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父との10年の対話のあと 父は「従軍日記」を子に託した 父の戦争をともに背負う   

南京大虐殺から85年 2022年東京証言集会 

 12月10日、東京の全水道会館で表記の集会が開かれ。オンライン含め70名が参加した。1937年12月の南京大虐殺を記憶するために毎年開かれている集会であるが、今年は南京侵略戦争に一兵士として参加した熊本県の農民(武藤秋一さん)の息子(田中信幸さん)が証言した。父は中国で何をしたのかは下の経歴におおよそ書いている。そして息子がその具体的な体験を父から聞き出し、父が戦場で書いた従軍日記を公開させ、証言させたいきさつを語った。
 田中さんは私より8歳若い71歳ですが、全共闘世代で沖縄返還闘争に参加して逮捕された経歴は私と近いので親近感を持って率直は語り口を聞いた。日本人の間にこういう例はたくさんあると思うが、このように率直に語り、証言した例は非常に少ない。だから貴重な例だと思う。
 田中さんが父の戦争責任を追及すると、父はそれを認めたら自分の人生の意義が無くなってしまうと強く抵抗したという。田中さんは時間をかけて(10年間)説得して真実を語り、反省を迫るまでの親子の対話は非常に感動させられた。また、意外なことに父が青年時代にプロレタリア文学にかぶれていたことを知る。当時はそういう左翼青年も圧倒した軍国主義の大きな流れに人々は飲み込まれていった悲しさを痛感した。
 そして、田中さんはこの戦争の悲劇を何世代も忘れさせないために戦争の体験を語り継ぐことの重要性を語った。それが彼が今も教科書問題にかかわる根拠になっている。

 <報告・写真:高幣真公>

集会名:南京大虐殺から85年―2022年東京証言集会 
父との10年の対話のあと 父は「従軍日記」を子に託した 父の戦争をともに背負う   

講演:田中信幸さん
(教科書ネットくまもと事務局長/『一道背負』著者)父の戦争責任を一緒に背負って 

主催:ノーモア南京の会

父:武藤秋一さん:

1915年 熊本県生  1935年、陸軍第6師団歩兵第13連隊( 熊本)入隊
1937年 7月 27日 北九州から朝鮮半島を経て中国戦線へ。歩兵第13連隊第9中隊(伍長)
この日から、1938年7月4日 まで「従軍日記」をつける。
1937年 9月2日「便衣隊首切りに行く。/わが分隊は皆一剣ずつ突いた。」
       ( 9 月 9日まで、ショックで日記がかけなくなる)
1937年12 月 13日 南京攻略戦に参加。3日間滞在後蕪湖へ移動。慰安所に通う。  
1938年6月、徐州戦の途中で負傷し、帰国。
1941年二度目の招集で  ハイラルでソ満国境警備、
1944年秋三度目の招集で「ボルネオ派遣軍」として南方へ。
 マニラで敗走、米軍捕虜となる。
1946年8月帰国
 (「日記」は1ページが検閲で切り取られている)

子:田中信幸さん

1951年 熊本県生
1972年 沖縄返還反対闘争で逮捕起訴され その後、獄中から父への手紙を書き、
その後10年にわたる対話。1995年父から「従軍日記」「手紙」を渡される。「父の日記」「慰安所」の記録などで韓国、中国との交流。
2014年 3.1節で韓国MBC『父の日記』 放映。2015年人民日報社から『一道背負-日本人父子的侵華戦争責任対話』出版。
教科書ネットくまもと事務局長。部落解放運動、市民運動に参加


 <参考文献>
 「東史郎日記と私」任世金 著
  田中宏 監訳 ノーモア南京の会 刊 2300円


『父の戦争責任をいっしょに背負う』 田中信幸氏講演録(12月10日 ノーモア南京の会)

南京大虐殺から85年 2022年東京証言集会 -父の戦争をともに背負う-

日時:12月10日(土)午後1時半開場 午後2時開始、4時半終了予定
場所:全水道会館大会議室(JR水道橋駅下車、白山通り北へ5分)


講演:田中信幸さん

(『一道背負』著者/教科書ネットくまもと事務局長)
    『父の戦争責任を一緒に背負って』

■感染予防のため事前予約制とします。
 メールまたはFAXでお申し込み下さい。
集会の申し込み:メール:nomorenanjing1937@gmail.com
       FAX:03-3889-9499
資料代:1000円(オンラインも)
オンライン参加もできます。(申込締切:12月8日正午)支払いは郵便振替口座で
郵便振替口座:00170-3-87807 「南京」集会実行委員会
賛同:個人1000円、団体3000円
連絡先:ノーモア南京の会(FAX:03-3889-9499)

集会案内チラシ(PDF)

