カテゴリー別アーカイブ: 慰安婦

南京国際平和通信 第48号

2024/01/09 火曜日

南京記念館から「南京国際平和通信」No48が送られてきました。下記のURLからご覧ください。

48号目次案内:

■ 歴史記憶に加筆「慰安婦」テーマ彫刻が南京に安置

■ 世界遺産教育モデルの革新を模索、記念館が国際賞を受賞

■ 国際平和の日に留学生が記念館に集まり平和を語る


南京国際平和通信 No48 ウエブ版

南京国際平和通信 No48 PDF版

南京国際平和通信 第46-47号

Mon, 13 Nov 2023

尊敬するご友人の皆様へ

冬が来ました。
式典も近づいてきました。
三年以来、普通に開催できるようになります。

今回の通信は第46号ー第47号を合わせて送りいたします。

編集部

46号目次案内:
亡くなった生存者の消灯式が行った
新しい記憶の伝承者が声を上げる
南京大虐殺史若手研究者シンポジウムが開催
南京国際平和ポスタービエンナーレが作品募集中

南京国際平和通信 第46号ウェブ版

南京国際平和通信 第46号PDF版

47号目次案内:
抗日戦争勝利78周年記念
永遠の銘刻ーー版画展が開催
「慰安婦」制度被害者二人が逝去
映画「二十二」は日本で上映

南京国際平和通信 第47号ウェブ版

南京国際平和通信 第47号PDF版

南京―日本の加害責任を問う旅に参加して

西日本NTT関連労働組合執行委員

池田和則

はじめに

 第7次「日中不再戦の誓いの旅」が12月11日~15日にあり、参加しました。行き先は、上海経由での南京でした。

 さて、12月13日(1937年の)は南京陥落の日です。その日の前と後、南京城の内と外で日本軍による中国人民に対する大量虐殺が行われました。その跡を自分の目で見たいというのが参加の動機でした。日本では、私の親などが「支那事変」と言っていた日中戦争」を中国では「抗日戦争」というのだそうです。どこから見るのか、または、その性格をどう表すのかで異なる名前になります。

 旬刊「中帰連」の裏表紙には、「前事不忘 後事之師」(チェンシープーワン ホウシ―ズシ=前の経験を忘れず 後の教訓とする)とあります。未来を語る前にまずは、過去を振り返ることから始めることが大切だと思うのです。

 旅の準備として、伊藤団長に紹介いただいた、「南京の日本軍―南京大虐殺とその背景」など藤原彰さんの著作を中心に5部読んで臨みました。

上海から南京へ

11日朝、関空出発組のYさんとおちあい、上海で東京組と合流して全員集合となりました。

高速鉄道の上海虹橋駅

上海から南京までは、高速鉄道(中国の新幹線)でわずか1時間ちょっとの旅でした。夕方となり、窓の外は暗く景色は見えません。が、そこは日本「皇軍」が、南京へ、南京へと侵攻する道程でした。私は、1937年を想像します。上海に上陸した日本軍は、上海を占領したものの予想外の中国軍の抵抗にあい、多数の戦死傷者を出しました。中国軍をなめていたのです。さらに、それらのことは中国人に対する憎しみを増幅させ、捕虜の虐殺など、後の残虐行為の伏線ともなりました。

 現地軍は、中央の戦線不拡大方針を無視し、しゃにむに南京へ南京へと進軍します。中国では「南船北馬」といいます。揚子江流域は多くのクリークが張り巡らされ進軍は思いどおりになりません。中国兵、日本兵の死体の浮いたクリークの「赤い水」で炊いた飯盒の飯を食いながらの進軍であったといいます。

 もともと、日本軍は兵站を軽視していました。ここでも、前線部隊に武器・弾薬の補給が間に合わない。ましてや「食糧」、「医療」、「衛生」など軽視・無視もはなはだしい。橋を落とされたクリークに阻まれ、馬荷や荷車、トラックは立ち往生します。現地の実態を無視した作戦計画の失敗がますます戦況を悪化させました。

 打開方法は、現地調達=徴発=略奪でした。「略奪」は当初の作戦立案時点での前提でした。

進軍中の村々から銃剣で脅して「食糧」、「家畜」などを、略奪し、家は焼き払い、男は拉致して荷役運びをさせ、女性は凌辱する。後続の日本軍部隊は先行部隊と同じコースの進軍を嫌がったといいます。「略奪」し尽くされ、何も残っていないからです。それほど、徹底したものでした。

そもそも軍隊にとっては、占領地においてはすべてのものが戦利品なのです。そんな軍隊の典型が「皇軍」=天皇の軍隊でした。

しかし、侵攻すれば、するほど中国人は諦めるどころか、怒りに燃え、抗日闘争で中国は団結することになりました。

 いずれにしても、「虐殺」は南京で急におこなわれたのではなく、ずっと前から行われていたのです。しかし、「南京虐殺」はあまりに規模が大き過ぎる。いまだに「なかった」という日本人がいるが、どの面さげていっているのか!

南京にて

12日

南京市り水区の「り水経済開発区企画館」と「開沃(スカイウエル)新能源汽車集団有限公司」の工場、午後は南京市総工会の職工服務中心(労働者サービスセンター)を見学しました。その後、江蘇省総工会との交流会がありました。現代の中国、中国の現実には興味を持っていますし、質問もしました。が、一言でいえば、1,2時間の交流、数時間の見学ではよく理解できなかったというのが、本音です。頻繁に交流している方の話や文章で発表されたものも総合して、間違いの少ない理解になると思います。従って、今回私は触れません。他の参加者の報告をお読みください。

ただ、江蘇省総工会との交流で印象に残ったことには触れます。伊藤団長はあいさつの中で「われわれは、1931年および1937年を契機とする日本軍国主義の中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止できなかったことを深く反省」するという日中労交の決意を受け継ぎ、「安倍政権」をはじめとした右翼勢力の動きに対し「労働者人民の闘争によって阻止」したいと決意を述べられました。これに対し、江蘇省総工会の張副主席候補は、「日本軍国主義は中国人民に対して加害者ではありますが、一般の日本人をも被害者にしました。」と述べたうえで、「私は、最近日本のドラマを見ました。おしんというドラマです。主人公のおしんは(アジア太平洋)戦争で息子は戦死し、軍部に協力した夫は自死しました。それは、最愛の夫、息子を失ったおしんも戦争の犠牲者、被害者であると思います。」と。

