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村山富市元総理大臣

村山談話に託した想い(談話)

2020年8月15日

 元内閣総理大臣 村山富市

 「光陰矢のごとし」と言いますが、私が内閣(村山内閣)を率いていた時(1995年8月)に、閣議決定を経て、日本国政府の公式見解として「村山談話」を発出してから、はや25年の歳月が流れました。この「村山談話」は、中国・韓国あるいは米国・ヨーロッパなど、世界各国の人々や政府から、高い評価を受け続けているようで、光栄なことだと思います。
 「村山談話」を発出したのは、1995年8月ですが、その10年前の1985年8月15日、時の中曽根康弘首相は、戦後初めて、首相として靖国神社に公式参拝したのです。その同じ日、中国・南京には「南京大虐殺紀念館」が開館しています。私も紀念館を訪れたことがありますが、その館名は鄧小平氏の揮毫になるものです。
 翌86年8月、後藤田正晴官房長官は、「靖国神社がいわゆるA 級戦犯を合祀していること等もあって、…我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国がさまざまな機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある。…諸般の事情を総合的に考慮し、…明8月15日には、内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」との重要な談話を出しました。
 又、日本のかつての同盟国のドイツ、具体的には西ドイツの、ワイツゼッカー大統領は、同じ戦後40年にあたるドイツ敗戦記念日の1985年5月8日に、連邦議会で「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」との記念演説を行い、内外に感銘を与えました。
 私は、こうしたことも念頭にあったので、総理大臣在任の時が、まさに敗戦50年の歴史的な日を迎える事となるので、その節目に、けじめをつける意味で、過去の歴史的事実を謙虚に受け止め、平和と民主主義、国際協調を基調とする日本の針路を明確に闡明(せんめい)する必要があると思って、「村山談話」を、作成する事を、決断したのです。多くの方々の協力で、この談話は出来上がりました。特に、当時の自民党総裁であった河野洋平さんのご協力には、感謝しております。
 私の後を継いだ、橋本龍太郎首相以降、今日に至るすべての内閣が「村山談話」を踏襲することを明らかにしていますが、それは当然のことと言えます。中国・韓国・アジアの諸国はもとより、米国・ヨーロッパでも、日本の戦争を、侵略ではないとか、正義の戦争であるとか、植民地解放の戦争だったなどという歴史認識は、全く、受け入れられるはずがないことは、自明の理であります。
 当時、私は「村山談話」の作成に際し、作成実務を担った担当幹部に対して、一番、肝心な事は、侵略と植民地支配によって、中国・韓国・朝鮮など、アジア諸国の人々に耐えがたい被害と苦痛を与えた歴史的事実を明確にして謝罪の意思を示し、二度と侵略や植民地支配を繰り返さない決意を表明する事だと、強く指示しました。村山談話にも、「我が国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました」との認識が綴られています。
 日本の著名な学者・文化人・弁護士・ジャーナリスト・市民活動家が中心となって、2013年11月に、「村山首相談話を継承し発展させる会」が結成されました。歴史の事実を正面から受け止めて、二度と再び、侵略や植民地支配を繰り返してはならないとの立場から、集会・シンポジウム・外国との交流など、活発な活動を続けておられることには、敬意と感謝の気持ちを表したいと思います。日本の多くの良心的な人々の歴史に対する検証や反省の取り組みを「自虐史観」などと攻撃する動きもありますが、それらの考えは全く、間違っています。日本の過去を謙虚に問うことは、日本の名誉につながるのです。逆に、侵略や植民地支配を認めないような姿勢こそ、この国を貶(おとし)めるのでは、ないでしょうか。
 村山談話では、また「わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会に一員として国際協調を促進し、それを通じて平和の理念と民主主義とを押し広めていかねばなりません」とありますが、これは日本国憲法が求めていることでもあります。「村山談話」の最後には、「我が国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります」と、日本の国際社会への貢献についても提起しました。戦後50年という節目における「村山談話」が、今後の日本、アジア、そして世界の和解、平和、発展に貢献してくれることを期待したいと思います。
 日本にとって、かつての侵略戦争で多大の犠牲と被害を与えた中国との間に、末永く平和と繁栄の友好関係を保持し、築きあげて行くことが、極めて肝要なことは言うまでもありません。アジアの平和と安定の構築のためには、日中両国の、安定的な政治・経済・文化の交流・発展を築いていかねばなりません。
 その成就を祈るばかりです。

