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中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い (11月19日)

2019年10月31日

村山首相談話の会の諸活動でお世話になっております皆さまへ

村山首相談話の会・理事長 藤田高景

連日のご奮闘に心から敬意を表します。
 さて、来たる11月19日(火)午前9時から、東京都港区の「芝公園23号地」で、「第2回・中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い」(詳細は添付のチラシをご参照下さい) を開催いたします。
 中国から遺族・幸存者・宗教者ら50名も来日し、参加されます。
 皆さま方のご出席をお待ちしております。

●なお、本集会開催の趣旨は下記の通りです。
 第二次世界大戦末期、日本は国内の労働力を補うために、4万人に近い中国人を大陸から強制連行して、全国135カ所の鉱山や港などで奴隷労働を強制し、酷い待遇と虐待で多くの中国人が異国他郷で亡くなりました。
 今年は、中国から日本に強制連行されて殉難した中国人の遺骨が、秋田県岡
で発掘されて(1949年8月)から、丁度70年目に当たります。
 戦後、日本政府が作成した「外務省報告書」によれば、日本に強制連行されて亡くなった中国人の数は6830名に上ります(実数はこれより遙かに多い)。戦後、在日華僑、在日朝鮮人、宗教界、友好団体、労働組合などが中心となって進めた遺骨送還運動によって、当時は国交未回復という状況の中にもかかわらず、多くの困難を克服しながら、計2300体余の遺骨が中国に送還されました。故周恩来総理は、日本から来た遺骨捧持代表団を北京に招き、その友好と人道の精神を賞賛しました。現在、これらの遺骨は2006年に新たに建設された天津の在日殉難烈士・労工紀念館に、日本軍国主義の中国侵略の鉄証として大切に保管されています。
 しかし、なお多くの遺骨がこの日本の山野に埋もれたままになっています。
 この為、2009年の第一回慰霊法要に引き続き、今回、中国より約50名の御遺族をお招きし、中国人俘虜殉難者の為の日中合同追悼の集いを開催する事となりました。多くの日本の皆さんのご参加をお待ちしております。
(なお、当日は、午前9時から会場で追悼の6830足の靴並べを行ないます。中国から来られたご遺族とともに、日本の市民の皆さんもご一緒に追悼の意味をこめて靴並べを行ないたいと思いますので、早朝で恐縮ですが、当日は、午前9時までに芝公園23中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い号地に御集合いただきますようお願いいたします。)

          記

主催:中国人俘虜殉難者日中合同慰霊実行委員会

共同代表:田中宏(一橋大学名誉教授)
     内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授) 
     林康治(熊本華僑華人総会名誉会長)

後援:中華人民共和国駐日本国大使館  
   真宗大谷派運行寺(なつめ寺)
   公益社団法人日本中国友好協会(会長 丹羽宇 一郎)
   中日合同慰霊法要旅日華僑協賛会
   南京大虐殺60ヵ年全国連絡会、 
   山谷労働者の会、 他

協力:村山首相談話を継承し発展させる会(理事長:藤田高景)

会場:芝公園23号地(港区芝公園3の4)
    都営三田線「御成門」徒歩5分
    都営浅草線、大江戸線「大門」徒歩8分
    JR「浜松町」徒歩12分

●お願い……「当日の配布資料」や「追悼の生花」の調達・準備のため、ご出席いただける方は、恐縮ですが11月12日までに、下記のメールアドレスまたは携帯に、ご連絡を、お願いいたします。
 E-mail  murayamadanwa1995@ybb.ne.jp
 携帯 090-8808-5000(藤田高景)

第6次「日中不再戦の誓いの旅」に参加しました ―  町田貞一

町田貞一(東京東部労組ディベンロイ労組支部委員長)

北京市内は緑が多い

中国訪問は初めてでした。北京空港について初めに感じたことは、空港そのものが広いことでした。異動はマイクロバスでした。北京市内に向かうにつき驚いたことは、第一に、緑が多いことです。どこまで行っても高速道路の両脇は大木でおおわれていました。北京中心部に来ても緑の多さは変わりありませんでした。ギンドロという街路樹だそうです。遠くから見ると記の表面が白く一見白樺の木のようにも見えます。葉っぱはポプラのようにも見えます。今回訪問した各都市にはこの木が大変多く植えられていることを見ました。

北京市内の車の渋滞
北京市内の車の渋滞(8/19)

 次に感じたことは、車が多いことでした。空港を出たときはそれほどでもなかったのですが、北京の中心部に近づくと車の渋滞にはまり、動きは鈍くなっていました。一般道路でも車の渋滞はひどく、各都市中心部ではどこも渋滞していました。

やたら高層住宅とビルが多い

次に気づいたのは、バイクが多いことでした。しかも、電動バイクです。免許証も、ナンバーもいらないということで、大変多くが走っていて、市民の足としての役割を果たしている感じがしました。以前映像で見た中国は自転車の行列でしたが、今はレンタル自転車が至る所にあるが、圧倒的に電動バイクが多いのに感心しました。又、電動三輪車もあり簡単に乗り出すことが出来るようです。

高層ビルが並ぶ瀋陽の街並み
高層ビルが並ぶ瀋陽の街並み

 次の感じたことは、やたら高層住宅、高層ビルが多いことです。空港を離れると高層ビルがあちこちに立っていて、昔見た中国の光景とは結びつきませんでした。今回通訳とツアーの案内をしてくれた李さんは3LDKの130平米に住んでいるそうです。日本の住宅の平均の2倍近くあり非常に羨ましいことだと感じました。この高層ビルが、私たちが訪問した各都市に次々と建設されています。内需の巨大さに驚きました。どの都市に行っても高層ビルが10や20は建設途中のものがあり、これからもどんどん建設されていくさまが見て取れました。

住民を残らず殺しまくった痕跡

撫順炭鉱の露天掘り
撫順炭鉱の露天掘り

 さて肝心の旅の感想ですが、本では知っていましたが、日本が戦前中国に何をしたかということを、見てきました。それは虐殺の連続だと感じました。日本は明治以来天然資源を奪うため中国のその地に住んでいる住民を残らず殺しまくった痕跡が、いまもはっきりと形として残っています。日本ではよく知られています撫順炭鉱近くの平頂山の住民の大虐殺だと思います。私は、あっても1カ所か2か所ぐらいかと思っていましたが、中国の資料では、至る所に大量虐殺の跡がある事を知りました。撫順に次ぐ規模の炭鉱の阜新炭鉱でも万人坑があると、瀋陽の方から紹介されたときには、びっくりしました。阜新炭鉱そのものを知らないし、想像もできませんでした。