この「言葉の交流」に温かいものを感じました。私も「労働者人民の闘争によって阻止します。」と決意を新たにしました。

会議が終わり、帰りに前を歩いていた中国側通訳の二人の方がこのような話をしておられました。「日本のいろいろな労働組合の訪中団の通訳をするけど、戦争責任に触れるところはないね。日中労交だけだよね」、「中国側から話を切り出すわけにもいかないもんね。」と。

「貴重な」日中労交に誇りを持つとともに、いつまでも「貴重な」存在にしていてはいけない。日中労交の持つ考え方・姿勢を多くの日本の労働組合に広げることも私達の「仕事」だと思いました。

13日

「南京大虐殺受難者追悼国家公祭」が「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞祈念館」の広場でありました。広島や長崎での原爆被爆者追悼集会のイメージでした。言葉がわからないので、政府高官などがどんなメッセージを発したのかはわかりませんでした。ただ、安倍首相のような「心にもないこと」は言っていないでしょう。

午後、「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞祈念館」を見学しました。特に真新しい「事実」発見などはありませんでしたが、現物を、本資料をじかに、自分の目で見ることができ、願いがかないました。

オペラ劇場のホール

夕方、キャンドル祭に参加し、その後、創作オペラ「ラーベ日記」を鑑賞しました。記念すべき初演でした。1937~8年の南京、「南京安全区国際委員会」の委員長を務めたジョン・ラーベをはじめ、ミニー・ヴォートリン、ジョン・マギーたちの南京市民を護る活躍を描いた作品でした。中国語と英語の字幕が出るのですが、知らない単語が多く、詳しいストーリーまでは分かりませんでした。重いテーマですし、すっきりした終わり方ではないので、流行るかはわかりません。「オペラ」というジャンルを見るのは最初で最後かなあ⁉と思いました。

14日

「利済巷慰安所旧址陳列館」を見学しました。中国各地の慰安所、日本、アジアの慰安所の資料が展示されています。南京での強姦、虐殺を契機に慰安所が軍の管理下に置かれるようになり、強制的に女性が連れてこられるようになった経緯が説明されています。

入口を入った中庭に大きなお腹をさすっている少女の像がありました。以前読んだ本の中にあった「写真」に似ていると思いました。でも「写真」とは同じではありません。施設の中に入り、その「写真」がありました。朝鮮から連れてこられたあの少女が収容されたのが、この「利済巷慰安所」だったのです。少女の名は朴永心。この建物の二階19号室は、朝鮮籍「慰安婦」被害者朴永心さんが三年間にわたり、日本軍の性奴隷に強いられたところでした。中庭の像はあの「写真」の少女をモチーフにして作られたとのことでした。

少女たちの青春を奪い、女性たちに癒えることのない傷を負わせた大日本帝国。日本国内に今も残る「大日本帝国」主義者に中国や韓国がうるさいなどと云わせない。日本国内で活動する私たちが「大日本帝国」主義者を黙らせ、真実を広める任務を遂行せねばならない。固く誓いました。 

中山港の大虐殺遇難同胞記念碑
中山港の大虐殺遇難同胞記念碑

その後、長江(=揚子江を中国ではこう呼ぶそうです)ほとりの南京大虐殺遭難者中山港記念碑で頭を垂れました。また、1968年に中国独自の技術で完成した自力更生の象徴である長江大橋を見学しました。展望台に上り、長江の流れを観ました。あまりに大きく全貌は見えませんでした。けれど、その時も長江のほとりで中国人捕虜の虐殺地点にたくさんの×で示す地図と二重写しになりました。敵国の捕虜は「処置」し、日本軍兵士には捕虜となることを許さず、「餓死(飢え死に)」させる。まさに、「日本鬼子(リーベンクイズ)」が泥沼深く沈んでいく通過点だったのです。

  おわりに

 8月の中国東北部(旧「満洲」)に続く今回の旅で「日本の加害責任」を辿る旅に一応の区切りがついた感があります。

 今後も「日中労交」の「第8次」、「第9次」と訪中団が企画されると思います。皆さんに参加をお薦めします。特に、南京は5日と短く、費用もお手頃です。さらに、40歳以下の参加者には「日中交流助成基金」が設立され、中国国内旅費の助成があるそうです。中国側も日本の若者の訪中を期待しているようです。

 「日中労交」の訪中団の案内がきましたら、私からも個別にご案内したいと思っています。

お世話いただいた、「日中労働者交流協会」と受入窓口の「中国職工対外交流センター」には大変お世話になりました。御礼申しあげます。

以上

南京で見た加害者としての日本

猪股 修平(東海大学4年)

〈国家公祭〉

国家公祭終了後の会場。 2019年12月13日 南京紀念館前で筆者撮影

南京大虐殺犠牲者国家公祭儀式。2014年から国家行事として執り行われており、今年で6回目。式典は南京大虐殺から82年目となる12月13日午前10時から始まった。侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館前の広場で中華人民共和国国歌斉唱、儀仗隊による犠牲者へ向けた花輪の献上、中国党中央宣伝部の黄坤明(ホワン・クンミン)部長の演説があった。黄宣伝部長は南京大虐殺について「30万人の同胞が殺戮された。人類の歴史に暗黒の1ページとして永遠に刻まれる恐ろしい犯罪だ」とした上で「中日両国は新しい発展の時代に入った。相互信頼を深め、平和友好の共通路線に沿って関係を発展させていく」と対日関係を念頭に置いたとみられる発言もあった。

会場には我々だけでなく、韓国や欧米諸国からの来賓者も散見された。また、南京市内の小中高生たちも出席。白い礼服を着込んだ高校生たちは式典中、歴史の記憶と平和を守ることについて宣言した。入場者は厳しいセキュリティーチェックを受ける。持ち込み制限や服装規定、拍手のタイミングなどがあらかじめ伝えられる。

余談だが、式典終了後、そばにいた中学生たちがさっきの真剣な表情とは打って変わって周りの同級生たちと談笑していた。国家レベルの式典参加に際し、相当の緊張感と厳粛さを感じ取っていたのだろう。彼、彼女たちは今後、歴史を伝える担い手になる。

