カテゴリー別アーカイブ: JCLIFの活動

日中労交および日中労働情報フォーラムの活動

「歴史問題の和解を考える~市民活動の可能性に着目して~ 」外村大(東京大学教授)の講演をお聞きして

 藤村 妙子 (中労交事務局長 )

 2020年7月18日の総会において外村教授の講演があった。語られた内容はこれからの国際連帯活動を考えるうえで大変示唆に富む内容だった。詳しくは、別紙当日外村教授から配布されたレジュメに是非目を通していただきたいが、ここでは感想も交えてレジュメの他に語られた内容について書いていきたい。

2020年7月18日の総会において外村教授の講演
第6回総会(7/18)の第2部特別講演として外村 大(東京大学教授)に「歴史問題の和解を考える~市民活動の可能性に着目して~」をお願いした

「和解」を研究する「和解学」の設立

 東京大学で総合文化研究科において地域文化研究に取り組んでこられた外村教授は、「和解学」の創造を掲げる研究プロジェクトに参画しているとのことだ。「和解学」とは政治学、歴史学と哲学などの学際的な領域の研究テーマである。「歴史の歪曲」が起きる要因の多くは政治的な野心である。しかし、人々がその「歪曲された歴史」を受け入れているという中にあって、過去の過ちと向き合うとは何なのか、どうしたら被害者と加害者が和解する事ができるのかを様々な市民活動などと出会う中から考えてきた中で「和解学」の設立しようと思い至ったと外村教授は語った。私は、この「和解学」設立のプロジェクトに参加とようと経過をお聞きし、外村教授の研究室にこもっていないアクティブな研究の姿勢にとても感銘を受けた。
 敗戦後から日本人が過去の過ちとどう向き合ってきたのかという経過が語られた。敗戦後すぐには余裕もなく、「アジアの諸民族批判を受け止めないままの民主化、戦争被害国や被支配国不在の講和」から出発した日本。この日本国民が1950年代になってようやく「日中、日朝の友好運動」が、遺骨の収集や奉還などから始められた。しかし、戦後日本の主力労働組合であった炭労の「田中委員長問題」それは「田中委員長は朝鮮人だ」という噂話が広がる中で労働組合に動揺が起き、田中委員長が辞職した問題に表れるように闘う労働者と言われた炭労の組合員も差別から自由ではなかった。私はこの話を聞きながらこの問題後あった戦後労働運動の最大闘争である三井三池闘争の過程で被差別部落民への差別意識を利用した会社側の分断工作があったことを思い出した。権力者は私たちの中にある差別意識を利用して、分断をして来ること。差別と向き合い被差別者との連帯は、労働運動の課題であることを改めて実感した。

「戦後処理」ではなく「和解」

 村山自社さ内閣の重要政策課題としてあった「戦後処理」は、何らかの政策的処理によって、最終的に戦争に起因する問題を終わらせることができると、政府と人々は思い「村山談話」が発せられ、「アジア女性基金」が作られた。こうした「戦後処理」という考え方は、現在の安倍内閣にも貫かれている。しかし、戦争に起因する問題と真剣に取り組もうとした人たちは国の責任を問う中で自分たちは何をするのか、自分と自分に連なる人たちの過去や自分の周りの過去を問い直す葛藤が運動の中に生まれた。そして、21世紀に入るとそれは、一方的ではなく相互の作用、より深く、広がりを持ち、永続的にお互いが変化し関係をイメージさせる言葉として「和解」がキーワードとなったと1980年代以降の当時の状況が語られた。
 講演の中で繰り返して語られた言葉に「被害当事者すべてが満足する『和解』はない。しかし、謝罪と人権救済にとどまらず、新たな歴史認識の共有、加害者の意識の変化、記憶の継承と相互尊重の維持を市民社会の中で広めていくことの必要性」という言葉に共感をもった。私は東京からの満蒙開拓団について調査・研究しているが、この研究の中で私たちが追及してきたこともまさにこのことだった。なぜ当時の日本人は開拓団になって行ったのか、それはどのような仕組みの中で行われたれたのかを調べていく中で、開拓団家族として渡満した人や青少年義勇軍だった人が「なんで自分たちは行ってしまったのか」という葛藤を史実を知ることによって再度とらえ返えしていることを実感した。そして、私たちの本を読み、学校や市民集会での講演を依頼してくる人々は、史実を後世や周りに伝えことを望んでいることを実感した。かつての誤りを指弾するだけではなく、丁寧に解きほぐしていくことが誤りを乗り越えるエネルギーとなって行くと思う。今回の講演を聞いてこうした行為は「和解」への道だったのかと改めて思った。

身近な所から歴史を見る視座

 日本の多くの「伝統産業」と呼ばれているものの多くは朝鮮や中国から渡ってきた人たちからもたらせられたものである。切っても切れない関係のあるアジア諸国とどういう関係を今後作っていくのかは日本の未来にとって重要であると外村教授は強調した。私は、今日本は一部のエリートだけがグローバルな人間となることが求められ、一般大衆は「嫌韓・反中」というような差別と排外主義の中におかれているようなとても嫌な時代だと感じていたので、敗戦後からの私たちの歩を知ることによって落胆することなく活動を続けていこうと改めて思った。
 最後に外村教授の「私、私たちの歴史を知るということは、自分や私たちは何者かということを知ることである。自分の歴史の他に地域の歴史や労働者の歴史もある。いろいろな多様な歴史を掘り起こし、学び、伝えあう中で反ファシズムに向けた運動や力が作られる」という言葉を胸に刻んでいきたい。
 外村教授ありがとうございました。

