カテゴリー別アーカイブ: 会員から

12月11日「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」開かれる

「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」

                報告:高幣真公(日中労交会員)

 12月11日、東京お茶の水の韓国YMCA会館ホールで「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」が開かれ、約100名が参加した。


 冒頭、司会者から南京大虐殺記念からの今年の現地の式典で読み上げられる「平和宣言」(写真2)が紹介された。

「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」

続いて、会の主催団体「ノーモア南京東京の会」代表の田中宏さんが「日本人は過去の日本人が犯した重大な犯罪行為=南京大虐殺事件を決して忘れてはならない」と挨拶した。つづいて、南京大虐殺犠牲者の複数の生存者の証言ビデオが約20分間、上映された。

「ノーモア南京東京の会」代表の田中宏さん
「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」


 次に、東京都の高校歴史科元教諭某さんは、本年4月27日の閣議決定は、1993年の「慰安婦関係調査結果に関する河野内閣官房長官談話」(「歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい」)を否定した。また、文科省の歴史教科書の検定基準の改悪と新科目「歴史総合」の創設の意図などが解説された。

林伯燿さんが「南京特務機関と満鉄調査部―侵略戦争を裏で支えた謀略の先兵たち<概略>」
林伯燿さん

 最後に在日華僑で長く中国人へ侵略と暴虐を告発し続けてきている林伯燿さんが「南京特務機関と満鉄調査部―侵略戦争を裏で支えた謀略の先兵たち<概略>」と題する講演を1時間強にわたり行った。筆者はその講演の内容を要約することができないので、最も重要と思う冒頭の段落と結語を抜粋して報告に代えたい。

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関東大震災中国人受難者追悼の午後(9/5)

 「関東大震災中国人受難者追悼の午後」が9月5日、東京の江東区東大島文化センターで開かれました。コロナ対策のため40名までの予約制、オンライン併用で行われましたが、当日参加が多く、急遽、第二会場を設定しての開催でした。
 関東大震災で朝鮮人が虐殺されたことは知られていますが、700人以上の中国人が虐殺されたことはあまり知られていません。会場の江東区東大島文化センターは、中国人約300人が虐殺された場所に建てられた施設ですが、虐殺があったことを記す碑も説明文もありません。
 第一部は「中国人受難者追悼式」でした。主催者を代表して田中宏(一橋大学名誉教授)さんが挨拶をした後、関東大地震被屠殺華工温州遺族会が作成したビデオが上映され、犠牲者の名前が一人ひとり読み上げられました。留日学生救国団、僑日共済会のリーダーで虐殺された王希天さんの孫の王旗さんのメッセージが読み上げられました。また、温州ならびに福清の遺族とオンラインで結び、挨拶を受けました。中村まさ子(江東区議会議員)さんと吉池(アジアフォーラム横浜)さんがあいさつしました。

林伯耀さん

 第二部は「関東大震災における中国人虐殺を考える集い」でした。林伯耀さんが「震災当時の中国人労働者排斥の動き」と題して講演しました。「江東区大島町で400人以上の中国人が虐殺された大島事件は、民族排外主義にもとづく中国人への憎悪と敵愾心を根底に、アジア制覇を目指す帝国主義国家日本の体制と威信を保持(治安維持)するために、日本人労働者の自己保身のために、中国人労働者の殲滅を狙った日本の軍・警察・労働者による集団虐殺事件であった」と述べました。大島町事件と同様の事件は神奈川県でもあったこと、1920年代に中国人労働者の排斥運動があったことを資料にもとづき説明しました。
 閉会のあいさつを内海愛子さんが行い「中身の濃い集会でした。それをいかに若い人に繋いでいくのか、もっと工夫しなければなりません」と訴えました。
 第三部は「王希天さん追悼会」でした。逆井橋のたもとで、追悼が行われました。

<報告・写真:伊藤彰信>

辰巳知二氏の講演「最近の米中関係と日本の中国政策」

特別講演「米中対立と日本の対中国政策」の講演を聞いて ~今こそ「日中不再戦の誓い」の実践を~

辰巳知二(共同通信前北京総局長)
辰巳知二さん(共同通信前北京総局長)

  藤村 妙子 ( 日中労交事務局長 )

 5月15日日中労交の総会があり、そこで共同通信の辰巳知二氏の講演を聞いた。私は、彼が自己紹介の中で、1984年中国建国35年の式典に3000人の日中友好青年交流団の一員として訪中したことや新聞記者になってからは約10年間中国に駐在していたことを聞いて、様々な経験の一端をお話していただけると思いながら耳を傾けた。
 中国は今世界的に大きな影響力を持つ国になっている。私は、訪中するたびに大きく変わっていく中国の姿を目の当たりにしてきた。たぶん辰巳さんもこうした中国の姿を新聞記者として冷静に分析しながら過ごしていたのだろうという事を講演の中で感じた。