〈南京紀念館の展示〉

展示室内の壁に掲示された南京大虐殺犠牲者の顔写真 2019年12月13日 南京紀念 館で筆者撮影

1985年8月15日開館。館内のメイン展示となる「南京大虐殺の史実展」は南京大虐殺80年を迎えた2017年にそれまでの展示内容を更新する「陳列更新プロジェクト」を経て同年12月13日に公開が開始された。同展の図録によると、更新後の展示は「南京失陥前の情勢」「日本軍の侵攻と南京保衛戦」「南京陥落後の日本軍の暴行」「人道主義的救援」「世界に知られた事実と日本の隠蔽」「大虐殺後の南京」「戦後の調査と裁判」「人類の記憶と平和への祈願」の8つから成り立つ。およそ2000枚の写真と900点あまりの文書が展示されている。

館内に入るとまもなく犠牲者一人一人の名前が映し出される壁が目に入る。この壁には12秒に1滴ずつ滴り落ちる雫の映像が映写されている。これは、亡くなった犠牲者の数を南京大虐殺の期間に当てはめた時、12秒に1人が殺害された計算になるためだという。

順路進むと次に見えるのは壁一面に犠牲者の顔が表示されている大広間。ここには生存者が残した足型も展示されている。犠牲者数「30万」の数字は単なる数字ではなく、失われた人生が積み重なったものであると痛感した。

以降はパネル、実物、証言、文書、映像などが展示された空間を進んでいく。この中には守衛側に回った中国軍の攻防も紹介されていた。軍事による蛮行を悼む国家公祭に軍人が参加するのは、人民を守るために立ち向かった兵士を慰霊するためとみられる。

展示室の中央には地中に埋められた遺体がそのまま保存されている、もちろん白骨化しており「発掘時に発見された状態」と言うのが正しい。しかし、来館者は目の前にある23柱の遺骨を見て、82年前の蛮行に思いを至らせずにはいられなくなる。この展示空間は、虐殺を象徴する、「ブラックボックス」と紹介されている。5年前まで義務教育・高等教育の社会科を学んできた私は一切学んでこなかった歴史が詰まっている場所。大虐殺の悲惨さだけでなく、日本の教育のお粗末さにも気づかされる場所である。

中でも一番愕然とした展示は、占領後の南京で日本軍兵士と住民たちが和やかに触れ合っているかのように報じた日本メディアの記事たちである。兵士と子どもが手を繋ぐ写真を報じ「戦地とは思えない」とまで言及していた。いずれも、日本政府の方針から虐殺の隠蔽に加担したもの。大虐殺の歴史が伝わっていないのは、言論機関の責任でもある。来年から記者になる身として、他人事ではない思いが込み上げた。

南京大虐殺生存者の李秀英さんが残した言葉。 2019年12月13日 南京紀念館で筆者撮影

展示の最後には南京大虐殺生存者の李秀美さんが残した言葉があった。「歴史をしっかり明記しなければならないが、恨みは記憶すべきではない」。負の歴史をつなぐ一方で憎しみの連鎖をいかに絶てば良いのか。次世代を担う我々に問いかけられている気がした。

〈利済巷慰安所〉

利済巷慰安所の建物。壁にある雫状のアートは犠牲者たちの涙を模したもの。手 前の銅像は利済巷慰安所を証明した性奴隷被害者・朴永心さんらの姿をモチーフにしている。 2019年12月14日 利済巷慰安所で筆者撮影

訪問4日目の14日、南京市内の旧日本軍慰安所「利済巷慰安所」を訪問した。2003年、朝鮮人慰安婦被害者の朴永心(パク・ヨンシン=2006年死去)さんがこの場所を訪れ確認し、外国人慰安婦に証明された唯一の慰安所とされている。日本軍の性奴隷制度を記録・展示する施設として開館したのは2015年12月のこと(奇しくも同月には慰安婦被害者への賠償などを取り決めた日韓合意が安倍晋三・朴槿恵両政権下で締結されている)。記念館の外壁や展示室内には性奴隷被害者たちが経験した苦痛をイメージした「涙」の雫が描かれている。

日本軍が中国大陸で初めて慰安所を作ったのは1931年11月のこと。名前は「第一サロン」。慰安婦制度が確立する前に作られたため、一番長くその「機能」を持った慰安所である。建物は現在も存在しているという。1932年の上海侵略以降、大規模な強姦事件を防ぐため慰安婦制度が作られた。そのため、中国の慰安所は上海に多い。制度が拡大したのは南京大虐殺以降のこと。南京市内で日本軍兵士が多くの強姦事件を犯し、性病が蔓延したためだ。上海派遣軍参謀副長として侵略に加担した岡村寧次は「極めて恥知らずのまま慰安所を作った」と後年に回顧している。また、南京大虐殺時に商社駐在員として民間人の保護活動に尽力したドイツ人ジョン・ラーベは日本軍の性的暴行を記録している。

日本軍が使用していた「突撃一番」と名付けられた避妊具。 2019年12月13日 南京紀念館で筆者撮影

韓国留学を経験し、韓国側から日本軍性奴隷問題を見つめた私は、被害国としての中韓両国を対比しながら館内を見学した。韓国で性奴隷問題を詳細に扱っている施設としては、被害者が集う福祉施設「ナヌムの家」や民間団体が出資して設けた「戦争と女性の人権博物館」がある。2つの施設の主眼にあるのは「被害者の苦悩」である。展示内容は被害者の証言や被害者が描いた絵、少女像など、見る者の情念に訴えるものが多い。一方、利済巷慰安所の展示物は被害者が寄贈した慰安所の器具、慰安婦制度拡大までの経緯が記された資料など、現物を用いて歴史を紐解くものが多い。以上から、韓国は「記憶」を、中国は「記録」を重視している印象を受けた。慰安婦の中には南京金陵女子学校(現・南京師範大学)から強制的に連行された女学生もいたという。中には朝鮮半島から中国まで連れて来られた被害者の証言もある。中国国内の被害者は20万人。うち現在も生存しているのは20人程度だという。ちなみに当施設は侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の分館という位置付けで運営されている。南京大虐殺はユネスコの世界遺産記録に認定されているが、性奴隷問題は認定されていない。中国側は「他の国と連合して申請し直す案を真剣に検討する」としており、日本の加害の歴史は中韓の連携によって記憶されていくというおかしな状況が生まれようとしている。安倍晋三首相は先の日中韓首脳階段で三ヶ国の連携強化を訴えていたが、歴史的事実の継承について鼎の軽重が問われている。