10月1日、キャンプ・シュワブ前で「日中友好・不再戦」を掲げて辺野古基地反対の大集会で内田雅敏さんはアピールした

「佐渡おけさ」をもう一度 日中が「敵対的な相互依存」から抜け出すには

内田雅敏・弁護士
2022年9月29日

 日中共同声明調印後、上海に向かう田中角栄首相(当時)ら政府代表団を空港で見送る子供たち=中国北京の北京空港で1972年9月29日、同行特派員団撮影日中が国交正常化した50年前には、保守の政治家にも先の大戦で日本が中国を侵略したことについての申し訳なさがあり、また中国の文化への敬意もあった。50年前にお互いが何を約束したのか、そこに立ち返る必要がある。
 1972年の日中共同声明は「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省」とした。そのうえで、お互いに覇権国家とならないとし、台湾問題については、日本は台湾が中国の一部であるとする中国側の見解を尊重するとした。尖閣諸島の帰属については棚上げした。
 その後も両国はこの姿勢を繰り返し確認してきた。2007年の温家宝首相(当時)の国会演説では尖閣諸島問題について「両国は係争を棚上げし、共同開発をする原則にのっとって(中略)平和・友好。強力の海にすべきです」と述べている。

 台湾問題についても、日中共同声明に戻れば、日本の立場は明らかだ。いたずらに台湾有事とあおり、防衛費を増額し、米国の軍事産業から兵器を「爆買い」していれば、中国の軍拡派の口実になるだけだ。不信の連鎖を喜ぶ人たちが両国にいる。敵対的な相互依存関係になってしまう。これでは外交とは言えない。
 08年の胡錦濤国家主席(当時)が来日した際の共同声明では「日本側は、中国の改革開放以来の発展が日本を含む国際社会に大きな好機をもたらしていることを積極的に評価し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築に貢献していくとの中国の決意に対する支持を表明した。中国側は、日本が、戦後60年余り、平和国家としての歩みを堅持し、平和的手段により世界の平和と安定に貢献してきていることを積極的に評価した」と互いにエールを交換した。
 それほど昔のことではない。たかだか14年前のことだ。胡氏は早稲田大学での講演で「我々は歴史を刻みつけなければならないと強調するが、恨みを持ち続けるべきではない」とも言つている。
 こうしたことをお互いが理解していれば、両国関係はまた違った形になるはずだ。この50年だけをとってみても、日中関係が現在のような状況になったのは、つい最近のことだ。

民間交流の積み重ね

 中国人強制連行。強制労働など戦後補償問題の訴訟に関わってきた経験から言えば、歴史問題は判決とその執行だけで解決するものではない。一つめに事実関係を認め、責任を求めて謝罪をする。二つめに謝罪の証としてなんらかの金銭的な補償をする。二つめに同じ過ちを起こさないために将来に向かっての歴史教育を行い、その被害者に対する追悼事業を継続する。
 この二つは並列ではなく、三つめをすることによってはじめて、一つめの謝罪が本当に被害者とその遺族に理解されてくる。謝罪した側も二つめのことを遂行するなかで、もう一度、加害の事実を捉え返す。
 私が関わった花岡事件の訴訟でも、西松建設や三菱マテリアルの訴訟でも、裁判で和解した時点では被害者側には不満もある。しかし、たとえば花岡事件では地元の自治体が毎年、追悼事業を実施し、その事業を地元の市民が下支えしている。交流するなかで、中国の遺族も「本当に反省してやってくれている」と感じるようになる。

 国交正常化40周年の12年の時は尖閣諸島の国有化の問題があり、日中関係は非常に厳しかった。広島県安芸太田町で実施している西松建設の強制連行を巡る追悼式では、中国側が参加しない懸念もあった。しかし実際には、人数は減ったものの来てくれて「来てよかった」と言ってくれた。国の関係が厳しい時であっても、民間の交流を途絶えさせてはならない。
 日中国交正常化の際、田中角栄首相は周恩来首相に「私は長い民間交流のレールに乗って、今日ようやくここに来ることができました」と述べている。中国側もレセプションで田中氏の地元の「佐渡おけさ」を演奏することで応えた。
 そのような関係が50年後のいま、どうして変わってしまったか。もちろん日本の政治家が歴史を十分に認識していない問題があるが、中国側にも問題はある。たとえば四つの基本文書(※ )の一つである98年の日中共同宣言では中国は日本のODA(政府開発援助)に謝意を表明している。こうしたことを中国はどこまで認識しているか。
 四つの基本文書の内容は日本でも中国でもまだ十分理解されていない。このような平和資源を双方の民衆が自分のものにして、それぞれの為政者に迫っていく。一見遠回りに見える道しか方法がないのではないかと思つ。