 米中対立の中で

 私がとりわけ印象に残っているのは次のことである。20世紀から21世紀に世界が大きく転換していく中で、1999年中国はWTOに加盟し中国の政治・経済も変わっていったこと。中国政府は、2018年「『世界が移り変わる過渡的な国際情勢の変化の法則を深く分析し、歴史の転換期における外部環境の基本的特徴を把握しなければならない』とし、[新時代の中国の特色ある社会主義外交思想]と外交を格上げ。 『①世界の多極化が加速している状況把握だけではなく、大国関係が調整局面にさしかかっていることも重視すべきだ。 ②経済グローバル化の持続的発展の状況把握だけではなく、世界経済における大きな変化の動向も重視すべきだ。 ③国際環境の安定した状況の把握だけではなく、国際的な安全保障面での課題が物事を複雑にしている局面を重視すべきだ。 ④各種の文化や交流がお互いの鑑になっている状況把握だけではなく、違った思想や文化がお互いに刺激し合っている現実も重視すべきだ』」という中国政府の外交方針の説明があった。
 一方バイデン政権は施政方針演説の中で「21世紀を勝ち抜くために中国や他の国々と競争している。歴史の変曲点にある。21世紀を勝ち抜くための世界との競争があることを忘れてはならない。中国の習近平国家主席は、最も重要な国になるために懸命に なっている。専制主義者たちは、この21世紀、民主主義は専制政治と競い得ないと考えている。合意に時間がかかり過ぎるからだ。中国の習近平国家主席には競争を歓迎し、対立は望まないと伝えた。全面的に米国の利益を守ることも明確にした。インド太平洋で強力な軍事的プレゼンスを維持すること、人権と基本的自由、同盟国への関与をやめないということも伝えた。   私たちの憲法は「われら国民は」という言葉で始まる。「われら国民」は政府であり、あなたや私だ。皆が各自の役割を果たす。専制主義が未来を勝ち取ることはない。勝つのは米国だ。」と語っていると紹介された。

 米中対立の中での日本

 今、このように米国との政治・経済的な対立や摩擦も激しくなってきている。こうした中で日本は、どのような態度をとるのだろうかと私はとても興味を持っていた。というのも私たちのささやかな民間交流に比べて日本の経済界が行っている経済交流は数段の規模で行われていることを新聞報道などで知っていたからだ。
 巨大な隣国に利害関係がある日本がどのような態度をとるのかは、とても興味深いことだった。しかし、先日行われた日米共同声明の内容は、「新たな時代における日米グローバル・パートナーシップ」として「今日、日本と米国は、インド太平洋地域、そして世界全体の平和と安全の礎となった日米同盟を新たにする。」「海が日米両国を隔てているが、自由、民主主義、人権、法の支配、国際法、多国間主義、自由で公正な経済秩序を含む普遍的価値及び共通の原則に対するコミットメントが両国を結び付けている。」「我々は共に、日米両国は、主権及び領土一体性を尊重するとともに、平和的な紛争解決及び威圧への反対にコミットしている。日米両国は、国連海洋法条約に記されている航行及び上空飛行の自由を含む、海洋における共通の規範を推進する。日本は同盟及び地域の安全保障を一層強化するために自らの防衛力を強化することを決意した。米国は、核を含むあらゆる種類の米国の能力を用いた日米安全保障条約の下での日本の防衛に対する揺るぎない支持を改めて表明した。」「米国はまた、日米安全保障条約第5条が尖閣諸島に適用されることを再確認した。日米両国は共に、尖閣諸島に対する日本の施政を損おうとするいかなる一方的な行動にも反対する」そして、一つの中国を掲げる中国政府に対抗するかのように「日米両国は、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調するとともに、両岸問題の平和的解決を促す。」などの説明を聞きアジア太平洋地域の平和を脅かすような内容だったと再確認した。現実的な日本とアメリカの関係、そして日本と中国との関係は、依然として政治・経済的に切り離すことができない関係のように思う。まるで米・中両国が世界支配を巡って綱引きをしているようにも感じる。こうした中で武力による決着を付けさせることに私たちはあくまでも反対していかなければならないと思う。

日中友好の指針

 私は、こうした中でこれからの友好交流をどのように行っていくのかを考えざるを得なかった。講演の中で引用された「日中関係史」をまとめたエズラ・ヴォーゲル氏の言葉「日中関係における感情的対立のほとんどが、歴史認識に深く根ざしたものである。両国が歴史から生じる不安定な感情に対処しないかぎり、日中関係をより強固で安定した土台の上に確立することは難しかろう」という言葉はとても大切だと思った。何の政治的な哲学もない菅政権が米国のペースに巻き込まれる可能性があり、日本が軍事拡大に向かおうとしている中だからこそ史実をしっかりと捉えることは大切なことだと思った。
 南京の侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館に私たちが建てた市川誠初代会長の「誓い」の碑文は「日本軍国主義の中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止し得なかったことを深く反省し・・・われわれは、日中不再戦、反覇権の決意を堅持し、子々孫々、世々代々にわたる両国労働者階級の友好発展を強化し、アジアと世界の平和を確立するために、団結して奮闘することをあらたに誓います。」とある。今、このような時代だからこそこの碑の意義とこの碑文の実践を進めなければと講演を聞いて思いを新たにした。

辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより
辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより
辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより
辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより
辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより
辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより
辰巳知二「最近の米中関係と日本の中国政策」レジュメより

差別排外主義を煽る社会を断つ―関東大震災97周年中国人受難者追悼集会

関東大震災97周年中国人受難者追悼集会(9月6日、江東区東大島文化センター)
関東大震災97周年中国人受難者追悼集会(9月6日、江東区東大島文化センター)

「関東大震災97周年中国人受難者追悼集会」が9月6日、江東区東大島文化センターで開かれました。主催は関東大震災中国人受難者を追悼する会です。今年はコロナ対策のため、参加者を40名に制限したため、参加をお断りした人がかなりいたそうです。また、例年、中国からご遺族の方が参加していましたが、今年は実現しませんでした。張玉彪(南京芸術学院教授)さんが描いた「東瀛大屠殺」(関東大震災中国人虐殺の図)が披露されました。

主催者を代表して田中宏があいさつのあと、中国人遺族からのメッセージが紹介されました。日本政府が、虐殺の事実を認め、謝罪し、賠償すること、紀念館の建設と教科書に記載することを要求しています。来賓として、地元の中村まさ子江東区議会議員があいさつしました。参加者が献花をし、追悼式は終了しました。

そのご、中国人虐殺を考える集いが開かれました。開会のあいさつに立った林伯耀さんは、関東大震災後、伯父さんが身の危険を感じ、親戚一同が警察に保護を求め、習志野の収容所にいたことを話しました。

張玉彪(南京芸術学院教授)さんが描いた「東瀛大屠殺」(関東大震災中国人虐殺の図)
張玉彪(南京芸術学院教授)さんが描いた「東瀛大屠殺」(関東大震災中国人虐殺の図)

事務局の木野村間一郎さんが「政府が扇動する排外主義とヘイト」と題して問題提起をしました。今、コロナで危機管理が問われ、自粛警察、感染者やその家族などへの差別が問題になっている。関東大震災の際、朝鮮人・中国人を虐殺したのは、流言飛語に踊らされた日本人民衆であるといわれている。それは、差別意識が社会的に蔓延していたこと、その差別意識が虐殺に至らしめる社会構造が存在していたことが問題である。戒厳令、自警団の組織化、軍による情報操作が虐殺をもたらした疑う余地はない。当時、軍は総力戦を戦えるよう民衆を治安管理に動員する意図をもって、在郷軍人会、警察、町会、青年団などの組織化をすすめていた。後方を固めなければ、前方で戦闘はできないのである。米騒動や大正デモクラシーの人権意識、民衆運動の高まりが、関東大震災を契機に治安維持法、軍国主義の流れになり、社会運動、労働運動が弾圧され、南京大虐殺につながる侵略の道になる。コロナ対策では政府の言う通りみんなが自粛した。支配権力への同調や強権的政治への願望の意識が、排外主義的差別意識と同様に恐ろしい。木野村さんの話は、関東大震災をとおして、コロナ時代の危機管理体制のあり方を問う内容でした。

閉会のあいさつを内海愛子さんが行い「追悼式を行い、私たちの問題意識を積み上げ、それをいかに若い人に繋いでいくことが課題です」と訴えました。

(報告・写真:伊藤彰信)

内田雅敏弁護士が「元徴用工 和解への道―戦時被害と個人請求権」を出版

 日中労働情報フォーラムの会員でもある内田雅敏弁護士が本を書きました。
「元徴用工 和解への道―戦時被害と個人請求権」ちくま新書、880円+税です。

内田雅敏弁護士
内田雅敏弁護士


 「韓国人元徴用工問題を解決済とする日本政府。一方で元徴用工が補償を求める個人請求権が存在することも認めている。彼らの訴えに耳を傾けることが、戦後75年間、民間人の空襲被害や外国籍の人々への戦後補償を放棄してきた日本社会に問われているのではないか。著者は弁護士として中国人強制労働事件の和解交渉にかかわった経験を踏まえ、元徴用工問題和解への道を探る。」(カバーのそで)

「元徴用工 和解への道―戦時被害と個人請求権」


 内田弁護士は、本書に特徴があるとすればと「1、同種の中国人強制連行・強制労働問題における和解事例を参考にしながら元徴用工問題の解決を模索、2、和解、勝訴判決、付言、など、被害者に向き合った裁判官たちの心情、及びその後の和解事業への参加による感慨、3、和解に応じた企業のトップ、担当者らの思い。」の3点あげています。また、「被害者への謝罪と和解金のお届け、追悼、という和解事業の実践の中で、判決がうまくいかないから和解ではなく、歴史問題の解決は和解こそふさわしいということを実感してきました。歴史問題の解決は安全保障にも資するということも含めてです。」と言っています。
 私たちは、内田弁護士から中国人強制連行裁判の経過などを教わってきましたが、先生がこの間発表してきた内容をまとめた本と言えます。先生も「ある意味、45年間の弁護士生活のまとめのようなもです。」と言っています。
 和解なくして友好は築けません。私たちの活動も「日中不再戦誓い」をもとに和解と友好の内実を探る活動です。会員の皆さんにおすすめの一冊です。