1894年旅順占領が侵略と虐殺の始まり

 旅順の203高地は日本人にはよく知られていますが、旅順の萬忠墓記念館は日本人には知られていない模様です。私も知りませんでした。1894年旅順を占領し、百姓の家を捜索し、女性、子供、老人、あった人全員を殺しました。侵略と虐殺の始まりです。日本の記者は書いています。「市内には日本兵ばかりだ。死体の他に支那人が見つからない。ここの支那人は殆ど絶滅した。」(日本「中央新聞」1894,12,27)と。白髪の老女から子供までが暴行されて殺されたとあります。見るに堪えがたい写真です。

侵華日軍731部隊罪証陳列館の前で
侵華日軍731部隊罪証陳列館の前で

哈爾濱では侵華日軍731部隊罪証陳列館、瀋陽では9,18事変陳列館、撫順戦犯管理所、平頂山惨案遺跡記念館、大連では大連現代博物館を見学してきました。どれも、日本の歴史を学ぶ上で重要な施設と展示であったと思います。

軍国主義の戦争なのか、納得がいかない

 私たちは軍国主義が悪かったから戦争になった、と思い込んでいます。軍国主義の戦争だと思い込んでいます。そのことに、私には今ひとつ納得がいかないのです。江戸幕府が終わり、明治になってイキナリ軍国主義になったのか?不思議でなしませんでした。1870年代(明治)、1910年代(大正)にかけて資本の発展があったことがあり、その行き着いた先に資本と軍が結びついた戦争があったのだと思いましたが、今回、資本と軍が一体的に中国の資源を奪いに行ったことがハッキリしました。1872年(明治5年)には日本の鉄道は開業しています。当然石炭は鉄道にも使われるし、工場動力としても、蒸気のエネルギーとしても必要であった。この年は富岡製糸工場も出来ています。ですから、100年以上も露天掘りをしている撫順炭鉱が欲しかったことは想像がつきます。だからと言って農民、住民を虐殺して奪ってきていいとは思いません。

哈爾濱から瀋陽まで約600キロ大平原の穀倉地帯

ハルピンから瀋陽へ・新幹線の速度計は304キロを示す
ハルピンから瀋陽へ・新幹線の速度計は304キロを示す

もう一つ哈爾濱から瀋陽に新幹線で移動しました。その移動の間中無限に広がる畑が見えました。穀倉地帯であることが分かりました。北部はトウモロコシ畑、南に降りてくると水田が多くなりました。見渡す限り畑のみどりです。小さな畑を耕し苦労している日本人なら広大に広い穀倉地帯が無限に広がっているように見えても不思議ではない光景でした。満州の満鉄が奪った石炭を運び、穀物を運んだことは想像がつきます。新幹線で哈爾濱から瀋陽まで、時速300キロでノンストップなら2時間、約600キロ大平原の穀倉地帯。日本の本州を超える広さの平原で穀倉地帯。想像をはるかに超えていました。広大です。だから積出港としての旅順が最初に攻撃されたのです。

 1868年明治になったその年もコメは不作で飢饉でした。この年も食糧難で多くの日本人は海外に移民を始めていました。明治政府は海外から大量の製糸機械や、蒸気機関車など買いあさり、代金を支払うため農民により重税を敷いていったのです。日本国内は数年おきに不作、冷害が繰り返され農民は娘や妻を売らざるを得ませんでした。農村を破壊し工場労働者を奴隷のようにこき使うことが、1800年代の工業化を支えました。工業化は発展してきたが、農村の疲弊は激しくコメの不作、冷害、基金は工業製品を消費できませんでした。そこで目を向けたのが満州であった。市場として、そして、資源の供給地、食料の供給地としての満州が日本の生命線としていった。資本が作り出したプロパガンダです。

過去に学び同じ過ちを繰り返さない

実際やったことを中国東北部を見てくることで、日本がここでやったこと、そしていまだにその責任を1つもとっていないことに非常に怒りを覚えます。それどころか過去のことはなかったことにしようとの政府の姿勢が許せません。すべてを認めたところから出発するしかないのに、1つも認めようとしない政府と、一部の日本人は、過去に学ばなければ取り返しのつかないことを繰り返してしまいます。過去に学び同じ過ちを繰り返さないようにしたい。

左から池田和則さん、町田貞一さん、津和崇さんの団員3名
左から池田和則さん、町田貞一さん、津和崇さんの団員3名

 掲載写真はすべて津和崇さんが撮影

第6「日中不再戦の誓いの旅」参加報告 ― 池田和則

池田和則(N関労西執行委員)   

はじめに

列車から見た東北の田園地帯
列車から見た東北の田園地帯

 標記の旅行が8月19日~25日にあり、参加してきました。行き先は、北京、ハルピン、瀋陽、大連(と旅順)でした。さすがに大陸は広く飛行機、高速鉄道(中国の新幹線)での移動でした。午前に移動で、午後に見学という感の旅行でした。鉄道での移動は、15年戦争(アジア・太平洋戦争)中、「満洲国」と日本で呼ばれたところでした。車窓に広がるのは見渡す限りの大平原で、土は黒く、耕されていて「トウモロコシ」と「水稲」(ハルピンは稚内と同じくらいの緯度だそうですが、熱帯・亜熱帯性の稲をしかも陸稲ではなく、水田で作っていました)が植えられており、葉葉(はば)が一面に揺れていました。日本も欲しかったのでしょうが、よそ様のものを奪ってはいけません!

 さて、旅の主催は「日中労働交流協会」で、中国側の受け入れは「中国職工対外交流センタ」でした。そのため、私も「N関労西執行委員」の肩書での参加でした。また、歓迎夕食会がセットされる形式がとられて、先方のそれなりの幹部の方も参加されるので、各「宴会」では肩が凝る思いでした。が、我慢して聞いていますと、社交辞令とともに日中間の今日的な情勢の反映などもありで、双方に微妙な意見の違いなども垣間見られ、一般的な観光旅行ではえられない経験ができました。考えさせられるところがありました。が、初めて触れた私には難しくて最後まで十分に理解したとは言えないところです。少しずつ慣れて「肩の凝り」は減りました。

