カテゴリー別アーカイブ: 強制連行

中帰連平和記念館を訪ねて

伊藤彰信(日中労働者交流協会会長)

 11月25日(土)、埼玉県川越市笠幡にある中帰連平和記念館を訪れた。記念館では10月29日から12月27日まで関東大震災から100年を記念して「仁木ふみ子と『平和の環』展」が行われており、11月25日には記念講演会「王希天から仁木ふみ子へ」と追悼座談会が行われた。

 私は仁木ふみ子さんについてまったく知らなかった。日教組の婦人部長をしていたという経歴から、労働運動として日中友好運動にどのようなかかわりをしていたのか興味があった。また、「平和の環」として、仁木ふみ子、宋慶齢、周恩来、王希天、遠藤三郎、藤田茂の名前が上げられているが、この環のつながりを知ることも私の参加理由であった。

 展示のひとつに月間「総評」1982年11月号に仁木さんが書いた関東大震災時の中国人虐殺事件の原稿があった。月刊「総評」は全港湾の組合事務所にも送られてきていたので、私は読む機会があっただろうに、記憶にない。

 講演会ははじめに関東大震災で日本陸軍に密殺された王希天の碑を浙江省温州に建てた記録である30年前に作成された32分のDVD「関東大震災の中国人虐殺-謝罪と償いの旅」が上映された。続いて仁木さんが1980年に上海の華東師範大学の日本語教師として赴任したとき、通訳兼助手だった王智新さんが「王希天-仁木ふみ子へーその精神を受け継ぐにあたって」と題して次のように話された。

 仁木先生は、中国の革命運動に関心があったようである。中国共産党の初代女性部長の向警予の調査をしていた。ある日、「民国日報」を調べていたら関東大震災時に中国人労働者が虐殺されたという記事が目に留まった。どうすれば調べられるかと聞かれたので、温州市政府に手紙を出したが返事がない。そこで地方史を研究する政治協商委員会に手紙を書き、やっと返事をもらった。政府による調査が行われていない中で、日本人がひとりで当時のことを聞きに来た。政治協商委員会が手配して受難者の親戚など関係者が座談会の会場に集まってきたが、日本人を殴ってやりたいと思っている人がほとんどだった。仁木先生は、日本に帰国後、江東区の大島に住んで中国人虐殺事件の調査を続けた。日本政府は中国人虐殺事件が国際問題になることを恐れて隠ぺいを図った。今でも、関東大震災時に虐殺があったという資料はないと言い続けている。日本では8月になると平和問題を取り上げるが、それは戦争被害である。加害のことはあまり触れていない。仁木先生は、相手がどのよう被害を受けたのか、どう思ったのかということを調査していた。相手を理解しようとする努力がなければ、戦争による傷痕、恨みをほぐすことは出来ない。中国人は、日本人は過去に歴史を反省していないのではないかと思っている。不信感をなくし、不信の連鎖をなくすことが必要だ。お互いの理解や尊重があって信頼と友好が築かれる。

 午後の座談会では、仁木さんが取り組んできた、大分県立盲学校、図書館活動、読後感想文指導、全国高校女子教育問題研究会、「関東大震災の時、殺された中国人労働者を悼む会」、中国山地教育支援、無人区への教育支援、中国帰還者連絡会(中帰連)との接点、撫順の奇跡を受け継ぐ会代表、中帰連平和記念館館長という経歴を振り返りながら、それぞれ参加者が思い出を語った。聞いているうちに、「平和の環」が見えてきた。仁木さんは、孫文の妻であった宋慶齢の研究者であり、1979年に「宋慶齢選集」を発行している。宋慶齢から娘のようにかわいがられたという。周恩来は、王希天が設立した中国人労働者の救済組織である僑日共済会で活動していたことがある。遠藤三郎は、野戦重砲第一連隊大尉であったが、王希天殺害を隠蔽した人物であり、戦後は平和運動に貢献している。藤田茂は、陸軍中将であったがシベリア抑留後、撫順戦犯管理所に移され、禁固18年判決を受け、帰国後の中帰連の初代会長となり、日中戦争での加害の事実を語っていた。

 仁木さんが、「平和は座して待つものではなく、たたかいとるものだ」と宋慶齢の言葉を引用し、「日本の平和教育は、被害の事実を知ることから、加害の事実を知ることに視野を広げてきたが、さらに抵抗の事実を知らなければならない。抵抗の事実こそ、ひとをひとたらしめるものであり、その立場に立ってこそ、戦争の意味と平和の意味を正しく伝えることができ、加害の残虐さを見つめる勇気をもつことができる。」と語っていたという話が印象に残った。

 当日出来上がったばかりの「仁木ふみ子追悼文集」を買った。170名ほどの執筆者の名前を見たら、結構知っている名前があった。「平和の環」の広さを知った次第である。

和解を味わい、日中友好を思う

 10月15日(日)に催された広島安野の「第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」に初めて参加しました。前日の集会と集いを主催した「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」(以下「継承する会」)の皆さんには大変お世話になりました。

 以前から安野の追悼式に参加しようと思っていましたが、内田雅敏弁護士から「西松安野友好基金運営委員会による追悼式は終了して、継承する会が行うようになった」と聞いて、少し参加意欲が低くなっていました。参加しようと決意したのは、昨年10月26日、日中国交正常化50周年を記念して中国国際交流協会が主催したオンライン会議で原水禁の金子哲夫共同代表と同席したことです。

 私は席上、日中労働者交流協会(以下「日中労交」)が日中国交正常化を受けて1974年に25単組・9地県評が結集してつくられた組織であること、1985年8月15日、中曽根首相が初めて靖国神社を公式参拝した日に、市川誠初代会長(元総評議長)が侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(以下「南京紀念館」)の開館式に出席し、日中不再戦の誓いを刻んだ「鎮魂の時計」を南京市に寄贈したこと。その誓いを碑にして2009年12月13日に南京紀念館に建立したこと、日中労交は「日中不再戦の誓い」の精神を継承し、日中の平和友好のために活動していることを報告しました。

 金子さんは、1955年の第1回原水爆禁止世界大会に国交のない中国から代表が参加し被爆者に5万元(当時の日本円で720万円)を寄付したこと、その一部を被爆者医療のために広島市に寄付したこと、それがきっかけになって原爆医療法が成立したこと、安野で中国人強制連行受難者の追悼式を行っていることを報告しました。