伊藤 彰信(日中労働情報フォーラム代表)

「アジア言語文化研究」創刊号(2019/6)が発行

「アジア言語文化研究」創刊号(2019/6)の表紙
「アジア言語文化研究」創刊号(2019/6)の表紙

 3月19日のシンポジウムで南京師範大学の林敏潔教授にお会いした時、「アジア言語文化研究」創刊号(2019/6)をいただきました。昨年6月、南京でお会いした時は、印刷中ということでしたが、今回いただいた本は刷り上がったばかりの第2版でした。
 内容は、林先生がテーマにしている「日本民間反戦記憶に関する多分野研究」を 特集したものです。中国の研究者や学生が、日本の反戦文学、漫画、映画に関する研究について発表しています。ページをめくると、中国語の論文と日本語の論文が混在するものでした。どのような論文なのか、皆さんに紹介するため、取り急ぎ目次を整理してみました。

伊藤 彰信

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新たな交流の始まりを感じた ~南京市を訪問して~

藤村 妙子 (訪問団秘書長)

 今年も12月13日の「南京大虐殺犠牲者国家公祭」を中心に12月11日~15日南京市を訪問した。

 12月11日上海浦東空港で通訳の中国職工対外交流センターの李晶宇技術経済交流処副部長と再会した。バスに乗ると南京市総工会の付光宇さんから「日中労働者交流協会平和友好訪問団 ご案内のパンフレット」を手渡された。パンフレットまで用意して私たちを待っていてくれていたことを知り、改めて来てよかったと思った。今回の訪問団は伊藤彰信日中労働者交流協会会長(全港湾元委員長)を団長に70歳台から20歳台までの多彩な10名だった。今回は12日の訪問先についてのレポートをしたい。

 新たな街づくり

 12日は南京市南東部、市中心部から32キロにある溧水区(りすいく)の経済開発区に行った。開発区は昔、畑や草原だった所とのことだった。南京禄口(ろくこう)国際空港に隣接している面積138㎢、現在開発中であるが将来は60万人の都市にする予定であるという。大田区は面積約60㎢に約66万人が居住しているから二倍の面積に同じくらいの人が暮らす予定だということになる。大田区も羽田空港に隣接しているので何となく話を聞きながら比較してしまった。ここに作られる新しい町の居住区の地図を観ながら田園調布の街を連想していた。もしかしたら田園調布を作った人たちが夢想したのもこのような街だったのかもしれない。規模は小さいが、田園調布も駅を作り、道路を整備し、街路樹を植え、公園を作っていた。

また、街づくりの重要なポイント生活インフラの上水・下水設備、エネルギー(電気・ガス)、ごみ処理の事などがほとんど説明されていないことが気になったので質問してみた。水は揚子江から引き、下水は共同溝において水処理をしているとのこと。発電は揚子江の三峡ダムの発電によること。ゴミ処理は、現在の中国の最重要環境課題となっているとのことだった。分別収集と再利用や処理の際のエネルギーの活用などこれから日本などに学びながら行いたいとのことだった。私は、次回は是非そうした生活インフラの見学をできれば水道や清掃で働く人たちを訪中団に加えて行ってみたいと思った。

 新たな産業

 この経済開発区には、新エネルギー企業の産業用電気自動車工場が集まっている。その一つである「Skywell 新エネルギー自動車集団有限公司」に行った。2000年に黄宏生氏が設立した私企業である。同社は大型電気エネルギーバスの製造が主力で現在では5Gを使った電気自動車を開発中ということだった。

 ここでは、バスやワゴン車を製造している現場を見た。日本の有名自動車工場のようにオートメーション化されていないで、何人かがバスや自動車を取り囲み作業をしていた。何となく大田区の町工場の現場のようでとても親しみが持てた。機械化され無人化された中を自動車がつるされながら動きロボットが作業し、所々にいる労働者が機械のスイッチを押しているような工場ではなく、皆で語り合いながら共に力を出し製品を仕上げていく。こうした働き方は効率が悪いかもしれないが、技術を伝承し切磋琢磨し合える本当の働く姿があるような気がした。見学後使用者の人と労働組合の人とミーティングを行った。労働組合には従業員が全員加盟している。労組法に基づいて労働協約を結んでいて、この協約がしっかり実施されているかを一年に一度会社は報告している。儲かったときには、管理者には利益配当を行い、労働者には特別給を支給したとのことだった。南京市模範労働組合であり、南京市人民代表委員にこの工場の組合から一人推薦されているとのことだった。亡くなった人や病気になった人に寄付金を払っているとのことだったが、日本のような企業内の共済制度があるのかが少し気になった。また、労働安全衛生委員会のような仕組みはないようであったが、従業員は危ないところや、改善すべきところをいつでもスマートフォンで写して会社に通報や提案できるとのことだった。

