中労交はこの「誓い」の精神をもとに、すなわち「日本軍国主義の中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止し得なかったことを深く反省し」、「日中不再戦、反覇権の決意を堅持し、子々孫々、世々代々の友好発展、平和の確立」のために活動を続けています。

 このほど結成50周年を記念して「南京に『日中不再戦の誓い』の碑を建てて―日中労働者交流協会50年のあゆみ」(発行:労働教育センター)を発刊しました。価格は2000円(税別)です。

本の目次

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日中労交では以下の書籍や50周年記念バンダナを取り扱っていますので、合わせてご注文ください。

 

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「日中労働者交流協会50年のあゆみ」の校正で誤りがありました。謹んでお詫びいたします。

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 取扱い書籍

・南京の侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の売店でのみ販売している「南京大虐殺の史実展」(日本語版)価格は98元ですが頒価2000円です。

南京出版伝媒集団 南京出版社

・内田雅敏著「飲水思源 以民促官」藤田印刷エクセレントブックス、価格は1200円(税別)です。

内田雅敏著「飲水思源 以民促官」

・日中労交50周年記念バンダナ、価格は1000円(税別)です。

日中労交50周年記念バンダナ

日中労交2024年度総会報告

伊藤彰信

 日中労交の2024年度総会が4月27日に東京・蒲田の日港福会館で開かれました。

伊藤会長あいさつ

 伊藤会長は「日中労交の現在の最大の課題は『台湾有事』を阻止することである。安保三文書によって、中国を仮想敵国として、防衛費の拡大、日米共同軍事体制の強化、南西諸島のミサイル配備、戦闘機の輸出、軍事産業の育成など進められている。経済安保体制は職場でのレッドパージに通じるものであり、人権や民主主義を抑圧する政策がすすめられている。『台湾有事』となれば、全国の自衛隊基地から、民間の空港・港湾を利用した兵器・部隊の輸送が行なわれる国家総動員体制づくりが進んでいる。また、練馬の森の朝鮮人追悼碑撤去にみられるように強制連行と発言することが許されない状況になった。日中労交は、昨年4年ぶりに訪中し、コロナ後の交流を再開することができた。日中労交50周年の今年は、50年の歴史をふり返りながら、新しい会員を獲得し、日中平和友好の強化のために活動していきたい」とあいさつしました。

第一部「総会議事」

 議事では、2023年度活動報告を藤村事務局長が、2024年度活動計画(案)を伊藤会長が、2023年度決算報告を伊藤事務局次長が、会計監査報告を水摩会計監査委員が、2024年度予算(案)を伊藤事務局次長が、それぞれ提案し、承認されました。

 今年度の活動計画の重点は、50周年記念事業を成功させることです。今年度の総会で議論した50周年記念事業のイメージは、昨年度の総会で議論していたものとは変化してきてきました。今年度の議論は、「台湾有事」を阻止するにはどうしたらよいか、日中労交の存在意義、役割はどのようなものなのか、50年を振り返りながら考えようというものです。

 「50年のあゆみ」の出版、8月24日のシンポジウムの開催について確認しました。問題は、その財政の確保です。カンパを集めると同時に「50年のあゆみ」の販売促進です。本の販売促進、シンポの企画運営を行うために50周年事業実行委員会を設置することを確認していただきました。運営委員だけでは力量不足ですので、会員からも実行委員になってもらい、組織をあげて50周年記念事業を成功させたいと思います。