※四つの基本文書

(1)国交を正常化し、中国が戦争賠償請求を放棄した1972年の日中共同声明(2)紛争解決を武力に訴えないことを確認した78年の日中平和友好条約(3)両国首脳の相互訪問を決めた98年の日中共同宣言(4)戦略的互恵関係の推造を約束した2008年の日中共同声明――の四つを指し、日中関係の礎と位置付けられている。習近平国家主席も14年11月11日の安倍晋三首相(当時)との日中首脳会談で「四つの基本文書を踏まえ、戦略的互恵関係にしたがって日中関係を発展させたい」と述べた。

<トップ写真>
10月1日、キャンプ・シュワブ前で「日中友好・不再戦」を掲げて辺野古基地反対の大集会で内田雅敏さんはアピールした

6月29日と30日を日中友好の日にしよう!

ー 中国人殉難者慰霊式に参加して ー

渡部公一(目黒区職員労働組合 前委員長)

花岡事件と出会う

私は、山形出身ですが、東京に就職するまで花岡事件について何も知りませんでした。30年ぐらい前になると思いますが、芝居「勲章の川」で知りました。その後、目前のことに追われ、再びこの事件に直面するのが日中労交の一員として「中国人殉難者慰霊式」(以下式典という)の参加でした。
日中労働者交流会の会長、伊藤彰信さんからメーリングリストで送られてきた参加要項やパンフ、事務局長の藤村妙子さんから紹介された本の中から野添憲治の一冊と大館市のホームページで昨年と一昨年のコロナ禍の式典をビデオで見ました。そこで、前日の6/29フォーラムと6/30式典とフィールドワークにどのように参加しようかなと考えました。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 01
大館市郷土博物館「のびゆく大館」の中央のホワイトボードに「花岡事件」の解説

大館市が式典を継続

オンラインzoomの日中友好カフェで、戦争中、強制連行など中国人や朝鮮人を過酷な作業と環境の中で使役させ、多くの犠牲者を出してきたことは紛れもない事実で、国をはじめ、数ある自治体の中でなぜ大館市が自治体として慰霊の式典を継続してきたか、話題にしました。1950年から山本花岡町長が個人ではじめた慰霊が、隣接する矢立村と合併、平成の大合併を経て今日の大館市になるまで、保守革新を問わず、継続して式典を開催していることは、とても素晴らしいことだと思います。今回の訪問で少しでも知りたいと考えました。
たまたま私は、往復飛行機だったので、6/29の10時過ぎに到着と15時から始まるフォーラムの間に大館市郷土博物館に行き、大館市の歴史、この中で花岡事件ついて見学したいと思い、幸い往復ともバスに乗車できました。郷土博物館は、「のびゆく大館」のコーナーに「花岡事件」、「花岡ものがたり(版画と解説)」があり、丁寧な展示だと思いました。また、「鉱山と曲ワッパづくり」の街として栄えていたことが知れ、「先人顕彰コーナー」で安藤昌益、小林多喜二(生誕地、5歳から小樽に移住)らの紹介もあり、期待どおりの展示でした。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 02
大館市郷土博物館「花岡ものがたり」版画と解説の連作

プレ企画、フォーラムin大館

「フォーラムin大館」は、同じ飛行機に搭乗していた池田香代子さんが岩間さん(認定NPO花岡平和記念会)とセッション、主なテーマは池田さんの著書「花岡の心を受け継ぐ(2021年7月発刊)」にある、大館市が中国人犠牲者を慰霊し続ける理由でした。
その後の参加者交流会で驚いたのは、認定NPO高麗博物館(東京、大久保)の仲間たち15人で、多くがシニア世代で10人は女性の参加です。しかも交流会の席は、お仲間で固まらず、他団体の席に相席するなど、知的好奇心・自己実現の旺盛な人たちでした。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 03
6/29「中国人強制連行 フォーラムin大館」に全国から60人余が参加
中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 04
6/29参加者交流会の様子「熱烈歓迎 日中友好 花岡事件生存者遺族関係者様 御一行」ステージは高麗博物館の仲間たち(前列のテーブル席が、李克金(故人)さんの遺族3人、大館市長代理:福祉部長ほか)