訪中記  ― 改めて戦争しない、させない決意を新たに

渡部公一 (前目黒区職労委員長)

平和友好にむけ南京市を訪問

私は、日中労働者交流協会平和友好訪問団の一員として、毎年12/13に開催される南京大屠殺死難者国家公祭儀式に出席するため、12/11から12/15まで中国を訪問しました。昨年に続き2回目の参加です。日韓関係が徴用工問題などで厳しく、また中国と米国の貿易戦争が世界経済に大きな影響を及ぼし、香港で度重なる抗議活動が多発している中の訪中でした。日本と中国は、田中内閣の時に戦後処理で国交回復、平和条約を締結しましたが、明治から「脱亜入欧」の感覚もあるようで、差別意識があります。日本は、朝鮮半島を植民地支配していたことから戦後処理で双方の歴史認識に深い溝があり、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)については戦後処理、国交回復すらできていません。

こうした状況でなんとか一番近い国が仲良くなり、東アジアの非核平和の実現を願っています。

2つの成果

私たちは、労働者の立場から日中平和友好をテーマに交流しています。社会主義国の労働組合の活動について知識が乏しい中で皆さんと交流できたことは大きな成果でした。この中で私にとって二つの成果がありました。

第1に、昨年は訪中団にユニオン三重の若きリーダーも参加していましたが、今年は、来年4月に社会人になる学生インターン2人が参加し、一挙に平均年齢が若返りました。そのこともあり、私たちも新鮮なまなざしで訪問交流することができました。

第2に、現場の皆さんと交流できたことです。中国側は、全国総工会(日本だとナショナルセンターで全労連や連合)が窓口で、江蘇省総工会(日本だと県本部)が受け入れ、工場見学など地元現場の対応は南京市総工会が案内してくれました。今回の訪問で中国の労働組合が中央、県本部、南京市、工場レベルの人達と交流できました。

南京大虐殺受難者追悼国家公祭の式典に出席

今回の訪中の最大の目的である南京大虐殺受難者追悼国家公祭の式典出席です。私たちは労働者の立場から市川誠さん(元総評議長)らが建設した碑で誓いの言葉を確認、記念撮影しこの式典に臨みました、その式典終了後、侵華日軍南京大虐殺遭難同胞紀念館を見学し、この後、キャンドル祭に参加し世界平和を誓いあいました。その夜は、初公演オペラ「ラーベの日記」の観劇で、ラーベさんの南京市民を守る活動を描いた作品です。

南京市の経済開発区、主力工場、労働者サービスセンターを見学

Skywellの展示室

南京市の経済開発区の溧水区を見学しました。溧水区は、広大な土地を教科書にあるような都市計画の手法で新しい都市をモデル地区として開発し、現在と将来の都市像の説明を受けました。

次にこの地区にある主力産業の一つ、バスやワンボックスの電気自動車メーカーSkywellを見学。工場長から自社開発の部品やバッテリー、5 Gを活用した自動運転の説明がありました。特に印象に残ったのはワンボックスの組み立てラインで、労働者の微笑ましい作業風景を見ました。日本だと一人一人が一つの工程を機械的に対応しますが、ここのチームでいろんな作業をし、次のラインへ送るシステムで、日本でよくあるロボット溶接は見当たりませんでした。この後、Skywellの生産目標など説明がありました。この後、場所を移して産休制度など意見交換しました。

次に南京市総工会の職工服務中心(労働者サービスセンター)の訪問です。労働者、疾病や倒産などで窓口となる業務内容の説明を受けました。不慮の事故などで失業になった人へ再就職の訓練や起業するための融資などについて説明がありました。昨年は会議室で総工会の説明を受けてきました。今年は実際の事務所で具体の事業内容や訓練状況の説明を受けることができました。

バスやワンボックスの電気自動車メーカーSkywellを見学

全体を通じて責任者(各級の副主席クラス)は、シニア世代もいましたが、現場の工場長や開発主任も含め組合幹部の多くが 30代から40代の若い人たちでした。日本も若い世代へ早くバトンタッチしていかなければと改めて思いました。

長江大橋など南京市の大事なところも見学

南京長江大橋

南京市を訪問して長江大橋の見学ができたことは、とても良かったです。長江(揚子江)の大きさを目の当たりにし、この橋の中にある建設資料館も見学し、何よりもこの橋を地面から見ることができとても良かったです。この長江大橋の見学の前に長江のほとりにある南京大虐殺遭難者中山港記念碑も訪問できたことはとても良かったです。

中国各地の慰安所を展示している利済巷慰安所旧址陳列館を昨年に続き見学しました。説明してくれた案内人は、私の事を覚えていました。改めて戦争しない、させない決意を新たにしました。

ありがとうございました

伊藤彰信(日中労交会長、元全港湾委員長)団長をはじめ団員の皆さん、中国側の受けいれていただいたみなさんへ感謝すると同時に、来年は誰か参加できる人を募っていきたいと考えています。 以上

第7次「日中不再戦の誓いの旅」 ―「日中不再戦の誓いの碑」建立から10年、南京を友好訪問

伊藤彰信(訪中団団長)

 日中労交の第7次「日中不再戦の誓いの旅」は、12月11日に出発し、南京を訪問して15日に帰国しました。学生2名が参加し、平均年齢をぐっと下げた訪中団になりました。
 今年は、日中労交の市川誠初代会長が1985年に侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館が開館した時に贈った「鎮魂の時計」に刻んだ「誓い」を碑にして建立してから10年にあたります。訪中団は、南京大虐殺犠牲者追悼国家公祭に参加するとともに、電気自動車工場見学、職工サービスセンター訪問など、現場の労働者と交流してきました。
 訪中団は、団長=伊藤彰信(日中労交会長、元全港湾委員長)、副団長=松本耕三(日中労交副会長、前全港湾委員長)、秘書長=藤村妙子(日中労交事務局長、東京の満蒙開拓団を知る会共同代表)、団員=清水英宏(全国自治体労働運動研究会運営委員長)、渡部公一(前目黒区職労委員長)、池田和則(西日本NTT関連労組執行委員)、新崎盛吾(元新聞労連委員長)、吉本賢一(全港湾大阪支部執行委員)、相澤一朗(東洋大学4年)、猪股修平(東海大学4年)の10名です。
 以下、旅の経過と概要を簡単に報告します。