第二部「日中労交の50年を語ろう」 

 第二部の「日中労交の50年を語ろう」では、「50年のあゆみ」の執筆者である藤村事務局長が、日中労交の前史にあたる在華同胞帰国事業と中国人俘虜殉難者遺骨送還運動について説明をしました。平石昇さんは、平坂春雄元事務局長が大阪エルライブラリーに寄贈した段ボール200箱を超える資料から、日中労交関係の資料を見つけ出し整理した3年以上にわたる作業の苦労話をしました。伊藤会長は、日中関係の緊張の高まりに押されて単なる記録ではなく日中友好運動のなかで日中労交が占めた位置と役割を記述せざる得なくなったこと、和解を国家間和解と民衆間和解のふたつの視点から描いたこと、中国人の戦後補償裁判では謝罪、補償、歴史伝承の3っつが和解の条件であったこと、南京に碑を建てた意味は若い人への歴史伝承になること、日中友好運動の入門書になるよう書いたことなどを語りました。

 参加者の語らいの中では、「50年のあゆみ」に詳しく書かれていない、旅順大虐殺、関東大震災時の中国人虐殺、日中友好協会の分裂、技術交流などが議論されました。それぞれの日中関係の事象を断片的に捉えるのではなく、権力を握った中国の労働者と権力を握ったことがない日本の労働者との交流が、時代の変化の中で揺れ動いていく様子を見ていくべきではないかという話になりました。

第8次「日中不再戦の誓いの旅」

4年ぶりの訪中、北京・南京を友好訪問

伊藤彰信(訪中団団長)

 日中労交の第8次「日中不再戦の誓いの旅」は、12月11日に出発し、北京、南京を訪問して15日に帰国しました。コロナの世界的な流行により、4年ぶりの訪中でした。今回も学生2名が参加し、平均年齢をぐっと下げた老・壮・青の訪中団になりました。

 訪中団は、団長=伊藤彰信(日中労交会長、元全港湾委員長)、副団長=新崎盛吾(元新聞労連委員長)、秘書長=有田純也(新潟県平和運動センター事務局長)、団員=佐久原智彦(全港湾大阪支部特別常任執行委員)、今村錬(上智大学4年)、遠山和泉(長崎大学4年)の6名です。

 訪中団は、南京大虐殺犠牲者追悼国家公祭に参加するとともに、北京では中国職工対外交流センターの張広秘書長と懇談し、南京では南京師範大学の林敏潔教授ならびに学生と交流してきました。以下、旅の経過と概要を簡単に報告します。

<12月11日>

 訪中団は前日、東京で結団式を行い、11日は羽田空港から飛び立って北京首都空港に着きました。前日の東京の気温は21度でしたが、北京の気温は1度で雪が積もっていました。空港には中国職工対外交流センター技術経済交流部の石晶晶さんが出迎えてくれました。昼食をとったあと、マイクロバスで宿泊先である職工之家に向かいました。職工之家は中華全国総工会が経営するホテルです。

中国職工対外交流センターの張広秘書長と伊藤彰信訪中団団長が懇談

 中国職工対外交流センターの秘書長は、前任の王舟波秘書長が5月に定年退職して以降空席のままでした。10月に中華全国総工会の第18回全国大会が開かれ、総工会の新しい体制が選出されましたが、職工対外交流センターの秘書長はなかなか決まらず、張広秘書長が着任したのは、訪中団が北京に着いた当日でした。歓迎夕食会の前に少し懇談する時間がありました。張秘書長は「国家公祭に毎年参加している日中労交の訪中団を歓迎する」と述べたあと、第18回大会について以下のように簡単に報告しました。

 中華全国総工会は、世界最大の労働組合であり、中央、省、市、県、郷・鎮、職場のレベルまで整った組織である。第18回大会では、この5年間の総括、向う5年間の方針の確立、章程(規約)改正、役員の選出を行った。方針の主な柱は、労働者の権益の擁護、経済の発展、調和のとれた労使関係である。この5年間で、職工図書室、職人学院をつくった。貧困者への支援やカンパ支給、農民工の相談業務、屋外労働者向けのサービスステーションの設置、コロナ対策では77.5億元を使って労働者対策を行った。また活動項目のひとつに組合交流を加えた。一帯一路の交流、技術交流、国際的な労組交流などを行う。交流を通じて平和に貢献したい。