式典を日中友好の日に

ところで日本は、地理的に北方領土でロシア、竹島で韓国、尖閣諸島で中国と領土問題を抱えています。ロシアのウクライナ軍事侵攻が長期化する中、自公政権は、バイデン大統領の中国敵視政策と一体化し、「台湾有事は、日本の有事」と南西諸島のミサイル基地化、防衛費GDP5%など東北アジア平和外交を放棄し、軍備拡大路線まっしぐらです。あわせて、北朝鮮(共和国)の拉致問題も日本自らの課題とし対話すらしていません。
今年の式典は、参議院選挙直前の日程になってしまいましたが、例えば、中国と友好を求める全国の仲間へ、6/30大館市の式典と前日6/29「フォーラムin大館」を中国と日本の友好の日と位置付け、参加を広く募ったらと思います。また、参加者の中に映像作家や、ビデオカメラマン・監督もいました。せっかくの「フォーラムin大館」を有料配信も含め、リモート視聴による参加もできたらなと思いました。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 05
「中国人殉難者慰霊式」 前列、右から3人までが、李克金(故人)さんの遺族、その隣が福原淳嗣大館市長、その隣の女性(左から2人目)が中国大使館の参事官

現地ボランティアに感謝

最後に「フォーラムin大館」は、大館労働福祉会館で開催され、実行委員会の中に認定NPO花岡平和記念会の人たちをはじめ、大館市職労の若い委員長や、連合大館の役員の皆さんが参加していました。6/29のプレ企画だけでなく、6/30式典後のフィールドワークの案内やバスや昼食の手配などたいへんお世話になりました。
ありがとうございました。

「中国人強制連行フォーラムin大館」の新聞報道

 6月29日は、「中国人強制連行フォーラムin大館」に参加しました。翌30日は、
大館市主催の中国人殉難者慰霊式に参列し、その後、フィールドワークに参加し
ました。3年ぶりに県外からの参加者を迎え入れての開催でした。
 日中労交としては、初めての参加でしたが、非常に勉強になった2日間でした。
参加者から、報告と感想が寄せられると思います。私は、地元の秋田県北部の新
聞である「北鹿新聞(ほくろくしんぶん)」の切り抜きを添付して、先ず、雰囲
気を伝えます。
 大館の報告会は、7月23日(土)19時30分からの日中友好カフェで行います。
伊藤 彰信

慰霊を続けることが同じ過ちをしない誓いとなる  ー花岡慰霊(2022.6.30)の旅に参加してー

藤村 妙子 日中労交事務局長

花岡フォーラム 池田さんと実行委員の方

 日中労交は、6月29日~30日秋田県大館市で開催された1945年6月30日にあった花岡鉱山鹿島組において働かされていた中国人労働者が蜂起した「花岡事件」犠牲者の慰霊式に参加した。日中労交からの参加者は東京から3名、小名浜から2名だった。
「花岡事件」とは、戦争末期日本は鉱物資源の採掘、生産のため足りなくなった労働力を補うため中国から捕虜や農民などを強制連行し鉱山などで働かせた。この一つが現在の秋田県大館市花岡鉱山鹿島組の現場である。ここでは、最盛期986人(別に来日までに死亡者7人)が使役され、粗末な食事と過酷な労働のなか酷使された。中国人労働者達は、座して死を待つより闘おうと1945年6月30日深夜に蜂起した。しかし、翌日から行われた山狩りで検挙され、共楽館前の広場に集められ3日3晩食事も水も与えられずに置かれ、中心人物とみなされた人たちは過酷な拷問にあった。蜂起までに130名が死亡しており、蜂起後7月~敗戦までに116人、敗戦後166人合計419人が死亡している。

6月29日フォーラムと交流会 
「歴史に学ぶ」という事は、現実を直視することでもある

 地元をはじめ全国各地から集まった人たちは、まず大館市労働福祉会館「2022.6.30現地実行委員会」主催で開かれた「中国人強制連行 フォーラムin大館」参加した。まず、川田繁幸現地実行委した員長が「今のロシアのウクライナ侵攻は1931年~45年までのわが国ととても似ている。実際は侵略戦争なのに宣戦布告することなく「満州事変」などといい、今回ロシアはウクライナへの侵攻を「特別軍事作戦」と称している。こうした時だからこそ、実際にこの地あったことを慰霊することは大切なことである。そして、私たち市民が中国との関係をことは、今だからこそ大切です。」と開会の挨拶をした。
その後、田中宏一橋大学名誉教授が「歴史に学ぶとはどういうことだろう」と題する基調講演を行った。田中氏は、伊藤博文が1千円札の肖像画となったときに、在日コリアンの友人に「日本人の薄気味悪さを感じる。私たちの国を侵略した象徴的人物をお札に刷り込み毎日使うことに違和感を持たない。」という話をされたときに、自分がいかに歴史を学んでこなかったのかを意識した。1965年12月21日に国連総会において人種差別撤廃条約を採択した後一週後の12月28日文部省は「民族性又は国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校は、わが国の社会にとって、各種学校の地位を与える積極的意義を有するものとは認められないので、これを各種学校として許可すべきではない」という文部次官通達を出している。そして、2010年には朝鮮人学校を高校無償化から排除している。などの例を挙げながら日本政府が未だにアジア諸国で起きたことを反省していないことを問題にしながら、この大館地で毎年開かれている市主催の慰霊式は、国を超えた大切な行事であると語った。