 労働組合の労働者救済事業

 続いて、南京市総工会職工服務サービスセンターに行った。この施設は2002年6月に設立された所である。失業した労働者や本人や家族が病気になり、困難を抱えた労働者が行政のサービスの他に緊急的、即応をするための施設であるとのことだった。労働組合のリーダーシップの下に行われているこの事業は「雇用のための国家先進作業単位」という称号が国務院から2012年授与された。主な内容は職業紹介、起業のためのサポートや資金の融資、起業のための職業訓練などが行われている。

 とても面白いと思ったのは労働組合の交渉力を高めるために「交渉力コンテスト」が全国的に行われていて、南京市のグループは第一位だったということだ。訪中団のほとんどのメンバーは労働組合の活動家で自分たちもコンテストをやってみたい。どういう問題が出るのか、だれか採点するのかと質問が集中した。問題はすぐにはわからないとのことだったが、採点しているのは労働法の学者や労働組合の顧問の人たちということだった。

 以上のように、侵略遺跡の見学だけではなく、現在中国の一端に触れ、交流できたことは、新たな友好・交流の第一歩を踏み出したと思う。今後も進めていきたい。

第7次「日中不再戦の誓いの旅」 ―「日中不再戦の誓いの碑」建立から10年、南京を友好訪問

伊藤彰信(訪中団団長)

 日中労交の第7次「日中不再戦の誓いの旅」は、12月11日に出発し、南京を訪問して15日に帰国しました。学生2名が参加し、平均年齢をぐっと下げた訪中団になりました。
 今年は、日中労交の市川誠初代会長が1985年に侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館が開館した時に贈った「鎮魂の時計」に刻んだ「誓い」を碑にして建立してから10年にあたります。訪中団は、南京大虐殺犠牲者追悼国家公祭に参加するとともに、電気自動車工場見学、職工サービスセンター訪問など、現場の労働者と交流してきました。
 訪中団は、団長=伊藤彰信(日中労交会長、元全港湾委員長)、副団長=松本耕三(日中労交副会長、前全港湾委員長)、秘書長=藤村妙子(日中労交事務局長、東京の満蒙開拓団を知る会共同代表)、団員=清水英宏(全国自治体労働運動研究会運営委員長)、渡部公一(前目黒区職労委員長)、池田和則(西日本NTT関連労組執行委員)、新崎盛吾(元新聞労連委員長)、吉本賢一(全港湾大阪支部執行委員)、相澤一朗(東洋大学4年)、猪股修平(東海大学4年)の10名です。
 以下、旅の経過と概要を簡単に報告します。

<12月11日>

 訪中団は、羽田、成田、関空から上海浦東空港に着きました。空港には中国職工対外交流センター経済技術交流部副部長の李晶宇さんが出迎えてくれました。バスで高鉄(新幹線)の上海虹橋駅に移動。昼食をとったあと、高鉄に乗って1時間13分で南京南駅につきました。駅には、江蘇省総工会弁公室科長の費震さん、南京市総工会弁公室の付光宇さんが出迎えてくれました。
 駅の近くで夕食をとり、ホテルに向かいました。ホテルは天豊大酒店。南京市中心部の新街口にある南京市総工会が経営する29階建てのホテルです。

<12月12日>

溧水経済開発区企画館で説明を受ける

 8時30分にホテルを出発し、1時間ほど離れた南京市溧水区に向かいました。
最初に溧水経済開発区企画館を見学しました。経済開発区は南京空港に隣接しており、新エネルギー車、空域産業、電子情報、スマート家電などの産業が集まっています。
 続いて開沃(スカイウエル)新能源汽車集団有限公司の工場を見学しました。新能源とは新エネルギーのこと、汽車とはバスのことで大型電気バスの工場です。技術研究室、ボックスカーの組み立てライン、展示室を見学しました。組み立てラインは数人のグループが部品を取り付けていました。展示室には、大型電気バス、小型電気バス、無人自動車、最近開発した電気乗用車などが展示されていました。
 会議室では、会社のプロモーションビデオのあと、党書記で董事長助理の張威さんが説明をしてくださいました。会社は2000年に創立、2011年に再編して現在のグループになった。従業員は約4000人。自動車産業は成長産業であったが、最近は下降している。しかし、当社は労働条件を維持して経営している。従業員は全員、工会(労働組合)の組合員であり、労働協約を結んでいる。苦情は工会の関与の下で調停して解決している。スポーツやイベントの福利厚生に従業員が参加している。貧しい人、病気の人など困難な家庭への手当や見舞金を支給している。
 溧水賓館で溧水区総工会の幹部を交えて昼食をとりました。話題は、新しく開発された溧水区のこと。50万人の都市をめざすという開発計画、エネルギー、水利、自動交通、公園、ごみ処理など都市計画について話が弾みました。

南京職工服務中心の料理教室

 午後は、市内に戻って南京市総工会の職工服務中心(労働者サービスセンター)を訪問しました。センターは2002年に設立され、32人の職員が5つの部門で仕事をしています。①職業訓練、②起業への貸付、③職業紹介、④困難な労働者の生活支援、⑤インターネットを活用した包摂的なサービスの5部門です。行政が行っている就業と社会保障サービスなどと違い、工会の場合は突然困った状況におかれた労働者の緊急支援のためのプラットフォーム的な事業団体です。1階の相談窓口を案内された後、2階の教室を案内されましたが、起業をめざす人たちを対象にした料理教室が開かれていました。
 案内してくれた南京市総工会副主席の劉輝さんの司会で、センターの熊載璽さんを交えて交流が行われました。労働組合としてこのような活動に取り組んでいることに感心しました。団体交渉指導員の教室もあり、交渉委員を養成しているとのことでした。