 伊藤団長からは、日中労交が名実ともに日中労交として再出発したことを報告し、「市川誠初代会長の『日中不再戦の誓い』の精神を継承し、加害の歴史を忘れずに『台湾有事』を阻止するために活動している。日中友好運動を若い人に引き継ぐようにし、平和構築に努力している。来年は日中労交結成50年にあたる。8月に祝賀会を行うので参加してほしい。」と述べました。

 懇談会・夕食会には、何際霞技術経済交流部部長、2019年の東北旅行でお世話になった李明亮さんも参加し、4年ぶりの再会を喜び合いました。

<12月12日>

 7時30分にホテルを出発し、北京南駅から高鉄(新幹線)で南京に移動しました。何際霞部長も同行しました。乗車時間は3時間25分ほど、途中の停車駅は済南だけ、時速350㎞の運転でした。到着した南京南駅では、江蘇省職工服務センターの盛卯弟副主任、南京市総工会の付光宇弁公室副主任が出迎えてくれました。駅近くのレストランで昼食をとった後、南京市総工会の工人文化宮と職工服務中心(労働者サービスセンター)を訪問しました。工人文化宮は、1951年につくられたものですが、2021年に新しい施設がオープンしました。総建設面積は約73,000㎡、トレーニングジム、プール、バスケットやバトミントンのコート、健康相談室、劇場、イベント広場があり、貸衣装など文化芸術活動の支援などを行っています。職工服務センターは、2019年にも訪れた施設ですが、以前のところから移転して工人文化宮に併設してつくられ、2022年5月に新装オープンしました。業務内容は、①職業訓練、②起業への貸付、③職業紹介、④困難な労働者の生活支援、⑤インターネットを活用した包摂的なサービスの5部門です。インターネットでの事務手続きがほとんどなので、窓口に来て相談している人はいませんでした。新しい施設になって、以前より活動が充実しているように感じました。

 宿泊先は南京市総工会が経営するホテルである天豊大酒店です。夜は、江蘇省総工会のミョウ(糸へんに翏)建華二級巡視員が主催する歓迎宴が開かれました。ミョウさんは以前、江蘇省職工対外交流センターの秘書長をしていた方で古くからの友人です。白酒がすすみました。

<12月13日>

 南京大虐殺受難者追悼国家公祭に参加するため、8時40分にホテルを出発し、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館に向かいました。「日中不再戦の誓い」の碑を見たあと、式場に入りました。4年ぶりの参加ですが、参加者の顔ぶれが変化しているのに気づきました。隣との間隔が今までより広くなっていました。全体の参加者を以前より制限しているように感じました。昨年のビデオをみるとマスクを着用していましたが、今年はマスクを外すように言われました。外国の大使館からの参加がありませんでした。日本人参加者のブロックには日本からの高齢者の参加がほとんどなく、南京在住日本人留学生が参加しているとのことでした。初めて前から3列目での参列となりました。

 国家公祭のあと、長江ほとりの南京大虐殺遭難者中山港記念碑を訪れました。南京市内には20か所以上の記念碑があります。慰霊式が行われます。10時には歩いている人も、バスも自動車も止まって、黙とうをします。昼食後、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館を見学しました。17時30分からキャンドル祭に参加しました。キャンドル祭も演出が変わりました。宗教行事がなく国際平和集会となりました。参加人数も制限された代わりに、大型ビジョンが設置され、ドローンを使って記念館全体を撮影しながら中継で発信されていました。マギー牧師のお孫さんがあいさつし、南京紫金草芸術団の小学生が歌いました。紫金草合唱団の日本からの代表者が、南京の子どもたちに引き継いだというあいさつは、今回の集会を象徴する出来事でした。幸存者が38人になった現在、南京大虐殺の記憶を若い人に伝えていくことを重視した集会だったと思います。