 花岡の心を受け継ぐ       

 続いて『花岡の心を受け継ぐ』(かもがわ出版)の著者のひとり池田香代子さんのお話があった。池田さんは、2000年に鹿島と和解したことを知り「花岡事件の場所を見てみたい」と初めて花岡の地を訪れた以降何度も来て、何も知らないからいろいろな人たちにインタビューをした。この皆さんの声が結実したものがこの『花岡の心を受け継ぐ』となったと語った。そして、「延べ24000人の人たちが決起して逃げている中国人を探して動員された、まさに地域が加害者となったことをインタビューの中で実感した。しかし、戦後花岡町は、慰霊を行い、骨を収集し、慰霊碑を建設した。これは、保守・革新の違いを超えた『人として当たり前のこと』として現在も受け継がれている」と語った。そして会場にいる当時を知る地元の人も証言をした。「1940年生まれの自分は当時5歳。母親からブドウ畑にあった豚小屋の中に隠れ豚の餌を食べている中国人がいたと聞かされた。自分は、中国人の人たちが捕まえられて並ばされていた共楽館前の広場に行き『チャンコロ捕まった』とはやし立てたことを覚えている。」と語り当時、町中を巻き込んで中国人狩りが行われていた姿を語った。記念館を作った川田NPO花岡平和記念会理事長は「加害の歴史をしっかり伝えていくことが大切であると記念館を作った」と語った。池田さんは「慰霊式は謝罪する場などではなく、痛み続ける傷を癒し『あなたが受けた扱いは不当な事であった』と分かち合う場。その本質を胸に刻み市民の皆さんが手を携え合って臨みましょう」と結んだ。
 この後、参加した団体・個人の自己紹介がありこの集まりに花岡に心を寄せる人たちがたくさん来ていることを確認してこの日の行事を終えた。

6月30日 慰霊式
「事件を後世に語り継ぐことは市民の使命」大館市長の哀悼の辞

 6月30日は中国殉難烈士慰霊碑がある大館市花岡町の十瀬野公園墓地の「中国受難者慰霊式」に参加した。式では福原大館市長が「どのような状況下であっても人の自由、尊厳を奪い傷つける心無い行為は決して許されるものではない。長い年月が経過しようとも、事件を後世に語り継ぐことこそが私たち市民の使命」と哀悼の意を示した。遺族を代表して日本に住んでいる3名の方が参加した。「今年は日中国交正常化50周年。戦争に反対し、平和を守ることが共通の願い。」と慰霊の言葉を述べ、献水が行われた後、全参加者による献花が行われた。

花岡 中国殉難烈士慰霊之碑
花岡 中国殉難烈士慰霊之碑

受難の地を見学 
この場所で働き傷つき、立ち上がり 死んでいった人たちに思いをはせる

 続いて花岡体育館(旧共楽館)で昼食を食べた後、バスで信正寺と花岡記念館に向かった。信正寺は、決起後捉えられ、炎天下に晒され又は拷問された結果死亡した中国人労働者遺骨を安置した寺である。この寺の裏山には1949年鹿島が作った粗末な供養塔の前に2001年に建立された供養塔が建っていた。そばにある碑文には決起の日が7月1日となっていた。このことについて質問すると、「決起は6月30日の夜中に起きた。警察や町が知ったのは翌朝の7月1日だったので当初7月1日に起きたとも言われていたが、生存者の証言により6月30日夜であったことが確定している」とのことであった。

花岡 信正寺 新旧供養碑
信正寺 新旧供養碑
花岡 信正寺 慰霊の記
信正寺 慰霊の記

 続いて花岡平和記念館に行った。記念館は、2010年4月にオープンした。当時の花岡町の様子や労働者の姿や決起後死亡した人たちの氏名などが展示され、当時の死亡者についての記録もあった。

花岡平和記念館 中国人労働者
花岡平和記念館 中国人労働者
花岡平和記念館 当時の様子の木版画
花岡平和記念館 当時の様子の木版画

 次に中国人労働者たちが劣悪な環境の下に置かれた中山寮があった第二滝野沢ダムと寮を見下ろす山の上に建てられた「日中不再戦友好の碑」に向かったが、残念ながらクマが出没していて、バスを降りることは危険だと判断されていくことができなかった。是非、次回は行ってみたいと思った。
 次に「滝之沢暗渠跡」に行った。これまで中国人労働者が働いていたのは花岡川の改修工事だと言われていたが、鹿島建設と藤田組(現同和鉱山)の工事請負契約には「中国人使役条件」として「排水暗渠」「築堤」「山腹水路」に300人をと書かれている。使役とは強制連行して働かせることである。1944年8月8日に299人が中山寮に到着している。ここに働いていた生存者の証言でもこの場所で働いていた事が示されている。花岡川改修工事は、1944年11月から始まり、ここへは第二次強制連行以降であるという事が最近判明したとのことであった。