<12月11日>

 訪中団は、羽田、成田、関空から上海浦東空港に着きました。空港には中国職工対外交流センター経済技術交流部副部長の李晶宇さんが出迎えてくれました。バスで高鉄(新幹線)の上海虹橋駅に移動。昼食をとったあと、高鉄に乗って1時間13分で南京南駅につきました。駅には、江蘇省総工会弁公室科長の費震さん、南京市総工会弁公室の付光宇さんが出迎えてくれました。
 駅の近くで夕食をとり、ホテルに向かいました。ホテルは天豊大酒店。南京市中心部の新街口にある南京市総工会が経営する29階建てのホテルです。

<12月12日>

溧水経済開発区企画館で説明を受ける

 8時30分にホテルを出発し、1時間ほど離れた南京市溧水区に向かいました。
最初に溧水経済開発区企画館を見学しました。経済開発区は南京空港に隣接しており、新エネルギー車、空域産業、電子情報、スマート家電などの産業が集まっています。
 続いて開沃(スカイウエル)新能源汽車集団有限公司の工場を見学しました。新能源とは新エネルギーのこと、汽車とはバスのことで大型電気バスの工場です。技術研究室、ボックスカーの組み立てライン、展示室を見学しました。組み立てラインは数人のグループが部品を取り付けていました。展示室には、大型電気バス、小型電気バス、無人自動車、最近開発した電気乗用車などが展示されていました。
 会議室では、会社のプロモーションビデオのあと、党書記で董事長助理の張威さんが説明をしてくださいました。会社は2000年に創立、2011年に再編して現在のグループになった。従業員は約4000人。自動車産業は成長産業であったが、最近は下降している。しかし、当社は労働条件を維持して経営している。従業員は全員、工会(労働組合)の組合員であり、労働協約を結んでいる。苦情は工会の関与の下で調停して解決している。スポーツやイベントの福利厚生に従業員が参加している。貧しい人、病気の人など困難な家庭への手当や見舞金を支給している。
 溧水賓館で溧水区総工会の幹部を交えて昼食をとりました。話題は、新しく開発された溧水区のこと。50万人の都市をめざすという開発計画、エネルギー、水利、自動交通、公園、ごみ処理など都市計画について話が弾みました。

南京職工服務中心の料理教室

 午後は、市内に戻って南京市総工会の職工服務中心(労働者サービスセンター)を訪問しました。センターは2002年に設立され、32人の職員が5つの部門で仕事をしています。①職業訓練、②起業への貸付、③職業紹介、④困難な労働者の生活支援、⑤インターネットを活用した包摂的なサービスの5部門です。行政が行っている就業と社会保障サービスなどと違い、工会の場合は突然困った状況におかれた労働者の緊急支援のためのプラットフォーム的な事業団体です。1階の相談窓口を案内された後、2階の教室を案内されましたが、起業をめざす人たちを対象にした料理教室が開かれていました。
 案内してくれた南京市総工会副主席の劉輝さんの司会で、センターの熊載璽さんを交えて交流が行われました。労働組合としてこのような活動に取り組んでいることに感心しました。団体交渉指導員の教室もあり、交渉委員を養成しているとのことでした。

 夕方からは、江蘇省総工会と交流しました。
 張柯副主席候補が、江蘇省の状況と江蘇省総工会の活動について説明してくださいました。総工会の役目として、①労働者の合法的な権益を守ること、②国の建設に労働者を動員すること、③労働者を代表して国の社会づくりに参加すること、④労働者の文化、思想活動をおこなうことです。要するに労働者の権益を守り、労働者にサービスを提供することです。
 労働と経済工作部の董雷副部長が、①労働者の経済的地位の向上のための模範労働者の表彰、②効率、革新、安全、環境保全などの技能競技大会、③労働者保護のための安全教育、危険個所の指摘などの安全健康活動、④産業労働者のチームづくりなどについて説明しました。
 教育科学技術工会の陳副主席から同工会の活動について説明がありました。
 訪中団を代表して伊藤団長が、「日中不再戦の誓いの碑」を南京紀念館に建てる際にお世話になったことにお礼を述べ、「誓い」を実現するために、安倍政権が中国敵視を煽りながら戦争する国へ歩んでいることを阻止し、両国労働者階級の友好発展を発展させることが世界の平和を築く上で重要だとあいさつしました。(あいさつ文参照
 夜は、江蘇省総工会の朱勁鬆党組書記副主席が主催する歓迎宴が開かれました。北京から中国職工対外交流センターの彭勇秘書長、何際霞技術経済交流部部長も駆けつけてくださり、盛大な宴会となりました。

<12月13日>

南京大虐殺受難者追悼国家公祭

 南京大虐殺受難者追悼国家公祭に参加するため、8時にホテルを出発し、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館に向かいました。松岡環さんの銘心会の皆さんと同じバスです。国家公祭には、彭勇秘書長、何際霞部長、張柯副主席も一緒に参加しました。前から4列目、私の隣は旅日華僑中日交流促進会の林伯耀さんでした。
 国家公祭のあと、彭勇秘書長、何際霞部長と一緒に食事をとりました。午後、ホテルで休憩した後、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館を見学しました。偶然、南京師範大学の林敏潔教授にお会いしました。日本語学科の生徒たちが日本人の団体の案内をしていました。
 17時30分からキャンドル祭に参加しました。急いで夕食をとって、19時30分から創作オペラ「ラーベ日記」を鑑賞しました。この日初めて上演されたもので、南京安全区国際委員会の委員長を務めたジョン・ラーベをはじめ、ミニー・ヴォートリン、ジョン・マギーたちの南京市民を守る活躍を描いた作品です。

<12月14日>

 午前中、2015年12月にオープンした利済巷慰安所旧址陳列館を見学しました。中国各地の慰安所、日本、アジアの慰安所の資料が展示されています。南京での虐殺、強姦を契機に慰安所が軍の管理下に置かれるようになり、強制的に女性が連れてこられるようになっていく経緯が分かるようになっています。
 午後は、長江ほとりの南京大虐殺遭難者中山港記念碑を訪れました。また、1968年に中国独自の技術で完成した自力更生の象徴である長江大橋を見学しました。夕方、ホテル近くのスーパーで買い物をしました。
 夜は、南京市総工会の孫強党組書記常務副主席が主催する歓送宴が開かれました。ポケトークのような中国製の音声翻訳機を使って会話が弾み、楽しい夜となりました。