<12月14日>

 午前中、2015年12月にオープンした利済巷慰安所旧址陳列館を見学しました。中国各地の慰安所、アジアの慰安所の資料が展示されています。

南京師範大学、東アジア文化研究所所長の林敏潔教授と同大学院学生と訪中団が交流

 午後は、南京師範大学を訪ね、東アジア文化研究所所長の林敏潔教授と同大学院学生と交流しました。林教授は、日本民間反戦記憶に関する多分野研究をおこなっており、戦争関係のあらゆる分野についてデータベース化をすすめています。過去の歴史を忘れず、日中は平和共存しなければならないと熱い挨拶で迎えてくれました。そのあと、新崎副団長を司会役にして、日中学生の交流会が行われました。学生たちは校門まで見送ってくれました。日中の学生たちはウィチャット仲間になったようです。若者交流、民間交流の実際を見たような気がしました。その後、南京博物院、夫子廟を見学して南京での日程を終了しました。

<12月15日>

 5時にホテルを出発し、マイクロバスで上海浦東空港に向かいました。9時30分に空港に到着し、午後の便で関空、成田へと飛び立ちました。

 通訳として全行程を同行してくださった石晶晶さんには大変お世話になりました。

中帰連平和記念館を訪ねて

伊藤彰信(日中労働者交流協会会長)

 11月25日(土)、埼玉県川越市笠幡にある中帰連平和記念館を訪れた。記念館では10月29日から12月27日まで関東大震災から100年を記念して「仁木ふみ子と『平和の環』展」が行われており、11月25日には記念講演会「王希天から仁木ふみ子へ」と追悼座談会が行われた。

 私は仁木ふみ子さんについてまったく知らなかった。日教組の婦人部長をしていたという経歴から、労働運動として日中友好運動にどのようなかかわりをしていたのか興味があった。また、「平和の環」として、仁木ふみ子、宋慶齢、周恩来、王希天、遠藤三郎、藤田茂の名前が上げられているが、この環のつながりを知ることも私の参加理由であった。

 展示のひとつに月間「総評」1982年11月号に仁木さんが書いた関東大震災時の中国人虐殺事件の原稿があった。月刊「総評」は全港湾の組合事務所にも送られてきていたので、私は読む機会があっただろうに、記憶にない。

 講演会ははじめに関東大震災で日本陸軍に密殺された王希天の碑を浙江省温州に建てた記録である30年前に作成された32分のDVD「関東大震災の中国人虐殺-謝罪と償いの旅」が上映された。続いて仁木さんが1980年に上海の華東師範大学の日本語教師として赴任したとき、通訳兼助手だった王智新さんが「王希天-仁木ふみ子へーその精神を受け継ぐにあたって」と題して次のように話された。

 仁木先生は、中国の革命運動に関心があったようである。中国共産党の初代女性部長の向警予の調査をしていた。ある日、「民国日報」を調べていたら関東大震災時に中国人労働者が虐殺されたという記事が目に留まった。どうすれば調べられるかと聞かれたので、温州市政府に手紙を出したが返事がない。そこで地方史を研究する政治協商委員会に手紙を書き、やっと返事をもらった。政府による調査が行われていない中で、日本人がひとりで当時のことを聞きに来た。政治協商委員会が手配して受難者の親戚など関係者が座談会の会場に集まってきたが、日本人を殴ってやりたいと思っている人がほとんどだった。仁木先生は、日本に帰国後、江東区の大島に住んで中国人虐殺事件の調査を続けた。日本政府は中国人虐殺事件が国際問題になることを恐れて隠ぺいを図った。今でも、関東大震災時に虐殺があったという資料はないと言い続けている。日本では8月になると平和問題を取り上げるが、それは戦争被害である。加害のことはあまり触れていない。仁木先生は、相手がどのよう被害を受けたのか、どう思ったのかということを調査していた。相手を理解しようとする努力がなければ、戦争による傷痕、恨みをほぐすことは出来ない。中国人は、日本人は過去に歴史を反省していないのではないかと思っている。不信感をなくし、不信の連鎖をなくすことが必要だ。お互いの理解や尊重があって信頼と友好が築かれる。

