なぜ東京から1万人も満州に渡ったのか? 「東京満蒙開拓団」~その背景と史実から学ぶもの~

日中労働情報フォーラム第4回総会 特別講演(2016/4/16)

講師 藤村 妙子(東京の満蒙開拓団を知る会)

藤村妙子さん
藤村妙子さん(東京の満蒙開拓団を知る会 共同代表)

講演した藤村妙子さんは東京南部の地域で労働組合の役員や市民運動をしてきた方だ。2006年地元の高校生が学園際で配ったパンフレット「興安東京荏原郷開拓団の最後」で初めて知ったと時の衝撃は忘れることができないと語る。なぜ東京から開拓団が出たのか、足元の史実が知りたくて仲間と調査を開始したのがきっかけだった。そして、実は東京から1万1111名の開拓団が満州に送られた事実を知った。
多数の開拓団の中に武蔵小山商店街の団がありこれが「荏原郷開拓団」だった。農業と関係ないクリーニングや乾物屋、運送業などに従事した人々がどうして満州の開拓団に参加させられたのか調べていく。その結果、当時(1930年代)は産業も国家予算も民生を圧倒する軍事予算と軍需に急傾斜していく中で商店など仕事を辞めざるを得なかった背景が浮かび上がる。
そして、調べていくうちに地元の大田区には東京に集まった都市の貧困層を満州に送るために多摩川農民訓練所があったことも知っていった。そして、多摩川農民訓練所より前に東京深川に『天照園』というところからも満州に送りだされいいたことが分かった。農業訓練された人々が満州に送られたのは、日本が1931年に満州事変を起して中国東北部を侵略して設立した満州国(1932年)を安定して支配するためだった。当時国は人口の少なくとも10%は日本人が占めるように国策として満州に送り出したのである。1929年の世界恐慌や農民飢饉などで失業者が増大し、路上生活者(当時の呼称は「屋外居住者」)が増え、2008年のリーマンショックの東京の年越し派遣村と同じように失業者があふれる状況が東京にあった。「天照園」開拓団はそうした失業者救済の団体が送りだした日本で初めての集団開拓団であった。

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出発前の開拓団(多摩川農民訓練所)

多摩川農民訓練所は後に移転したが、そこに代わりに作られたのが女子拓務訓練所である。それは満州国に日本女性を花嫁として送り出すための訓練所であった。これを設立した修養団の名誉顧問は平沼騏一郎(当時の総理大臣)であった。『大陸の花嫁』の役割は、「民族資源の確保のために開拓団を定着させる」「民族資源の量的確保と純潔の保持」「日本婦人道の移植」「民族協和」とされた。「民族資源」とは日本人の子孫であった。満州国を日本人が支配する国とするために開拓団と共にその嫁になる女性たちを送ったのである。送られる華やかな花嫁候補たちの写真が当時のグラフ誌「写真週報」に掲載されている。

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そして、送られた現地の「開拓村」は中国人を略奪したひどいものであったことを当時の開拓団(仁義仏立講開拓団=仏教系)の少女だった鈴木則子さんが証言している。昨日まで誰かが住んでいた気配のある家を提供された鈴木さん家族であったが、彼女が近所の中国人の友達の家に行ってアバラ屋に住んでいた彼らの姿を憐れんだら、その友達から「君の家は私の家だった」と告げられたのである。鈴木則子さんは当時その意味が分からなかったそうである。

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満州の開拓団の村(写真・鈴木則子氏提供)

この他に、東京からの開拓団としては、国士館大学を母体にした『満州鏡泊学園』や東京計器を母体とした開拓団([落葉松開拓団」)があった。東京農大の報国農場へは、1944年4月渡満した大学生(一年生は79名を含む)95名のうち58名が死亡している。また、東京農大を母体とした『常磐松開拓団』は、敗戦直前、ソ連が中国東北部に攻め込んだ8月9日未明に牡丹江駅に到着している。政府は開拓民の命など尊重していないことが明らかであった。藤村さんは、原発を作る時に美しい約束をたくさんして、事故が起きたら住民を見捨てる現在の政府と相似していると断罪する。
これら2つの避難を経験した橘柳子さんの2012年3月11日の集会での次の発言を引用している。「中国大陸を徒歩で結集地に向かったあの記憶がよみがえりました。原発事故の避難は、徒歩が車になっただけで。延々と続く車の列とその数日間の生活は、あの苦しかった戦争そのものでした。そして私はおびえました。国策により二度も棄民にされてしまう恐怖です。いつの時代も国策で苦しむのは罪もない弱い民衆なのです。」
藤村さんは最後に開拓民として満州に移住しなかった小河内村の住民たちのことを話した。「村民たちはダム建設で追い出されることに対して疑問を感じ、生活保障などを政府に交渉を繰り返していた。そうした彼らにとって『満州への移住』は受け入れられるものではなかったのだろう。結果2人の村民を除いて誰も満州に移住しなかった。小河内村は戦後ダム建設でなくなるが、満州で死の逃避行を経験することは避けられた。彼らに『見抜く力』があったことの結果だと思う」と語った。
政府の進める政策を鵜のみにすることなく、歴史や広い情勢を学ぶことで自立的に生きることの大切さを訴えて、藤村さんは東京満州開拓団の話を終えた。

<報告 高幣真公>


≪講演ビデオ≫ (49分)

<資料 1> 藤村妙子氏の講演レジュメ(PDF)

<資料 2> NHK 戦争証言アーカイブス「証言記録 市民たちの戦争」
      強いられた転業 東京開拓団~東京・武蔵小山~

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<資料 3>

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著書「東京満蒙開拓団」
東京の満蒙開拓団を知る会 著
ゆまに書房刊 定価 1,800円+税