 参加の動機について

 鳥取県においては1987年より「反核・平和の火リレー」を始めましたが、‘85年から始めていた広島県から学んだことが多かったと思います。「原爆被爆者の被害の実相に限りなく近づく」を私たちの姿勢として強調しつつも、「加害責任」を忘れてはならないとも言われました。栗原貞子さんの詩「ヒロシマというとき」が紹介され、「<ヒロシマ>というとき、<ああヒロシマ>とやさしくこたえてくれるだろうか、(中略)<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>(中略)<ヒロシマ>といえば血と炎のこだまが返ってくるのだ(中略)<ヒロシマ>といえば<ああヒロシマ>とやさしいこたえがかえって来るためにはわたしたちはわたしたちの汚れた手をきよめねばならない」でした。さらに、「中国帰還者連絡会」が紹介され、鳥取でも会員のかたの講演を企画したりもしました。鳥取高教組青年部員の勧めで、旬刊「中帰連」を会の解散・廃刊まで購読しました。「撫順の奇跡」はもとより、「三光作戦」、「戦時性奴隷」、「731部隊」、「毒ガス作戦」、「南京事件」、「重慶爆撃」……と中国に対する加害と犯罪が特集されていたし、当時の日本の「右翼」側の「妄言」への冷静な反批判なども載っていました。いつか直接現地に行って見たいと思っていました。今回それが実現しました。

ハルピン

731部隊犯罪陳列館
731部隊犯罪陳列館

ハルピンでは、郊外にある「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」を見学しました。「陳列館は1985年に開館し、2015年に新しい陳列館がオープンしました。陳列館の展示は、細菌研究基地の建設、細菌戦部隊の設立、特別移送扱い、細菌研究の実験と生産、細菌戦の実施、731部隊の逃走、細菌戦犯罪者の裁判と系統的に展示されています。731部隊は約3000人の「マルタ」を虐殺しましたが、敗戦を目前にした撤退時に生き残っていたすべての「マルタ」を殺し、建物を破壊して証拠隠滅を図りました。罪証陳列館に多くの遺品が展示されていました。また、本部、研究棟、生物飼育場、農場、飛行場、鉄道駅、宿舎、運動場、小学校まであり、広大な敷地を占めていました。」。(伊藤団長文より引用)

その後、スターリン公園から松花江を眺め、中央大街を散歩しました。団員のT氏が松花江の先の「チャムス」の生まれとのことで、思いもひとしおであったのだろうと思います。

瀋陽

 次に瀋陽に移動しました。「はじめに」でも触れましたが、高速鉄道は時速300キロだそうです。この区間に限れば(広い大陸ですから、チベットなど条件は種々違うでしょうが)、起伏も少なく、トンネルもなく、カーブも少ないとなれば建設コストも比較的にかからずで、スピードも出やすいとのことでした。

9.18歴史博物館の前で
9.18歴史博物館の前で―左から2人目が池田和則さん

「午後から9・18事変陳列館を見学しました。1931年9月18日、柳条湖において鉄道爆破した関東軍は、これを中国軍の仕業と偽り、一気に遼寧省、吉林省、黒竜江省を占領しました。いわゆる満州事変です。その経過が描かれ、日本の侵略に抵抗して闘った抗日軍民の様子が展示されています。」(伊藤団長文より引用)

「養父母の像」((9・18歴史記念館)
「養父母の像」((9・18歴史記念館)

 「同陳列館」の出口の手前に日本人孤児を真ん中に両側から手をつないでいる養父母の像がありました。私は涙がこぼれました。「奪いつくし、焼き尽くし、殺し尽くした」日本人の子どもを育てる中国人の夫婦。養父母の貧しさは、想像できますし、親兄弟、親戚、親友を日本人に殺されたり、傷つけられたりしていたかもしてないのに。次の「撫順戦犯収容所」でも触れますが、中国の人の心の奥底にある「究極の人としてのやさしさ」に心打たれました。どの民族であれ究極の人間らしさは持ち合わせていると思いますが、世界のすべての人が、日本人が、その中の私がとなると確信はありません。売店で買ったその「像」を自宅の本棚に飾りました。

 また、「同陳列館」の「あとがき」にあたる文章には「中華民族の団結」、と「中国共産党の功績」が主張されているように感じました。間違いではないのですが、ただ、強調しすぎると「民族主義」は「排外主義」につながりますし、世界第二位の大国の「民族主義」は「覇権主義」ともなることもありましょう。また、「抗日戦争」勝利は、中国共産党の功績ですが、だけでなく、国民党の功績もありましょうし、名も知れぬ中国民衆の抵抗、貢献もあったでしょう。在外華僑の支援もあったでしょう。世界の反ファッショ勢力の力もあったでしょう。

一歩引いた余裕もあったらとも思いましたが、いつまでも「安倍政権を許している」日本で活動している者が大きな顔して言わないほうがいいとも思います。つぶやきです。

撫順

 翌日、撫順を訪れました。撫順は、巨大な露天掘り(すり鉢状を想像していましたが、見学した露天掘り炭鉱はⅤ字カットでした。)炭鉱があり、石炭の町として有名です。余談ですが、撫順の石炭は満鉄で大連に運ばれ、八幡製鉄所で鉄作りの原料に供されたそうです。近くの鞍山に製鉄所があるのに?

撫順戦犯管理所の窓
撫順戦犯管理所の窓

 「午前は撫順戦犯収容所を、午後は平頂山惨案遺址紀念館を見学しました。

 撫順戦犯収容所は、日本人戦犯約1000人が収容され、教育、坦白、認罪という思想改造が行われたところです。食事、健康にも配慮した生活が行われ、戦犯は処刑されることなく日本に帰国しました。満州国皇帝であった溥儀も収容されていたところです。

 平頂山惨案遺址紀念館は、1932年9月16日、日本守備隊や警察は、抗日軍が日本人を襲撃したことに対する仕返しとして、平頂山村の住民約3000人を野原に集めて射殺し、遺体にガソリンをかけて燃やし、山を爆破して埋めるという虐殺事件の現場に建てられた記念館です。遺骨館には発掘された遺骨がそのままの姿で横たわっていました。折り重なるようになった遺骨には、子供や赤ん坊、妊婦の遺骨もあり、脇にある黒くなった坑木やガソリン缶が惨状をリアルに伝えていました。」(伊藤団長文より引用)

 「撫順戦犯収容所」では中国人の見学者が多いので当然ですが、「日本人戦犯」より溥儀をはじめとした「中国人戦犯」に力点がおかれていました。が、ともあれ、ここから「日本鬼子」に改造されていた「日本人戦犯」が再び、「人間」に還っていく場所であったと思い、私にとって、貴重なフィールドワークであったと思います。「中帰連」の皆さんが帰国後に果たした日中友好への功績は計り知れないものです。帰国が遅く、しかも革命後の中国からということで、「アカ」呼ばわりで周りから警戒されたり、公安に監視されていた人もいたといいます。そのために、安定した就職につけず生活に窮した会員もいたとのことです。日本側の革新団体の事情に翻弄されたこともあったようです。が、死ぬるまで、自らの加害責任・戦争責任に向き合い、講演をし、書籍を広め、加害地に赴き謝罪を続けるという真摯な態度は何よりも美しい。「日本鬼子」の限りを尽くした人達とその時代に甘い汁を吸った旧支配層とその末裔たちはその事実に触られたくないのでしょうが、「謝罪」することをせず、よりにもよって、あったことを無かったこととしようとする「再びの加害」をおこなっています。謝ってもいないのに、「何度謝ればいいんだ」と平気で言う。そこからは、中国とも、南北朝鮮ともアジア各国とも真の「和解」はあり得ない。日本は「戦後責任」を果たさないままで時を重ねてはいけません!私たち「老人」は、自分たちを経由して、若い人に「継承」していく責任があります。それが戦争責任・加害責任を背負う日本に生まれた私たちの責任です。かっこ悪くても、謝って、謝って、謝って、被害者からもういいから、気持ちは分かったからといわれてはじめて「許され」本当の「和解」になると思うのです。であるなら、そういう政府を作らねばなりません。