この史実を多くの人に伝え続けたい

花岡 滝ノ沢暗渠跡
滝ノ沢暗渠跡

  私は、市主催の慰霊式には中国人の人たちも参加している事の大切さを感じた。蜂起の中心人物だった耿諄大隊長が以前訪日した後『花岡は第二の故郷だ』と語ったというように、日本人が侵した行為によって奪われた命はもう戻らないが、こうした慰霊を続けていくことが二度と同じ過ちをしないという誓となると思った。しかも、市主催で行われている事の大切さを感じた。そして、この史実を是非多くの人たちに伝え続けたいと思った。

「人民網日本語版」2022年6月前半 抜粋(2022/06/16)

<20> 「人民網日本語版」2022年06月15日
中日韓協力国際フォーラム、「未来志向の三国協力」に焦点
「中日韓三国協力国際フォーラム2022」が14日、「未来志向の中日韓三国協力――恒久の平和、地域の繁栄、共通の文化的価値」をテーマに、韓国の首都ソウルで開催された。中日韓協力事務局の欧渤芊事務局長は開会の挨拶で、「中日韓協力事務局は、三国政府から与えられた使命を履行するために全力を尽くし、中日韓協力の水準をさらに高め、この地域の恒久の平和、地域の繁栄、共通の文化的価値を力強く促進していく」と述べた。中国の邢海明駐韓大使は祝辞で、「中日韓は海を隔てて相望む隣国であるだけでなく、地域と世界に重要な影響力を持つ国でもある。未来を展望すると、中日韓協力は既存の基盤の上で、三つの方向へ深化・前進し続ける必要がある。すなわち、地域の恒久的平和の維持、地域の普遍的繁栄の実現、東アジアの共通文化の構築に尽力するべきだ」とした。

<19> 「人民網日本語版」2022年06月14日
福建省竜岩市で豪雨 被災者約260人が一時避難
福建省竜岩市は6月13日午前6時から再び豪雨に見舞われ、市内の各所で冠水や土砂崩れが発生。一部の低い土地にある住宅などでは水害による被害状況が深刻となり、住民の多くが身動き取れない状態となっている。災害発生後、地元の消防救助隊は、洪水被災地の最前線へと出動。同日午前9時の時点で、通報を受けた水害の救援・救助要請は17件に上り、消防救援隊員延べ203人と救援車両延べ27台が動員され、260人以上の被災者を安全な場所に一時避難させた。救助活動は今も続けられている。

<18> 「人民網日本語版」2022年06月13日
「ロシア版マック」開業 店名は「おいしい。ただ、それだけ」
米マクドナルドがロシア市場から撤退すると、マックのロシア業務を手がけていたロシア企業が現地時間の12日、店名を「Vkusno i tochka(おいしい。ただ、それだけ)」に変更して、モスクワと周辺エリアの15店舗の営業を再開した。マックはロシア市場撤退後、店舗を現地のフランチャイズ契約先であるアレクサンドル・ゴボル氏に売却した。マックのロシア店舗は約850店あり、その大部分が直営店だった。報道によると、新たなファーストフードチェーンの最高経営責任者(CEO)のオレグ・パロエフ氏は、「第一弾の15店舗のほか、50店舗の営業をこちらの時間で13日に再開する予定だ。当社の計画では6月中に200店舗、夏が終わるまでに850店舗すべてで営業を再開する」と述べた。

続きを読む 「人民網日本語版」2022年6月前半 抜粋(2022/06/16)

12月11日「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」開かれる

「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」

                報告:高幣真公(日中労交会員)

 12月11日、東京お茶の水の韓国YMCA会館ホールで「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」が開かれ、約100名が参加した。


 冒頭、司会者から南京大虐殺記念からの今年の現地の式典で読み上げられる「平和宣言」(写真2)が紹介された。

「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」

続いて、会の主催団体「ノーモア南京東京の会」代表の田中宏さんが「日本人は過去の日本人が犯した重大な犯罪行為=南京大虐殺事件を決して忘れてはならない」と挨拶した。つづいて、南京大虐殺犠牲者の複数の生存者の証言ビデオが約20分間、上映された。

