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南京―日本の加害責任を問う旅に参加して

西日本NTT関連労働組合執行委員

池田和則

はじめに

 第7次「日中不再戦の誓いの旅」が12月11日~15日にあり、参加しました。行き先は、上海経由での南京でした。

 さて、12月13日(1937年の)は南京陥落の日です。その日の前と後、南京城の内と外で日本軍による中国人民に対する大量虐殺が行われました。その跡を自分の目で見たいというのが参加の動機でした。日本では、私の親などが「支那事変」と言っていた日中戦争」を中国では「抗日戦争」というのだそうです。どこから見るのか、または、その性格をどう表すのかで異なる名前になります。

 旬刊「中帰連」の裏表紙には、「前事不忘 後事之師」(チェンシープーワン ホウシ―ズシ=前の経験を忘れず 後の教訓とする)とあります。未来を語る前にまずは、過去を振り返ることから始めることが大切だと思うのです。

 旅の準備として、伊藤団長に紹介いただいた、「南京の日本軍―南京大虐殺とその背景」など藤原彰さんの著作を中心に5部読んで臨みました。

上海から南京へ

11日朝、関空出発組のYさんとおちあい、上海で東京組と合流して全員集合となりました。

高速鉄道の上海虹橋駅

上海から南京までは、高速鉄道(中国の新幹線)でわずか1時間ちょっとの旅でした。夕方となり、窓の外は暗く景色は見えません。が、そこは日本「皇軍」が、南京へ、南京へと侵攻する道程でした。私は、1937年を想像します。上海に上陸した日本軍は、上海を占領したものの予想外の中国軍の抵抗にあい、多数の戦死傷者を出しました。中国軍をなめていたのです。さらに、それらのことは中国人に対する憎しみを増幅させ、捕虜の虐殺など、後の残虐行為の伏線ともなりました。

 現地軍は、中央の戦線不拡大方針を無視し、しゃにむに南京へ南京へと進軍します。中国では「南船北馬」といいます。揚子江流域は多くのクリークが張り巡らされ進軍は思いどおりになりません。中国兵、日本兵の死体の浮いたクリークの「赤い水」で炊いた飯盒の飯を食いながらの進軍であったといいます。

 もともと、日本軍は兵站を軽視していました。ここでも、前線部隊に武器・弾薬の補給が間に合わない。ましてや「食糧」、「医療」、「衛生」など軽視・無視もはなはだしい。橋を落とされたクリークに阻まれ、馬荷や荷車、トラックは立ち往生します。現地の実態を無視した作戦計画の失敗がますます戦況を悪化させました。

 打開方法は、現地調達=徴発=略奪でした。「略奪」は当初の作戦立案時点での前提でした。

進軍中の村々から銃剣で脅して「食糧」、「家畜」などを、略奪し、家は焼き払い、男は拉致して荷役運びをさせ、女性は凌辱する。後続の日本軍部隊は先行部隊と同じコースの進軍を嫌がったといいます。「略奪」し尽くされ、何も残っていないからです。それほど、徹底したものでした。

そもそも軍隊にとっては、占領地においてはすべてのものが戦利品なのです。そんな軍隊の典型が「皇軍」=天皇の軍隊でした。

しかし、侵攻すれば、するほど中国人は諦めるどころか、怒りに燃え、抗日闘争で中国は団結することになりました。

 いずれにしても、「虐殺」は南京で急におこなわれたのではなく、ずっと前から行われていたのです。しかし、「南京虐殺」はあまりに規模が大き過ぎる。いまだに「なかった」という日本人がいるが、どの面さげていっているのか!

南京にて

12日

南京市り水区の「り水経済開発区企画館」と「開沃(スカイウエル)新能源汽車集団有限公司」の工場、午後は南京市総工会の職工服務中心(労働者サービスセンター)を見学しました。その後、江蘇省総工会との交流会がありました。現代の中国、中国の現実には興味を持っていますし、質問もしました。が、一言でいえば、1,2時間の交流、数時間の見学ではよく理解できなかったというのが、本音です。頻繁に交流している方の話や文章で発表されたものも総合して、間違いの少ない理解になると思います。従って、今回私は触れません。他の参加者の報告をお読みください。

ただ、江蘇省総工会との交流で印象に残ったことには触れます。伊藤団長はあいさつの中で「われわれは、1931年および1937年を契機とする日本軍国主義の中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止できなかったことを深く反省」するという日中労交の決意を受け継ぎ、「安倍政権」をはじめとした右翼勢力の動きに対し「労働者人民の闘争によって阻止」したいと決意を述べられました。これに対し、江蘇省総工会の張副主席候補は、「日本軍国主義は中国人民に対して加害者ではありますが、一般の日本人をも被害者にしました。」と述べたうえで、「私は、最近日本のドラマを見ました。おしんというドラマです。主人公のおしんは(アジア太平洋)戦争で息子は戦死し、軍部に協力した夫は自死しました。それは、最愛の夫、息子を失ったおしんも戦争の犠牲者、被害者であると思います。」と。