外村 大(東京大学教授)「歴史問題の和解を考える~市民活動の可能性に着目して~」 講演レジュメ

中国職工対外交流センター秘書長 馬進氏から 日中労働者交流協会2020年度総会への祝辞

日中労働者交流協会
会長 伊藤彰信 先生

 伊藤先生からのお便りに感謝いたします。日中労働者交流協会2020年度総会の開催にあたり、中国職工対外交流センターを代表してお祝いを申し上げます。
 先日、日本の九州地方で発生した豪雨による洪水では、住民と財産に甚大な被害が発生したと聞いています。同じころに、中国南部の広範な地域でも深刻な洪水災害で、住民と財産に被害が発生し、今後のさらなる被害拡大も予断を許しません。被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。この水害によってコロナ対策はさらに難易度が増し、感染症の拡大が防災対策のリスクを高めています。伊藤会長はじめ友人の皆様もお気をつけてご活動ください。
 今回のコロナ禍は次の教訓を明らかにしたと思います。つまり、各国人民の生命と健康について今日ほどに世界が喜びと悲しみを分かち合ったことはなく、わたしたちは一つの地球村で生活しており、人類は一つの運命共同体である、ということです。ウィルスは人類共通の敵であり、国境や人種に関係なく、全人類に挑戦状を突き付けています。ウィルスに打ち勝つ最も効果的な武器は、連帯・協力して、手を携えて人類の運命共同体を構築し、生存を保障するコミュニティを一緒に守ることであり、他国に責任をなすりつけることではありません。
 感染症の拡大以降、日中両国は緊密に協力し、予防に力を合わせ、ウィルスの拡散の抑制に効果を上げてきました。両国民衆は、グローバルなコロナ対策のモデル構築のために、相互に助け合い、「山川異域、風月同天」(山川域ヲ異ニスレドモ、風月天ヲ同ジウス=異郷にあれども世界はつながっている)という新しい時代を創造しようとしています。伊藤先生からは最初にお見舞いの便りを寄せていただいたことなど、両組織の情報のやりとりはずっと続けられてきました。
 日中労働者交流協会は、結成以来、歴史を忘れず、平和を守り、二度と戦火を交えないという誓いを立て、日本軍国主義反対の旗幟を鮮明に掲げながら、さまざまな活動に尽力されてきました。伊藤先生は、何度も代表団を率いて南京大虐殺受難者国家公祭式典に参列し、日本軍の侵略遺跡や記念館を訪問され、日中両国の労働者の友好交流のために、たゆまぬ努力と多大な貢献を果たしてこられました。私たちも貴協会と心をひとつにして、コロナ感染拡大に警戒を怠ることなく、頻繁に連絡を取り合い、両国労働者の友好交流にいっそうの貢献をしたいと考えております。
伊藤会長と早期にお会いできることを願って。

2020年7月16日
中国職工対外交流センター
秘書長 馬進
      

* 馬進秘書長からのメッセージ(原文)

(原文)

日中労働者情報フォーラム第8回総会(7/18)開催

日中労働情報フォーラム第8回総会
日中労働情報フォーラム第8回総会(2020/7/18)

 7月18日、コロナ感染で延期になっていた総会が開かれました。「感染拡大中の東京へは行きたくない」という声も多く無事開催できるのか危ぶまれましたが、委任状等も含めて定足数35を上回る50名の参加があり、総会は成立しました。 

垣沼副代表が開会のあいさつ
垣沼副代表が開会のあいさつ

 まず、伊藤彰信代表からあいさつがありました。「フォーラムは交流の実績を上げてきた。しかし、日中関係はコロナ問題と香港問題に直面している。中国では日本に好感を持つ人が増えてきたが、日本では〝習 近平来日阻止〟や〝国連が中国に牛耳られている〟と叫ぶ人がいる。米中関係は冷戦構造になりつつあるので、私たちの立ち位置が難しくなっている。フォーラムは友好交流団体なので、友好を損なわないように労働者間の友好連帯をつくっていこう。」と。

伊藤彰信代表が活動方針を提案
伊藤彰信代表が活動方針を提案
藤村事務局長が経過報告を行う
藤村事務局長が経過報告を行う

 次に、議事に入り、2019年度活動報告、2020年度活動方針、2019年度決算及び会計監査、2020年度予算案について提案と討論があり、全て承認されました。 討論では、ユニオンみえや関西生コンの闘いの報告もなされました。

 それから、「日中労働情報フォーラム」の名称を「日中労働者交流協会」に変更に関する会則改正、運用要綱改正、趣意書改正について話し合われました。「日中労働情報フォーラム」を解散して「日中労働者交流協会」を再建するわけではなく名称変更であるということで、会則改正、運用要綱改正は承認され、趣意書改正については三役一任となりました。

伊藤光隆事務局次長の議長で会議を進めた
伊藤光隆事務局次長の議長で会議を進めた

最後に、新役員の選出・承認が行われました。役員体制に大きな変化はありません。

 なお、総会には、中国職工対外交流センター秘書長 馬進さんからメッセージが届いていました。
   

第2部で外村大(東大教授)先生が「歴史問題の和解を考える」の講演を行った
第2部で外村大(東大教授)先生が「歴史問題の和解を考える」の講演を行った

(文責  伊藤光隆)

内田雅敏弁護士が「元徴用工 和解への道―戦時被害と個人請求権」を出版

 日中労働情報フォーラムの会員でもある内田雅敏弁護士が本を書きました。
「元徴用工 和解への道―戦時被害と個人請求権」ちくま新書、880円+税です。

内田雅敏弁護士
内田雅敏弁護士


 「韓国人元徴用工問題を解決済とする日本政府。一方で元徴用工が補償を求める個人請求権が存在することも認めている。彼らの訴えに耳を傾けることが、戦後75年間、民間人の空襲被害や外国籍の人々への戦後補償を放棄してきた日本社会に問われているのではないか。著者は弁護士として中国人強制労働事件の和解交渉にかかわった経験を踏まえ、元徴用工問題和解への道を探る。」(カバーのそで)

「元徴用工 和解への道―戦時被害と個人請求権」


 内田弁護士は、本書に特徴があるとすればと「1、同種の中国人強制連行・強制労働問題における和解事例を参考にしながら元徴用工問題の解決を模索、2、和解、勝訴判決、付言、など、被害者に向き合った裁判官たちの心情、及びその後の和解事業への参加による感慨、3、和解に応じた企業のトップ、担当者らの思い。」の3点あげています。また、「被害者への謝罪と和解金のお届け、追悼、という和解事業の実践の中で、判決がうまくいかないから和解ではなく、歴史問題の解決は和解こそふさわしいということを実感してきました。歴史問題の解決は安全保障にも資するということも含めてです。」と言っています。
 私たちは、内田弁護士から中国人強制連行裁判の経過などを教わってきましたが、先生がこの間発表してきた内容をまとめた本と言えます。先生も「ある意味、45年間の弁護士生活のまとめのようなもです。」と言っています。
 和解なくして友好は築けません。私たちの活動も「日中不再戦誓い」をもとに和解と友好の内実を探る活動です。会員の皆さんにおすすめの一冊です。