平頂山虐殺遺跡記念館の展示
平頂山虐殺遺跡記念館の展示

「平頂山惨案遺址紀念館」で観たものは覚悟をしていたとはいえ、あまりにむごいものでした。「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」でも感じたのですが、人はここまで残酷になれるものなのでしょうか。信じられないことが行われました。大陸に来る前は善良な農民であったり、妻子(つまこ)を愛する工員だったかもしれない。軍隊や国家に改造され、生きた人間を「解剖」し、撃ってもこない人々を機関銃でなぎ倒し、一人一人銃剣でとどめを刺す。そのことに何も感じない。(大体、日本は「侵略」されたことは有史以来ありません。もとい蒙古がありますか!「侵略」したことはいっぱいあります。)そんなことをさせる、軍隊も国家もなくてもいいのです。

大連・旅順

 次に大連に移動しました。高速鉄道は上野駅を模して造られたという大連駅まで延伸していたそうです。

大連駅(上野駅を模して造られた)
大連駅(上野駅を模して造られた)

「大連現代博物館を見学しました。アヘン戦争以後、遼東半島は、渤海の防衛拠点として重要な位置を持ち、清が旅順を開発、日清戦争で日本が旅順を占領、「三国干渉」でロシアがハルピンから旅順までの鉄道敷設権を得て大連を開発、日露戦争で日本統治へと目まぐるしく変わります。日本軍国主義の残虐行為を展示するだけでなく、大連の歴史を民衆の視点から「多元文化の交流と融合」と見る博物館の捉え方に敬服しました。近くの星海広場を散策し、景勝地の老虎灘をドライブしてホテルに戻りました。」(伊藤団長文より引用)

 翌日、大連から1時間ほど離れた旅順を訪れました。旅順と大連と合併して、「旅大」となり、さらに、「現在は大連市の行政区だそうです。1894年11月21日に旅順を占領した日本軍は、4日間にわたって民間人を含めて約2万人を虐殺しました。その犠牲者を祭った墓が萬忠墓です。萬忠墓紀念館は、日清戦争の経過と虐殺の様子、その報道、萬忠墓の建立経過が展示されています。日本の中国侵略は、当初から虐殺を伴っていたことが分かりました。なぜここまで残忍なことができるのか?

 差別意識とナショナリズムの恐ろしさを改めて考えさせられました。」(伊藤団長文より引用)

 さらに、詳しく、藤村秘書長は「日清戦争、日露戦争の戦場となった大連、旅順」と題して、次のように記述されています。「日本は1894年日清戦争、1904年日露戦争を行いました。今回の旅でこの二つの戦争は、戦場が大連、旅順のある遼東半島であり、この半島の領有を争うものであったことを改めて実感しました。日本軍は、日清戦争時の1894年11月に旅順を占領しました。この際、日本軍は旅順で中国人たちを虐殺する大量殺人を行っていたことを「大連現代博物館」や「萬忠墓記念館」で知りました。当時の日本人新聞記者は市内の死体が放置されている様子をスケッチしていました。また日本兵は手紙の中で「市内は日本兵ばかりだ、死体の他に支那人(当時中国人を指す蔑称)が見つからない。ここの支那人はほとんど絶滅した」ということを書いていました。アメリカ人やイギリス人たちもこの惨状を伝えています。私は、中国国内の炭鉱などや日本軍による虐殺などで中国人が沢山殺されていることは知っていましたが、それは1932年の以降のことだと思っていたので、日清戦争の時既に皆殺しの行為を行っていたことを知り、暗澹たる思いがしました。そして、戦争が人間性を破壊することを改めて感じました。」

 そうなのです、日露戦争はロシアの領土でも、日本の領土でもなく、中国の領土内で行われました。理不尽と思いませんか。家を焼かれ、工場や店を破壊され、田畑を荒らされる中国人の視点が必要だと思いませんか?

旅順大虐殺(大連博物館)
旅順大虐殺の写真(大連現代博物館)

昔、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を面白く読んだのですが、ここでも「中国人の視点」は全くありませんでした。だからといって司馬氏に押し付けて、「責任」のがれをするわけにはいきません。旅順港を一望できる白玉山に上がりました。旅順港の出入口は本当に狭く、つい、広瀬中佐が「杉野はいずこ、杉野はいずや」と部下を探し回り、砲弾の直撃を受け戦死したことを思ってしまいます。また、203高地はこっちの方向と説明版にあると、昔見た映画の仲代達矢演ずる乃木大将の悲壮な表情を思い出してしまうのです。

 しかし、先に引用したお二人の文のとおりで、日清戦争の旅順陥落で2万人の中国人が日本軍に虐殺されたことを、今まで知りもしませんでした。司馬氏の本であったか定かではありませんが、日露戦争では、欧米各国の評判を気にし、捕虜を丁重に扱ったと読んだ記憶があります。第一次世界大戦でのドイツ人捕虜の徳島での収容所での扱いの話、ベートーベン「第9」の初めての演奏とまあ「事実」なのでしょう。私も無差別の民間人も含めた日本軍による虐殺行為は満洲事件前後からだろうと思い込んでいました。澤地久枝さんの「記録ミッドウェイ海戦」だったと思いますが、澤地さん本人の解説で、「日本軍に捕虜となったアメリカ兵は0人であった。なぜなら、捕虜は取らない全員殺したからだ。」とのことでした。

でも、やはり当初から日本の中国侵略は、虐殺を伴っていたのです。なぜここまで残忍なことができるのか?ロシア人やドイツ人の扱いには、気を使うが、中国人(や、朝鮮人、さらに、アジア人)には、別の扱い方をする、殺しても構わないとすれば、日本人はアジア人だが、欧米グループ内、悪くても大東亜の盟主ということでしょうか?差別意識、蔑視感は明治維新からわずか25年で定着したと見なければならないでしょう。改めて恐ろしさを感じました。

 おわりに

 いくら「おもてなし」だからといって、宴会の料理が多すぎる宴会以外の食事も)。朝食など3/4も残ってしまう。もったいない。地球の資源は有限です。

ショッピング客でにぎわうハルピンの中央大街
ショッピング客でにぎわうハルピンの中央大街

 ハルピンで、マトリョショカのストラップを買ってしまった。近くの店員さんに購入品を記載してもらい、カウンターで金を払い、その領収書を再び店員さんに見せて、品を袋に入れてもらう。旧ソ連の国営店の方式?