 その話を聞いた私は、金子さんに詳しい話を聞かせてと連絡して、今回の参加を約束しました。

 10月14日(土)14時から継承する会の主催で「和解を導いた力Part3―西松建設裁判原告・宋継堯さんの闘いをふりかえる」という集会が開かれ、50人ほどが参加しました。私は、西松安野裁判のことは最高裁で敗訴したが付言にもとづいて和解が成立したということぐらいしか知らなかったので、この集会は非常に興味深いものでした。集会は、元西松安野友好基金運営委員の杉原達さんの司会あいさつではじまり、テレビニュースなどを編集した「ニュース映像で見る宋継堯さん」が上映されました。続いて「宋継堯さんを語る」と題して、陳輝(通訳)さん、老田裕美(通訳)さん、足立修一弁護士が発言しました。

 宋継堯さんは、16歳の時、国民党軍の遊撃隊に参加、日本軍の捕虜となって日本へ強制連行されました。安野の発電所工事でトロッコに石を積んで運び出す作業をしていましたが、トロッコが脱線して転倒し失明しました。病気やケガをして働けなくなった人と一緒に中国に帰されましたが、失明のため仕事もできず、乞食同然の生活をしていました。河北大学の調査によって安野の生存者であることが確認され、西松建設との交渉を始めましたが、進展せず、裁判の原告となりました。最高裁で敗訴したあと、和解成立直後に亡くなっています。安野に連行された中国人は360人、被爆死の5人を含めて29人が日本で死亡しています。

集会「和解を導いた力Part3―西松建設裁判原告・宋継堯さんの闘いをふりかえる」

 このような集会では、原告から強制連行とその苛酷な労働、悲惨な生活が語られることが多いですが、すでに生存者はいないので、原告の宋さんの闘いを振り返る形での集会企画になったようです。中国人と日本人の通訳が、宋継堯さんの人柄や、戦後の中国での生活状況を紹介しながら思い出を語ったことが、聞いている身としては、重いものを突き付けられるというよりは、宋さんの生き様を客観的に眺めることができ、優しく温かい目で和解に至る経過を知ることができたような気がします。
 三人の発言で、印象に残った点を記してみます。陳さんは、「宋さんは西松建設に『謝罪、補償、記念碑建設』の3点を当初から要求していた」、「戦争は国の指導者、政治家が起こすものであって、庶民が起こすものではない」と発言しました。老田さんは「日本軍は中国で2000万人以上の中国人を殺した。いたるところに万人坑がある。中国国内でも何百万人の強制連行があった。日本に強制連行された中国人4万人は取るに足らぬ数字という人がいるが、それは間違いである」と語りはじめ、中国人強制連行に関する日本での16の裁判について紹介しました。「被害者を利用するのではなく、被害者の生活の中から聞き出すことが大切である」、「新美隆弁護士に『なぜ、花岡裁判、安野裁判では国を訴えなかったのか』と聞いたことがあるが、新美弁護士は『国を訴えない方が早く解決する』と答えた」、「強制連行された中国人4万人のうち、花岡で986人、西松安野で360人、西松信濃川で180人、大江山で6人(原告のみ)、三菱マテリアルでは下請けも含めて3765人、計5297人が和解できた意味は大きい」と発言しました。足立弁護士は、訴訟の経過を振り返りながら、「宋さんは、当時としては珍しく学校に6年通った人であり、高級官僚になれる道を歩んでいた。記憶が鮮明で、冷静な語り口は証言者として最適な人だった。失明に対する特別な賠償を要求することはなかったが、西松が和解に傾いていく過程では宋さんの存在は大きかった」と発言しました。
 私は全港湾の委員長を退任して9年になります。16の中国人強制連行訴訟のうち港湾に関係する訴訟は、新潟、山形酒田、石川七尾の三つの裁判です。いずれも、国と企業を相手取った裁判でしたが「1972年の日中共同声明によって中国政府は戦争賠償の請求を放棄したので、個人の請求権も消滅している」という理由で原告敗訴になっています。新潟裁判では、第一審で原告が勝訴し、国と企業に対して原告一人当たり800万円の支払いを命じました。この判決を巡って、被告企業の従業員である全港湾組合員の中でも様々な意見がありました。「企業が賠償金を支払えば、賃上げに支障が出るのではないか」、「企業は国の政策にもとづいて中国人を使用したまでで、賠償金は国が全額支払うべきではないか」などの意見です。戦後補償裁判について、全港湾は「日中共同声明によって個人の賠償請求権までも放棄されたものではない」という立場で支援していました。新潟裁判の原告を支援していた新潟平和運動センターの議長は全港湾の役員でした。支援に消極的な組合員との間で板挟みになっていました。国の責任を認めた初めての判決だったので、国の責任を強調していたことを覚えています。

フィールドワーク、第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い、善福寺での追悼法要

 10月15日(日)には、フィールドワーク、第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い、善福寺での追悼法要に参加しました。この7月に発行したフィールドワーク資料であるパンフレット「安野発電所中国人強制連行・被爆の歴史を歩く」(500円)は、とてもうまくまとめた分かりやすい資料だと感心しました。毎年、原水禁大会のフィールドワークを受け入れている「継承する会」ならではのパンフレットだと思いました。

 安野中国人受難之碑には、強制連行された360人全員の名前が刻まれていました。強制連行されて日本で亡くなった方の慰霊碑ではないことに気づかされました。慰霊式であれば、発言者は慰霊碑に向って参列者には背を向けて発言します。集いでの発言者は、受難の碑に一礼したあと参列者に向って発言していました。主催者挨拶は継承する会の足立修一世話人代表、来賓挨拶は安芸太田町長、善福寺住職、広島県教組委員長、メッセージが遺族、中国大阪総領事から寄せられていました。碑を建てた場所は、現在でも稼働している発電所のすぐ上の中国電力の土地で、今は安芸太田町が管理しているとのことです。慰霊式ではなかったので、善福寺での追悼法要が営まれたのだと納得しました。碑文や碑を建てた土地、式典のすすめ方は、それぞれの地域で違いがあり、地域状況、運動状況を反映したものだということが分かりました。

 帰りのバスの中で、内田雅敏弁護士が、前日おこなわれた秋田県の尾去沢での中国人殉難者慰霊祭の報告をしました。三菱マテリアルとの和解によって昨年11月に「日中友好平和不戦の碑」が建てられましたが、今年初めて遺族の方が参加しました。遺族のお孫さんは「祖父が戦時中突然いなくなり、家族を見捨てて蒸発したものだと思っていた。三菱マテリアルの和解によって遺族調査が行われ、あなたの祖父は強制連行されて尾去沢で亡くなったという連絡があった。今まで蒸発した祖父を恨んでいたが、尾去沢に来て初めて祖父の人生を知ることができた。」と挨拶したことを話してくれました。