伊藤 彰信(日中労働情報フォーラム代表)

「アジア言語文化研究」創刊号(2019/6)が発行

「アジア言語文化研究」創刊号(2019/6)の表紙
「アジア言語文化研究」創刊号(2019/6)の表紙

 3月19日のシンポジウムで南京師範大学の林敏潔教授にお会いした時、「アジア言語文化研究」創刊号(2019/6)をいただきました。昨年6月、南京でお会いした時は、印刷中ということでしたが、今回いただいた本は刷り上がったばかりの第2版でした。
 内容は、林先生がテーマにしている「日本民間反戦記憶に関する多分野研究」を 特集したものです。中国の研究者や学生が、日本の反戦文学、漫画、映画に関する研究について発表しています。ページをめくると、中国語の論文と日本語の論文が混在するものでした。どのような論文なのか、皆さんに紹介するため、取り急ぎ目次を整理してみました。

伊藤 彰信

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南京―日本の加害責任を問う旅に参加して

西日本NTT関連労働組合執行委員

池田和則

はじめに

 第7次「日中不再戦の誓いの旅」が12月11日~15日にあり、参加しました。行き先は、上海経由での南京でした。

 さて、12月13日(1937年の)は南京陥落の日です。その日の前と後、南京城の内と外で日本軍による中国人民に対する大量虐殺が行われました。その跡を自分の目で見たいというのが参加の動機でした。日本では、私の親などが「支那事変」と言っていた日中戦争」を中国では「抗日戦争」というのだそうです。どこから見るのか、または、その性格をどう表すのかで異なる名前になります。

 旬刊「中帰連」の裏表紙には、「前事不忘 後事之師」(チェンシープーワン ホウシ―ズシ=前の経験を忘れず 後の教訓とする)とあります。未来を語る前にまずは、過去を振り返ることから始めることが大切だと思うのです。

 旅の準備として、伊藤団長に紹介いただいた、「南京の日本軍―南京大虐殺とその背景」など藤原彰さんの著作を中心に5部読んで臨みました。

上海から南京へ

11日朝、関空出発組のYさんとおちあい、上海で東京組と合流して全員集合となりました。

高速鉄道の上海虹橋駅

上海から南京までは、高速鉄道(中国の新幹線)でわずか1時間ちょっとの旅でした。夕方となり、窓の外は暗く景色は見えません。が、そこは日本「皇軍」が、南京へ、南京へと侵攻する道程でした。私は、1937年を想像します。上海に上陸した日本軍は、上海を占領したものの予想外の中国軍の抵抗にあい、多数の戦死傷者を出しました。中国軍をなめていたのです。さらに、それらのことは中国人に対する憎しみを増幅させ、捕虜の虐殺など、後の残虐行為の伏線ともなりました。

 現地軍は、中央の戦線不拡大方針を無視し、しゃにむに南京へ南京へと進軍します。中国では「南船北馬」といいます。揚子江流域は多くのクリークが張り巡らされ進軍は思いどおりになりません。中国兵、日本兵の死体の浮いたクリークの「赤い水」で炊いた飯盒の飯を食いながらの進軍であったといいます。

 もともと、日本軍は兵站を軽視していました。ここでも、前線部隊に武器・弾薬の補給が間に合わない。ましてや「食糧」、「医療」、「衛生」など軽視・無視もはなはだしい。橋を落とされたクリークに阻まれ、馬荷や荷車、トラックは立ち往生します。現地の実態を無視した作戦計画の失敗がますます戦況を悪化させました。

 打開方法は、現地調達=徴発=略奪でした。「略奪」は当初の作戦立案時点での前提でした。

進軍中の村々から銃剣で脅して「食糧」、「家畜」などを、略奪し、家は焼き払い、男は拉致して荷役運びをさせ、女性は凌辱する。後続の日本軍部隊は先行部隊と同じコースの進軍を嫌がったといいます。「略奪」し尽くされ、何も残っていないからです。それほど、徹底したものでした。

そもそも軍隊にとっては、占領地においてはすべてのものが戦利品なのです。そんな軍隊の典型が「皇軍」=天皇の軍隊でした。

しかし、侵攻すれば、するほど中国人は諦めるどころか、怒りに燃え、抗日闘争で中国は団結することになりました。

 いずれにしても、「虐殺」は南京で急におこなわれたのではなく、ずっと前から行われていたのです。しかし、「南京虐殺」はあまりに規模が大き過ぎる。いまだに「なかった」という日本人がいるが、どの面さげていっているのか!

南京にて

12日

南京市り水区の「り水経済開発区企画館」と「開沃(スカイウエル)新能源汽車集団有限公司」の工場、午後は南京市総工会の職工服務中心(労働者サービスセンター)を見学しました。その後、江蘇省総工会との交流会がありました。現代の中国、中国の現実には興味を持っていますし、質問もしました。が、一言でいえば、1,2時間の交流、数時間の見学ではよく理解できなかったというのが、本音です。頻繁に交流している方の話や文章で発表されたものも総合して、間違いの少ない理解になると思います。従って、今回私は触れません。他の参加者の報告をお読みください。

ただ、江蘇省総工会との交流で印象に残ったことには触れます。伊藤団長はあいさつの中で「われわれは、1931年および1937年を契機とする日本軍国主義の中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止できなかったことを深く反省」するという日中労交の決意を受け継ぎ、「安倍政権」をはじめとした右翼勢力の動きに対し「労働者人民の闘争によって阻止」したいと決意を述べられました。これに対し、江蘇省総工会の張副主席候補は、「日本軍国主義は中国人民に対して加害者ではありますが、一般の日本人をも被害者にしました。」と述べたうえで、「私は、最近日本のドラマを見ました。おしんというドラマです。主人公のおしんは(アジア太平洋)戦争で息子は戦死し、軍部に協力した夫は自死しました。それは、最愛の夫、息子を失ったおしんも戦争の犠牲者、被害者であると思います。」と。

