日本の侵略の実相を観て考えた ~「日中不再戦の誓の旅」に参加して~ 藤村妙子

1932年の傀儡政府「満州国」の「成立」から85年、盧溝橋事件・南京大虐殺から80年そして日中国交回復から45年の今年、7月25日~30日中国へ行った。主な訪問地は、北京、中国東北部である旧満州のハルピン、瀋陽、撫順、大連。この旅は日本が行った侵略の実相を観て回る旅だった。

北京

まず、25日中国における私たちの受け入れ団体である中国の労働組合の全国組織「中国総工会」の下にある「中国職工対外交流センター」を訪問した。ここで、今回の旅の目的や訪問団の自己紹介などを行った。私からは共同執筆した「東京満蒙開拓団」を書いた動機や主な内容について話をした。北京の街は車があふれ、高層ビルが立ち並んでいた。この対外交流センターから派遣された李さんがこの訪問中の通訳をしてくれた。30代の日本滞在経験もあり、ユーモアと機知に富む青年だった。

ハルピン

 26日は、北京空港からハルピンまで飛行機で移動した。ハルピンでは、「731部隊罪証陳列館」を訪問した。30年くらい前東京南部でも「731部隊展」を行ったことがあり、概略は知ってはいたが、実際現地に立ち展示物を見てみると改めて日本の侵略の実相が胸に迫ってくる。細菌に感染させ解剖する、屋外で細菌に感染させる実験をする、凍傷していく経過を観察するために風雪にさらし、手足を氷らせるなどおよそ人間の所業とは思えないことが「戦争遂行のため」という美名のもとに行われていた。1939年に起きたノモンハン事件(日本軍がソ連軍に大敗を喫した戦闘)が細菌戦の実戦実験をするという影の目的の下に行われていたことを知って、無謀ともいえるこの戦闘行為が日中戦争―アジア太平洋戦争の結末を暗示しているように思えた。功名心と思い上がりで現実が見えない、人間を人間と思わず「マルタ」と呼んで実験材料として虐殺する、731部隊を生み出し運営した中に侵略戦争の原点を見たような気がした。そして、戦後この「実験成果」がアメリカに渡り、実行責任者たちは戦争犯罪人として処断されることもなかった。731部隊の悪行は未だに続いていると思った。
ここの展示は、上記の実際に行われていた実験の展示も多かったが、この部隊がどのように作られ、どのようなことを行ったのか感情や視覚に訴えるだけではなく学術的に明らかにしようとしていて、説明もその点に重点化おかれているように思えた。史実を正確に伝えることを追及しているように思えた。

瀋陽

27日は高速鉄道に乗り瀋陽に向かった。瀋陽では「9.18事変記念館」へ行った。1904年の日露戦争(戦場は中国東北部だった)の戦果でロシアから遼東半島南端の大連・旅順などを含む「関東州」と長春-旅順間の鉄道とその周辺地の租借権を譲渡させた(「関東軍」とはこの地を支配した日本軍の名称)。ここから「満州は日本の生命線」となり、この地にあるすべての物を手に入れる野望が始まった。そして、1928年ここを支配する軍閥張作霖が日本のいうことを聞かないと列車ごと爆殺する(中国では張作霖の爆殺事件を「皇姑屯事件」と呼んでいる)、1931年9月18日に柳条湖付近の鉄路を爆破し(満州事変)、これを中国の仕業とでっち上げ、瞬く間中国東北部を軍事占領し、32年には傀儡政権に「満州国建国」を宣言させた。この満州事変が起きた日を忘れないとしてこの記念館は作られた。1931年以前の前史も含め1945年の日本の敗戦(中国にとっては解放)までの歴史資料館でもある。夏休みということもあって大勢の家族連れや子供たちが見学に訪れていた。侵略の実相とこれとの闘い、そして解放後の日本との国交回復など系統的に学べる歴史資料館である。日本にも沖縄や広島に優れた歴史資料館があるが、出来事の悲惨さを伝えるだけではなく、この現実を変えようとした闘い、闘い後の日本との関係など過去と現在をつなぐ展示があり、日本の過去の出来事を伝えるだけの展示とは違う気概を感じた。

撫順

28日は撫順へ行った。撫順の戦犯管理所では、日本人捕虜たちが当時の中国人の衣食住を超えた環境の中で自分たちが行った戦争犯罪と向き合い、自省し、一人の死刑者も出すことなく日本に戻ったこと。更に傀儡政権の頭目だった溥儀さえもここで暮らし、釈放後は普通の中国の市民として暮らしたという。先に訪れた「731部隊」とこの「戦犯収容所」の違いを考えた。一方は「マルタ」として人間を実験材料に使い、一方は人間として蘇らせる。私は以前、中国帰還者連絡会の方からこの自分が中国で行った所業について戦犯管理所で考えたことを聞いたことがある。そして、彼の思いと行動は帰国後の日本社会の中で中々受け入れなかったことも聞いた。実際に現場に立って彼の苦悩とそれを強いた日本社会のことを思うと、日本は中国侵略をはじめとした侵略戦争の歴史と向き合い、再び同じ過ちを繰り返さないということを心底から考え切れていないと改めて感じた。
続いて平頂山へ向かった。ここは、村人たちが抗日軍の通過を日本軍に連絡しなかった=村人はスパイであるとして、1932年9月16日村人3000人を皆殺しにした惨劇があった場所だ。記念館は現在改修中で特別に見学する事ができた。事件のあらましのパネルなどを見てから、殺され、燃やされ、埋められた人たちの遺骨を掘り返した当時のまま保管している展示場へ行った。言葉を失う光景が広がっていた。今まで生き、暮らしていた人が突然広場に集められ、次々に殺されていく。子どもをかばうようにしている姿がわかる骨、大きく口を開け何かを訴えているかのような骨、骨、骨。これを見て日本が行った侵略行為を否定できる人はいないだろう。「戦争だから仕方がなかった」ということでは決して許されない実相がそこにはあった。
最終日29日は、大連へ行き現在の中国の姿を満喫する市内見学を行い、30日の午前大連飛行場から帰国した。

藤村妙子(南部全労協事務局長、東京の満蒙開拓団を知る会共同代表)

<参考>
◇ 第3次「日中不再戦の誓いの旅」 北京、哈爾浜、瀋陽、撫順、大連を訪問 (伊藤彰信)
『はじめの一歩』ー第3次「日中不再戦の誓いの旅」に参加してー(伊藤光隆)