この「言葉の交流」に温かいものを感じました。私も「労働者人民の闘争によって阻止します。」と決意を新たにしました。

会議が終わり、帰りに前を歩いていた中国側通訳の二人の方がこのような話をしておられました。「日本のいろいろな労働組合の訪中団の通訳をするけど、戦争責任に触れるところはないね。日中労交だけだよね」、「中国側から話を切り出すわけにもいかないもんね。」と。

「貴重な」日中労交に誇りを持つとともに、いつまでも「貴重な」存在にしていてはいけない。日中労交の持つ考え方・姿勢を多くの日本の労働組合に広げることも私達の「仕事」だと思いました。

13日

「南京大虐殺受難者追悼国家公祭」が「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞祈念館」の広場でありました。広島や長崎での原爆被爆者追悼集会のイメージでした。言葉がわからないので、政府高官などがどんなメッセージを発したのかはわかりませんでした。ただ、安倍首相のような「心にもないこと」は言っていないでしょう。

午後、「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞祈念館」を見学しました。特に真新しい「事実」発見などはありませんでしたが、現物を、本資料をじかに、自分の目で見ることができ、願いがかないました。

オペラ劇場のホール

夕方、キャンドル祭に参加し、その後、創作オペラ「ラーベ日記」を鑑賞しました。記念すべき初演でした。1937~8年の南京、「南京安全区国際委員会」の委員長を務めたジョン・ラーベをはじめ、ミニー・ヴォートリン、ジョン・マギーたちの南京市民を護る活躍を描いた作品でした。中国語と英語の字幕が出るのですが、知らない単語が多く、詳しいストーリーまでは分かりませんでした。重いテーマですし、すっきりした終わり方ではないので、流行るかはわかりません。「オペラ」というジャンルを見るのは最初で最後かなあ⁉と思いました。

14日

「利済巷慰安所旧址陳列館」を見学しました。中国各地の慰安所、日本、アジアの慰安所の資料が展示されています。南京での強姦、虐殺を契機に慰安所が軍の管理下に置かれるようになり、強制的に女性が連れてこられるようになった経緯が説明されています。

入口を入った中庭に大きなお腹をさすっている少女の像がありました。以前読んだ本の中にあった「写真」に似ていると思いました。でも「写真」とは同じではありません。施設の中に入り、その「写真」がありました。朝鮮から連れてこられたあの少女が収容されたのが、この「利済巷慰安所」だったのです。少女の名は朴永心。この建物の二階19号室は、朝鮮籍「慰安婦」被害者朴永心さんが三年間にわたり、日本軍の性奴隷に強いられたところでした。中庭の像はあの「写真」の少女をモチーフにして作られたとのことでした。

少女たちの青春を奪い、女性たちに癒えることのない傷を負わせた大日本帝国。日本国内に今も残る「大日本帝国」主義者に中国や韓国がうるさいなどと云わせない。日本国内で活動する私たちが「大日本帝国」主義者を黙らせ、真実を広める任務を遂行せねばならない。固く誓いました。 

中山港の大虐殺遇難同胞記念碑
中山港の大虐殺遇難同胞記念碑

その後、長江(=揚子江を中国ではこう呼ぶそうです)ほとりの南京大虐殺遭難者中山港記念碑で頭を垂れました。また、1968年に中国独自の技術で完成した自力更生の象徴である長江大橋を見学しました。展望台に上り、長江の流れを観ました。あまりに大きく全貌は見えませんでした。けれど、その時も長江のほとりで中国人捕虜の虐殺地点にたくさんの×で示す地図と二重写しになりました。敵国の捕虜は「処置」し、日本軍兵士には捕虜となることを許さず、「餓死(飢え死に)」させる。まさに、「日本鬼子(リーベンクイズ)」が泥沼深く沈んでいく通過点だったのです。

  おわりに

 8月の中国東北部(旧「満洲」)に続く今回の旅で「日本の加害責任」を辿る旅に一応の区切りがついた感があります。

 今後も「日中労交」の「第8次」、「第9次」と訪中団が企画されると思います。皆さんに参加をお薦めします。特に、南京は5日と短く、費用もお手頃です。さらに、40歳以下の参加者には「日中交流助成基金」が設立され、中国国内旅費の助成があるそうです。中国側も日本の若者の訪中を期待しているようです。

 「日中労交」の訪中団の案内がきましたら、私からも個別にご案内したいと思っています。

お世話いただいた、「日中労働者交流協会」と受入窓口の「中国職工対外交流センター」には大変お世話になりました。御礼申しあげます。

以上