 午後の座談会では、仁木さんが取り組んできた、大分県立盲学校、図書館活動、読後感想文指導、全国高校女子教育問題研究会、「関東大震災の時、殺された中国人労働者を悼む会」、中国山地教育支援、無人区への教育支援、中国帰還者連絡会(中帰連)との接点、撫順の奇跡を受け継ぐ会代表、中帰連平和記念館館長という経歴を振り返りながら、それぞれ参加者が思い出を語った。聞いているうちに、「平和の環」が見えてきた。仁木さんは、孫文の妻であった宋慶齢の研究者であり、1979年に「宋慶齢選集」を発行している。宋慶齢から娘のようにかわいがられたという。周恩来は、王希天が設立した中国人労働者の救済組織である僑日共済会で活動していたことがある。遠藤三郎は、野戦重砲第一連隊大尉であったが、王希天殺害を隠蔽した人物であり、戦後は平和運動に貢献している。藤田茂は、陸軍中将であったがシベリア抑留後、撫順戦犯管理所に移され、禁固18年判決を受け、帰国後の中帰連の初代会長となり、日中戦争での加害の事実を語っていた。

 仁木さんが、「平和は座して待つものではなく、たたかいとるものだ」と宋慶齢の言葉を引用し、「日本の平和教育は、被害の事実を知ることから、加害の事実を知ることに視野を広げてきたが、さらに抵抗の事実を知らなければならない。抵抗の事実こそ、ひとをひとたらしめるものであり、その立場に立ってこそ、戦争の意味と平和の意味を正しく伝えることができ、加害の残虐さを見つめる勇気をもつことができる。」と語っていたという話が印象に残った。

 当日出来上がったばかりの「仁木ふみ子追悼文集」を買った。170名ほどの執筆者の名前を見たら、結構知っている名前があった。「平和の環」の広さを知った次第である。

和解を味わい、日中友好を思う

「第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」に参加して

伊藤彰信

 10月15日(日)に催された広島安野の「第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」に初めて参加しました。前日の集会と集いを主催した「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」(以下「継承する会」)の皆さんには大変お世話になりました。

 以前から安野の追悼式に参加しようと思っていましたが、内田雅敏弁護士から「西松安野友好基金運営委員会による追悼式は終了して、継承する会が行うようになった」と聞いて、少し参加意欲が低くなっていました。参加しようと決意したのは、昨年10月26日、日中国交正常化50周年を記念して中国国際交流協会が主催したオンライン会議で原水禁の金子哲夫共同代表と同席したことです。

 私は席上、日中労働者交流協会(以下「日中労交」)が日中国交正常化を受けて1974年に25単組・9地県評が結集してつくられた組織であること、1985年8月15日、中曽根首相が初めて靖国神社を公式参拝した日に、市川誠初代会長(元総評議長)が侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(以下「南京紀念館」)の開館式に出席し、日中不再戦の誓いを刻んだ「鎮魂の時計」を南京市に寄贈したこと。その誓いを碑にして2009年12月13日に南京紀念館に建立したこと、日中労交は「日中不再戦の誓い」の精神を継承し、日中の平和友好のために活動していることを報告しました。

 金子さんは、1955年の第1回原水爆禁止世界大会に国交のない中国から代表が参加し被爆者に5万元(当時の日本円で720万円)を寄付したこと、その一部を被爆者医療のために広島市に寄付したこと、それがきっかけになって原爆医療法が成立したこと、安野で中国人強制連行受難者の追悼式を行っていることを報告しました。

