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南京国際平和通信第50号

2024/02/08 木曜日

南京国際平和通信第50号が送られてきました。中国の春節(旧正月)は明後日2月10日です。明日は大みそかです。


尊敬するご友人の皆様へ

 明日は「大年三十」と呼ぶ今年(うさぎの年)旧暦大晦日で、いよいよ旧暦新年を迎えることになります。
一年前を振り返って、コロナにみんなが苦しまれた最も大変な時期でした。
この一年は町全体が模索しながら少しずつ回復されましたが、コロナの記憶も少しずつ遠ざかったような気がします。
忘れたいですけど忘れられないでしょうか。
 一年を締めくくりとして国際平和通信50号の2023年12月国家追悼式の内容を送りいたします。
今までは決して順調とは言えませんが、この小さな通信を作り、そして送り続けたいと思います。
どうか皆様のご支持とごアドバイスを頂きたいです。
 今年(龍の年)もどうぞよろしくお願いいたします。

編集部

 50号ウェブ版:(メモリーオーバーの可能性があるので、パソコンで開けない恐れがあります。開けない場合は添付ファイルのPDFバージョンをご覧になってください)

50号ウエブ版

50号PDF版

50号目次案内:

■ 南京大虐殺犠牲者国家追悼式典が中国で開催
■ 国内外の参加者がロウソク祭・国際平和集会に参加
■ 57か国と地域の130の海外華僑団体が同時に平和集会を行う
■ 南京安全区ハイキング、「大いなる愛の道」を再び歩く
■ 先祖の供養、忘れぬ記憶のために

南京国際平和通信49号

2024/1/30 火曜日

尊敬するご友人の皆様へ
遅くなりましてすみません、今回は2023年11月分の49号を送付いたします。ご一読頂ければ幸いです。
今年もどうぞよろしくお願いします。
編集部

49号目次案内:
■ スペイン、ハンガリーで「南京大虐殺史実展」を開く
■ 「大王」:1937年ヴォートリン氏と共に戦った時間
■ アイリス・チャン氏を偲ぶ

下記のURLからご覧ください。

49号ウェブ版

49号PDF版

南京国際平和通信 第48号

2024/01/09 火曜日

南京記念館から「南京国際平和通信」No48が送られてきました。下記のURLからご覧ください。

48号目次案内:

■ 歴史記憶に加筆「慰安婦」テーマ彫刻が南京に安置

■ 世界遺産教育モデルの革新を模索、記念館が国際賞を受賞

■ 国際平和の日に留学生が記念館に集まり平和を語る


南京国際平和通信 No48 ウエブ版

南京国際平和通信 No48 PDF版

第8次「日中不再戦の誓いの旅」

4年ぶりの訪中、北京・南京を友好訪問

伊藤彰信(訪中団団長)

 日中労交の第8次「日中不再戦の誓いの旅」は、12月11日に出発し、北京、南京を訪問して15日に帰国しました。コロナの世界的な流行により、4年ぶりの訪中でした。今回も学生2名が参加し、平均年齢をぐっと下げた老・壮・青の訪中団になりました。

 訪中団は、団長=伊藤彰信(日中労交会長、元全港湾委員長)、副団長=新崎盛吾(元新聞労連委員長)、秘書長=有田純也(新潟県平和運動センター事務局長)、団員=佐久原智彦(全港湾大阪支部特別常任執行委員)、今村錬(上智大学4年)、遠山和泉(長崎大学4年)の6名です。

 訪中団は、南京大虐殺犠牲者追悼国家公祭に参加するとともに、北京では中国職工対外交流センターの張広秘書長と懇談し、南京では南京師範大学の林敏潔教授ならびに学生と交流してきました。以下、旅の経過と概要を簡単に報告します。

<12月11日>

 訪中団は前日、東京で結団式を行い、11日は羽田空港から飛び立って北京首都空港に着きました。前日の東京の気温は21度でしたが、北京の気温は1度で雪が積もっていました。空港には中国職工対外交流センター技術経済交流部の石晶晶さんが出迎えてくれました。昼食をとったあと、マイクロバスで宿泊先である職工之家に向かいました。職工之家は中華全国総工会が経営するホテルです。

中国職工対外交流センターの張広秘書長と伊藤彰信訪中団団長が懇談

 中国職工対外交流センターの秘書長は、前任の王舟波秘書長が5月に定年退職して以降空席のままでした。10月に中華全国総工会の第18回全国大会が開かれ、総工会の新しい体制が選出されましたが、職工対外交流センターの秘書長はなかなか決まらず、張広秘書長が着任したのは、訪中団が北京に着いた当日でした。歓迎夕食会の前に少し懇談する時間がありました。張秘書長は「国家公祭に毎年参加している日中労交の訪中団を歓迎する」と述べたあと、第18回大会について以下のように簡単に報告しました。

