中国東北部への旅―日清・日露戦争の戦場となった大連、旅順、日本人と中国人労働者は共にストライキ

第6次日中不再戦の旅訪中団秘書長 藤村妙子

国東北部への旅

 8月19日~25日私は、日中労働情報フォーラムのメンバーと中国職工対外交流センターの案内で中国東北部への旅をした。主な訪問先は、ハルピンの「731部隊罪証陳列館」(日本軍の731部隊が細菌戦の研究・実践のために人体解剖などを行ったところ)、瀋陽の「9.18事変陳列館」(1931年「満州事変」勃発、以降日本は中国東北部での侵略戦争を開始。中国から見た侵略戦争の実相が展示してある)、撫順の戦犯管理所(戦後、日本軍の将兵らを監護、教育した所)、平頂山の万人坑記念館(1932年9月16日日本軍が村民を虐殺した所)、大連の現代博物館と旅順の萬忠墓などです。ハルピンや瀋陽などは、前回(2017年夏)も行き、報告しているので今回は、初めて訪れた大連、旅順のことを報告します。

 日清戦争、日露戦争の戦場となった大連、旅順

重点遺跡の萬忠墓

 日本は1894年日清戦争、1904年日露戦争を行いました。今回の旅でこの二つの戦争は、戦場が大連、旅順のある遼東半島であり、この半島の領有を争うものであったことを改めて実感しました。日本軍は、日清戦争時の1894年11月に旅順を占領しました。この際、日本軍は旅順で中国人たちを虐殺する大量殺人を行っていたことを「大連現代博物館」や「萬忠墓記念館」で知りました。当時の日本人新聞記者は市内の死体が放置されている様子をスケッチしていました。また日本兵は手紙の中で「市内は日本兵ばかりだ、死体の他に支那人(当時中国人を指す蔑称)が見つからない。ここの支那人はほとんど絶滅した」ということを書いていました。アメリカ人やイギリス人たちもこの惨状を伝えています。

日清戦争の虐殺スケッチ
日本人従軍記者が書いたスケッチ

私は、中国国内の炭鉱などや日本軍による虐殺などで中国人が沢山殺されていることは知っていましたが、それは1932年の以降のことだと思っていたので、日清戦争の時既に皆殺しの行為を行っていたことを知り、暗澹たる思いがしました。そして、戦争が人間性を破壊することを改めて感じました。

 日本人労働者と中国人労働者は共にストライキに立ち上がった

旅順の帝政ロシアの建物がある通りにある「ダルニ―市政庁舎」(正面)[注1]

 初めて大連、旅順を訪れるので「大連・旅順歴史ガイドブック」(大修館書店)を買いました。1905年のポーツマス条約によって南満州鉄道の利権をロシヤから譲渡されると、この地の石炭や鉄などの資源を得るために日本の会社が進出しました。この会社には多くの日本人労働者と中国人労働者が働いていました。私は、この本によって今から約100年前、この地で工場の劣悪な労働条件やリストラに対して闘った日中の労働者が共同してストライキなどで闘っていた事実を知りました。1918年には川崎造船所大連工場で、1920年には満鉄沙河口工場でのリストラに対して闘われメーデーには中国人労働者1200名、日本人労働者1365名が集まり、40日間のストライキの後勝利しています。

この事実を訪問先の総工会(労働組合の指導機関)で聞きました。「私たちも知っています。当時の日中の労働者は連帯してよく闘いました。この闘いには学生も参加していましたよ。」と教えてくれました。私は。不幸な日中の歴史もありましたが、こうした輝かしい歴史もあることを知り、今後も連帯の歴史を引き継いで共に闘っていきたいと思いました。

[注1] この庁舎は、1900年に建てられた。「ダルニ―」はロシア語で[遠い]という意味で「大連」はここから命名されている。1905年に日本に占領されてからは「満蒙資源館」などになり、1945年8月ソ連軍に引き継がれ、1950年に中国の所有となった。大連の変遷の歴史を物語る史跡である。現在は使われていない。

日清戦争当時の旅順港の地図模型