 夕方からは、江蘇省総工会と交流しました。
 張柯副主席候補が、江蘇省の状況と江蘇省総工会の活動について説明してくださいました。総工会の役目として、①労働者の合法的な権益を守ること、②国の建設に労働者を動員すること、③労働者を代表して国の社会づくりに参加すること、④労働者の文化、思想活動をおこなうことです。要するに労働者の権益を守り、労働者にサービスを提供することです。
 労働と経済工作部の董雷副部長が、①労働者の経済的地位の向上のための模範労働者の表彰、②効率、革新、安全、環境保全などの技能競技大会、③労働者保護のための安全教育、危険個所の指摘などの安全健康活動、④産業労働者のチームづくりなどについて説明しました。
 教育科学技術工会の陳副主席から同工会の活動について説明がありました。
 訪中団を代表して伊藤団長が、「日中不再戦の誓いの碑」を南京紀念館に建てる際にお世話になったことにお礼を述べ、「誓い」を実現するために、安倍政権が中国敵視を煽りながら戦争する国へ歩んでいることを阻止し、両国労働者階級の友好発展を発展させることが世界の平和を築く上で重要だとあいさつしました。(あいさつ文参照
 夜は、江蘇省総工会の朱勁鬆党組書記副主席が主催する歓迎宴が開かれました。北京から中国職工対外交流センターの彭勇秘書長、何際霞技術経済交流部部長も駆けつけてくださり、盛大な宴会となりました。

<12月13日>

南京大虐殺受難者追悼国家公祭

 南京大虐殺受難者追悼国家公祭に参加するため、8時にホテルを出発し、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館に向かいました。松岡環さんの銘心会の皆さんと同じバスです。国家公祭には、彭勇秘書長、何際霞部長、張柯副主席も一緒に参加しました。前から4列目、私の隣は旅日華僑中日交流促進会の林伯耀さんでした。
 国家公祭のあと、彭勇秘書長、何際霞部長と一緒に食事をとりました。午後、ホテルで休憩した後、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館を見学しました。偶然、南京師範大学の林敏潔教授にお会いしました。日本語学科の生徒たちが日本人の団体の案内をしていました。
 17時30分からキャンドル祭に参加しました。急いで夕食をとって、19時30分から創作オペラ「ラーベ日記」を鑑賞しました。この日初めて上演されたもので、南京安全区国際委員会の委員長を務めたジョン・ラーベをはじめ、ミニー・ヴォートリン、ジョン・マギーたちの南京市民を守る活躍を描いた作品です。

<12月14日>

 午前中、2015年12月にオープンした利済巷慰安所旧址陳列館を見学しました。中国各地の慰安所、日本、アジアの慰安所の資料が展示されています。南京での虐殺、強姦を契機に慰安所が軍の管理下に置かれるようになり、強制的に女性が連れてこられるようになっていく経緯が分かるようになっています。
 午後は、長江ほとりの南京大虐殺遭難者中山港記念碑を訪れました。また、1968年に中国独自の技術で完成した自力更生の象徴である長江大橋を見学しました。夕方、ホテル近くのスーパーで買い物をしました。
 夜は、南京市総工会の孫強党組書記常務副主席が主催する歓送宴が開かれました。ポケトークのような中国製の音声翻訳機を使って会話が弾み、楽しい夜となりました。

南京市総工会主催の歓送会

<12月15日>

 南京駅から上海まで高速鉄道を利用し、上海虹橋駅から浦東空港まで車で移動しました。浦東空港で昼食をとったあと、夕方の便で羽田、成田、関空へと飛び立ちました。
 江蘇省総工会の費震さん、南京市総工会の付光宇さん、通訳として全行程を同行してくださった李晶宇さんには大変お世話になりました。

南京市を訪問して―藤村 妙子改めて戦争しない決意を新たに―渡部公一

中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い (11月19日)

2019年10月31日

村山首相談話の会の諸活動でお世話になっております皆さまへ

村山首相談話の会・理事長 藤田高景

連日のご奮闘に心から敬意を表します。
 さて、来たる11月19日(火)午前9時から、東京都港区の「芝公園23号地」で、「第2回・中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い」(詳細は添付のチラシをご参照下さい) を開催いたします。
 中国から遺族・幸存者・宗教者ら50名も来日し、参加されます。
 皆さま方のご出席をお待ちしております。