この「言葉の交流」に温かいものを感じました。私も「労働者人民の闘争によって阻止します。」と決意を新たにしました。

会議が終わり、帰りに前を歩いていた中国側通訳の二人の方がこのような話をしておられました。「日本のいろいろな労働組合の訪中団の通訳をするけど、戦争責任に触れるところはないね。日中労交だけだよね」、「中国側から話を切り出すわけにもいかないもんね。」と。

「貴重な」日中労交に誇りを持つとともに、いつまでも「貴重な」存在にしていてはいけない。日中労交の持つ考え方・姿勢を多くの日本の労働組合に広げることも私達の「仕事」だと思いました。

13日

「南京大虐殺受難者追悼国家公祭」が「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞祈念館」の広場でありました。広島や長崎での原爆被爆者追悼集会のイメージでした。言葉がわからないので、政府高官などがどんなメッセージを発したのかはわかりませんでした。ただ、安倍首相のような「心にもないこと」は言っていないでしょう。

午後、「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞祈念館」を見学しました。特に真新しい「事実」発見などはありませんでしたが、現物を、本資料をじかに、自分の目で見ることができ、願いがかないました。

オペラ劇場のホール

夕方、キャンドル祭に参加し、その後、創作オペラ「ラーベ日記」を鑑賞しました。記念すべき初演でした。1937~8年の南京、「南京安全区国際委員会」の委員長を務めたジョン・ラーベをはじめ、ミニー・ヴォートリン、ジョン・マギーたちの南京市民を護る活躍を描いた作品でした。中国語と英語の字幕が出るのですが、知らない単語が多く、詳しいストーリーまでは分かりませんでした。重いテーマですし、すっきりした終わり方ではないので、流行るかはわかりません。「オペラ」というジャンルを見るのは最初で最後かなあ⁉と思いました。

14日

「利済巷慰安所旧址陳列館」を見学しました。中国各地の慰安所、日本、アジアの慰安所の資料が展示されています。南京での強姦、虐殺を契機に慰安所が軍の管理下に置かれるようになり、強制的に女性が連れてこられるようになった経緯が説明されています。

入口を入った中庭に大きなお腹をさすっている少女の像がありました。以前読んだ本の中にあった「写真」に似ていると思いました。でも「写真」とは同じではありません。施設の中に入り、その「写真」がありました。朝鮮から連れてこられたあの少女が収容されたのが、この「利済巷慰安所」だったのです。少女の名は朴永心。この建物の二階19号室は、朝鮮籍「慰安婦」被害者朴永心さんが三年間にわたり、日本軍の性奴隷に強いられたところでした。中庭の像はあの「写真」の少女をモチーフにして作られたとのことでした。

少女たちの青春を奪い、女性たちに癒えることのない傷を負わせた大日本帝国。日本国内に今も残る「大日本帝国」主義者に中国や韓国がうるさいなどと云わせない。日本国内で活動する私たちが「大日本帝国」主義者を黙らせ、真実を広める任務を遂行せねばならない。固く誓いました。 

中山港の大虐殺遇難同胞記念碑
中山港の大虐殺遇難同胞記念碑

その後、長江(=揚子江を中国ではこう呼ぶそうです)ほとりの南京大虐殺遭難者中山港記念碑で頭を垂れました。また、1968年に中国独自の技術で完成した自力更生の象徴である長江大橋を見学しました。展望台に上り、長江の流れを観ました。あまりに大きく全貌は見えませんでした。けれど、その時も長江のほとりで中国人捕虜の虐殺地点にたくさんの×で示す地図と二重写しになりました。敵国の捕虜は「処置」し、日本軍兵士には捕虜となることを許さず、「餓死(飢え死に)」させる。まさに、「日本鬼子(リーベンクイズ)」が泥沼深く沈んでいく通過点だったのです。

  おわりに

 8月の中国東北部(旧「満洲」)に続く今回の旅で「日本の加害責任」を辿る旅に一応の区切りがついた感があります。

 今後も「日中労交」の「第8次」、「第9次」と訪中団が企画されると思います。皆さんに参加をお薦めします。特に、南京は5日と短く、費用もお手頃です。さらに、40歳以下の参加者には「日中交流助成基金」が設立され、中国国内旅費の助成があるそうです。中国側も日本の若者の訪中を期待しているようです。

 「日中労交」の訪中団の案内がきましたら、私からも個別にご案内したいと思っています。

お世話いただいた、「日中労働者交流協会」と受入窓口の「中国職工対外交流センター」には大変お世話になりました。御礼申しあげます。

以上

南京で見た加害者としての日本

猪股 修平(東海大学4年)

〈国家公祭〉

国家公祭終了後の会場。 2019年12月13日 南京紀念館前で筆者撮影

南京大虐殺犠牲者国家公祭儀式。2014年から国家行事として執り行われており、今年で6回目。式典は南京大虐殺から82年目となる12月13日午前10時から始まった。侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館前の広場で中華人民共和国国歌斉唱、儀仗隊による犠牲者へ向けた花輪の献上、中国党中央宣伝部の黄坤明(ホワン・クンミン)部長の演説があった。黄宣伝部長は南京大虐殺について「30万人の同胞が殺戮された。人類の歴史に暗黒の1ページとして永遠に刻まれる恐ろしい犯罪だ」とした上で「中日両国は新しい発展の時代に入った。相互信頼を深め、平和友好の共通路線に沿って関係を発展させていく」と対日関係を念頭に置いたとみられる発言もあった。

会場には我々だけでなく、韓国や欧米諸国からの来賓者も散見された。また、南京市内の小中高生たちも出席。白い礼服を着込んだ高校生たちは式典中、歴史の記憶と平和を守ることについて宣言した。入場者は厳しいセキュリティーチェックを受ける。持ち込み制限や服装規定、拍手のタイミングなどがあらかじめ伝えられる。

余談だが、式典終了後、そばにいた中学生たちがさっきの真剣な表情とは打って変わって周りの同級生たちと談笑していた。国家レベルの式典参加に際し、相当の緊張感と厳粛さを感じ取っていたのだろう。彼、彼女たちは今後、歴史を伝える担い手になる。