日中労交は「和解から友好へ」をスローガンに活動しています。今回、西松建設に碑を建てることを要求した宋さんの思い、碑の前で遺族が語る思いを知ることができました。日中共同声明で中国政府は「中日両国国民の友好のため」に戦争賠償を放棄したわけです。いわば政府間の和解が1972年に成立したいえます。しかし、民衆の和解はひとり一人の人生から解きほぐしていくものだと感じました。いま日本政府は、和解の精神を忘れ、戦争の加害責任がなかったように振る舞い、日中関係を友好どころか敵対関係に仕上げています。

 広島で継承する会が続けている活動に触れることができ、和解事業として碑を建てる意味、後世に伝える意味を改めて考え、友好に向けて動いていることを感じる旅となりました。日中労交は、南京に「日中不再戦の誓い」の碑を建てたわけです。私は「碑守」として、毎年12月13日に南京紀念館で行われる南京大虐殺受難者追悼の国家公祭に参加すること、「誓い」を後世の人に伝えていくことの責任の重みを感じました。

花岡を訪ねて

藤村 妙子 日中労交事務局長

加害の歴史を心に刻んで

  秋田県大館市において開かれた「2023年6.30フォーラムin大館」(6月29日大館労働福祉会館)と「中国人殉難者慰霊式」(30日大館市花岡町十瀬野公園墓地)に、日中労交からは伊藤会長をはじめ6名が参加した。
 今年はコロナ禍で途絶えていた中国からのご遺族3名の他支援者3名と河北省紅十字会訪日団4名が4年ぶりに参加した。
 「フォーラム」では、主催者の川田現地実行委員長から「ロシアのウクライナ侵攻は、戦中の日本を想起させる。いつも犠牲になるのは民衆である。私たちは、日本の中国をはじめとするアジアへの侵略をしっかりととらえ返さなければいけない。この花岡の地で起きた中国人労働者への虐待・虐殺を決して忘れず加害の事実を直視することが大切である。」との開会のあいさつがあった。
 続いてご遺族へのインタビュー形式の証言があった。張徳健さんは、おじいさんの張根惠さんが日本に連れ去られてからの生活をおばあさんやお父さんから聞いた話を語った。「おじいさんがいなくなってからは、当時2歳だったお父さんとおばあさんだけでは暮らしていけず、おばあさんの実家や色々なところに渡り歩いて暮らした。おじいさんが残してくれた家も土地も奪われてしまった。おじいさんが花岡で亡くなったことを戦後知ったが、どのようにして亡くなったのかはよくわからない。侵略戦争の中で自分の家族のようにバラバラになり、苦しい生活を強いられた人はたくさんいる。子孫としては、日本政府は、中国人の尊厳を奪った歴史を心に刻み、正しい歴史観をもって伝えてほしい。」と語った。
 王竜旺さんは、「自分は父親の王世清が帰国してから生まれた。」「父親の親であるおじいさんが中国国内で日本に連れ去られ行方不明になってしまった。おじいさんを探すためにおばあさんはいろいろ苦労したが、具合が悪くなり亡くなってしまった。父親は生き延びて日本と戦いたいと国民党軍に参加したが、日本軍に捕まり捕虜となり、花岡に連れてこられた。ここで足を怪我してしまった。父親からは、満足に食事も与えられなかったことや1945年6月30日に決起したことを聞いた。中国に帰国してからも足が悪く力仕事ができなかったので、家族はとても苦労をした。花岡であったことは決して忘れてはいけない。日本政府に謝罪と賠償を望んでいる。」と語った。
中国人強制連行フォーラムin大館

死者の恨(ハン)・生者の恥辱(ツゥルゥ)

 次に花岡平和友好基金運営委員の林伯耀さんから基調講演があった。林さんは「死者の恨(ハン)をそのままにしているのは、生者の恥である」という中国の故事を題名とした。「中国人が人間らしく生きようとしたことが花岡の地では踏みにじられた。その後日本人と中国人が何十年もかけて行動してきたが、いまだに尊厳は回復されてはいない。」と語り始めた。日本側の頑迷な中国・朝鮮に対する排他的差別観と侵略戦争への無反省があること。とりわけ、鹿島側が「裁判所から勧告された金額を拠出し『花岡平和友好基金』の設立を含む和解条項に、合意いたしました。なお、本基金の拠出は、補償や賠償の性格を含むものではありません」というコメントを2000年11月29日に発したことに対する花岡事件生存者や遺族の落胆と怒についてのお話は真の和解とはなにかを考えさせられる内容だった。

今こそ日中友好を

 最後に、日本人団体からの活動報告として「中国人強制連行を考える会」から今回の訪日団の紹介と昨日浅草の運行寺で張徳健さんがおじいさんの位牌と対面したことや河北省紅十字会から書が贈られたことの報告があった。「日中労交」の伊藤会長からは、南京にある碑に「日本軍国主義の中国侵略を労働者人民の闘争によって阻止しえなかったこと」そして、今また同じ歴史が繰り返そうとしている。今こそ、日中の平和友好が大切なこと。そして、日中労交が発足する前に花岡にあった遺骨を中国へ返還する事業に協力していた」と発言した。また「ノーモア南京の会」の方から、「現在大分市内に弾薬庫が作られようとしている。反対の闘いへの支援を」との発言があった。
 場所をプラザ杉の子に移動して「6.30歓迎夕食会」が行われた。夕食会には、大館市福祉部長のあいさつがあり、石田寛秋田県議員が乾杯の音頭を行った。
 李政美(イ・ジョンミ)さんの歌声を聞きながら料理を堪能した。そこかしこで交流の輪が広がる友好の夕べだった。
李政美(イ・ジョンミ)さんの日中友好の歌声
熱烈歓迎 日中友好交流会

