「誓い」の碑を前にして

藤村 妙子

東京南部全労協事務局長/
東京の満蒙開拓団を知る会共同代表

 

 

 

「中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止し得なかったことを深く反省し(中略)日中不再戦、反覇権の決意を堅持し・・・両国労働者階級の友好発展を強化し、アジアと世界の平和を確立するため、団結して奮闘することをあらたに誓います」

日中労交の初代会長の市川誠氏によって起草された「誓い」の碑

これは、1985年8月15日に日中労交の初代会長の市川誠氏によって起草された「誓い」の一節である。今この「誓い」は2009年に日本語・中国語・英語で碑に刻まれ、南京大虐殺記念館の交流広場に建立されている。私たち日本の労働者が決して忘れてはいけない誓がここに刻まれている。この碑を前にして私も二度と侵略戦争をしない思いを新たにした。

私と中国

私と中国との関係は、高校生の時から始まる。学園紛争が華々しく闘われた後の1970年4月に入学した高校では様々な教育改革が行われていた。制服はなくなり、自由な雰囲気が漂っていた。そして、高校2年から「選択授業」が各種あり、私は「中国近代史」を選択した。選択したのは5名くらいで、担当は、世界史の教員だった。(彼は、私たちが卒業すると大学の先生になって高校教師は辞めてしまった)。週一回中国の近現代史、日本が戦争中に行ったことを本多勝一の「中国の旅」をテキストとして学んだり、毛沢東の「実践論」「矛盾論」を読んだりした。この時の経験が、私のその後の人生を決めたと言ってもいいと思う。

また、地域の市民運動の仲間たちと東京からの満蒙開拓団の調査研究を行う「東京の満蒙開拓団を知る会」を2007年9月に作った。そして、研究の成果を2012年9月にゆまに書房から出版した。この研究の時に心がけたことは「調査なくして発言なし」主観を排し、事実に基づく記述をすることだった。

前置きが長くなってしまったが、日々変化し、発展していく中国の大地に立つと「中国近代史」の授業の時に教師の「中国は広い、変化に富んでいる。今が全てではなく、矛盾の中から次の力が生み出される。日本にいたら感じられないダイナミックなものがある。」という言葉を思い出す。

 「慰安所」に使われた家

利済巷慰安所旧址陳列館

今回の旅で特に印象に残っているのは、14日午前中に行った南京市内の「慰安所」跡地である。ここに侵略した日本軍の兵士たちが「慰安」という名の女性への凌辱行為を行っていたのかと思うととても重たい気分になった。当時の部屋や調度品が残されていて、中国各地やアジア各地(沖縄も含めて)の「慰安所」の写真や調度品、性病検査に使った診察台などが展示されていた。日本軍が組織的に「慰安所」運営にかかわっていたことを示す展示物などもあった。「「慰安婦」は商売でやっていた」などの言説がまだ日本にはある。当時ここに連れてこられ、暮らしていた女性たちがこの言葉を聞いたら胸が張り裂けるばかりの怒りを発するだろう。事実を認めない人たち、とりわけ是非安倍首相はこの場所に来て誤りを認めてほしいと思った。

止まらぬ涙を拭う藤村さん(利済巷慰安所旧址陳列館)
診察台(利済巷慰安所旧址陳列館)
利済巷慰安所旧址陳列館

これからも真実を伝え続けたい

今回行った「中国人民抗日戦争記念館」「南京大虐殺遇難同胞記念館」「『慰安所』旧跡陳列館どこに行っても事実を事実として認めず、侵略戦争への反省の誓でもある憲法を変えようとする安倍政権への怒りがわいてきた。そして、同時に「誓い」にある「子々孫々、世世代代にわたる両国労働者階級の友好発展を強化」することを先輩諸氏から受け継ぎ、次に伝える重みを感じた。この重みをバネにして今後も活動を続けていきたい。(おいしい中国料理を堪能して体重も重くなったが、こちらの方は減らす努力が必要ですが・・・。)

中国人民抗日戦争記念館で
1192年につくられた盧溝橋(別名:マルコポーロ橋)の欄干には様々な形
の獅子が置かれている(橋の下を流れる永定河は凍っていた)

 写真:筆者、神部紅


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