〈南京紀念館の展示〉

展示室内の壁に掲示された南京大虐殺犠牲者の顔写真 2019年12月13日 南京紀念 館で筆者撮影

1985年8月15日開館。館内のメイン展示となる「南京大虐殺の史実展」は南京大虐殺80年を迎えた2017年にそれまでの展示内容を更新する「陳列更新プロジェクト」を経て同年12月13日に公開が開始された。同展の図録によると、更新後の展示は「南京失陥前の情勢」「日本軍の侵攻と南京保衛戦」「南京陥落後の日本軍の暴行」「人道主義的救援」「世界に知られた事実と日本の隠蔽」「大虐殺後の南京」「戦後の調査と裁判」「人類の記憶と平和への祈願」の8つから成り立つ。およそ2000枚の写真と900点あまりの文書が展示されている。

館内に入るとまもなく犠牲者一人一人の名前が映し出される壁が目に入る。この壁には12秒に1滴ずつ滴り落ちる雫の映像が映写されている。これは、亡くなった犠牲者の数を南京大虐殺の期間に当てはめた時、12秒に1人が殺害された計算になるためだという。

順路進むと次に見えるのは壁一面に犠牲者の顔が表示されている大広間。ここには生存者が残した足型も展示されている。犠牲者数「30万」の数字は単なる数字ではなく、失われた人生が積み重なったものであると痛感した。

以降はパネル、実物、証言、文書、映像などが展示された空間を進んでいく。この中には守衛側に回った中国軍の攻防も紹介されていた。軍事による蛮行を悼む国家公祭に軍人が参加するのは、人民を守るために立ち向かった兵士を慰霊するためとみられる。

展示室の中央には地中に埋められた遺体がそのまま保存されている、もちろん白骨化しており「発掘時に発見された状態」と言うのが正しい。しかし、来館者は目の前にある23柱の遺骨を見て、82年前の蛮行に思いを至らせずにはいられなくなる。この展示空間は、虐殺を象徴する、「ブラックボックス」と紹介されている。5年前まで義務教育・高等教育の社会科を学んできた私は一切学んでこなかった歴史が詰まっている場所。大虐殺の悲惨さだけでなく、日本の教育のお粗末さにも気づかされる場所である。

中でも一番愕然とした展示は、占領後の南京で日本軍兵士と住民たちが和やかに触れ合っているかのように報じた日本メディアの記事たちである。兵士と子どもが手を繋ぐ写真を報じ「戦地とは思えない」とまで言及していた。いずれも、日本政府の方針から虐殺の隠蔽に加担したもの。大虐殺の歴史が伝わっていないのは、言論機関の責任でもある。来年から記者になる身として、他人事ではない思いが込み上げた。

南京大虐殺生存者の李秀英さんが残した言葉。 2019年12月13日 南京紀念館で筆者撮影

展示の最後には南京大虐殺生存者の李秀美さんが残した言葉があった。「歴史をしっかり明記しなければならないが、恨みは記憶すべきではない」。負の歴史をつなぐ一方で憎しみの連鎖をいかに絶てば良いのか。次世代を担う我々に問いかけられている気がした。

〈利済巷慰安所〉

利済巷慰安所の建物。壁にある雫状のアートは犠牲者たちの涙を模したもの。手 前の銅像は利済巷慰安所を証明した性奴隷被害者・朴永心さんらの姿をモチーフにしている。 2019年12月14日 利済巷慰安所で筆者撮影

訪問4日目の14日、南京市内の旧日本軍慰安所「利済巷慰安所」を訪問した。2003年、朝鮮人慰安婦被害者の朴永心(パク・ヨンシン=2006年死去)さんがこの場所を訪れ確認し、外国人慰安婦に証明された唯一の慰安所とされている。日本軍の性奴隷制度を記録・展示する施設として開館したのは2015年12月のこと(奇しくも同月には慰安婦被害者への賠償などを取り決めた日韓合意が安倍晋三・朴槿恵両政権下で締結されている)。記念館の外壁や展示室内には性奴隷被害者たちが経験した苦痛をイメージした「涙」の雫が描かれている。

日本軍が中国大陸で初めて慰安所を作ったのは1931年11月のこと。名前は「第一サロン」。慰安婦制度が確立する前に作られたため、一番長くその「機能」を持った慰安所である。建物は現在も存在しているという。1932年の上海侵略以降、大規模な強姦事件を防ぐため慰安婦制度が作られた。そのため、中国の慰安所は上海に多い。制度が拡大したのは南京大虐殺以降のこと。南京市内で日本軍兵士が多くの強姦事件を犯し、性病が蔓延したためだ。上海派遣軍参謀副長として侵略に加担した岡村寧次は「極めて恥知らずのまま慰安所を作った」と後年に回顧している。また、南京大虐殺時に商社駐在員として民間人の保護活動に尽力したドイツ人ジョン・ラーベは日本軍の性的暴行を記録している。

日本軍が使用していた「突撃一番」と名付けられた避妊具。 2019年12月13日 南京紀念館で筆者撮影

韓国留学を経験し、韓国側から日本軍性奴隷問題を見つめた私は、被害国としての中韓両国を対比しながら館内を見学した。韓国で性奴隷問題を詳細に扱っている施設としては、被害者が集う福祉施設「ナヌムの家」や民間団体が出資して設けた「戦争と女性の人権博物館」がある。2つの施設の主眼にあるのは「被害者の苦悩」である。展示内容は被害者の証言や被害者が描いた絵、少女像など、見る者の情念に訴えるものが多い。一方、利済巷慰安所の展示物は被害者が寄贈した慰安所の器具、慰安婦制度拡大までの経緯が記された資料など、現物を用いて歴史を紐解くものが多い。以上から、韓国は「記憶」を、中国は「記録」を重視している印象を受けた。慰安婦の中には南京金陵女子学校(現・南京師範大学)から強制的に連行された女学生もいたという。中には朝鮮半島から中国まで連れて来られた被害者の証言もある。中国国内の被害者は20万人。うち現在も生存しているのは20人程度だという。ちなみに当施設は侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の分館という位置付けで運営されている。南京大虐殺はユネスコの世界遺産記録に認定されているが、性奴隷問題は認定されていない。中国側は「他の国と連合して申請し直す案を真剣に検討する」としており、日本の加害の歴史は中韓の連携によって記憶されていくというおかしな状況が生まれようとしている。安倍晋三首相は先の日中韓首脳階段で三ヶ国の連携強化を訴えていたが、歴史的事実の継承について鼎の軽重が問われている。