大館市主催の「中国人殉難者慰霊式」に参加

 6月30日は、時々強い雨が降る中で大館市主催の「中国人殉難者慰霊式」が十瀬野公園墓地にある「中国殉難烈士慰霊之碑」の前で開かれた。
主催者の福原大館市長は「人の自由や尊厳を奪い、傷つける心なき行為は決して許されることではない。恒久平和を実現するため事件を風化させず、悲惨な歴史を後世に語り継いでいくことが私たち大館市民の使命」と式辞を述べた。秋田県知事の慰霊の言葉を代読した。
 遺族を代表して張恩竜さんが、「先輩たちが鞭の下、残忍なる苦役に付された惨状を決して忘れない。圧迫に抗して1945年6月30日、決死的花岡暴動を起こしたことを忘れない。加害企業の鹿島との間で和解達成した。大館市民がコロナ禍でも厳粛な慰霊式典を続けてきたことを忘れない。血の教訓を忘れず平和を希求する。2021年3月24日大阪にて日本政府を提訴した。判決では「中国人労工の強制連行は日本政府の全面的参与による」としつつもわれらの要求は棄却された。われらは、最終的勝利を、この地に惨死した先輩たちに伝えたい。戦争反対は両国民の共通の願いである。歴史を心に刻み、中日代々の友好のためたゆまぬ努力を行う」と追悼の辞を述べた。
 この後献水と大館市議会議員や各界代表者の献花があった。私たちも、李政美さんの歌声と共に献花を行い、慰霊式を終えた。
中国人殉難者慰霊式の会場
中国殉難烈士慰霊之碑

フィールドワーク 花岡事件の実相に触れる

 小雨の降る中、足場が悪いなどの理由で「日中不再戦の碑」や「滝ノ沢暗渠跡」には行かれなかったし、中山寮跡もバスの中からの見学となってしまった。
 昼食は、共楽館跡地に建てられた体育館で食べた。この場所で3日3晩さらされた場所である。外にはこの事実を伝えるレリーフと碑が立っている。
 花岡平和記念館では、展示を見ながら案内の方から説明を受けた。「強制連行された中国人は日本全国で41,762人いた。中国国内の収容所で2,015人、船内で564人、国内の事業所に到着するまでに248人が死亡している。鹿島組花岡出張所へは1944年8月8日から三回に分けて986人いた。1945年6月30日までに渡航中死亡7人も含め137人が死亡している。6月30日の一斉蜂起後、拘束され飲まず食わずの状態で3日間共楽館の広場に晒され、共楽館内や警察署では取り調べや拷問が行われた。その結果、282人の計419人が死亡している。「殉難碑」には同和鉱山での死者10名も含めた549名が慰霊されている。」などが展示物を見ながら説明を聞いた。
 遺骨が中国に返還されるまで安置されていた「信正寺」では、「華人死没者追善供養塔」を見学した。鹿島は、火葬が大変だからと死体は穴を掘って埋めていた。1945年10月6日アメリカ占領軍にこのことが発見され、掘り出し焼いた後400余りの木箱に詰めて信正寺に安置した。その後も散乱する遺骨が「ひと鍬運動」などによって掘り出された。1949年に鹿島はコンクリート製の粗末な供養塔を立てた。鹿島は2000年の和解成立後、新しい供養塔を立てて古いものは撤去しようとしたが、生存者や遺族そして地元の人々の支援者などが反対し、両方ともこの地に置かれている。
 どの場所も、花岡事件の実相を伝えている。ぜひ来年も慰霊祭に参加して、この事実を多くの人たちに伝えていきたい。
花岡平和記念館
信正寺、「華人死没者追善供養塔」
10月1日、キャンプ・シュワブ前で「日中友好・不再戦」を掲げて辺野古基地反対の大集会で内田雅敏さんはアピールした

「佐渡おけさ」をもう一度 日中が「敵対的な相互依存」から抜け出すには

内田雅敏・弁護士
2022年9月29日

 日中共同声明調印後、上海に向かう田中角栄首相(当時)ら政府代表団を空港で見送る子供たち=中国北京の北京空港で1972年9月29日、同行特派員団撮影日中が国交正常化した50年前には、保守の政治家にも先の大戦で日本が中国を侵略したことについての申し訳なさがあり、また中国の文化への敬意もあった。50年前にお互いが何を約束したのか、そこに立ち返る必要がある。
 1972年の日中共同声明は「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省」とした。そのうえで、お互いに覇権国家とならないとし、台湾問題については、日本は台湾が中国の一部であるとする中国側の見解を尊重するとした。尖閣諸島の帰属については棚上げした。
 その後も両国はこの姿勢を繰り返し確認してきた。2007年の温家宝首相(当時)の国会演説では尖閣諸島問題について「両国は係争を棚上げし、共同開発をする原則にのっとって(中略)平和・友好。強力の海にすべきです」と述べている。

 台湾問題についても、日中共同声明に戻れば、日本の立場は明らかだ。いたずらに台湾有事とあおり、防衛費を増額し、米国の軍事産業から兵器を「爆買い」していれば、中国の軍拡派の口実になるだけだ。不信の連鎖を喜ぶ人たちが両国にいる。敵対的な相互依存関係になってしまう。これでは外交とは言えない。
 08年の胡錦濤国家主席(当時)が来日した際の共同声明では「日本側は、中国の改革開放以来の発展が日本を含む国際社会に大きな好機をもたらしていることを積極的に評価し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築に貢献していくとの中国の決意に対する支持を表明した。中国側は、日本が、戦後60年余り、平和国家としての歩みを堅持し、平和的手段により世界の平和と安定に貢献してきていることを積極的に評価した」と互いにエールを交換した。
 それほど昔のことではない。たかだか14年前のことだ。胡氏は早稲田大学での講演で「我々は歴史を刻みつけなければならないと強調するが、恨みを持ち続けるべきではない」とも言つている。
 こうしたことをお互いが理解していれば、両国関係はまた違った形になるはずだ。この50年だけをとってみても、日中関係が現在のような状況になったのは、つい最近のことだ。

民間交流の積み重ね

 中国人強制連行。強制労働など戦後補償問題の訴訟に関わってきた経験から言えば、歴史問題は判決とその執行だけで解決するものではない。一つめに事実関係を認め、責任を求めて謝罪をする。二つめに謝罪の証としてなんらかの金銭的な補償をする。二つめに同じ過ちを起こさないために将来に向かっての歴史教育を行い、その被害者に対する追悼事業を継続する。
 この二つは並列ではなく、三つめをすることによってはじめて、一つめの謝罪が本当に被害者とその遺族に理解されてくる。謝罪した側も二つめのことを遂行するなかで、もう一度、加害の事実を捉え返す。
 私が関わった花岡事件の訴訟でも、西松建設や三菱マテリアルの訴訟でも、裁判で和解した時点では被害者側には不満もある。しかし、たとえば花岡事件では地元の自治体が毎年、追悼事業を実施し、その事業を地元の市民が下支えしている。交流するなかで、中国の遺族も「本当に反省してやってくれている」と感じるようになる。