 やはり後発国は有利でした。

日本では有線での電話網を国土の隅々に張り巡らすのに膨大な費用が掛かりました。国土の広い中国はもっと困難だと思われましたが、携帯・スマホで有線網の必要が少なくなり同様の負担の必要はなくなりました。また、スマホといえば、この旅行中わが団のお世話をしていただいた李さんはたばこ一箱をスマホで購入されていました。キャッシュレス化は日本より何歩も進んでいます。さて、日本の銀行は、人員削減のため、ATMを社会の隅々まで配置したが、キャッシュレス化で不要となるでしょう。ATMの廃棄は、たいへんな負担となるのではないでしょうか!

さらに、ガソリン車から電気自動車への転換も急でしょう。ハイブリッド車は飛び越えられようとしている。日本の自動車会社はついていけるのか。

戦争責任に向き合い心からの「謝罪」の上の真の「和解」が不可欠

日本は世界第2位の「経済大国」から滑り落ち、予想年は忘れましたが、インドにも抜かれるそうです。過去の栄光を引きずって、アメリカ合衆国の子分であり続けても、取り残されるだけでしょう。今後、発展が有望視される、中国、統一されるであろう朝鮮、そして、アジア諸国との友好が、日本の「少しの成長」と「安定」の土台となるでしょう。そのためには、大日本帝国の犯した加害責任、戦争責任に真摯に向き合った心からの「謝罪」の上の真の「和解」が不可欠だと思います。結局、またここに還って来ました。

いい旅行でした。皆さんにお薦めします。が、先の長い若い人に特に、お薦めです。

掲載写真はすべて団員の津和崇さんが撮影

「公文書を生かす 情報公開法成立20年」第5回 公的記録少ない満蒙開拓 市民活動が解明補う

会員の活動が毎日新聞に載りました。

 会員の藤村妙子さんが共同代表を務める「東京満蒙開拓団を知る会」の活動と、著書「東京満蒙開拓団」の内容紹介などが。毎日新聞の下記の記事に掲載されました。

「公文書を生かす 情報公開法成立20年」第5回 公的記録少ない満蒙開拓 市民活動が解明補う 

2019年8月26日毎日新聞朝刊

 1932(昭和7)年から推計約27万人が農業移民として中国東北部に送り出され、敗戦後の逃避行で約7万2000人の死者を出したとされる「満蒙開拓団」。寒村の救済策とのイメージでとらえられがちだが、東京発も全国9位の約1万1000人いた。

 どんな人たちが東京から大陸に渡ったのか、長らく実態は分からなかった。「東京府(都)の文書の中に開拓団の資料が残っていないからだ」。この問題に詳しい加藤聖文・国文学研究資料館准教授は解説する。「(開拓業務を所管した)拓務省がなくなると、戦後は外務省、農林水産省、厚生労働省などにばらばらに引き継がれ、文書が廃棄または所在不明になっていった。地方も同じような事情だったのだろう」

 例えば39年に作られた農業移民のための訓練施設「東京府拓務訓練所」(東京都日野市)と訓練を受けた人々について、公的にはどう記録されているのか。日野市郷土資料館で助言を受けた後、東京都公文書館(世田谷区)を訪ねると、いくつかの文書が見つかった。用地購入を巡る書類のほか、府(都)公報に設置や廃止の記載があった。それによると山林や畑を買収して開設。「訓練所規定」では、訓練生は定員100人で6カ月間、農業実習のほか、「皇道精神」や「農民道」を学び、教練や柔剣道をすることになっていた。訓練を受けた人々の姿が分

かる文書は見つからなかった。公文書からたどることに限りがある中で、東京発の開拓団の全体像をつかんだのは、東京都大田区でミニコミ誌「おおたジャーナル」を発行していた今井英男さん(2013年に死去)たちのグループだった。地元から開拓団が出ていたことに驚いて07年、調査を始めた。公文書館だけでなく、史料館、図書館などに通って新聞・雑誌の記述、民間の資料を収集したほか、生還者の証言を集めた。12年に書籍「東京満蒙開拓団」(ゆまに書房)にまとめた。

 この本を読むと、32年に恐慌による都市の生活困窮者が送り出されたのが始まりで、戦争が始まって職を失った中小の商工業者、最後は空襲で家を失った人々が集められたことが分かる。今井さんたちによると、東京府拓務訓練所は、ブラジルへの移民が頓挫して満州への大量移民が始まる時期に、初の府直営施設として誕生。移民送り出しに重要な役割を果たした。送られた人たちには、過酷な運命が待ち受けていたのだろう。

 後世にこうした事実を受け継ぐことはできるのか。「東京満蒙開拓団」の著者の一人、藤村妙子さん(65)と7月、日野市程久保の訓練所跡地を訪ねた。多摩都市モノレールの駅から坂を登って30分近く。福祉施設や養護学校に変わっていた。施設職員らに訓練所跡について尋ねたが「何もない」「分からない」と言われた。藤村さんは「ここに来ても訓練所のことが分からない。過去にあったことの表示をすべきだ」と話した。

 藤村さんは、大陸に渡った人、亡くなった人たちの氏名が一部しか伝えられていないことも気にかける。「正確な歴史を伝えることが悲劇を繰り返さないようにすることだ」と話す。

満蒙開拓団

 関東軍が1931年に満州事変を起こして作った中国東北部のかいらい国家「満州国」の支配を確立するため日本の国策で32~45年に送った農業移民団。敗戦後の逃避行で集団自決などがあったほか、残留孤児・婦人約1万1000人(推定)を出した。敗戦間際に軍に召集された人の多くは旧ソ連により抑留された。

中国職工対外交流センターとの懇談 訪中団あいさつ

2019年8月19日

中国職工対外交流センターとの懇談

訪中団あいさつ

伊藤彰信(日中労働者交流協会会長)

今回も私ども日中労働者交流協会訪中団を快く受け入れてくださり、ありがとうございます。昨年は、日中平和友好条約締結40周年にあたり、李克強首相の来日、安倍首相の訪中と、日中関係の改善がすすんだ年でした。当協会も貴センターとともに「日中友好労働者シンポジウム」を北京で開催し、日中労働者の相互理解を深め、友好交流をさらにすすめることができました。また、今年6月、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館で「和平の旅」のインタビュー受けました。私どもにとっても南京紀念館との交流の歴史を振り返ることができました。