訪中記  ― 改めて戦争しない、させない決意を新たに

渡部公一 (前目黒区職労委員長)

平和友好にむけ南京市を訪問

私は、日中労働者交流協会平和友好訪問団の一員として、毎年12/13に開催される南京大屠殺死難者国家公祭儀式に出席するため、12/11から12/15まで中国を訪問しました。昨年に続き2回目の参加です。日韓関係が徴用工問題などで厳しく、また中国と米国の貿易戦争が世界経済に大きな影響を及ぼし、香港で度重なる抗議活動が多発している中の訪中でした。日本と中国は、田中内閣の時に戦後処理で国交回復、平和条約を締結しましたが、明治から「脱亜入欧」の感覚もあるようで、差別意識があります。日本は、朝鮮半島を植民地支配していたことから戦後処理で双方の歴史認識に深い溝があり、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)については戦後処理、国交回復すらできていません。

こうした状況でなんとか一番近い国が仲良くなり、東アジアの非核平和の実現を願っています。

2つの成果

私たちは、労働者の立場から日中平和友好をテーマに交流しています。社会主義国の労働組合の活動について知識が乏しい中で皆さんと交流できたことは大きな成果でした。この中で私にとって二つの成果がありました。

第1に、昨年は訪中団にユニオン三重の若きリーダーも参加していましたが、今年は、来年4月に社会人になる学生インターン2人が参加し、一挙に平均年齢が若返りました。そのこともあり、私たちも新鮮なまなざしで訪問交流することができました。

第2に、現場の皆さんと交流できたことです。中国側は、全国総工会(日本だとナショナルセンターで全労連や連合)が窓口で、江蘇省総工会(日本だと県本部)が受け入れ、工場見学など地元現場の対応は南京市総工会が案内してくれました。今回の訪問で中国の労働組合が中央、県本部、南京市、工場レベルの人達と交流できました。

南京大虐殺受難者追悼国家公祭の式典に出席

今回の訪中の最大の目的である南京大虐殺受難者追悼国家公祭の式典出席です。私たちは労働者の立場から市川誠さん(元総評議長)らが建設した碑で誓いの言葉を確認、記念撮影しこの式典に臨みました、その式典終了後、侵華日軍南京大虐殺遭難同胞紀念館を見学し、この後、キャンドル祭に参加し世界平和を誓いあいました。その夜は、初公演オペラ「ラーベの日記」の観劇で、ラーベさんの南京市民を守る活動を描いた作品です。

南京市の経済開発区、主力工場、労働者サービスセンターを見学

Skywellの展示室

南京市の経済開発区の溧水区を見学しました。溧水区は、広大な土地を教科書にあるような都市計画の手法で新しい都市をモデル地区として開発し、現在と将来の都市像の説明を受けました。

次にこの地区にある主力産業の一つ、バスやワンボックスの電気自動車メーカーSkywellを見学。工場長から自社開発の部品やバッテリー、5 Gを活用した自動運転の説明がありました。特に印象に残ったのはワンボックスの組み立てラインで、労働者の微笑ましい作業風景を見ました。日本だと一人一人が一つの工程を機械的に対応しますが、ここのチームでいろんな作業をし、次のラインへ送るシステムで、日本でよくあるロボット溶接は見当たりませんでした。この後、Skywellの生産目標など説明がありました。この後、場所を移して産休制度など意見交換しました。

次に南京市総工会の職工服務中心(労働者サービスセンター)の訪問です。労働者、疾病や倒産などで窓口となる業務内容の説明を受けました。不慮の事故などで失業になった人へ再就職の訓練や起業するための融資などについて説明がありました。昨年は会議室で総工会の説明を受けてきました。今年は実際の事務所で具体の事業内容や訓練状況の説明を受けることができました。

バスやワンボックスの電気自動車メーカーSkywellを見学

全体を通じて責任者(各級の副主席クラス)は、シニア世代もいましたが、現場の工場長や開発主任も含め組合幹部の多くが 30代から40代の若い人たちでした。日本も若い世代へ早くバトンタッチしていかなければと改めて思いました。

長江大橋など南京市の大事なところも見学

南京長江大橋

南京市を訪問して長江大橋の見学ができたことは、とても良かったです。長江(揚子江)の大きさを目の当たりにし、この橋の中にある建設資料館も見学し、何よりもこの橋を地面から見ることができとても良かったです。この長江大橋の見学の前に長江のほとりにある南京大虐殺遭難者中山港記念碑も訪問できたことはとても良かったです。

中国各地の慰安所を展示している利済巷慰安所旧址陳列館を昨年に続き見学しました。説明してくれた案内人は、私の事を覚えていました。改めて戦争しない、させない決意を新たにしました。

ありがとうございました

伊藤彰信(日中労交会長、元全港湾委員長)団長をはじめ団員の皆さん、中国側の受けいれていただいたみなさんへ感謝すると同時に、来年は誰か参加できる人を募っていきたいと考えています。 以上

新たな交流の始まりを感じた ~南京市を訪問して~

藤村 妙子 (訪問団秘書長)

 今年も12月13日の「南京大虐殺犠牲者国家公祭」を中心に12月11日~15日南京市を訪問した。

 12月11日上海浦東空港で通訳の中国職工対外交流センターの李晶宇技術経済交流処副部長と再会した。バスに乗ると南京市総工会の付光宇さんから「日中労働者交流協会平和友好訪問団 ご案内のパンフレット」を手渡された。パンフレットまで用意して私たちを待っていてくれていたことを知り、改めて来てよかったと思った。今回の訪問団は伊藤彰信日中労働者交流協会会長(全港湾元委員長)を団長に70歳台から20歳台までの多彩な10名だった。今回は12日の訪問先についてのレポートをしたい。