 国交正常化40周年の12年の時は尖閣諸島の国有化の問題があり、日中関係は非常に厳しかった。広島県安芸太田町で実施している西松建設の強制連行を巡る追悼式では、中国側が参加しない懸念もあった。しかし実際には、人数は減ったものの来てくれて「来てよかった」と言ってくれた。国の関係が厳しい時であっても、民間の交流を途絶えさせてはならない。
 日中国交正常化の際、田中角栄首相は周恩来首相に「私は長い民間交流のレールに乗って、今日ようやくここに来ることができました」と述べている。中国側もレセプションで田中氏の地元の「佐渡おけさ」を演奏することで応えた。
 そのような関係が50年後のいま、どうして変わってしまったか。もちろん日本の政治家が歴史を十分に認識していない問題があるが、中国側にも問題はある。たとえば四つの基本文書(※ )の一つである98年の日中共同宣言では中国は日本のODA(政府開発援助)に謝意を表明している。こうしたことを中国はどこまで認識しているか。
 四つの基本文書の内容は日本でも中国でもまだ十分理解されていない。このような平和資源を双方の民衆が自分のものにして、それぞれの為政者に迫っていく。一見遠回りに見える道しか方法がないのではないかと思つ。

※四つの基本文書

(1)国交を正常化し、中国が戦争賠償請求を放棄した1972年の日中共同声明(2)紛争解決を武力に訴えないことを確認した78年の日中平和友好条約(3)両国首脳の相互訪問を決めた98年の日中共同宣言(4)戦略的互恵関係の推造を約束した2008年の日中共同声明――の四つを指し、日中関係の礎と位置付けられている。習近平国家主席も14年11月11日の安倍晋三首相(当時)との日中首脳会談で「四つの基本文書を踏まえ、戦略的互恵関係にしたがって日中関係を発展させたい」と述べた。

<トップ写真>
10月1日、キャンプ・シュワブ前で「日中友好・不再戦」を掲げて辺野古基地反対の大集会で内田雅敏さんはアピールした

6月29日と30日を日中友好の日にしよう!

ー 中国人殉難者慰霊式に参加して ー

渡部公一(目黒区職員労働組合 前委員長)

花岡事件と出会う

私は、山形出身ですが、東京に就職するまで花岡事件について何も知りませんでした。30年ぐらい前になると思いますが、芝居「勲章の川」で知りました。その後、目前のことに追われ、再びこの事件に直面するのが日中労交の一員として「中国人殉難者慰霊式」(以下式典という)の参加でした。
日中労働者交流会の会長、伊藤彰信さんからメーリングリストで送られてきた参加要項やパンフ、事務局長の藤村妙子さんから紹介された本の中から野添憲治の一冊と大館市のホームページで昨年と一昨年のコロナ禍の式典をビデオで見ました。そこで、前日の6/29フォーラムと6/30式典とフィールドワークにどのように参加しようかなと考えました。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 01
大館市郷土博物館「のびゆく大館」の中央のホワイトボードに「花岡事件」の解説

大館市が式典を継続

オンラインzoomの日中友好カフェで、戦争中、強制連行など中国人や朝鮮人を過酷な作業と環境の中で使役させ、多くの犠牲者を出してきたことは紛れもない事実で、国をはじめ、数ある自治体の中でなぜ大館市が自治体として慰霊の式典を継続してきたか、話題にしました。1950年から山本花岡町長が個人ではじめた慰霊が、隣接する矢立村と合併、平成の大合併を経て今日の大館市になるまで、保守革新を問わず、継続して式典を開催していることは、とても素晴らしいことだと思います。今回の訪問で少しでも知りたいと考えました。
たまたま私は、往復飛行機だったので、6/29の10時過ぎに到着と15時から始まるフォーラムの間に大館市郷土博物館に行き、大館市の歴史、この中で花岡事件ついて見学したいと思い、幸い往復ともバスに乗車できました。郷土博物館は、「のびゆく大館」のコーナーに「花岡事件」、「花岡ものがたり(版画と解説)」があり、丁寧な展示だと思いました。また、「鉱山と曲ワッパづくり」の街として栄えていたことが知れ、「先人顕彰コーナー」で安藤昌益、小林多喜二(生誕地、5歳から小樽に移住)らの紹介もあり、期待どおりの展示でした。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 02
大館市郷土博物館「花岡ものがたり」版画と解説の連作

プレ企画、フォーラムin大館

「フォーラムin大館」は、同じ飛行機に搭乗していた池田香代子さんが岩間さん(認定NPO花岡平和記念会)とセッション、主なテーマは池田さんの著書「花岡の心を受け継ぐ(2021年7月発刊)」にある、大館市が中国人犠牲者を慰霊し続ける理由でした。
その後の参加者交流会で驚いたのは、認定NPO高麗博物館(東京、大久保)の仲間たち15人で、多くがシニア世代で10人は女性の参加です。しかも交流会の席は、お仲間で固まらず、他団体の席に相席するなど、知的好奇心・自己実現の旺盛な人たちでした。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 03
6/29「中国人強制連行 フォーラムin大館」に全国から60人余が参加
中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 04
6/29参加者交流会の様子「熱烈歓迎 日中友好 花岡事件生存者遺族関係者様 御一行」ステージは高麗博物館の仲間たち(前列のテーブル席が、李克金(故人)さんの遺族3人、大館市長代理:福祉部長ほか)

式典を日中友好の日に

ところで日本は、地理的に北方領土でロシア、竹島で韓国、尖閣諸島で中国と領土問題を抱えています。ロシアのウクライナ軍事侵攻が長期化する中、自公政権は、バイデン大統領の中国敵視政策と一体化し、「台湾有事は、日本の有事」と南西諸島のミサイル基地化、防衛費GDP5%など東北アジア平和外交を放棄し、軍備拡大路線まっしぐらです。あわせて、北朝鮮(共和国)の拉致問題も日本自らの課題とし対話すらしていません。
今年の式典は、参議院選挙直前の日程になってしまいましたが、例えば、中国と友好を求める全国の仲間へ、6/30大館市の式典と前日6/29「フォーラムin大館」を中国と日本の友好の日と位置付け、参加を広く募ったらと思います。また、参加者の中に映像作家や、ビデオカメラマン・監督もいました。せっかくの「フォーラムin大館」を有料配信も含め、リモート視聴による参加もできたらなと思いました。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 05
「中国人殉難者慰霊式」 前列、右から3人までが、李克金(故人)さんの遺族、その隣が福原淳嗣大館市長、その隣の女性(左から2人目)が中国大使館の参事官