安倍政権は、昨年、国内では明治維新150年を記念する事業を行い、明治維新以来の日本を美化、正当化しようと企てました。1972年の日中共同声明の際に、周恩来首相は「両国は2000年の友好往来と文化交流」と述べるとともに「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略」と述べています。今年は、南京に「日中不再戦の誓いの碑」を建てて10年にあたります。碑文は1931年からの15年間の日中戦争の反省について述べていますが、日清戦争については述べていません。今回は、明治以降の侵略の歴史を銘記するためにも、旅順を含めて東北地方(旧満州)を訪れることにしました。

最近、香港情勢が大きく報道されています。アメリカが中国へ貿易戦争を仕掛け、香港の一部の勢力を煽って中国政府を攻撃する政治問題に発展しています。

私は先日、全港湾の資料室に行って、天安門事件直後に当時の中華全国総工会国際連絡部の陳瑞華副部長が全港湾に送った手紙を読み直してきました。陳瑞華先生は「両組織間で培われてきた友情と信頼を大切にし、こうした友好関係を一段と実着、発展させるために共に努力したいと念願しています。とりわけ現在の新しい情勢の下では、中日両国労働組合の相互理解と友情をいっそう増進することは重要な意義をもっています。」と述べています。

今の私の気持ちは、陳瑞華先生の気持ちと全く同じです。当協会の会員の中には、香港情報を宣伝し、日中友好を損なう言動をとる者もいます。この間、私どもは、当協会の目的は日中友好の促進であること、友好とは相手を尊重し信頼するものであることを確認するとともに、日中友好を損なうことがないように対応し、情勢を見誤ることなく日中友好・交流を続けるための議論をしてきました。

米中貿易戦争が激化する中で、安倍は中国敵視政策を巧みに展開しながら南西諸島に自衛隊を配備し、また、韓国の徴用工問題の責任を認めず、ナショナリズムを醸成して、憲法改悪を図ろうとしています。日中友好交流は世界平和を築く上で益々重要になっていると思います。

昨年、「日中友好労働者シンポジウム」を開催して、日中労交としても自信をつけることができました。新しく日中労交に参加してくれた現場の労働者が報告を担ったことです。また、中華全国総工会の第17回大会の報告を聞いて、総工会の現在の活動を知ることができました。私どもが関心を持っていることは、労働組合改革が現場でどのように行われ、労働者と結びついた活動がどのように展開しているのか、いわば「大衆路線」の実践についてです。あまりにも企業主義になってしまった日本の労働組合を改革する視点をみいだせればと思っています。

シンポジウムのスローガンは「歴史を銘記し、未来に目を向け、友好交流を促進しよう」でした。日中労交は労働者の組織ですから、「 日中不再戦の誓い 」の精神を受け継ぎながら日本軍国主義の侵略遺跡を訪れること、日中平和友好条約の精神にもとづき冷戦後の平和な世界秩序を展望すること、グローバル時代、AI時代における日中労働者の友好・連帯を探ることなどの活動を通じて、日本の平和・護憲運動や労働運動に役立ちたいと考えています。そして、日中友好を若い人に伝えていきたいと思っています。

 日中労交は小さな組織ですが、貴センターとの友情を育み、相互理解を深め、平和と繁栄に役立つ友好・交流を続けたいと思っていますので、今後ともよろしくお願いします。

34年前紀念館開館式典に3名の 日本人の友人がいました・・・

侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館(2019年6月19日)

私たちが注目すべき、歴史に残すべき記録

1985年8月15日
中国侵略日本軍南京大虐殺遇難同胞紀念館が正式に完成、開幕
式典参列者の客の中に混じるわずかばかりの日本人外国客
彼らは誰か?
彼らはまたどのようにこの紀念館建設を見ているのか?

写真=紀念館建成開幕式

1
「万人坑」遺跡を見て深い思いに触れ、紀念館開幕式典参加を決意

1985年5月7日、42歳の日本人、高幣真公は日中労働者交流協会とともに初めて南京に訪問した。
高幣真公によると、彼らはわざわざ江東門を訪れ「万人坑」遺跡にて現地視察を行った。

累々と積み重なった白骨に協会員銘々の心が震撼した。彼らは冷静に、ただ歴史を正視することで、同じ轍を踏まないことにつながると意識した。

写真=協会が江東門を訪れ「万人坑」遺跡にて現地視察(高幣真公提供)

写真=紀念館建造写真(高幣真公提供)

協会員は当年8月15日、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館が正式オープンすることを知り、帰国後、彼らは直ちに紀念館開幕式典来館参加にむけて計画を始めた。

1985年6月、高幣真公と協会員一同が、協会名義で、南京市総工会に向けて誠意ある手紙で式典に参加させてもらいたいと希望した。

7月27日、南京市総工会は返信でこのように回答した:「式典参加の希望の要望に、我々は大変感動した。あなた方のこのような心情を南京市民に伝えたい。」

高幣真公が経緯を思い起こし、多方面からの尽力で、1985年8月13日、日中労働者交流協会の日本代表が正式に紀念館開館式参加の招待を受けることができたと述べた。

2
「紀念館は日中不再戦、日中友好の新たな出発のために」

1985年8月15日、協会が送り出した団長市川誠、団員平坂春雄と山田順三の3名の代表が、記念館建設完成の開幕式に参加した。

彼らは式典に参加した3人のみの外国の友人でもあった。

後に、市川誠は式典参加にいたる過程を1編の記事『紀念館は日中不再戦、日中友好の新たな基点としよう』に書き上げた。それにはこのように書かれている:

1985年8月15日、中国人の方からすると、この日は反ファシスト戦争に勝利した40周年記念日。午前8時半開館式典が正式に始まり、私たちは列の2列目に立っていた。
まず、中華人民共和国国家斉唱、つづいて南京市長張耀華の言葉。
彼はこのように述べた「侵略戦争のこの歴史は永遠に次世代の心に刻む。中国人民と日本人民がともに過去の歴史を肝に銘じ、歴史の悲劇を繰り返さないよう、共に努力する。」