 新たな街づくり

 12日は南京市南東部、市中心部から32キロにある溧水区(りすいく)の経済開発区に行った。開発区は昔、畑や草原だった所とのことだった。南京禄口(ろくこう)国際空港に隣接している面積138㎢、現在開発中であるが将来は60万人の都市にする予定であるという。大田区は面積約60㎢に約66万人が居住しているから二倍の面積に同じくらいの人が暮らす予定だということになる。大田区も羽田空港に隣接しているので何となく話を聞きながら比較してしまった。ここに作られる新しい町の居住区の地図を観ながら田園調布の街を連想していた。もしかしたら田園調布を作った人たちが夢想したのもこのような街だったのかもしれない。規模は小さいが、田園調布も駅を作り、道路を整備し、街路樹を植え、公園を作っていた。

また、街づくりの重要なポイント生活インフラの上水・下水設備、エネルギー(電気・ガス)、ごみ処理の事などがほとんど説明されていないことが気になったので質問してみた。水は揚子江から引き、下水は共同溝において水処理をしているとのこと。発電は揚子江の三峡ダムの発電によること。ゴミ処理は、現在の中国の最重要環境課題となっているとのことだった。分別収集と再利用や処理の際のエネルギーの活用などこれから日本などに学びながら行いたいとのことだった。私は、次回は是非そうした生活インフラの見学をできれば水道や清掃で働く人たちを訪中団に加えて行ってみたいと思った。

 新たな産業

 この経済開発区には、新エネルギー企業の産業用電気自動車工場が集まっている。その一つである「Skywell 新エネルギー自動車集団有限公司」に行った。2000年に黄宏生氏が設立した私企業である。同社は大型電気エネルギーバスの製造が主力で現在では5Gを使った電気自動車を開発中ということだった。

 ここでは、バスやワゴン車を製造している現場を見た。日本の有名自動車工場のようにオートメーション化されていないで、何人かがバスや自動車を取り囲み作業をしていた。何となく大田区の町工場の現場のようでとても親しみが持てた。機械化され無人化された中を自動車がつるされながら動きロボットが作業し、所々にいる労働者が機械のスイッチを押しているような工場ではなく、皆で語り合いながら共に力を出し製品を仕上げていく。こうした働き方は効率が悪いかもしれないが、技術を伝承し切磋琢磨し合える本当の働く姿があるような気がした。見学後使用者の人と労働組合の人とミーティングを行った。労働組合には従業員が全員加盟している。労組法に基づいて労働協約を結んでいて、この協約がしっかり実施されているかを一年に一度会社は報告している。儲かったときには、管理者には利益配当を行い、労働者には特別給を支給したとのことだった。南京市模範労働組合であり、南京市人民代表委員にこの工場の組合から一人推薦されているとのことだった。亡くなった人や病気になった人に寄付金を払っているとのことだったが、日本のような企業内の共済制度があるのかが少し気になった。また、労働安全衛生委員会のような仕組みはないようであったが、従業員は危ないところや、改善すべきところをいつでもスマートフォンで写して会社に通報や提案できるとのことだった。

 労働組合の労働者救済事業

 続いて、南京市総工会職工服務サービスセンターに行った。この施設は2002年6月に設立された所である。失業した労働者や本人や家族が病気になり、困難を抱えた労働者が行政のサービスの他に緊急的、即応をするための施設であるとのことだった。労働組合のリーダーシップの下に行われているこの事業は「雇用のための国家先進作業単位」という称号が国務院から2012年授与された。主な内容は職業紹介、起業のためのサポートや資金の融資、起業のための職業訓練などが行われている。

 とても面白いと思ったのは労働組合の交渉力を高めるために「交渉力コンテスト」が全国的に行われていて、南京市のグループは第一位だったということだ。訪中団のほとんどのメンバーは労働組合の活動家で自分たちもコンテストをやってみたい。どういう問題が出るのか、だれか採点するのかと質問が集中した。問題はすぐにはわからないとのことだったが、採点しているのは労働法の学者や労働組合の顧問の人たちということだった。

 以上のように、侵略遺跡の見学だけではなく、現在中国の一端に触れ、交流できたことは、新たな友好・交流の第一歩を踏み出したと思う。今後も進めていきたい。

第7次「日中不再戦の誓いの旅」 ―「日中不再戦の誓いの碑」建立から10年、南京を友好訪問

伊藤彰信(訪中団団長)

 日中労交の第7次「日中不再戦の誓いの旅」は、12月11日に出発し、南京を訪問して15日に帰国しました。学生2名が参加し、平均年齢をぐっと下げた訪中団になりました。
 今年は、日中労交の市川誠初代会長が1985年に侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館が開館した時に贈った「鎮魂の時計」に刻んだ「誓い」を碑にして建立してから10年にあたります。訪中団は、南京大虐殺犠牲者追悼国家公祭に参加するとともに、電気自動車工場見学、職工サービスセンター訪問など、現場の労働者と交流してきました。
 訪中団は、団長=伊藤彰信(日中労交会長、元全港湾委員長)、副団長=松本耕三(日中労交副会長、前全港湾委員長)、秘書長=藤村妙子(日中労交事務局長、東京の満蒙開拓団を知る会共同代表)、団員=清水英宏(全国自治体労働運動研究会運営委員長)、渡部公一(前目黒区職労委員長)、池田和則(西日本NTT関連労組執行委員)、新崎盛吾(元新聞労連委員長)、吉本賢一(全港湾大阪支部執行委員)、相澤一朗(東洋大学4年)、猪股修平(東海大学4年)の10名です。
 以下、旅の経過と概要を簡単に報告します。

<12月11日>

 訪中団は、羽田、成田、関空から上海浦東空港に着きました。空港には中国職工対外交流センター経済技術交流部副部長の李晶宇さんが出迎えてくれました。バスで高鉄(新幹線)の上海虹橋駅に移動。昼食をとったあと、高鉄に乗って1時間13分で南京南駅につきました。駅には、江蘇省総工会弁公室科長の費震さん、南京市総工会弁公室の付光宇さんが出迎えてくれました。
 駅の近くで夕食をとり、ホテルに向かいました。ホテルは天豊大酒店。南京市中心部の新街口にある南京市総工会が経営する29階建てのホテルです。