 中華全国総工会は、世界最大の労働組合であり、中央、省、市、県、郷・鎮、職場のレベルまで整った組織である。第18回大会では、この5年間の総括、向う5年間の方針の確立、章程(規約)改正、役員の選出を行った。方針の主な柱は、労働者の権益の擁護、経済の発展、調和のとれた労使関係である。この5年間で、職工図書室、職人学院をつくった。貧困者への支援やカンパ支給、農民工の相談業務、屋外労働者向けのサービスステーションの設置、コロナ対策では77.5億元を使って労働者対策を行った。また活動項目のひとつに組合交流を加えた。一帯一路の交流、技術交流、国際的な労組交流などを行う。交流を通じて平和に貢献したい。

 伊藤団長からは、日中労交が名実ともに日中労交として再出発したことを報告し、「市川誠初代会長の『日中不再戦の誓い』の精神を継承し、加害の歴史を忘れずに『台湾有事』を阻止するために活動している。日中友好運動を若い人に引き継ぐようにし、平和構築に努力している。来年は日中労交結成50年にあたる。8月に祝賀会を行うので参加してほしい。」と述べました。

 懇談会・夕食会には、何際霞技術経済交流部部長、2019年の東北旅行でお世話になった李明亮さんも参加し、4年ぶりの再会を喜び合いました。

<12月12日>

 7時30分にホテルを出発し、北京南駅から高鉄(新幹線)で南京に移動しました。何際霞部長も同行しました。乗車時間は3時間25分ほど、途中の停車駅は済南だけ、時速350㎞の運転でした。到着した南京南駅では、江蘇省職工服務センターの盛卯弟副主任、南京市総工会の付光宇弁公室副主任が出迎えてくれました。駅近くのレストランで昼食をとった後、南京市総工会の工人文化宮と職工服務中心(労働者サービスセンター)を訪問しました。工人文化宮は、1951年につくられたものですが、2021年に新しい施設がオープンしました。総建設面積は約73,000㎡、トレーニングジム、プール、バスケットやバトミントンのコート、健康相談室、劇場、イベント広場があり、貸衣装など文化芸術活動の支援などを行っています。職工服務センターは、2019年にも訪れた施設ですが、以前のところから移転して工人文化宮に併設してつくられ、2022年5月に新装オープンしました。業務内容は、①職業訓練、②起業への貸付、③職業紹介、④困難な労働者の生活支援、⑤インターネットを活用した包摂的なサービスの5部門です。インターネットでの事務手続きがほとんどなので、窓口に来て相談している人はいませんでした。新しい施設になって、以前より活動が充実しているように感じました。

 宿泊先は南京市総工会が経営するホテルである天豊大酒店です。夜は、江蘇省総工会のミョウ(糸へんに翏)建華二級巡視員が主催する歓迎宴が開かれました。ミョウさんは以前、江蘇省職工対外交流センターの秘書長をしていた方で古くからの友人です。白酒がすすみました。

<12月13日>

 南京大虐殺受難者追悼国家公祭に参加するため、8時40分にホテルを出発し、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館に向かいました。「日中不再戦の誓い」の碑を見たあと、式場に入りました。4年ぶりの参加ですが、参加者の顔ぶれが変化しているのに気づきました。隣との間隔が今までより広くなっていました。全体の参加者を以前より制限しているように感じました。昨年のビデオをみるとマスクを着用していましたが、今年はマスクを外すように言われました。外国の大使館からの参加がありませんでした。日本人参加者のブロックには日本からの高齢者の参加がほとんどなく、南京在住日本人留学生が参加しているとのことでした。初めて前から3列目での参列となりました。

 国家公祭のあと、長江ほとりの南京大虐殺遭難者中山港記念碑を訪れました。南京市内には20か所以上の記念碑があります。慰霊式が行われます。10時には歩いている人も、バスも自動車も止まって、黙とうをします。昼食後、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館を見学しました。17時30分からキャンドル祭に参加しました。キャンドル祭も演出が変わりました。宗教行事がなく国際平和集会となりました。参加人数も制限された代わりに、大型ビジョンが設置され、ドローンを使って記念館全体を撮影しながら中継で発信されていました。マギー牧師のお孫さんがあいさつし、南京紫金草芸術団の小学生が歌いました。紫金草合唱団の日本からの代表者が、南京の子どもたちに引き継いだというあいさつは、今回の集会を象徴する出来事でした。幸存者が38人になった現在、南京大虐殺の記憶を若い人に伝えていくことを重視した集会だったと思います。