写真=市川誠が記録した記事

式典参加の代表の一人平坂春雄が回顧録の中で書いている「日本軍侵略戦争を理解しない日本人からすると、紀念館は彼らに大きな衝撃を与えるだろう」。

式典に参加した日本の友人から南京に1つの「鎮魂の時計」が贈られた。上には「中国侵略戦争を反省、謝罪、犠牲者の御霊に弔意を捧げます」 の刻印がある。

3
「中国では平和の願いを表明するが、日本ではほとんどがこの表明を見ていない」

―時は瞬く間に34年経過。

高幣真公はすでに76歳の老人になり、一人の日本人友人の伊藤彰信と再び南京に来訪し、歴史の場所にインタビューで訪れた。

高幣真公は述べる:「日本では南京大虐殺に関する書籍や映像を見たことがある。今回の来館訪問での収穫は大きく、紀念館に展示される多くの詳細な資料が歴史を再現している。多くの日本人が訪れて見学することを希望する。」

写真=伊藤彰信、高幣真公が紀念館を参観

伊藤彰信は記念館を知らなかったわけではないと話した。2005年に初めて南京を訪問し、2009年に再度団を率いて記念碑除幕式のために来館した。2014年以降は毎年南京大虐殺死者国家公祭で南京を訪れていた。

伊藤彰信は述べる。「2005年紀念館はまだ小さな館であったが、数年経て紀念館はどんどん新たな展示でリニューアルを繰りかえし、見学者が歴史の理解を深めることができるようになっている。参観した中で印象深かったのは、日本軍南京大虐殺遇難同胞紀念館だけでなく、中国人民抗日戦争紀念館でも、展示の最後に平和の表明で締めくくり、「過去は忘れず、未来の師とする」と表明していたことだ。日本の博物館では、このような表明はあまり見ない。」

4
中日両国の人々の交流強化を呼びかける

中日友好の交流推進について、高幣真公が述べる:「日本人はもっと中国に来て変化を見るべきで、中国人も日本に来て日本の変化を知ってほしい。双方は交流を基礎にしてのみ、歴史への思考を深め、学習することが可能だ。」

伊藤彰信は特に中日友好の根幹は若い人々にかかっていると強調する。彼は述べる:「日本の世論調査で、日本の若者層が中国への認識に比較的大きな隔たりがあり、より多くの日本の若者が中国を見に来て、学び、青年同士の交流に力を入れてほしい。」

写真=伊藤彰信(左)、高幣真公(右)が紀念館でインタビュー、高幣真公が協会で  撮影した紀念館建設写真を披露


* 紀念館ホームページ中国語記事原文  Wechat 記事

南京大虐殺遇難紀念館の「和平の旅」インタビューのため訪中(7/4)

記念館の庭にある「日中不再戦の誓い」の前でー左端が芦鵬さん(記念館職員)

6月16日(日)から20日まで、南京に行ってきました。
6月13日に侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館から突然電話があり、紀念館が行っている日本の友人の口述史「和平の旅」のインタビューを行いたいというのです。6月末が会計年度の決算日で、予算が残っていたのでしょう。私と事務局次長の高幣さんが行くことになりました。高幣さんは85年の市川誠訪中団の参加者です。

南京大虐殺記念館でー左から2人目が張健軍館長

「平和の旅」編集のために私たちをインタビューー左が質問者の盛卯弟(江蘇省総工会国際部)さん

インタビューは17日に行われました。この日は月曜日で紀念館の閉館日。建設中の紀念館しか知らない高幣さんのために、特別に展示を見学することができました。高幣さんはビデオにしっかり収めていました。

張健軍館長に挨拶しました。市川さんが85年8月15日に贈った「鎮魂の時計」が飾られていました。インタビューは午前、午後合わせて4時間ほど行われました。インタビューアーは江蘇省職工対外交流中心の盛卯弟さん。日中労交について設立経過、現在の活動、苦労話、今後の日中平和活動などについて私が答え、1985年5月の訪中、8月の紀念館開館をめぐる交流活動について高幣さんが答えました。昼食は南京一高いビルのレストランで張館長と一緒にとりました。
18日は、ジョン・ラーベ紀念館、利斎港慰安所旧跡陳列館、下関地区の虐殺現場、長江大橋などを見学しました。

南京師範学校の卒業式前ー左から2人目が林敏潔教授

19日は、六朝博物館、鄭和紀念館を見学し、南京師範大学の林敏潔教授と昼食を、江蘇省総工会と夕食をとり、懇談しました。

林敏潔教授とは3月に東京で開かれた日本反戦平和国際シンポジウムでお会いしました。日本文学が専門で民間の平和反戦記憶をどう若い人に伝えていくのかというプロジェクトを行っている方です。6月15日に東京で開かれた第1回「一帯一路東京フォーラム」から帰られたばかり、南京師範大学大学院の卒業式という忙しいなか、会ってくださいました。

歓迎レセプションを開いてくれた高総省総工会の繆建華さん(組織・国際部長)・右

江蘇省総工会とは、組織・国際の責任者である繆建華さんと労働組合改革で新しくつくられた職工服務中心(労働者サービスセンター)の責任者の葉希伯さんと懇談しました。職工服務中心の活動、例えば労災、社会保険の相談、就職あっせん、零細企業で働く農民工の組織化などについて話をしました。職工対外交流中心も職工服務中心に統合されるということですから、海外からの進出企業の従業員の組織化も担うことになるのかなと思いました。
国家公祭に参加する今までの南京訪問とは違った日々を過ごすことができ、今後の交流をすすめるにあたって参考になる訪問となりました。
具体的な点については、追って報告することとし、取り急ぎの報告とさせていただきます。

2015年に修復工事が終わった南京長江大橋の塔上で記念撮影(右・伊藤彰信、左・高幣真公)

高幣さんは、北京に寄って、ゆっくりと中国の旅を楽しんでいますよ。

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事務局長退任に寄せてー 前川武志

前川武志ー南京 2018/12

平坂春雄事務局長から引き継いで10年余り、至らない事務局長ではありますが藤村新局長が引き受けていただいたので身を引かせていただきます。

平坂さんは高野派の重鎮であり、中国とも太いパイプを持つ方でした。尼鋼争議の際に中国からカンパを頂いたのをとても感謝し、事あるごとの費用ねん出に身銭を切っておられました。少しは見習わなければと真似事をしましたがとても足元に及びませんでした。

兼田富太郎事務局長が日中国交回復、平坂氏が八三一部隊や毒ガス弾など日本の戦争犯罪、南京虐殺などに取り組まれ、「不再戦の誓いの碑」の建立の活動に尽力されました。前川はその誓いの碑を守る活動だけでした。事半ばでは有りますが、本業が忙しく、活動の為の時間確保が出来ず、迷惑のかけっぱなしなので、これ以上迷惑をおかけできないので退任を承諾いただきました。皆様の支えで活動できたことに感謝します。また日中労交、日中労働者情報フォーラムの末端をけがしていた事に誇りを感じています。