<12月12日>

溧水経済開発区企画館で説明を受ける

 8時30分にホテルを出発し、1時間ほど離れた南京市溧水区に向かいました。
最初に溧水経済開発区企画館を見学しました。経済開発区は南京空港に隣接しており、新エネルギー車、空域産業、電子情報、スマート家電などの産業が集まっています。
 続いて開沃(スカイウエル)新能源汽車集団有限公司の工場を見学しました。新能源とは新エネルギーのこと、汽車とはバスのことで大型電気バスの工場です。技術研究室、ボックスカーの組み立てライン、展示室を見学しました。組み立てラインは数人のグループが部品を取り付けていました。展示室には、大型電気バス、小型電気バス、無人自動車、最近開発した電気乗用車などが展示されていました。
 会議室では、会社のプロモーションビデオのあと、党書記で董事長助理の張威さんが説明をしてくださいました。会社は2000年に創立、2011年に再編して現在のグループになった。従業員は約4000人。自動車産業は成長産業であったが、最近は下降している。しかし、当社は労働条件を維持して経営している。従業員は全員、工会(労働組合)の組合員であり、労働協約を結んでいる。苦情は工会の関与の下で調停して解決している。スポーツやイベントの福利厚生に従業員が参加している。貧しい人、病気の人など困難な家庭への手当や見舞金を支給している。
 溧水賓館で溧水区総工会の幹部を交えて昼食をとりました。話題は、新しく開発された溧水区のこと。50万人の都市をめざすという開発計画、エネルギー、水利、自動交通、公園、ごみ処理など都市計画について話が弾みました。

南京職工服務中心の料理教室

 午後は、市内に戻って南京市総工会の職工服務中心(労働者サービスセンター)を訪問しました。センターは2002年に設立され、32人の職員が5つの部門で仕事をしています。①職業訓練、②起業への貸付、③職業紹介、④困難な労働者の生活支援、⑤インターネットを活用した包摂的なサービスの5部門です。行政が行っている就業と社会保障サービスなどと違い、工会の場合は突然困った状況におかれた労働者の緊急支援のためのプラットフォーム的な事業団体です。1階の相談窓口を案内された後、2階の教室を案内されましたが、起業をめざす人たちを対象にした料理教室が開かれていました。
 案内してくれた南京市総工会副主席の劉輝さんの司会で、センターの熊載璽さんを交えて交流が行われました。労働組合としてこのような活動に取り組んでいることに感心しました。団体交渉指導員の教室もあり、交渉委員を養成しているとのことでした。

 夕方からは、江蘇省総工会と交流しました。
 張柯副主席候補が、江蘇省の状況と江蘇省総工会の活動について説明してくださいました。総工会の役目として、①労働者の合法的な権益を守ること、②国の建設に労働者を動員すること、③労働者を代表して国の社会づくりに参加すること、④労働者の文化、思想活動をおこなうことです。要するに労働者の権益を守り、労働者にサービスを提供することです。
 労働と経済工作部の董雷副部長が、①労働者の経済的地位の向上のための模範労働者の表彰、②効率、革新、安全、環境保全などの技能競技大会、③労働者保護のための安全教育、危険個所の指摘などの安全健康活動、④産業労働者のチームづくりなどについて説明しました。
 教育科学技術工会の陳副主席から同工会の活動について説明がありました。
 訪中団を代表して伊藤団長が、「日中不再戦の誓いの碑」を南京紀念館に建てる際にお世話になったことにお礼を述べ、「誓い」を実現するために、安倍政権が中国敵視を煽りながら戦争する国へ歩んでいることを阻止し、両国労働者階級の友好発展を発展させることが世界の平和を築く上で重要だとあいさつしました。(あいさつ文参照
 夜は、江蘇省総工会の朱勁鬆党組書記副主席が主催する歓迎宴が開かれました。北京から中国職工対外交流センターの彭勇秘書長、何際霞技術経済交流部部長も駆けつけてくださり、盛大な宴会となりました。

<12月13日>

南京大虐殺受難者追悼国家公祭

 南京大虐殺受難者追悼国家公祭に参加するため、8時にホテルを出発し、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館に向かいました。松岡環さんの銘心会の皆さんと同じバスです。国家公祭には、彭勇秘書長、何際霞部長、張柯副主席も一緒に参加しました。前から4列目、私の隣は旅日華僑中日交流促進会の林伯耀さんでした。
 国家公祭のあと、彭勇秘書長、何際霞部長と一緒に食事をとりました。午後、ホテルで休憩した後、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館を見学しました。偶然、南京師範大学の林敏潔教授にお会いしました。日本語学科の生徒たちが日本人の団体の案内をしていました。
 17時30分からキャンドル祭に参加しました。急いで夕食をとって、19時30分から創作オペラ「ラーベ日記」を鑑賞しました。この日初めて上演されたもので、南京安全区国際委員会の委員長を務めたジョン・ラーベをはじめ、ミニー・ヴォートリン、ジョン・マギーたちの南京市民を守る活躍を描いた作品です。

<12月14日>

 午前中、2015年12月にオープンした利済巷慰安所旧址陳列館を見学しました。中国各地の慰安所、日本、アジアの慰安所の資料が展示されています。南京での虐殺、強姦を契機に慰安所が軍の管理下に置かれるようになり、強制的に女性が連れてこられるようになっていく経緯が分かるようになっています。
 午後は、長江ほとりの南京大虐殺遭難者中山港記念碑を訪れました。また、1968年に中国独自の技術で完成した自力更生の象徴である長江大橋を見学しました。夕方、ホテル近くのスーパーで買い物をしました。
 夜は、南京市総工会の孫強党組書記常務副主席が主催する歓送宴が開かれました。ポケトークのような中国製の音声翻訳機を使って会話が弾み、楽しい夜となりました。

南京市総工会主催の歓送会

<12月15日>

 南京駅から上海まで高速鉄道を利用し、上海虹橋駅から浦東空港まで車で移動しました。浦東空港で昼食をとったあと、夕方の便で羽田、成田、関空へと飛び立ちました。
 江蘇省総工会の費震さん、南京市総工会の付光宇さん、通訳として全行程を同行してくださった李晶宇さんには大変お世話になりました。

南京市を訪問して―藤村 妙子改めて戦争しない決意を新たに―渡部公一