 その話を聞いた私は、金子さんに詳しい話を聞かせてと連絡して、今回の参加を約束しました。

 10月14日(土)14時から継承する会の主催で「和解を導いた力Part3―西松建設裁判原告・宋継堯さんの闘いをふりかえる」という集会が開かれ、50人ほどが参加しました。私は、西松安野裁判のことは最高裁で敗訴したが付言にもとづいて和解が成立したということぐらいしか知らなかったので、この集会は非常に興味深いものでした。集会は、元西松安野友好基金運営委員の杉原達さんの司会あいさつではじまり、テレビニュースなどを編集した「ニュース映像で見る宋継堯さん」が上映されました。続いて「宋継堯さんを語る」と題して、陳輝(通訳)さん、老田裕美(通訳)さん、足立修一弁護士が発言しました。

 宋継堯さんは、16歳の時、国民党軍の遊撃隊に参加、日本軍の捕虜となって日本へ強制連行されました。安野の発電所工事でトロッコに石を積んで運び出す作業をしていましたが、トロッコが脱線して転倒し失明しました。病気やケガをして働けなくなった人と一緒に中国に帰されましたが、失明のため仕事もできず、乞食同然の生活をしていました。河北大学の調査によって安野の生存者であることが確認され、西松建設との交渉を始めましたが、進展せず、裁判の原告となりました。最高裁で敗訴したあと、和解成立直後に亡くなっています。安野に連行された中国人は360人、被爆死の5人を含めて29人が日本で死亡しています。

集会「和解を導いた力Part3―西松建設裁判原告・宋継堯さんの闘いをふりかえる」

 このような集会では、原告から強制連行とその苛酷な労働、悲惨な生活が語られることが多いですが、すでに生存者はいないので、原告の宋さんの闘いを振り返る形での集会企画になったようです。中国人と日本人の通訳が、宋継堯さんの人柄や、戦後の中国での生活状況を紹介しながら思い出を語ったことが、聞いている身としては、重いものを突き付けられるというよりは、宋さんの生き様を客観的に眺めることができ、優しく温かい目で和解に至る経過を知ることができたような気がします。
 三人の発言で、印象に残った点を記してみます。陳さんは、「宋さんは西松建設に『謝罪、補償、記念碑建設』の3点を当初から要求していた」、「戦争は国の指導者、政治家が起こすものであって、庶民が起こすものではない」と発言しました。老田さんは「日本軍は中国で2000万人以上の中国人を殺した。いたるところに万人坑がある。中国国内でも何百万人の強制連行があった。日本に強制連行された中国人4万人は取るに足らぬ数字という人がいるが、それは間違いである」と語りはじめ、中国人強制連行に関する日本での16の裁判について紹介しました。「被害者を利用するのではなく、被害者の生活の中から聞き出すことが大切である」、「新美隆弁護士に『なぜ、花岡裁判、安野裁判では国を訴えなかったのか』と聞いたことがあるが、新美弁護士は『国を訴えない方が早く解決する』と答えた」、「強制連行された中国人4万人のうち、花岡で986人、西松安野で360人、西松信濃川で180人、大江山で6人(原告のみ)、三菱マテリアルでは下請けも含めて3765人、計5297人が和解できた意味は大きい」と発言しました。足立弁護士は、訴訟の経過を振り返りながら、「宋さんは、当時としては珍しく学校に6年通った人であり、高級官僚になれる道を歩んでいた。記憶が鮮明で、冷静な語り口は証言者として最適な人だった。失明に対する特別な賠償を要求することはなかったが、西松が和解に傾いていく過程では宋さんの存在は大きかった」と発言しました。
 私は全港湾の委員長を退任して9年になります。16の中国人強制連行訴訟のうち港湾に関係する訴訟は、新潟、山形酒田、石川七尾の三つの裁判です。いずれも、国と企業を相手取った裁判でしたが「1972年の日中共同声明によって中国政府は戦争賠償の請求を放棄したので、個人の請求権も消滅している」という理由で原告敗訴になっています。新潟裁判では、第一審で原告が勝訴し、国と企業に対して原告一人当たり800万円の支払いを命じました。この判決を巡って、被告企業の従業員である全港湾組合員の中でも様々な意見がありました。「企業が賠償金を支払えば、賃上げに支障が出るのではないか」、「企業は国の政策にもとづいて中国人を使用したまでで、賠償金は国が全額支払うべきではないか」などの意見です。戦後補償裁判について、全港湾は「日中共同声明によって個人の賠償請求権までも放棄されたものではない」という立場で支援していました。新潟裁判の原告を支援していた新潟平和運動センターの議長は全港湾の役員でした。支援に消極的な組合員との間で板挟みになっていました。国の責任を認めた初めての判決だったので、国の責任を強調していたことを覚えています。