●なお、本集会開催の趣旨は下記の通りです。
 第二次世界大戦末期、日本は国内の労働力を補うために、4万人に近い中国人を大陸から強制連行して、全国135カ所の鉱山や港などで奴隷労働を強制し、酷い待遇と虐待で多くの中国人が異国他郷で亡くなりました。
 今年は、中国から日本に強制連行されて殉難した中国人の遺骨が、秋田県岡
で発掘されて(1949年8月)から、丁度70年目に当たります。
 戦後、日本政府が作成した「外務省報告書」によれば、日本に強制連行されて亡くなった中国人の数は6830名に上ります(実数はこれより遙かに多い)。戦後、在日華僑、在日朝鮮人、宗教界、友好団体、労働組合などが中心となって進めた遺骨送還運動によって、当時は国交未回復という状況の中にもかかわらず、多くの困難を克服しながら、計2300体余の遺骨が中国に送還されました。故周恩来総理は、日本から来た遺骨捧持代表団を北京に招き、その友好と人道の精神を賞賛しました。現在、これらの遺骨は2006年に新たに建設された天津の在日殉難烈士・労工紀念館に、日本軍国主義の中国侵略の鉄証として大切に保管されています。
 しかし、なお多くの遺骨がこの日本の山野に埋もれたままになっています。
 この為、2009年の第一回慰霊法要に引き続き、今回、中国より約50名の御遺族をお招きし、中国人俘虜殉難者の為の日中合同追悼の集いを開催する事となりました。多くの日本の皆さんのご参加をお待ちしております。
(なお、当日は、午前9時から会場で追悼の6830足の靴並べを行ないます。中国から来られたご遺族とともに、日本の市民の皆さんもご一緒に追悼の意味をこめて靴並べを行ないたいと思いますので、早朝で恐縮ですが、当日は、午前9時までに芝公園23中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い号地に御集合いただきますようお願いいたします。)

          記

主催:中国人俘虜殉難者日中合同慰霊実行委員会

共同代表:田中宏(一橋大学名誉教授)
     内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授) 
     林康治(熊本華僑華人総会名誉会長)

後援:中華人民共和国駐日本国大使館  
   真宗大谷派運行寺(なつめ寺)
   公益社団法人日本中国友好協会(会長 丹羽宇 一郎)
   中日合同慰霊法要旅日華僑協賛会
   南京大虐殺60ヵ年全国連絡会、 
   山谷労働者の会、 他

協力:村山首相談話を継承し発展させる会(理事長:藤田高景)

会場:芝公園23号地(港区芝公園3の4)
    都営三田線「御成門」徒歩5分
    都営浅草線、大江戸線「大門」徒歩8分
    JR「浜松町」徒歩12分

●お願い……「当日の配布資料」や「追悼の生花」の調達・準備のため、ご出席いただける方は、恐縮ですが11月12日までに、下記のメールアドレスまたは携帯に、ご連絡を、お願いいたします。
 E-mail  murayamadanwa1995@ybb.ne.jp
 携帯 090-8808-5000(藤田高景)

第6次「日中不再戦の誓いの旅」に参加しました ―  町田貞一

町田貞一(東京東部労組ディベンロイ労組支部委員長)

北京市内は緑が多い

中国訪問は初めてでした。北京空港について初めに感じたことは、空港そのものが広いことでした。異動はマイクロバスでした。北京市内に向かうにつき驚いたことは、第一に、緑が多いことです。どこまで行っても高速道路の両脇は大木でおおわれていました。北京中心部に来ても緑の多さは変わりありませんでした。ギンドロという街路樹だそうです。遠くから見ると記の表面が白く一見白樺の木のようにも見えます。葉っぱはポプラのようにも見えます。今回訪問した各都市にはこの木が大変多く植えられていることを見ました。

北京市内の車の渋滞
北京市内の車の渋滞(8/19)

 次に感じたことは、車が多いことでした。空港を出たときはそれほどでもなかったのですが、北京の中心部に近づくと車の渋滞にはまり、動きは鈍くなっていました。一般道路でも車の渋滞はひどく、各都市中心部ではどこも渋滞していました。

やたら高層住宅とビルが多い

次に気づいたのは、バイクが多いことでした。しかも、電動バイクです。免許証も、ナンバーもいらないということで、大変多くが走っていて、市民の足としての役割を果たしている感じがしました。以前映像で見た中国は自転車の行列でしたが、今はレンタル自転車が至る所にあるが、圧倒的に電動バイクが多いのに感心しました。又、電動三輪車もあり簡単に乗り出すことが出来るようです。

高層ビルが並ぶ瀋陽の街並み
高層ビルが並ぶ瀋陽の街並み

 次の感じたことは、やたら高層住宅、高層ビルが多いことです。空港を離れると高層ビルがあちこちに立っていて、昔見た中国の光景とは結びつきませんでした。今回通訳とツアーの案内をしてくれた李さんは3LDKの130平米に住んでいるそうです。日本の住宅の平均の2倍近くあり非常に羨ましいことだと感じました。この高層ビルが、私たちが訪問した各都市に次々と建設されています。内需の巨大さに驚きました。どの都市に行っても高層ビルが10や20は建設途中のものがあり、これからもどんどん建設されていくさまが見て取れました。