現地ボランティアに感謝

最後に「フォーラムin大館」は、大館労働福祉会館で開催され、実行委員会の中に認定NPO花岡平和記念会の人たちをはじめ、大館市職労の若い委員長や、連合大館の役員の皆さんが参加していました。6/29のプレ企画だけでなく、6/30式典後のフィールドワークの案内やバスや昼食の手配などたいへんお世話になりました。
ありがとうございました。

「中国人強制連行フォーラムin大館」の新聞報道

 6月29日は、「中国人強制連行フォーラムin大館」に参加しました。翌30日は、
大館市主催の中国人殉難者慰霊式に参列し、その後、フィールドワークに参加し
ました。3年ぶりに県外からの参加者を迎え入れての開催でした。
 日中労交としては、初めての参加でしたが、非常に勉強になった2日間でした。
参加者から、報告と感想が寄せられると思います。私は、地元の秋田県北部の新
聞である「北鹿新聞(ほくろくしんぶん)」の切り抜きを添付して、先ず、雰囲
気を伝えます。
 大館の報告会は、7月23日(土)19時30分からの日中友好カフェで行います。
伊藤 彰信

慰霊を続けることが同じ過ちをしない誓いとなる  ー花岡慰霊(2022.6.30)の旅に参加してー

藤村 妙子 日中労交事務局長

花岡フォーラム 池田さんと実行委員の方

 日中労交は、6月29日~30日秋田県大館市で開催された1945年6月30日にあった花岡鉱山鹿島組において働かされていた中国人労働者が蜂起した「花岡事件」犠牲者の慰霊式に参加した。日中労交からの参加者は東京から3名、小名浜から2名だった。
「花岡事件」とは、戦争末期日本は鉱物資源の採掘、生産のため足りなくなった労働力を補うため中国から捕虜や農民などを強制連行し鉱山などで働かせた。この一つが現在の秋田県大館市花岡鉱山鹿島組の現場である。ここでは、最盛期986人(別に来日までに死亡者7人)が使役され、粗末な食事と過酷な労働のなか酷使された。中国人労働者達は、座して死を待つより闘おうと1945年6月30日深夜に蜂起した。しかし、翌日から行われた山狩りで検挙され、共楽館前の広場に集められ3日3晩食事も水も与えられずに置かれ、中心人物とみなされた人たちは過酷な拷問にあった。蜂起までに130名が死亡しており、蜂起後7月~敗戦までに116人、敗戦後166人合計419人が死亡している。

6月29日フォーラムと交流会 
「歴史に学ぶ」という事は、現実を直視することでもある

 地元をはじめ全国各地から集まった人たちは、まず大館市労働福祉会館「2022.6.30現地実行委員会」主催で開かれた「中国人強制連行 フォーラムin大館」参加した。まず、川田繁幸現地実行委した員長が「今のロシアのウクライナ侵攻は1931年~45年までのわが国ととても似ている。実際は侵略戦争なのに宣戦布告することなく「満州事変」などといい、今回ロシアはウクライナへの侵攻を「特別軍事作戦」と称している。こうした時だからこそ、実際にこの地あったことを慰霊することは大切なことである。そして、私たち市民が中国との関係をことは、今だからこそ大切です。」と開会の挨拶をした。
その後、田中宏一橋大学名誉教授が「歴史に学ぶとはどういうことだろう」と題する基調講演を行った。田中氏は、伊藤博文が1千円札の肖像画となったときに、在日コリアンの友人に「日本人の薄気味悪さを感じる。私たちの国を侵略した象徴的人物をお札に刷り込み毎日使うことに違和感を持たない。」という話をされたときに、自分がいかに歴史を学んでこなかったのかを意識した。1965年12月21日に国連総会において人種差別撤廃条約を採択した後一週後の12月28日文部省は「民族性又は国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校は、わが国の社会にとって、各種学校の地位を与える積極的意義を有するものとは認められないので、これを各種学校として許可すべきではない」という文部次官通達を出している。そして、2010年には朝鮮人学校を高校無償化から排除している。などの例を挙げながら日本政府が未だにアジア諸国で起きたことを反省していないことを問題にしながら、この大館地で毎年開かれている市主催の慰霊式は、国を超えた大切な行事であると語った。

 花岡の心を受け継ぐ       

 続いて『花岡の心を受け継ぐ』(かもがわ出版)の著者のひとり池田香代子さんのお話があった。池田さんは、2000年に鹿島と和解したことを知り「花岡事件の場所を見てみたい」と初めて花岡の地を訪れた以降何度も来て、何も知らないからいろいろな人たちにインタビューをした。この皆さんの声が結実したものがこの『花岡の心を受け継ぐ』となったと語った。そして、「延べ24000人の人たちが決起して逃げている中国人を探して動員された、まさに地域が加害者となったことをインタビューの中で実感した。しかし、戦後花岡町は、慰霊を行い、骨を収集し、慰霊碑を建設した。これは、保守・革新の違いを超えた『人として当たり前のこと』として現在も受け継がれている」と語った。そして会場にいる当時を知る地元の人も証言をした。「1940年生まれの自分は当時5歳。母親からブドウ畑にあった豚小屋の中に隠れ豚の餌を食べている中国人がいたと聞かされた。自分は、中国人の人たちが捕まえられて並ばされていた共楽館前の広場に行き『チャンコロ捕まった』とはやし立てたことを覚えている。」と語り当時、町中を巻き込んで中国人狩りが行われていた姿を語った。記念館を作った川田NPO花岡平和記念会理事長は「加害の歴史をしっかり伝えていくことが大切であると記念館を作った」と語った。池田さんは「慰霊式は謝罪する場などではなく、痛み続ける傷を癒し『あなたが受けた扱いは不当な事であった』と分かち合う場。その本質を胸に刻み市民の皆さんが手を携え合って臨みましょう」と結んだ。
 この後、参加した団体・個人の自己紹介がありこの集まりに花岡に心を寄せる人たちがたくさん来ていることを確認してこの日の行事を終えた。