フィールドワーク、第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い、善福寺での追悼法要

 10月15日(日)には、フィールドワーク、第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い、善福寺での追悼法要に参加しました。この7月に発行したフィールドワーク資料であるパンフレット「安野発電所中国人強制連行・被爆の歴史を歩く」(500円)は、とてもうまくまとめた分かりやすい資料だと感心しました。毎年、原水禁大会のフィールドワークを受け入れている「継承する会」ならではのパンフレットだと思いました。

 安野中国人受難之碑には、強制連行された360人全員の名前が刻まれていました。強制連行されて日本で亡くなった方の慰霊碑ではないことに気づかされました。慰霊式であれば、発言者は慰霊碑に向って参列者には背を向けて発言します。集いでの発言者は、受難の碑に一礼したあと参列者に向って発言していました。主催者挨拶は継承する会の足立修一世話人代表、来賓挨拶は安芸太田町長、善福寺住職、広島県教組委員長、メッセージが遺族、中国大阪総領事から寄せられていました。碑を建てた場所は、現在でも稼働している発電所のすぐ上の中国電力の土地で、今は安芸太田町が管理しているとのことです。慰霊式ではなかったので、善福寺での追悼法要が営まれたのだと納得しました。碑文や碑を建てた土地、式典のすすめ方は、それぞれの地域で違いがあり、地域状況、運動状況を反映したものだということが分かりました。

 帰りのバスの中で、内田雅敏弁護士が、前日おこなわれた秋田県の尾去沢での中国人殉難者慰霊祭の報告をしました。三菱マテリアルとの和解によって昨年11月に「日中友好平和不戦の碑」が建てられましたが、今年初めて遺族の方が参加しました。遺族のお孫さんは「祖父が戦時中突然いなくなり、家族を見捨てて蒸発したものだと思っていた。三菱マテリアルの和解によって遺族調査が行われ、あなたの祖父は強制連行されて尾去沢で亡くなったという連絡があった。今まで蒸発した祖父を恨んでいたが、尾去沢に来て初めて祖父の人生を知ることができた。」と挨拶したことを話してくれました。

日中労交は「和解から友好へ」をスローガンに活動しています。今回、西松建設に碑を建てることを要求した宋さんの思い、碑の前で遺族が語る思いを知ることができました。日中共同声明で中国政府は「中日両国国民の友好のため」に戦争賠償を放棄したわけです。いわば政府間の和解が1972年に成立したいえます。しかし、民衆の和解はひとり一人の人生から解きほぐしていくものだと感じました。いま日本政府は、和解の精神を忘れ、戦争の加害責任がなかったように振る舞い、日中関係を友好どころか敵対関係に仕上げています。

 広島で継承する会が続けている活動に触れることができ、和解事業として碑を建てる意味、後世に伝える意味を改めて考え、友好に向けて動いていることを感じる旅となりました。日中労交は、南京に「日中不再戦の誓い」の碑を建てたわけです。私は「碑守」として、毎年12月13日に南京紀念館で行われる南京大虐殺受難者追悼の国家公祭に参加すること、「誓い」を後世の人に伝えていくことの責任の重みを感じました。