南京市総工会主催の歓送会

<12月15日>

 南京駅から上海まで高速鉄道を利用し、上海虹橋駅から浦東空港まで車で移動しました。浦東空港で昼食をとったあと、夕方の便で羽田、成田、関空へと飛び立ちました。
 江蘇省総工会の費震さん、南京市総工会の付光宇さん、通訳として全行程を同行してくださった李晶宇さんには大変お世話になりました。

南京市を訪問して―藤村 妙子改めて戦争しない決意を新たに―渡部公一

あいさつ― 2019年12月 江蘇省総工会との交流会

2019年12月12日
第7次「日中不再戦の誓いの旅」訪中団長・伊藤彰信

 私ども第7次「日中不再戦の誓いの旅」訪中団を暖かく歓迎してくださり、また、私たちの要望を受け止めて訪問先を手配してくださったことに、心から感謝いたします。
 日中労交は2014年から南京大虐殺受難者追悼国家公祭に毎年参加してきました。さらに「日中不再戦の誓いの旅」と名付けて、南京をはじめ日本軍国主義の侵略遺跡を訪問してきました。
「日中不再戦の誓い」とは、日中労交の市川誠初代会長が、1985年に侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館が開館した時に贈った「鎮魂の時計」に刻んだ「誓い」の言葉です。私たちは「誓い」の碑を南京紀念館に建てようと運動し、10年前の2009年12月13日に碑を建立することができました。建立にあたっては、中華全国総工会、とりわけ地元である江蘇省総工会に大変お世話になりました。あらためてお礼を申し上げます。

 私は、今年6月、南京紀念館で「和平の旅」のインタビュー受けました。日中労交にとっても、南京紀念館との交流の歴史を振り返ることができまし、あらためて「誓い」をどう実現するか、考える機会になりました。

「誓い」には「われわれは、1931年および1937年を契機とする日本軍国主義の中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止し得なかったことを深く反省し」とありますが、現在の日本は再び戦争をする国への道を歩んでいます。
安倍政権は、中国敵視を煽るとともに、南京大虐殺は無かった、従軍慰安婦はいなかったと言い、沖縄の辺野古基地の建設、南西諸島への自衛隊の配備、ミサイル基地建設を行っています。また、韓国の徴用工問題の責任を認めず、植民地支配を正当化し、ナショナリズムを醸成して憲法改悪を図ろうとしています。日中労交は、このような動きを「労働者人民の闘争によって阻止」したいと思っています。

「誓い」には「われわれは、日中不再戦、反覇権の決意を堅持し、子々孫々、世々代々にわたる両国労働者階級の友好発展を強化し」とありますが、安倍政権の中国敵視政策の下では困難な状況もあります。
それを克服するために、日本の労働者階級は、まず、正しい歴史を知り、歴史を鑑にして未来を見つめる視点を持つ必要があります。その上で、「子々孫々、世々代々」に繋ぐために、時代の変化、働き方の変化を踏まえながら、「持続可能な社会」の実現を探ることが、両国労働者階級の友好・連帯を強化する重要な課題だと思います。
 中国職工対外交流センターとともに昨年8月に北京で「日中友好労働者シンポジウム」を開催したり、昨年10月の中華全国総工会第17回大会の報告を聞いたりするうちに、中国の労働組合が、労働者と結びつく活動を現場でどのようにしているのか、労働組合改革をどのように展開しているのか、知りたくなりました。なぜなら、日本の労働組合の多くは、あまりにも企業主義に陥り、企業利益ばかり追求するため、労働者からかけ離れた存在になってしまいました。日本でも「大衆路線」による労働運動の実践が重要な課題だと思っているからです。
今まで、国家公祭に参加する際に、江蘇省総工会の皆さんにお会いし交流を重ねてきましたが、今回、企業を訪問し、また、総工会の最前線の活動を見ることができ、あらためて労働者同士の交流の大切さを実感したところです。

 米中貿易摩擦は世界の大きな問題です。中国とアメリカは広い意味での戦争状態になっていると思います。安倍政権が、アメリカを後ろ盾としながら、中国への圧力を強めている現在、日中労働者の友好交流は世界平和を築く上で益々重要になっていると思います。今回の交流の成果を、日本の平和運動、護憲運動、労働運動に役立て、日中友好を若い人に伝えていきたいと思っています。
 最後になりますが、このような交流ができたことに再度感謝を申し上げ、ご挨拶といたします。

12・16緊急講演会「日本の中国侵略と靖国神社」のご案内

 連日のご奮闘に心から敬意を表します。
 さて、2019年8月19日、靖国神社を訪れた中国人作家、胡大平さん(54歳、出身安徽省、代表作小説『愛黄山』)は、靖国神社が、A級戦犯を合祀し、遊就館の展示内容に中国人を侮蔑する「支那」を多用するなど、日本軍の中国侵略を今も美化していることに怒りを募らせ、作家としての止むに止まれぬ思いから拝殿の布幕に墨汁をかけて、逮捕されました。胡大平さんは建造物侵入・器物損壊で起訴され、11月20日に第1回裁判が東京地裁で行われ、胡被告人と弁護人は抗議行動には正当な理由があるとして無罪を主張しました。
 この間、靖国神社では、2009年には台湾の高金素梅・立法委員らダイアル族約50名による大規模な抗議活動があり、昨年12月には靖国神社で横断幕を広げて抗議しこれを撮影し報道した香港人(郭紹傑さん、嚴?華さん)が建造物侵入で起訴されています。これで両岸三地(中国/香港/台湾)の靖国神社への抗議が揃い踏みしたことになります。
 なぜ中華世界で靖国神社への抗議が相次いでいるのか。12月16日の講演会で、纐纈厚・明治大学教授が、日本の中国侵略の歴史から靖国神社問題の本質を丁寧に解き明かします。

<12・16 緊急講演会>
◆日時:2019年12月16日(月曜日)午後6時半~
◆講演:“日本の中国侵略と靖国神社”
◆講師:纐纈(こうけつ)厚 先生
     (明治大学特任教授/前山口大学副学長)
◆会場:文京区民センター2A会議室 (資料代500円)
     (都営地下鉄春日・東京メトロ後楽園下車)
◆主催:胡大平救援会 
◆協賛:村山首相談話を継承する会