6月30日 慰霊式
「事件を後世に語り継ぐことは市民の使命」大館市長の哀悼の辞

 6月30日は中国殉難烈士慰霊碑がある大館市花岡町の十瀬野公園墓地の「中国受難者慰霊式」に参加した。式では福原大館市長が「どのような状況下であっても人の自由、尊厳を奪い傷つける心無い行為は決して許されるものではない。長い年月が経過しようとも、事件を後世に語り継ぐことこそが私たち市民の使命」と哀悼の意を示した。遺族を代表して日本に住んでいる3名の方が参加した。「今年は日中国交正常化50周年。戦争に反対し、平和を守ることが共通の願い。」と慰霊の言葉を述べ、献水が行われた後、全参加者による献花が行われた。

花岡 中国殉難烈士慰霊之碑
花岡 中国殉難烈士慰霊之碑

受難の地を見学 
この場所で働き傷つき、立ち上がり 死んでいった人たちに思いをはせる

 続いて花岡体育館(旧共楽館)で昼食を食べた後、バスで信正寺と花岡記念館に向かった。信正寺は、決起後捉えられ、炎天下に晒され又は拷問された結果死亡した中国人労働者遺骨を安置した寺である。この寺の裏山には1949年鹿島が作った粗末な供養塔の前に2001年に建立された供養塔が建っていた。そばにある碑文には決起の日が7月1日となっていた。このことについて質問すると、「決起は6月30日の夜中に起きた。警察や町が知ったのは翌朝の7月1日だったので当初7月1日に起きたとも言われていたが、生存者の証言により6月30日夜であったことが確定している」とのことであった。

花岡 信正寺 新旧供養碑
信正寺 新旧供養碑
花岡 信正寺 慰霊の記
信正寺 慰霊の記

 続いて花岡平和記念館に行った。記念館は、2010年4月にオープンした。当時の花岡町の様子や労働者の姿や決起後死亡した人たちの氏名などが展示され、当時の死亡者についての記録もあった。

花岡平和記念館 中国人労働者
花岡平和記念館 中国人労働者
花岡平和記念館 当時の様子の木版画
花岡平和記念館 当時の様子の木版画

 次に中国人労働者たちが劣悪な環境の下に置かれた中山寮があった第二滝野沢ダムと寮を見下ろす山の上に建てられた「日中不再戦友好の碑」に向かったが、残念ながらクマが出没していて、バスを降りることは危険だと判断されていくことができなかった。是非、次回は行ってみたいと思った。
 次に「滝之沢暗渠跡」に行った。これまで中国人労働者が働いていたのは花岡川の改修工事だと言われていたが、鹿島建設と藤田組(現同和鉱山)の工事請負契約には「中国人使役条件」として「排水暗渠」「築堤」「山腹水路」に300人をと書かれている。使役とは強制連行して働かせることである。1944年8月8日に299人が中山寮に到着している。ここに働いていた生存者の証言でもこの場所で働いていた事が示されている。花岡川改修工事は、1944年11月から始まり、ここへは第二次強制連行以降であるという事が最近判明したとのことであった。

この史実を多くの人に伝え続けたい

花岡 滝ノ沢暗渠跡
滝ノ沢暗渠跡

  私は、市主催の慰霊式には中国人の人たちも参加している事の大切さを感じた。蜂起の中心人物だった耿諄大隊長が以前訪日した後『花岡は第二の故郷だ』と語ったというように、日本人が侵した行為によって奪われた命はもう戻らないが、こうした慰霊を続けていくことが二度と同じ過ちをしないという誓となると思った。しかも、市主催で行われている事の大切さを感じた。そして、この史実を是非多くの人たちに伝え続けたいと思った。

内田雅敏弁護士が「元徴用工 和解への道―戦時被害と個人請求権」を出版

 日中労働情報フォーラムの会員でもある内田雅敏弁護士が本を書きました。
「元徴用工 和解への道―戦時被害と個人請求権」ちくま新書、880円+税です。

内田雅敏弁護士
内田雅敏弁護士


 「韓国人元徴用工問題を解決済とする日本政府。一方で元徴用工が補償を求める個人請求権が存在することも認めている。彼らの訴えに耳を傾けることが、戦後75年間、民間人の空襲被害や外国籍の人々への戦後補償を放棄してきた日本社会に問われているのではないか。著者は弁護士として中国人強制労働事件の和解交渉にかかわった経験を踏まえ、元徴用工問題和解への道を探る。」(カバーのそで)

「元徴用工 和解への道―戦時被害と個人請求権」


 内田弁護士は、本書に特徴があるとすればと「1、同種の中国人強制連行・強制労働問題における和解事例を参考にしながら元徴用工問題の解決を模索、2、和解、勝訴判決、付言、など、被害者に向き合った裁判官たちの心情、及びその後の和解事業への参加による感慨、3、和解に応じた企業のトップ、担当者らの思い。」の3点あげています。また、「被害者への謝罪と和解金のお届け、追悼、という和解事業の実践の中で、判決がうまくいかないから和解ではなく、歴史問題の解決は和解こそふさわしいということを実感してきました。歴史問題の解決は安全保障にも資するということも含めてです。」と言っています。
 私たちは、内田弁護士から中国人強制連行裁判の経過などを教わってきましたが、先生がこの間発表してきた内容をまとめた本と言えます。先生も「ある意味、45年間の弁護士生活のまとめのようなもです。」と言っています。
 和解なくして友好は築けません。私たちの活動も「日中不再戦誓い」をもとに和解と友好の内実を探る活動です。会員の皆さんにおすすめの一冊です。

伊藤 彰信(日中労働情報フォーラム代表)

12・16緊急講演会「日本の中国侵略と靖国神社」のご案内

 連日のご奮闘に心から敬意を表します。
 さて、2019年8月19日、靖国神社を訪れた中国人作家、胡大平さん(54歳、出身安徽省、代表作小説『愛黄山』)は、靖国神社が、A級戦犯を合祀し、遊就館の展示内容に中国人を侮蔑する「支那」を多用するなど、日本軍の中国侵略を今も美化していることに怒りを募らせ、作家としての止むに止まれぬ思いから拝殿の布幕に墨汁をかけて、逮捕されました。胡大平さんは建造物侵入・器物損壊で起訴され、11月20日に第1回裁判が東京地裁で行われ、胡被告人と弁護人は抗議行動には正当な理由があるとして無罪を主張しました。
 この間、靖国神社では、2009年には台湾の高金素梅・立法委員らダイアル族約50名による大規模な抗議活動があり、昨年12月には靖国神社で横断幕を広げて抗議しこれを撮影し報道した香港人(郭紹傑さん、嚴?華さん)が建造物侵入で起訴されています。これで両岸三地(中国/香港/台湾)の靖国神社への抗議が揃い踏みしたことになります。
 なぜ中華世界で靖国神社への抗議が相次いでいるのか。12月16日の講演会で、纐纈厚・明治大学教授が、日本の中国侵略の歴史から靖国神社問題の本質を丁寧に解き明かします。