「ノーモア南京東京の会」代表の田中宏さん
「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」


 次に、東京都の高校歴史科元教諭某さんは、本年4月27日の閣議決定は、1993年の「慰安婦関係調査結果に関する河野内閣官房長官談話」(「歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい」)を否定した。また、文科省の歴史教科書の検定基準の改悪と新科目「歴史総合」の創設の意図などが解説された。

林伯燿さんが「南京特務機関と満鉄調査部―侵略戦争を裏で支えた謀略の先兵たち<概略>」
林伯燿さん

 最後に在日華僑で長く中国人へ侵略と暴虐を告発し続けてきている林伯燿さんが「南京特務機関と満鉄調査部―侵略戦争を裏で支えた謀略の先兵たち<概略>」と題する講演を1時間強にわたり行った。筆者はその講演の内容を要約することができないので、最も重要と思う冒頭の段落と結語を抜粋して報告に代えたい。

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関東大震災中国人受難者追悼の午後(9/5)

 「関東大震災中国人受難者追悼の午後」が9月5日、東京の江東区東大島文化センターで開かれました。コロナ対策のため40名までの予約制、オンライン併用で行われましたが、当日参加が多く、急遽、第二会場を設定しての開催でした。
 関東大震災で朝鮮人が虐殺されたことは知られていますが、700人以上の中国人が虐殺されたことはあまり知られていません。会場の江東区東大島文化センターは、中国人約300人が虐殺された場所に建てられた施設ですが、虐殺があったことを記す碑も説明文もありません。
 第一部は「中国人受難者追悼式」でした。主催者を代表して田中宏(一橋大学名誉教授)さんが挨拶をした後、関東大地震被屠殺華工温州遺族会が作成したビデオが上映され、犠牲者の名前が一人ひとり読み上げられました。留日学生救国団、僑日共済会のリーダーで虐殺された王希天さんの孫の王旗さんのメッセージが読み上げられました。また、温州ならびに福清の遺族とオンラインで結び、挨拶を受けました。中村まさ子(江東区議会議員)さんと吉池(アジアフォーラム横浜)さんがあいさつしました。

林伯耀さん

 第二部は「関東大震災における中国人虐殺を考える集い」でした。林伯耀さんが「震災当時の中国人労働者排斥の動き」と題して講演しました。「江東区大島町で400人以上の中国人が虐殺された大島事件は、民族排外主義にもとづく中国人への憎悪と敵愾心を根底に、アジア制覇を目指す帝国主義国家日本の体制と威信を保持(治安維持)するために、日本人労働者の自己保身のために、中国人労働者の殲滅を狙った日本の軍・警察・労働者による集団虐殺事件であった」と述べました。大島町事件と同様の事件は神奈川県でもあったこと、1920年代に中国人労働者の排斥運動があったことを資料にもとづき説明しました。
 閉会のあいさつを内海愛子さんが行い「中身の濃い集会でした。それをいかに若い人に繋いでいくのか、もっと工夫しなければなりません」と訴えました。
 第三部は「王希天さん追悼会」でした。逆井橋のたもとで、追悼が行われました。

<報告・写真:伊藤彰信>

辰巳知二氏の講演「最近の米中関係と日本の中国政策」

特別講演「米中対立と日本の対中国政策」の講演を聞いて ~今こそ「日中不再戦の誓い」の実践を~

辰巳知二(共同通信前北京総局長)
辰巳知二さん(共同通信前北京総局長)

  藤村 妙子 ( 日中労交事務局長 )

 5月15日日中労交の総会があり、そこで共同通信の辰巳知二氏の講演を聞いた。私は、彼が自己紹介の中で、1984年中国建国35年の式典に3000人の日中友好青年交流団の一員として訪中したことや新聞記者になってからは約10年間中国に駐在していたことを聞いて、様々な経験の一端をお話していただけると思いながら耳を傾けた。
 中国は今世界的に大きな影響力を持つ国になっている。私は、訪中するたびに大きく変わっていく中国の姿を目の当たりにしてきた。たぶん辰巳さんもこうした中国の姿を新聞記者として冷静に分析しながら過ごしていたのだろうという事を講演の中で感じた。