●《裁判日程》第2回公判 本年12月10日(火曜日)午前10時~12時
 ※傍聴券交付法廷:裁判所前で開廷30分前締切。傍聴券抽選が行われます。

●《カンパ》胡大平さん救援運動への皆様のカンパをお願いします!
 口座名義:「救援連絡センター」
 口座番号:「郵便振替00100-3-105440」
 【他銀行からの振込みは「ゆうちょ」銀行0一九(ゼロイチキュウ)店
  当座0105440」】
 ※本口座は共用なので送金の際は必ず「胡大平救援カンパ」と明記して下さい。

●お願い……会場は定員200名です。定員になり次第、締め切らせていただきますので、恐縮ですが、出席ご希望の方は、至急、出席申し込みのご連絡を、下記のメールアドレスまたは携帯にお願いいたします。
 E-mail  murayamadanwa1995@ybb.ne.jp
 携帯 090-8808-5000

第6次「日中不再戦の誓いの旅」に参加しました ―  町田貞一

町田貞一(東京東部労組ディベンロイ労組支部委員長)

北京市内は緑が多い

中国訪問は初めてでした。北京空港について初めに感じたことは、空港そのものが広いことでした。異動はマイクロバスでした。北京市内に向かうにつき驚いたことは、第一に、緑が多いことです。どこまで行っても高速道路の両脇は大木でおおわれていました。北京中心部に来ても緑の多さは変わりありませんでした。ギンドロという街路樹だそうです。遠くから見ると記の表面が白く一見白樺の木のようにも見えます。葉っぱはポプラのようにも見えます。今回訪問した各都市にはこの木が大変多く植えられていることを見ました。

北京市内の車の渋滞
北京市内の車の渋滞(8/19)

 次に感じたことは、車が多いことでした。空港を出たときはそれほどでもなかったのですが、北京の中心部に近づくと車の渋滞にはまり、動きは鈍くなっていました。一般道路でも車の渋滞はひどく、各都市中心部ではどこも渋滞していました。

やたら高層住宅とビルが多い

次に気づいたのは、バイクが多いことでした。しかも、電動バイクです。免許証も、ナンバーもいらないということで、大変多くが走っていて、市民の足としての役割を果たしている感じがしました。以前映像で見た中国は自転車の行列でしたが、今はレンタル自転車が至る所にあるが、圧倒的に電動バイクが多いのに感心しました。又、電動三輪車もあり簡単に乗り出すことが出来るようです。

高層ビルが並ぶ瀋陽の街並み
高層ビルが並ぶ瀋陽の街並み

 次の感じたことは、やたら高層住宅、高層ビルが多いことです。空港を離れると高層ビルがあちこちに立っていて、昔見た中国の光景とは結びつきませんでした。今回通訳とツアーの案内をしてくれた李さんは3LDKの130平米に住んでいるそうです。日本の住宅の平均の2倍近くあり非常に羨ましいことだと感じました。この高層ビルが、私たちが訪問した各都市に次々と建設されています。内需の巨大さに驚きました。どの都市に行っても高層ビルが10や20は建設途中のものがあり、これからもどんどん建設されていくさまが見て取れました。

住民を残らず殺しまくった痕跡

撫順炭鉱の露天掘り
撫順炭鉱の露天掘り

 さて肝心の旅の感想ですが、本では知っていましたが、日本が戦前中国に何をしたかということを、見てきました。それは虐殺の連続だと感じました。日本は明治以来天然資源を奪うため中国のその地に住んでいる住民を残らず殺しまくった痕跡が、いまもはっきりと形として残っています。日本ではよく知られています撫順炭鉱近くの平頂山の住民の大虐殺だと思います。私は、あっても1カ所か2か所ぐらいかと思っていましたが、中国の資料では、至る所に大量虐殺の跡がある事を知りました。撫順に次ぐ規模の炭鉱の阜新炭鉱でも万人坑があると、瀋陽の方から紹介されたときには、びっくりしました。阜新炭鉱そのものを知らないし、想像もできませんでした。

1894年旅順占領が侵略と虐殺の始まり

 旅順の203高地は日本人にはよく知られていますが、旅順の萬忠墓記念館は日本人には知られていない模様です。私も知りませんでした。1894年旅順を占領し、百姓の家を捜索し、女性、子供、老人、あった人全員を殺しました。侵略と虐殺の始まりです。日本の記者は書いています。「市内には日本兵ばかりだ。死体の他に支那人が見つからない。ここの支那人は殆ど絶滅した。」(日本「中央新聞」1894,12,27)と。白髪の老女から子供までが暴行されて殺されたとあります。見るに堪えがたい写真です。

侵華日軍731部隊罪証陳列館の前で
侵華日軍731部隊罪証陳列館の前で

哈爾濱では侵華日軍731部隊罪証陳列館、瀋陽では9,18事変陳列館、撫順戦犯管理所、平頂山惨案遺跡記念館、大連では大連現代博物館を見学してきました。どれも、日本の歴史を学ぶ上で重要な施設と展示であったと思います。

軍国主義の戦争なのか、納得がいかない

 私たちは軍国主義が悪かったから戦争になった、と思い込んでいます。軍国主義の戦争だと思い込んでいます。そのことに、私には今ひとつ納得がいかないのです。江戸幕府が終わり、明治になってイキナリ軍国主義になったのか?不思議でなしませんでした。1870年代(明治)、1910年代(大正)にかけて資本の発展があったことがあり、その行き着いた先に資本と軍が結びついた戦争があったのだと思いましたが、今回、資本と軍が一体的に中国の資源を奪いに行ったことがハッキリしました。1872年(明治5年)には日本の鉄道は開業しています。当然石炭は鉄道にも使われるし、工場動力としても、蒸気のエネルギーとしても必要であった。この年は富岡製糸工場も出来ています。ですから、100年以上も露天掘りをしている撫順炭鉱が欲しかったことは想像がつきます。だからと言って農民、住民を虐殺して奪ってきていいとは思いません。

