日本は中国で何をしたのか― 山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆の姿 

河原井さん・根津さんらの「君が代」解雇させない会 講演会 (2017/3/5) <山邉悠喜子さんのレジュメ報告・抜粋>

日本人医療隊として侵略の道を辿って「日本鬼子」を自問自答

私たちは四平~北票へ、そして義県から汽車で山海関へ、天津近郊の北倉で、北京での大規模な戦闘に備えて準備を整えましたが、北京が無血解放されて、再び南下しました。関里に入ると、その印象は全く変わりました。白山黒水資源に抱かれた東北は、ある意味で豊でした。でも三光政策が実施された華北の大地は、東北と同じではありませんでした。蹂躙された農地は乾いて農民の耕作を待って居ます。彼らの懸命に作業する姿が見られました。私たちの部隊は、相変わらず農家の作業を手伝いながら、農民から訴苦を聞く毎日でしたが、部隊の殆どが医師、看護婦の日本人主体の医療隊です。途中で病人が居れば簡単な治療方法を教えたりしましたが。住民も同僚の中国人医師も、私たちに対して決して非難がましい事は言いませんでした。寧ろ慣れない労働を労ってくれましたから、私たちはこの待遇を自然に享受しました。でも関里はそうはいきません。

1949年3月下旬でしょうか、農家はそろそろ始まる春耕に備えて忙しい時期です。
毎回休息の時、炊事場を借りて部隊全員の食事が作られます。「食事ですよ!」知らせで私たちは各班ごとに食事を受け取りに行きます。農家の叔母さんが、綺麗な花模様の食器を貸してくれました。私たちは楽しく食事を済ませると出発の知らせを待っていました。
何時もなら直ぐ出発なのに、時間が過ぎてから出発です。後の話でしたが、あの綺麗な食器は食器ではなかったと知りました。農家は私たちの会話から、かつての侵略者日本人である事を知ったのです。それは農家の女性のささやかな報復でしょう。あの三光政策を思えば、何不自由なく人民の部隊の中で、部隊への信頼故に私たちも当然のように彼らの好意を受け入れてきましたが、それはあまりにも勝手でしょう。私たちは悶々と次の行程を進みました。許されるなら、かつての日本軍が農民に何をしたのか、私たちへのささやかな報復をわびて少し話を聞きたかったのです。勿論反省を込めたこのような思いは、直ぐには生まれませんでした。時間の遅れは中国側が農民との対話であったと後で知りました。
このことが私たち日本人にもう一度あの戦争を思い出させました。小休止のとき、かつてなかった事ですが、侵略についての質問が出ましたが、当時の私たちは未だ誰もはっきりした説明は出来ませんでした。貧しい村を通過しました。農家の入り口に備わっている大釜を借りて食事を作りました。各位が座ったテーブルには小さい塩壺があって、それはただ一つの副食品でした。大釜から良い臭いがして雑穀のお粥が出来ました。近所の子供たちが入り口で私たちの様子を黙って見ていました。私たちの部隊には、12、3歳の通信員が連絡などの任務を持って同行していました。自分の椀に入れられた雑穀粥を黙って、見ている子供たちに差し出しました。
見ていた農民が、あんたたちはこれから未だ何里も歩かねばならない。子供は欲しがりますが、心配無用と言いました。でも、小通信員は黙って子供の食べるのを見ていました。「私のも……」と私が椀を差し出すと、押し戻した小兵士は、「我家にも小さい弟がいます。今日は食べたかな?」と、席を立ちました。表で見ていた子供たちは、一椀の粥をみんなで分け合って食べていました。何度か聞いた「日本鬼子!」を思い出しました。誰に質問してもその返答はありませんが、東北からここまで、私たちはかつての侵略の道を辿って来たのです。鬼の正体が理解出来ないとしたら「お前は何を見てきた?寝てたのか?!」と自問自答でした。

後に《人民解放軍衛生工作史》に、戦争捕虜と協力者の区別について説明がなされていました。中国人の戦友たちは、どんなにか苛立ち、きっと怒りをぶつけたかったでしょう。規則や命令で押さえられる問題ではないはずです。事実の前に黙って私たちの理解と進歩・成長を見ていてくれた先輩戦友たちの気持ちが今ならこの上なくありがたく理解できるのです。

1949年4月下旬、私たちは楊柳清から運河で南下しました。大運河は水が少なく私たちは交代で堤から船を引き(拉船)ました。河北に入り、沦洲>德洲>临清で下船、黄河を越えて河南へ、49年5月には鄭州の西、荥(xing)陽・49年6月下旬には徒歩で漢口に到着しました。慣れない南方の生活で、マラリアなどが多発しましたが、キニーネなどが少なく、薬品の補給に苦労があったと聞いています。徒歩行軍ですから足に血豆が出来ました。自分の頭髪を消毒して通すと、大体一夜で腫れが引きました。恐らくこれらは苦難の中から生み出された治療法でしょうが、勿論近代的に造られた靴を履いたら不要の発見かも知れませんね。

(93年~私たちは731部隊展を実施して全国を回りました。その時「中帰連」(中国帰還者連絡会)の元将校、兵士が撫順では、毎日日本語の本を見て勉強したと言いました。何と羨ましい、と密かに妬ましく思ったのです。でも、それより私たちを信頼し、傷兵の治療を任せてくれた中国側の暖かさが、そして、侵略の爪痕をつぶさに見せて教育した人々の大きさを今は嬉しく思っています。もしあのときもう少し学ぶ機会があったら、あの涙ながらに訴えた住民の声を記録できたらと残念にも思います。只、日々の行動を追いかけるだけで記録もとれなかった自らを只残念に思いながら今も昔の道を歩いています。)

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