<12・16 緊急講演会>
◆日時:2019年12月16日(月曜日)午後6時半~
◆講演:“日本の中国侵略と靖国神社”
◆講師:纐纈(こうけつ)厚 先生
     (明治大学特任教授/前山口大学副学長)
◆会場:文京区民センター2A会議室 (資料代500円)
     (都営地下鉄春日・東京メトロ後楽園下車)
◆主催:胡大平救援会 
◆協賛:村山首相談話を継承する会

●《裁判日程》第2回公判 本年12月10日(火曜日)午前10時~12時
 ※傍聴券交付法廷:裁判所前で開廷30分前締切。傍聴券抽選が行われます。

●《カンパ》胡大平さん救援運動への皆様のカンパをお願いします!
 口座名義:「救援連絡センター」
 口座番号:「郵便振替00100-3-105440」
 【他銀行からの振込みは「ゆうちょ」銀行0一九(ゼロイチキュウ)店
  当座0105440」】
 ※本口座は共用なので送金の際は必ず「胡大平救援カンパ」と明記して下さい。

●お願い……会場は定員200名です。定員になり次第、締め切らせていただきますので、恐縮ですが、出席ご希望の方は、至急、出席申し込みのご連絡を、下記のメールアドレスまたは携帯にお願いいたします。
 E-mail  murayamadanwa1995@ybb.ne.jp
 携帯 090-8808-5000

第2回「中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い」開催(11/19)

第2回「中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い」が11月19日、東京都港区の芝公園で開催されました。

約7000人の中国人が日本で命を落とす

 第二次世界大戦の末期、日本は国内の労働力を補うために約4万人の中国人を強制連行し、全国135か所の土木工事、鉱山、港湾、造船などで、劣悪な環境のもと過酷な労働を強制しました。そして、約7000人(政府報告書は6830人)の中国人が日本で命を落としました。1949年8月、中国人の遺骨が秋田県花岡(現・大館市)で初めて発掘されました。遺骨発掘70周年を記念し、中国から、遺族、宗教者ら50人が来日し、日本から80人が参加して第2回の「日中合同追悼の集い」が行われました。第1回の「日中合同追悼の集い」は10年前に行われました。

靴並べを行う中国からの参加者
靴並べを行う中国からの参加者

 前日の天気と打って変わり、雨も上がり、風もおさまった朝9時から公園で、6830足の靴並べ、テント張り、祭壇、受難者名録壁(拓本)の準備が進みました。10時30分からは庭儀を行ない、雅楽奏者、導師を先頭に遺影を掲げた遺族、日本側参加者が続き、増上寺の周辺道路を行進しました。公園に戻り、献花をして、11時40分から法要が行われました。

 12時から追悼の集いに移り、黙祷のあと、主催者を代表して一橋大学名誉教授の田中宏さんが「日本で死亡した中国人俘虜殉難者は靴を履かないまま帰国せざるを得なかった。靴を履いて安らかに旅立ってほしいと願い、靴を並べた。1953年に花岡から殉難者の遺骨を返還する際に倣って、今回初めて庭儀として導師を先頭に遺族が入場する儀式を行なった。強制連行を閣議決定した日本政府の責任を追及していく」とあいさつしました。

遺影を掲げ庭儀へ出発
遺影を掲げ庭儀へ出発
主催者あいさつをする田中宏さん
主催者あいさつをする田中宏さん

1945年、花岡鉱山の中国人労働者が蜂起

 遺族を代表して花岡受難者聯誼会の韓建国さんが「1945年6月30日、花岡鉱山の鹿島組に収容されていた中国人労働者が蜂起し、補導員を殴り殺し、森に逃げ込んだ。軍隊、警察など2万人に包囲され捕られ100人以上が惨殺された。花岡鉱山では強制連行された986人のうち419人が死んでいる。1949年夏、花岡鉱山付近で中国人殉難者の遺骨が次々と発見され、その遺骨は日本の民間団体の運動によって返還されることになった。日本政府は謝罪を口にしたことはない。絶対に許せない」と裁判(現在大阪高裁で係争中)の経過を含めてあいさつしました。

三菱被害労工遺族代表の載乗信さんが「父は市井のラッパ吹きだったが、1944年6月、日本軍に捕まり帰ってこなかった。1945年12月に日本から帰ってきたが、病を患い、手足は痺れ、一生苦労をした。家族も悲惨な目に合った。日本政府は歴史の責任を負わなければならない」とあいさつしました。

多くの遺骨が山野に埋もれたまま

 在日華僑を代表して林康治さんが「花岡で遺骨が発見されてから、日本の友人、朝鮮の友人、在日華僑は、全国的に遺骨収集の作業をした。1953年から1964年まで9回にわたって2300余の遺骨を中国に返還した。しかし、なお多くの遺骨がこの国の山野に埋もれたままになっている。平和を愛する人は、歴史に正しく向きあい、二度とこのような悲劇を起こしてはいけない。永久平和のために中日両国人民の子々孫々までの友好を築きましょう」とあいさつしました。

追悼の歌唱、舞踊と演奏
追悼の歌唱、舞踊と演奏

 追悼の歌唱、舞踊と演奏が披露され、市民団体からの訴えの後、アピールを採択しました。

歴史を戒めとして、日中友好を築き、アジアの平和を

 最後に村山首相談話の会の藤田高景さんが「安倍首相は、日中戦争を侵略戦争と認めず、従軍慰安婦、南京大虐殺は無かったといっている。花岡和解も怪しからんというのが本音だ。韓国の徴用工問題にしても日本が頭を下げる必要はないという。歴史を歪曲し、侵略・植民地支配の反省をしない安倍が、隣国と平和友好を築けるわけがない。歴史を心に刻み、戒めとして、日中友好を築き、アジアの平和をつくろう」と閉会のあいさつをしました。

参加者は、全員でインターナショナルを歌い、「日中合同追悼の集い」を閉じました。中国からの参加者は、その後、バスで花岡に向かいました。

並べられた6839足の靴
並べられた6839足の靴
殉難者名録壁(拓本)の前で法要
殉難者名録壁(拓本)の前で法要

日中合同追悼の集いアピール( 191119 )