<12月14日>

 午前中、2015年12月にオープンした利済巷慰安所旧址陳列館を見学しました。中国各地の慰安所、アジアの慰安所の資料が展示されています。

南京師範大学、東アジア文化研究所所長の林敏潔教授と同大学院学生と訪中団が交流

 午後は、南京師範大学を訪ね、東アジア文化研究所所長の林敏潔教授と同大学院学生と交流しました。林教授は、日本民間反戦記憶に関する多分野研究をおこなっており、戦争関係のあらゆる分野についてデータベース化をすすめています。過去の歴史を忘れず、日中は平和共存しなければならないと熱い挨拶で迎えてくれました。そのあと、新崎副団長を司会役にして、日中学生の交流会が行われました。学生たちは校門まで見送ってくれました。日中の学生たちはウィチャット仲間になったようです。若者交流、民間交流の実際を見たような気がしました。その後、南京博物院、夫子廟を見学して南京での日程を終了しました。

<12月15日>

 5時にホテルを出発し、マイクロバスで上海浦東空港に向かいました。9時30分に空港に到着し、午後の便で関空、成田へと飛び立ちました。

 通訳として全行程を同行してくださった石晶晶さんには大変お世話になりました。

中帰連平和記念館を訪ねて

伊藤彰信(日中労働者交流協会会長)

 11月25日(土)、埼玉県川越市笠幡にある中帰連平和記念館を訪れた。記念館では10月29日から12月27日まで関東大震災から100年を記念して「仁木ふみ子と『平和の環』展」が行われており、11月25日には記念講演会「王希天から仁木ふみ子へ」と追悼座談会が行われた。

 私は仁木ふみ子さんについてまったく知らなかった。日教組の婦人部長をしていたという経歴から、労働運動として日中友好運動にどのようなかかわりをしていたのか興味があった。また、「平和の環」として、仁木ふみ子、宋慶齢、周恩来、王希天、遠藤三郎、藤田茂の名前が上げられているが、この環のつながりを知ることも私の参加理由であった。

 展示のひとつに月間「総評」1982年11月号に仁木さんが書いた関東大震災時の中国人虐殺事件の原稿があった。月刊「総評」は全港湾の組合事務所にも送られてきていたので、私は読む機会があっただろうに、記憶にない。

 講演会ははじめに関東大震災で日本陸軍に密殺された王希天の碑を浙江省温州に建てた記録である30年前に作成された32分のDVD「関東大震災の中国人虐殺-謝罪と償いの旅」が上映された。続いて仁木さんが1980年に上海の華東師範大学の日本語教師として赴任したとき、通訳兼助手だった王智新さんが「王希天-仁木ふみ子へーその精神を受け継ぐにあたって」と題して次のように話された。

 仁木先生は、中国の革命運動に関心があったようである。中国共産党の初代女性部長の向警予の調査をしていた。ある日、「民国日報」を調べていたら関東大震災時に中国人労働者が虐殺されたという記事が目に留まった。どうすれば調べられるかと聞かれたので、温州市政府に手紙を出したが返事がない。そこで地方史を研究する政治協商委員会に手紙を書き、やっと返事をもらった。政府による調査が行われていない中で、日本人がひとりで当時のことを聞きに来た。政治協商委員会が手配して受難者の親戚など関係者が座談会の会場に集まってきたが、日本人を殴ってやりたいと思っている人がほとんどだった。仁木先生は、日本に帰国後、江東区の大島に住んで中国人虐殺事件の調査を続けた。日本政府は中国人虐殺事件が国際問題になることを恐れて隠ぺいを図った。今でも、関東大震災時に虐殺があったという資料はないと言い続けている。日本では8月になると平和問題を取り上げるが、それは戦争被害である。加害のことはあまり触れていない。仁木先生は、相手がどのよう被害を受けたのか、どう思ったのかということを調査していた。相手を理解しようとする努力がなければ、戦争による傷痕、恨みをほぐすことは出来ない。中国人は、日本人は過去に歴史を反省していないのではないかと思っている。不信感をなくし、不信の連鎖をなくすことが必要だ。お互いの理解や尊重があって信頼と友好が築かれる。