住民を残らず殺しまくった痕跡

撫順炭鉱の露天掘り
撫順炭鉱の露天掘り

 さて肝心の旅の感想ですが、本では知っていましたが、日本が戦前中国に何をしたかということを、見てきました。それは虐殺の連続だと感じました。日本は明治以来天然資源を奪うため中国のその地に住んでいる住民を残らず殺しまくった痕跡が、いまもはっきりと形として残っています。日本ではよく知られています撫順炭鉱近くの平頂山の住民の大虐殺だと思います。私は、あっても1カ所か2か所ぐらいかと思っていましたが、中国の資料では、至る所に大量虐殺の跡がある事を知りました。撫順に次ぐ規模の炭鉱の阜新炭鉱でも万人坑があると、瀋陽の方から紹介されたときには、びっくりしました。阜新炭鉱そのものを知らないし、想像もできませんでした。

1894年旅順占領が侵略と虐殺の始まり

 旅順の203高地は日本人にはよく知られていますが、旅順の萬忠墓記念館は日本人には知られていない模様です。私も知りませんでした。1894年旅順を占領し、百姓の家を捜索し、女性、子供、老人、あった人全員を殺しました。侵略と虐殺の始まりです。日本の記者は書いています。「市内には日本兵ばかりだ。死体の他に支那人が見つからない。ここの支那人は殆ど絶滅した。」(日本「中央新聞」1894,12,27)と。白髪の老女から子供までが暴行されて殺されたとあります。見るに堪えがたい写真です。

侵華日軍731部隊罪証陳列館の前で
侵華日軍731部隊罪証陳列館の前で

哈爾濱では侵華日軍731部隊罪証陳列館、瀋陽では9,18事変陳列館、撫順戦犯管理所、平頂山惨案遺跡記念館、大連では大連現代博物館を見学してきました。どれも、日本の歴史を学ぶ上で重要な施設と展示であったと思います。

軍国主義の戦争なのか、納得がいかない

 私たちは軍国主義が悪かったから戦争になった、と思い込んでいます。軍国主義の戦争だと思い込んでいます。そのことに、私には今ひとつ納得がいかないのです。江戸幕府が終わり、明治になってイキナリ軍国主義になったのか?不思議でなしませんでした。1870年代(明治)、1910年代(大正)にかけて資本の発展があったことがあり、その行き着いた先に資本と軍が結びついた戦争があったのだと思いましたが、今回、資本と軍が一体的に中国の資源を奪いに行ったことがハッキリしました。1872年(明治5年)には日本の鉄道は開業しています。当然石炭は鉄道にも使われるし、工場動力としても、蒸気のエネルギーとしても必要であった。この年は富岡製糸工場も出来ています。ですから、100年以上も露天掘りをしている撫順炭鉱が欲しかったことは想像がつきます。だからと言って農民、住民を虐殺して奪ってきていいとは思いません。

哈爾濱から瀋陽まで約600キロ大平原の穀倉地帯

ハルピンから瀋陽へ・新幹線の速度計は304キロを示す
ハルピンから瀋陽へ・新幹線の速度計は304キロを示す

もう一つ哈爾濱から瀋陽に新幹線で移動しました。その移動の間中無限に広がる畑が見えました。穀倉地帯であることが分かりました。北部はトウモロコシ畑、南に降りてくると水田が多くなりました。見渡す限り畑のみどりです。小さな畑を耕し苦労している日本人なら広大に広い穀倉地帯が無限に広がっているように見えても不思議ではない光景でした。満州の満鉄が奪った石炭を運び、穀物を運んだことは想像がつきます。新幹線で哈爾濱から瀋陽まで、時速300キロでノンストップなら2時間、約600キロ大平原の穀倉地帯。日本の本州を超える広さの平原で穀倉地帯。想像をはるかに超えていました。広大です。だから積出港としての旅順が最初に攻撃されたのです。

 1868年明治になったその年もコメは不作で飢饉でした。この年も食糧難で多くの日本人は海外に移民を始めていました。明治政府は海外から大量の製糸機械や、蒸気機関車など買いあさり、代金を支払うため農民により重税を敷いていったのです。日本国内は数年おきに不作、冷害が繰り返され農民は娘や妻を売らざるを得ませんでした。農村を破壊し工場労働者を奴隷のようにこき使うことが、1800年代の工業化を支えました。工業化は発展してきたが、農村の疲弊は激しくコメの不作、冷害、基金は工業製品を消費できませんでした。そこで目を向けたのが満州であった。市場として、そして、資源の供給地、食料の供給地としての満州が日本の生命線としていった。資本が作り出したプロパガンダです。

過去に学び同じ過ちを繰り返さない

実際やったことを中国東北部を見てくることで、日本がここでやったこと、そしていまだにその責任を1つもとっていないことに非常に怒りを覚えます。それどころか過去のことはなかったことにしようとの政府の姿勢が許せません。すべてを認めたところから出発するしかないのに、1つも認めようとしない政府と、一部の日本人は、過去に学ばなければ取り返しのつかないことを繰り返してしまいます。過去に学び同じ過ちを繰り返さないようにしたい。

左から池田和則さん、町田貞一さん、津和崇さんの団員3名
左から池田和則さん、町田貞一さん、津和崇さんの団員3名

 掲載写真はすべて津和崇さんが撮影