2019/6/10

前事務局長 前川 武志

日中労働情報フォーラム事務局長就任にあたってー藤村妙子 

私は、地域の市民運動の仲間たちと東京からの満蒙開拓団の調査研究を行う「東京の満蒙開拓団を知る会」を2007年9月に作り研究の成果を2012年9月にゆまに書房から出版しました。この拙著が会長の伊藤さんの目に留まり、2016年4月16日(くしくもこの日は私の誕生日!) 第4回総会において「なぜ東京から一万人も満州に渡ったのか「東京満蒙開拓団」~その背景と史実から学ぶもの~と題して講演を行ったことが縁で入会しました。

総会で司会を務めた藤村妙子新事務局長

私と中国との関係は、高校生の時から始まります。学園紛争が華々しく闘われた後の1970年4月に入学した高校では様々な教育改革が行われていました。制服はなくなり、自由な雰囲気が漂っていた頃でした。そして、高校2年から「選択授業」が各種あり、私は「中国近代史」を選択しました。週一回中国の近現代史、日本が戦争中に行ったことを本多勝一氏の「中国の旅」をテキストとして学んだり、毛沢東の「実践論」「矛盾論」を読んだりしました。この時の経験が、私のその後の人生を決めたと言ってもいいと思います。

今、毎日中国の事が報道されない日がないほど、世界的な様々な動きと中国の動きは連動しています。中国は日本の侵略とその後の内戦などによる破壊や様々な問題を克服し、日々変化し、発展しています。私は「中国近代史」の授業の時に教師の「中国は広い、変化に富んでいる。今が全てではなく、矛盾の中から次の力が生み出される。日本にいたら感じられないダイナミックなものがある。」という言葉を思い出します。
こうした中で、「中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止し得なかったことを深く反省し(中略)日中不再戦、反覇権の決意を堅持し・・・両国労働者階級の友好発展を強化し、アジアと世界の平和を確立するため、団結して奮闘することをあらたに誓います」という日中労交の初代会長の市川誠氏によって起草された「誓い」の一節は、今も私たちの方向性と決意を示していると思います。
まだまだ、経験の浅い事務局長ですが、先輩諸氏のご指導を受けながら、次の世代にこの運動を繋ぐ役割を微力ですが果たして行きたいと思います。

藤村 妙子 
(東京南部全労協事務局長/東京の満蒙開拓団を知る会共同代表)

参考資料 大田区職労ニュース掲載の藤村妙子のメッセージ

塵肺労働者を支援して逮捕された3人の青年(楊鄭君、危志立、柯成兵)

中国内陸の湖南省から深センに出稼ぎで工事現場の粉砕工事に携わり塵肺症を患った労働者らの補償要求を支援、報道したことが「社会不安をあおる」とされて、今年1月と3月に青年3人が拘束されました。

塵肺症患者らはじめ支援者らは、3人の即時釈放を求めています。また拘留中の3人の顔写真をお面にして各地で写真を撮る連帯アクションも呼びかけられています。

#釋放勞權維護者危志立
#FreeChineseLaborActivistWeizhili

のハッシュタグで検索してください。フォトアクションの様子が分かります。
日本でも連帯してほしいと連絡が来ています。協力できそうな方は連絡を。

80年代後半生まれの3人の青年の経歴などはまた別の機会に紹介します。

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◆湖南省の塵肺労働者の補償要求と「新生代」web編集員の逮捕

【概要:2019年3月20日早朝、湖南の塵肺労働者の補償要求を支援してきた労働自主メディア「新生代」の編集員の危志立(小危)、柯成兵(老木)が広州まで市を跨いでやってきた深セン市坪山警察に逮捕された。今年1月8日に同じく湖南の塵肺労働者の補償要求を支援してきた「新生代」の編集長、楊鄭君(包子)も市を跨いで広州市までやってきた深セン市坪山警察に逮捕されている】

1990年代から、湖南省の桑植市、耒陽市、汨羅市などから労働者が深センへの出稼ぎで、ドリルや爆弾を使った建設工事に従事してきた。深セン市地下鉄、地王ビル、京基100ビルなど、深センのランドマーク的建設物の建設に従事してきた。かれらの作業環境は粉じんが充満していたが、防護措置はせいぜい簡単なマスク一枚で、それさえないこともあった。雇った会社はほとんど雇用契約を結ばず、社会保険料なども支払ってなかった。そして20年が経過し、労働者たちは次々塵肺症の疑いと診断された。しかし雇用契約もなく、社会保険料の納付証明もないので、雇用関係を確認することができず、労災認定や治療や補償に困難をきたしている。

2017年、桑植市、耒陽市、汨羅市では塵肺症を発症したりその疑いがある労働者が次々とでてきた。わかっているだけでも桑植市で300人余り、耒陽市で200人余り、汨羅市で30人余りに達している。すでに塵肺が原因で亡くなった労働者もいる。こうしたことから、2018年1月から、三地域の労働者が続けて深センにやってきて、深セン市当局が雇用関係を証明し、治療費や生活補助を求めた。しかし深セン市と湖南省の両当局は、労働者らの補償を求める動きを分断、恫喝、弾圧した。2018年11月初め、三地域の労働者約300人が「治療を!生活を!」「深セン市の不作為(を許さない)!」などのスローガンを叫びながら、深セン市政府の前で座り込み、責任者との対話を訴えた。しかし警察は刺激性の液体を労働者らに向
けて発射。労働者らが自殺覚悟でビルに上ろうとしたときになってやっと深セン市の厚生労働局や市政府の責任者が姿を現して労働者と協議をはじめた。

塵肺労働者の闘いによって、深セン市政府は湖南省政府に対して3億元の賠償を一括で支払い、湖南省が責任をもって塵肺労働者の補償を実施するよう委託した。しかし年が明けた2019年1月になっても、三地域の労働者の医療費手当や生活補償は全額が支給されなかった。あわせて湖南省当局は、労働者に対する監視を強め、かれらが北京や深センに行くこと妨害した。深セン市当局は1月7日に、深センに補償を求めにやってきた湖南省桑植市の労働者ら全員を故郷に送り返した。そして1月8日と3月20日に、それまで湖南の塵肺労働者を支援してきた楊鄭君(包子)、危志立(小危険)、柯成兵(老木)を拘束した。

楊鄭君、危志立、柯成兵はともに労働関連の情報を掲載してきた自主メディア「新生代」の編集員であった。「新生代」ウェブサイトは労働者をテーマにして、労働者の声を紹介することを趣旨とし、労働者の争議経験を共有し、労働者の争議情報のプラットフォームとして、労働者や社会分析に関するニュースを収集して提供すること、そして世論に対して労働者に関する議題を提唱してきた。楊、危、柯の三人は深セン坪山警察が市を跨いで広州市までやってきた逮捕された。現在、3人はともに深セン市第二看守所に勾留されている。