資料:「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話 1995年)

「歴史問題の和解を考える~市民活動の可能性に着目して~ 」外村大(東京大学教授)の講演をお聞きして

 藤村 妙子 (中労交事務局長 )

 2020年7月18日の総会において外村教授の講演があった。語られた内容はこれからの国際連帯活動を考えるうえで大変示唆に富む内容だった。詳しくは、別紙当日外村教授から配布されたレジュメに是非目を通していただきたいが、ここでは感想も交えてレジュメの他に語られた内容について書いていきたい。

2020年7月18日の総会において外村教授の講演
第6回総会(7/18)の第2部特別講演として外村 大(東京大学教授)に「歴史問題の和解を考える~市民活動の可能性に着目して~」をお願いした

「和解」を研究する「和解学」の設立

 東京大学で総合文化研究科において地域文化研究に取り組んでこられた外村教授は、「和解学」の創造を掲げる研究プロジェクトに参画しているとのことだ。「和解学」とは政治学、歴史学と哲学などの学際的な領域の研究テーマである。「歴史の歪曲」が起きる要因の多くは政治的な野心である。しかし、人々がその「歪曲された歴史」を受け入れているという中にあって、過去の過ちと向き合うとは何なのか、どうしたら被害者と加害者が和解する事ができるのかを様々な市民活動などと出会う中から考えてきた中で「和解学」の設立しようと思い至ったと外村教授は語った。私は、この「和解学」設立のプロジェクトに参加とようと経過をお聞きし、外村教授の研究室にこもっていないアクティブな研究の姿勢にとても感銘を受けた。
 敗戦後から日本人が過去の過ちとどう向き合ってきたのかという経過が語られた。敗戦後すぐには余裕もなく、「アジアの諸民族批判を受け止めないままの民主化、戦争被害国や被支配国不在の講和」から出発した日本。この日本国民が1950年代になってようやく「日中、日朝の友好運動」が、遺骨の収集や奉還などから始められた。しかし、戦後日本の主力労働組合であった炭労の「田中委員長問題」それは「田中委員長は朝鮮人だ」という噂話が広がる中で労働組合に動揺が起き、田中委員長が辞職した問題に表れるように闘う労働者と言われた炭労の組合員も差別から自由ではなかった。私はこの話を聞きながらこの問題後あった戦後労働運動の最大闘争である三井三池闘争の過程で被差別部落民への差別意識を利用した会社側の分断工作があったことを思い出した。権力者は私たちの中にある差別意識を利用して、分断をして来ること。差別と向き合い被差別者との連帯は、労働運動の課題であることを改めて実感した。

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ホームページのメニューに「日中歴史文書」を新設

このたび、ホームページのメニューに「日中歴史文書」のコーナーを新設しました。また「資料索引」を「人民網から」に変更しました。
集団的自衛権の行使を可能にする「安保法制」案(戦争法案)は、衆議院で強行採決され、参議院に送られましたが、参議院での政府の説明は、中国の海洋進出への警戒、中国脅威論が露骨に語られるようになりました。中国政府は、日中関係を語るとき、4つの歴史文書にもとづいて関係づくりをおこなう必要があると言っています。4つの歴史文書とは、1972年9月の「日中共同声明」、1978年8月の「日中平和友好条約」、1998年11月の「友好協力パートナーシップ声明」、2008年5月の「戦略的互恵関係声明」です。いま、安倍がすすめていることは、この4つの国際公約を踏みにじり、中国を仮想敵国として、日本を戦争へ駆り立てることです。 続きを読む ホームページのメニューに「日中歴史文書」を新設