 午後の座談会では、仁木さんが取り組んできた、大分県立盲学校、図書館活動、読後感想文指導、全国高校女子教育問題研究会、「関東大震災の時、殺された中国人労働者を悼む会」、中国山地教育支援、無人区への教育支援、中国帰還者連絡会(中帰連)との接点、撫順の奇跡を受け継ぐ会代表、中帰連平和記念館館長という経歴を振り返りながら、それぞれ参加者が思い出を語った。聞いているうちに、「平和の環」が見えてきた。仁木さんは、孫文の妻であった宋慶齢の研究者であり、1979年に「宋慶齢選集」を発行している。宋慶齢から娘のようにかわいがられたという。周恩来は、王希天が設立した中国人労働者の救済組織である僑日共済会で活動していたことがある。遠藤三郎は、野戦重砲第一連隊大尉であったが、王希天殺害を隠蔽した人物であり、戦後は平和運動に貢献している。藤田茂は、陸軍中将であったがシベリア抑留後、撫順戦犯管理所に移され、禁固18年判決を受け、帰国後の中帰連の初代会長となり、日中戦争での加害の事実を語っていた。

 仁木さんが、「平和は座して待つものではなく、たたかいとるものだ」と宋慶齢の言葉を引用し、「日本の平和教育は、被害の事実を知ることから、加害の事実を知ることに視野を広げてきたが、さらに抵抗の事実を知らなければならない。抵抗の事実こそ、ひとをひとたらしめるものであり、その立場に立ってこそ、戦争の意味と平和の意味を正しく伝えることができ、加害の残虐さを見つめる勇気をもつことができる。」と語っていたという話が印象に残った。

 当日出来上がったばかりの「仁木ふみ子追悼文集」を買った。170名ほどの執筆者の名前を見たら、結構知っている名前があった。「平和の環」の広さを知った次第である。

南京国際平和通信 第46-47号

Mon, 13 Nov 2023

尊敬するご友人の皆様へ

冬が来ました。
式典も近づいてきました。
三年以来、普通に開催できるようになります。

今回の通信は第46号ー第47号を合わせて送りいたします。

編集部

46号目次案内:
亡くなった生存者の消灯式が行った
新しい記憶の伝承者が声を上げる
南京大虐殺史若手研究者シンポジウムが開催
南京国際平和ポスタービエンナーレが作品募集中

南京国際平和通信 第46号ウェブ版

南京国際平和通信 第46号PDF版

47号目次案内:
抗日戦争勝利78周年記念
永遠の銘刻ーー版画展が開催
「慰安婦」制度被害者二人が逝去
映画「二十二」は日本で上映

南京国際平和通信 第47号ウェブ版

南京国際平和通信 第47号PDF版

和解を味わい、日中友好を思う

 10月15日(日)に催された広島安野の「第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」に初めて参加しました。前日の集会と集いを主催した「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」(以下「継承する会」)の皆さんには大変お世話になりました。

 以前から安野の追悼式に参加しようと思っていましたが、内田雅敏弁護士から「西松安野友好基金運営委員会による追悼式は終了して、継承する会が行うようになった」と聞いて、少し参加意欲が低くなっていました。参加しようと決意したのは、昨年10月26日、日中国交正常化50周年を記念して中国国際交流協会が主催したオンライン会議で原水禁の金子哲夫共同代表と同席したことです。

 私は席上、日中労働者交流協会(以下「日中労交」)が日中国交正常化を受けて1974年に25単組・9地県評が結集してつくられた組織であること、1985年8月15日、中曽根首相が初めて靖国神社を公式参拝した日に、市川誠初代会長(元総評議長)が侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(以下「南京紀念館」)の開館式に出席し、日中不再戦の誓いを刻んだ「鎮魂の時計」を南京市に寄贈したこと。その誓いを碑にして2009年12月13日に南京紀念館に建立したこと、日中労交は「日中不再戦の誓い」の精神を継承し、日中の平和友好のために活動していることを報告しました。

 金子さんは、1955年の第1回原水爆禁止世界大会に国交のない中国から代表が参加し被爆者に5万元(当時の日本円で720万円)を寄付したこと、その一部を被爆者医療のために広島市に寄付したこと、それがきっかけになって原爆医療法が成立したこと、安野で中国人強制連行受難者の追悼式を行っていることを報告しました。

 その話を聞いた私は、金子さんに詳しい話を聞かせてと連絡して、今回の参加を約束しました。

 10月14日(土)14時から継承する会の主催で「和解を導いた力Part3―西松建設裁判原告・宋継堯さんの闘いをふりかえる」という集会が開かれ、50人ほどが参加しました。私は、西松安野裁判のことは最高裁で敗訴したが付言にもとづいて和解が成立したということぐらいしか知らなかったので、この集会は非常に興味深いものでした。集会は、元西松安野友好基金運営委員の杉原達さんの司会あいさつではじまり、テレビニュースなどを編集した「ニュース映像で見る宋継堯さん」が上映されました。続いて「宋継堯さんを語る」と題して、陳輝(通訳)さん、老田裕美(通訳)さん、足立修一弁護士が発言しました。

 宋継堯さんは、16歳の時、国民党軍の遊撃隊に参加、日本軍の捕虜となって日本へ強制連行されました。安野の発電所工事でトロッコに石を積んで運び出す作業をしていましたが、トロッコが脱線して転倒し失明しました。病気やケガをして働けなくなった人と一緒に中国に帰されましたが、失明のため仕事もできず、乞食同然の生活をしていました。河北大学の調査によって安野の生存者であることが確認され、西松建設との交渉を始めましたが、進展せず、裁判の原告となりました。最高裁で敗訴したあと、和解成立直後に亡くなっています。安野に連行された中国人は360人、被爆死の5人を含めて29人が日本で死亡しています。

集会「和解を導いた力Part3―西松建設裁判原告・宋継堯さんの闘いをふりかえる」

 このような集会では、原告から強制連行とその苛酷な労働、悲惨な生活が語られることが多いですが、すでに生存者はいないので、原告の宋さんの闘いを振り返る形での集会企画になったようです。中国人と日本人の通訳が、宋継堯さんの人柄や、戦後の中国での生活状況を紹介しながら思い出を語ったことが、聞いている身としては、重いものを突き付けられるというよりは、宋さんの生き様を客観的に眺めることができ、優しく温かい目で和解に至る経過を知ることができたような気がします。
 三人の発言で、印象に残った点を記してみます。陳さんは、「宋さんは西松建設に『謝罪、補償、記念碑建設』の3点を当初から要求していた」、「戦争は国の指導者、政治家が起こすものであって、庶民が起こすものではない」と発言しました。老田さんは「日本軍は中国で2000万人以上の中国人を殺した。いたるところに万人坑がある。中国国内でも何百万人の強制連行があった。日本に強制連行された中国人4万人は取るに足らぬ数字という人がいるが、それは間違いである」と語りはじめ、中国人強制連行に関する日本での16の裁判について紹介しました。「被害者を利用するのではなく、被害者の生活の中から聞き出すことが大切である」、「新美隆弁護士に『なぜ、花岡裁判、安野裁判では国を訴えなかったのか』と聞いたことがあるが、新美弁護士は『国を訴えない方が早く解決する』と答えた」、「強制連行された中国人4万人のうち、花岡で986人、西松安野で360人、西松信濃川で180人、大江山で6人(原告のみ)、三菱マテリアルでは下請けも含めて3765人、計5297人が和解できた意味は大きい」と発言しました。足立弁護士は、訴訟の経過を振り返りながら、「宋さんは、当時としては珍しく学校に6年通った人であり、高級官僚になれる道を歩んでいた。記憶が鮮明で、冷静な語り口は証言者として最適な人だった。失明に対する特別な賠償を要求することはなかったが、西松が和解に傾いていく過程では宋さんの存在は大きかった」と発言しました。
 私は全港湾の委員長を退任して9年になります。16の中国人強制連行訴訟のうち港湾に関係する訴訟は、新潟、山形酒田、石川七尾の三つの裁判です。いずれも、国と企業を相手取った裁判でしたが「1972年の日中共同声明によって中国政府は戦争賠償の請求を放棄したので、個人の請求権も消滅している」という理由で原告敗訴になっています。新潟裁判では、第一審で原告が勝訴し、国と企業に対して原告一人当たり800万円の支払いを命じました。この判決を巡って、被告企業の従業員である全港湾組合員の中でも様々な意見がありました。「企業が賠償金を支払えば、賃上げに支障が出るのではないか」、「企業は国の政策にもとづいて中国人を使用したまでで、賠償金は国が全額支払うべきではないか」などの意見です。戦後補償裁判について、全港湾は「日中共同声明によって個人の賠償請求権までも放棄されたものではない」という立場で支援していました。新潟裁判の原告を支援していた新潟平和運動センターの議長は全港湾の役員でした。支援に消極的な組合員との間で板挟みになっていました。国の責任を認めた初めての判決だったので、国の責任を強調していたことを覚えています。

フィールドワーク、第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い、善福寺での追悼法要

 10月15日(日)には、フィールドワーク、第16回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い、善福寺での追悼法要に参加しました。この7月に発行したフィールドワーク資料であるパンフレット「安野発電所中国人強制連行・被爆の歴史を歩く」(500円)は、とてもうまくまとめた分かりやすい資料だと感心しました。毎年、原水禁大会のフィールドワークを受け入れている「継承する会」ならではのパンフレットだと思いました。

 安野中国人受難之碑には、強制連行された360人全員の名前が刻まれていました。強制連行されて日本で亡くなった方の慰霊碑ではないことに気づかされました。慰霊式であれば、発言者は慰霊碑に向って参列者には背を向けて発言します。集いでの発言者は、受難の碑に一礼したあと参列者に向って発言していました。主催者挨拶は継承する会の足立修一世話人代表、来賓挨拶は安芸太田町長、善福寺住職、広島県教組委員長、メッセージが遺族、中国大阪総領事から寄せられていました。碑を建てた場所は、現在でも稼働している発電所のすぐ上の中国電力の土地で、今は安芸太田町が管理しているとのことです。慰霊式ではなかったので、善福寺での追悼法要が営まれたのだと納得しました。碑文や碑を建てた土地、式典のすすめ方は、それぞれの地域で違いがあり、地域状況、運動状況を反映したものだということが分かりました。

 帰りのバスの中で、内田雅敏弁護士が、前日おこなわれた秋田県の尾去沢での中国人殉難者慰霊祭の報告をしました。三菱マテリアルとの和解によって昨年11月に「日中友好平和不戦の碑」が建てられましたが、今年初めて遺族の方が参加しました。遺族のお孫さんは「祖父が戦時中突然いなくなり、家族を見捨てて蒸発したものだと思っていた。三菱マテリアルの和解によって遺族調査が行われ、あなたの祖父は強制連行されて尾去沢で亡くなったという連絡があった。今まで蒸発した祖父を恨んでいたが、尾去沢に来て初めて祖父の人生を知ることができた。」と挨拶したことを話してくれました。

日中労交は「和解から友好へ」をスローガンに活動しています。今回、西松建設に碑を建てることを要求した宋さんの思い、碑の前で遺族が語る思いを知ることができました。日中共同声明で中国政府は「中日両国国民の友好のため」に戦争賠償を放棄したわけです。いわば政府間の和解が1972年に成立したいえます。しかし、民衆の和解はひとり一人の人生から解きほぐしていくものだと感じました。いま日本政府は、和解の精神を忘れ、戦争の加害責任がなかったように振る舞い、日中関係を友好どころか敵対関係に仕上げています。

 広島で継承する会が続けている活動に触れることができ、和解事業として碑を建てる意味、後世に伝える意味を改めて考え、友好に向けて動いていることを感じる旅となりました。日中労交は、南京に「日中不再戦の誓い」の碑を建てたわけです。私は「碑守」として、毎年12月13日に南京紀念館で行われる南京大虐殺受難者追悼の国家公祭に参加すること、「誓い」を後世の人に伝えていくことの責任の重みを感じました。

南京国際平和通信第43号-45号

Sun, 8 Oct 2023

ご無沙汰しております。
もうさ真夏から金秋に季節が変わりました。

通信を送付遅れてしまい申し訳ございません。
今回はまとめて第43号ー第45号を送りいたします。

どうぞよろしくお願いします。

編集部

43号案内
アメリカ華人の魯照寧氏が史料を寄贈
メーデーに488人の海外観光者が来館
当時南京に滞在する欧米人たちの紹介特集
紫金草ボランティアの活躍

南京国際平和通信43号ウェブ版

南京国際平和通信43号PDF版

44号案内
亡くなった幸存者のための消灯式を行う
四川大学教授が当館で調査活動
外国人観光客のメッセージ

南京国際平和通信44号ウェブ版

南京国際平和通信44号PDF版

45号案内
全民族抗戦勃発86周年記念式を行う
『黒い記憶:南京大虐殺』オーディオブックがオンライン
「彼らは当時南京にいた」シリーズ第三話・ジョン・マギー

南京国際平和通信45号ウェブ版

南京国際平和通信45号PDF版

南京国際平和通信第42号

6月 2023年

尊敬するご友人の皆様へ

久しぶりでございます。
お変わりありませんか。

今年の梅雨が長かったです。
7月の記憶は雨のみでした。
ようやく梅雨明け、これからの8月は夏本番になるでしょう。

さて、第42号通信を送りいたします。
どうぞよろしくお願いします。

編集部

目次:
初公開!「七七事変」後の宛平城の映像は日本軍の嘘をすっぱ抜く
98件(組)日軍侵華罪証を裏付ける海外文物史料を記念館が収蔵
生存者の後人は南京嘆きの壁に涙を、国内外の若者は歴史記憶を伝承
12.13キロ徒歩して国内外の方々が南京大虐殺遇難同胞の集団虐殺地を訪れる
清明節追悼式・記憶の響き
南京大虐殺生存者の鄭錦陽氏が逝去
50名余りの視覚障害者が記念館を没入式見学

南京平和通信42号ウェブ版

南京平和通信42号PDF版

「日中平和友好条約締結45周年記念大集会」報告

2023年8月10日

日中平和友好条約締結45周年記念大集会を開催

 日中平和友好条約締結45周年記念大集会が8月10日、衆議院第一議員会館で開かれ、定員300人の会場が満杯になった。

 主催者を代表して村山首相談話の会の藤田高景理事長が「米国の言いなりになって『台湾有事』を口実に反中国包囲網をつくり、着々と戦争準備に突き進んで良いのか。日中平和友好条約の精神に立ち返って善隣友好関係を取り戻さねばならない」とあいさつした。

 

政府は台湾独立不支持の表明を―鳩山友紀夫元総理

鳩山友紀夫元総理の来賓あいさつ

 来賓の鳩山友紀夫元総理は「日本は過去に中国に侵略し多大な損害を与えた。傷つけられたものが許すまで無限責任を負っている。日本政府は、棚上げしていた尖閣諸島を国有化して緊張を高め、『台湾有事は日本有事』と危機感を煽った。麻生自民党副総裁は『日米台は戦う覚悟を示すべき』と言っているが、日中平和友好条約には『すべての紛争を平和的手段で解決し』と書かれている。日中共同声明で『日本政府は、台湾が中国の領土の不可分な一部であるという中国の立場を十分理解し、尊重する』としている。台湾は中国の内政問題である。日本政府は台湾の独立を支持しないと表明することが肝要だ。」と述べ、地球環境問題などでの日中協力の実績を積み重ねる重要性を語った。

 

人的交流の促進を―呉江浩駐日中国大使

呉江浩駐日中国大使
呉江浩駐日中国大使の来賓あいさつ

 呉江浩駐日中国大使は「日中平和友好条約は、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させることを双方共通の義務として法的に定めた。そして、内政に関する相互不干渉、すべての紛争の平和的手段による解決、覇権を確立しようとするいかなる国の試みにも反対する基本原則を確認した。中日両国は条約の義務を誠実に履行しなければならない。新しい時代の要請にふさわしい中日関係を構築することが求められている。平和を断固として守らなければならない。今日の日本では一部の人たちが歴史の教訓を忘れたかのように中国脅威論を騒ぎ立て、台湾有事を煽り、『強い抑止力』、『戦う覚悟』とまで言い出す人が出てきている。我々は友好の旗を高く掲げなければならない。友好こそ両国の利益に合致するものである。中日関係の四つの基本文書に従い両国関係の大局を守るべきである。中日の経済活動は深く絡み合っており、平等互恵の関係が両国民に大きな利益をもたらしている。一部の人がその関係の弱体化を図り、ひいては切断を企てて、中国の発展を抑制しようとしている。このような情勢において、人的交流を促進し相互理解を図ることが大事になっている。今日から中国からの団体旅行を解禁した。引き続きビザなし渡航をめざして努力していく」とあいさつした。

 

親米反中路線は破滅の道・平和外交の促進を

 元広島平和研究所所長の浅井基文さんが「バイデン・岸田対中国対決政治は清算しなければならない」と題して記念講演を行った。「日本人は、アメリカに好感度を持っているが、中国に対してはアメリカ政府や日本政府の対応に追従している。アメリカはエゴの塊であって世界一極支配を維持しようとしているが、そうはならない状況が出てきている。経済制裁乱発による世界的な脱ドル化の動き、他国からの軍事援助なしには戦えないウクライナ戦争、無理な中国封じ込めなどバイデン政権の対外政策は行き詰まっている。岸田政権は、親米反中路線をとり、アメリカの軍事戦略に全面的に加担し、安全保障三文書を閣議決定した。先制攻撃準備、対米兵站支援、ミサイル基地建設、民間施設の軍事転用などをすすめている。台湾問題、南シナ海問題について、日本のマスコミはアメリカがいうとおりの情報しか流さないので、正確な認識を持たないと友好関係は築けない」と切り出した。

 そして台湾問題については「中国は国内問題、アメリカは国際問題という基本認識の違いがある。米中間の3つの基本文書は玉虫色になっており、アメリカの解釈は一概に否定できない。1970年代80年代に中国は台湾に『台湾独立』を叫ぶ勢力ができ政権を取るとは思っていなかった。アメリカは中華人民共和国成立、朝鮮戦争以降、台湾は絶対に中国に返さないという方針である。中国は国内法よりも国際法が優先する立場、アメリカは世界でも稀な国際法よりも国内法が優先する立場である。台湾関係法で台湾有事が起これば軍事介入する余地を常に残している。日中共同声明では『日本政府はポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する』とあり、ポツダム宣言では『台湾は中国に返還されるべき』と書かれている。ところが返還されてないのだから、日本政府はアメリカの立場を尊重し、従っている。いま中国は台湾に『九二共識』を遵守せよと迫っている。『一つの中国』原則を順守してくれれば、中国は百年河清を待つ用意はあると思う。ところがアメリカと日本は中国に武力行使をしないと約束しろと迫る。中国は、台湾は内政問題だから外国は口を出すなと言っている。台湾が独立すると言ったら中国は武力解放することになる。その場合、アメリカには3つの選択がある。不介入、台湾への武器供与(ウクライナ方式)、米中全面戦争である。日本にも3つの選択がある。不関与(日中平和友好条約遵守)、米軍基地提供兵站支援(日米安保条約履行)、中国との全面戦争(安全保障三文書)である。関与すれば中国からの報復攻撃の可能性がある。日本滅亡の可能性がある。日本にとって台湾有事がそれほど大事なのか。日中共同声明、日中平和友好条約に立ち返っても、今の状況を解決できないかもしれない。それを一歩進めて日中不戦条約を締結する必要がある」と述べた。

 さらに南シナ海については「中国は歴史的国際法的に九段線の内側は中国の領土だと主張していた。1960年当時まで誰もが認めていた。1969年に南シナ海に大量の石油資源が埋蔵されている可能性があるといわれ始めて領有権問題が浮上してきた。日本は日華平和条約で南沙諸島、西沙諸島は中国のものであることを認めている。中国は隣接海域についても国連海洋法条約にもとづいて権利主張をしている。係争地域については、関係国との間で主権問題を棚上げにして共同開発を提案している。アメリカは国連海洋法を批准していない」と述べた。

 最後に「米中関係悪化の原因はひとえにアメリカ側にある。日本は米中のいずれの側にも与することなく、平和憲法の原点に立ち返り、平和外交を積極的に営まなければならない」と結んだ。

 

「戦わない覚悟」が求められている

 各界からの発言として、元経済産業省の古賀茂明さんは、中国政府関係者との話として「2027年までに中国が台湾を進攻すると言っているのはアメリカです。中国が台湾に進攻したら台湾住民の反感を買うでしょう。台湾の産業や生活を破壊して意味がありますか。アメリカや日本が武力援助して台湾を独立させるなら、武力解放も辞さないと言っているだけです。中国が進攻すると言えば、台湾や日本は武器を沢山買ってくれるからでしょ。中国と台湾が仲良くすれば、自然に統合の気運は醸成される。中台の経済関係は互恵関係ですよ。ゆっくり時間をかけてやればよい」と紹介した。そして、「2027年までの進攻はウソ、『台湾有事』はアメリカか日本がおこす、日米は間違ったメッセージを台湾に送っている、日本は台湾を守る義務は負っていない、アメリカは『台湾有事』の際は日本の基地を使うことを前提としている、日本は平和主義をすでに放棄している」と指摘した。

 人材派遣会社ザ・アールの創始者の奥谷禮子さんは、女性経営者の交流を通じて「中国が、女性の活躍を含めて、人材育成を戦略的、計画的に行ってきたことを痛感した」と話した。

 ピース・フィロソフィー・センター代表の乗松聡子さんは、「日本が行ってきた他国への侵略や、植民地支配の事実、それを支えてきた民衆の差別感情を克服するような教育はほとんどされていない。長崎にある大村飛行場は中国への渡洋爆撃の起点であり、広島は軍都であった歴史に触れ、長崎も広島も原爆投下で凄まじい被害を受ける大前提として、加害の地であったという史実を日本人として記憶しておかねばならない」と語った。

 沖縄大学地域地域研究所特別研究員の泉川友樹さんは、中国と日本の輸出入総額は国交正常化以降50年で130倍に増えていることを指摘し、経済協力を振り返りながら、今は新しいルール構築の時代に入っていると分析した。

 日中一帯一路促進会の大野芳一さんは、ココム時代に中国にコンピュータを輸出した経験を語り、アメリカがいかに自分勝手な経済制裁や人の拘束を行ってきたかを語った。

  最後に日中労働者交流協会の伊藤彰信さんが「戦争、虐殺、差別をなくし、平和・友好を促進していこう」と閉会のあいさつを述べ、大集会は成功裏に終了した。