哈爾濱から瀋陽まで約600キロ大平原の穀倉地帯

ハルピンから瀋陽へ・新幹線の速度計は304キロを示す
ハルピンから瀋陽へ・新幹線の速度計は304キロを示す

もう一つ哈爾濱から瀋陽に新幹線で移動しました。その移動の間中無限に広がる畑が見えました。穀倉地帯であることが分かりました。北部はトウモロコシ畑、南に降りてくると水田が多くなりました。見渡す限り畑のみどりです。小さな畑を耕し苦労している日本人なら広大に広い穀倉地帯が無限に広がっているように見えても不思議ではない光景でした。満州の満鉄が奪った石炭を運び、穀物を運んだことは想像がつきます。新幹線で哈爾濱から瀋陽まで、時速300キロでノンストップなら2時間、約600キロ大平原の穀倉地帯。日本の本州を超える広さの平原で穀倉地帯。想像をはるかに超えていました。広大です。だから積出港としての旅順が最初に攻撃されたのです。

 1868年明治になったその年もコメは不作で飢饉でした。この年も食糧難で多くの日本人は海外に移民を始めていました。明治政府は海外から大量の製糸機械や、蒸気機関車など買いあさり、代金を支払うため農民により重税を敷いていったのです。日本国内は数年おきに不作、冷害が繰り返され農民は娘や妻を売らざるを得ませんでした。農村を破壊し工場労働者を奴隷のようにこき使うことが、1800年代の工業化を支えました。工業化は発展してきたが、農村の疲弊は激しくコメの不作、冷害、基金は工業製品を消費できませんでした。そこで目を向けたのが満州であった。市場として、そして、資源の供給地、食料の供給地としての満州が日本の生命線としていった。資本が作り出したプロパガンダです。

過去に学び同じ過ちを繰り返さない

実際やったことを中国東北部を見てくることで、日本がここでやったこと、そしていまだにその責任を1つもとっていないことに非常に怒りを覚えます。それどころか過去のことはなかったことにしようとの政府の姿勢が許せません。すべてを認めたところから出発するしかないのに、1つも認めようとしない政府と、一部の日本人は、過去に学ばなければ取り返しのつかないことを繰り返してしまいます。過去に学び同じ過ちを繰り返さないようにしたい。

左から池田和則さん、町田貞一さん、津和崇さんの団員3名
左から池田和則さん、町田貞一さん、津和崇さんの団員3名

 掲載写真はすべて津和崇さんが撮影

中国東北部への旅―日清・日露戦争の戦場となった大連、旅順、日本人と中国人労働者は共にストライキ

第6次日中不再戦の旅訪中団秘書長 藤村妙子

国東北部への旅

 8月19日~25日私は、日中労働情報フォーラムのメンバーと中国職工対外交流センターの案内で中国東北部への旅をした。主な訪問先は、ハルピンの「731部隊罪証陳列館」(日本軍の731部隊が細菌戦の研究・実践のために人体解剖などを行ったところ)、瀋陽の「9.18事変陳列館」(1931年「満州事変」勃発、以降日本は中国東北部での侵略戦争を開始。中国から見た侵略戦争の実相が展示してある)、撫順の戦犯管理所(戦後、日本軍の将兵らを監護、教育した所)、平頂山の万人坑記念館(1932年9月16日日本軍が村民を虐殺した所)、大連の現代博物館と旅順の萬忠墓などです。ハルピンや瀋陽などは、前回(2017年夏)も行き、報告しているので今回は、初めて訪れた大連、旅順のことを報告します。

 日清戦争、日露戦争の戦場となった大連、旅順

重点遺跡の萬忠墓

 日本は1894年日清戦争、1904年日露戦争を行いました。今回の旅でこの二つの戦争は、戦場が大連、旅順のある遼東半島であり、この半島の領有を争うものであったことを改めて実感しました。日本軍は、日清戦争時の1894年11月に旅順を占領しました。この際、日本軍は旅順で中国人たちを虐殺する大量殺人を行っていたことを「大連現代博物館」や「萬忠墓記念館」で知りました。当時の日本人新聞記者は市内の死体が放置されている様子をスケッチしていました。また日本兵は手紙の中で「市内は日本兵ばかりだ、死体の他に支那人(当時中国人を指す蔑称)が見つからない。ここの支那人はほとんど絶滅した」ということを書いていました。アメリカ人やイギリス人たちもこの惨状を伝えています。

日清戦争の虐殺スケッチ
日本人従軍記者が書いたスケッチ

私は、中国国内の炭鉱などや日本軍による虐殺などで中国人が沢山殺されていることは知っていましたが、それは1932年の以降のことだと思っていたので、日清戦争の時既に皆殺しの行為を行っていたことを知り、暗澹たる思いがしました。そして、戦争が人間性を破壊することを改めて感じました。

 日本人労働者と中国人労働者は共にストライキに立ち上がった

旅順の帝政ロシアの建物がある通りにある「ダルニ―市政庁舎」(正面)[注1]

 初めて大連、旅順を訪れるので「大連・旅順歴史ガイドブック」(大修館書店)を買いました。1905年のポーツマス条約によって南満州鉄道の利権をロシヤから譲渡されると、この地の石炭や鉄などの資源を得るために日本の会社が進出しました。この会社には多くの日本人労働者と中国人労働者が働いていました。私は、この本によって今から約100年前、この地で工場の劣悪な労働条件やリストラに対して闘った日中の労働者が共同してストライキなどで闘っていた事実を知りました。1918年には川崎造船所大連工場で、1920年には満鉄沙河口工場でのリストラに対して闘われメーデーには中国人労働者1200名、日本人労働者1365名が集まり、40日間のストライキの後勝利しています。

この事実を訪問先の総工会(労働組合の指導機関)で聞きました。「私たちも知っています。当時の日中の労働者は連帯してよく闘いました。この闘いには学生も参加していましたよ。」と教えてくれました。私は。不幸な日中の歴史もありましたが、こうした輝かしい歴史もあることを知り、今後も連帯の歴史を引き継いで共に闘っていきたいと思いました。

[注1] この庁舎は、1900年に建てられた。「ダルニ―」はロシア語で[遠い]という意味で「大連」はここから命名されている。1905年に日本に占領されてからは「満蒙資源館」などになり、1945年8月ソ連軍に引き継がれ、1950年に中国の所有となった。大連の変遷の歴史を物語る史跡である。現在は使われていない。

日清戦争当時の旅順港の地図模型