 米中対立の中で

 私がとりわけ印象に残っているのは次のことである。20世紀から21世紀に世界が大きく転換していく中で、1999年中国はWTOに加盟し中国の政治・経済も変わっていったこと。中国政府は、2018年「『世界が移り変わる過渡的な国際情勢の変化の法則を深く分析し、歴史の転換期における外部環境の基本的特徴を把握しなければならない』とし、[新時代の中国の特色ある社会主義外交思想]と外交を格上げ。 『①世界の多極化が加速している状況把握だけではなく、大国関係が調整局面にさしかかっていることも重視すべきだ。 ②経済グローバル化の持続的発展の状況把握だけではなく、世界経済における大きな変化の動向も重視すべきだ。 ③国際環境の安定した状況の把握だけではなく、国際的な安全保障面での課題が物事を複雑にしている局面を重視すべきだ。 ④各種の文化や交流がお互いの鑑になっている状況把握だけではなく、違った思想や文化がお互いに刺激し合っている現実も重視すべきだ』」という中国政府の外交方針の説明があった。
 一方バイデン政権は施政方針演説の中で「21世紀を勝ち抜くために中国や他の国々と競争している。歴史の変曲点にある。21世紀を勝ち抜くための世界との競争があることを忘れてはならない。中国の習近平国家主席は、最も重要な国になるために懸命に なっている。専制主義者たちは、この21世紀、民主主義は専制政治と競い得ないと考えている。合意に時間がかかり過ぎるからだ。中国の習近平国家主席には競争を歓迎し、対立は望まないと伝えた。全面的に米国の利益を守ることも明確にした。インド太平洋で強力な軍事的プレゼンスを維持すること、人権と基本的自由、同盟国への関与をやめないということも伝えた。   私たちの憲法は「われら国民は」という言葉で始まる。「われら国民」は政府であり、あなたや私だ。皆が各自の役割を果たす。専制主義が未来を勝ち取ることはない。勝つのは米国だ。」と語っていると紹介された。

 米中対立の中での日本

 今、このように米国との政治・経済的な対立や摩擦も激しくなってきている。こうした中で日本は、どのような態度をとるのだろうかと私はとても興味を持っていた。というのも私たちのささやかな民間交流に比べて日本の経済界が行っている経済交流は数段の規模で行われていることを新聞報道などで知っていたからだ。
 巨大な隣国に利害関係がある日本がどのような態度をとるのかは、とても興味深いことだった。しかし、先日行われた日米共同声明の内容は、「新たな時代における日米グローバル・パートナーシップ」として「今日、日本と米国は、インド太平洋地域、そして世界全体の平和と安全の礎となった日米同盟を新たにする。」「海が日米両国を隔てているが、自由、民主主義、人権、法の支配、国際法、多国間主義、自由で公正な経済秩序を含む普遍的価値及び共通の原則に対するコミットメントが両国を結び付けている。」「我々は共に、日米両国は、主権及び領土一体性を尊重するとともに、平和的な紛争解決及び威圧への反対にコミットしている。日米両国は、国連海洋法条約に記されている航行及び上空飛行の自由を含む、海洋における共通の規範を推進する。日本は同盟及び地域の安全保障を一層強化するために自らの防衛力を強化することを決意した。米国は、核を含むあらゆる種類の米国の能力を用いた日米安全保障条約の下での日本の防衛に対する揺るぎない支持を改めて表明した。」「米国はまた、日米安全保障条約第5条が尖閣諸島に適用されることを再確認した。日米両国は共に、尖閣諸島に対する日本の施政を損おうとするいかなる一方的な行動にも反対する」そして、一つの中国を掲げる中国政府に対抗するかのように「日米両国は、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調するとともに、両岸問題の平和的解決を促す。」などの説明を聞きアジア太平洋地域の平和を脅かすような内容だったと再確認した。現実的な日本とアメリカの関係、そして日本と中国との関係は、依然として政治・経済的に切り離すことができない関係のように思う。まるで米・中両国が世界支配を巡って綱引きをしているようにも感じる。こうした中で武力による決着を付けさせることに私たちはあくまでも反対していかなければならないと思う。

日中友好の指針

 私は、こうした中でこれからの友好交流をどのように行っていくのかを考えざるを得なかった。講演の中で引用された「日中関係史」をまとめたエズラ・ヴォーゲル氏の言葉「日中関係における感情的対立のほとんどが、歴史認識に深く根ざしたものである。両国が歴史から生じる不安定な感情に対処しないかぎり、日中関係をより強固で安定した土台の上に確立することは難しかろう」という言葉はとても大切だと思った。何の政治的な哲学もない菅政権が米国のペースに巻き込まれる可能性があり、日本が軍事拡大に向かおうとしている中だからこそ史実をしっかりと捉えることは大切なことだと思った。
 南京の侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館に私たちが建てた市川誠初代会長の「誓い」の碑文は「日本軍国主義の中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止し得なかったことを深く反省し・・・われわれは、日中不再戦、反覇権の決意を堅持し、子々孫々、世々代々にわたる両国労働者階級の友好発展を強化し、アジアと世界の平和を確立するために、団結して奮闘することをあらたに誓います。」とある。今、このような時代だからこそこの碑の意義とこの碑文の実践を進めなければと講演を聞いて思いを新たにした。

辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより
辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより
辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより
辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより
辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより
辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより
辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより