侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館(2019年6月19日)
私たちが注目すべき、歴史に残すべき記録
1985年8月15日
中国侵略日本軍南京大虐殺遇難同胞紀念館が正式に完成、開幕
式典参列者の客の中に混じるわずかばかりの日本人外国客
彼らは誰か?
彼らはまたどのようにこの紀念館建設を見ているのか?
1
「万人坑」遺跡を見て深い思いに触れ、紀念館開幕式典参加を決意
1985年5月7日、42歳の日本人、高幣真公は日中労働者交流協会とともに初めて南京に訪問した。
高幣真公によると、彼らはわざわざ江東門を訪れ「万人坑」遺跡にて現地視察を行った。
累々と積み重なった白骨に協会員銘々の心が震撼した。彼らは冷静に、ただ歴史を正視することで、同じ轍を踏まないことにつながると意識した。
写真=協会が江東門を訪れ「万人坑」遺跡にて現地視察(高幣真公提供)
協会員は当年8月15日、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館が正式オープンすることを知り、帰国後、彼らは直ちに紀念館開幕式典来館参加にむけて計画を始めた。
1985年6月、高幣真公と協会員一同が、協会名義で、南京市総工会に向けて誠意ある手紙で式典に参加させてもらいたいと希望した。
7月27日、南京市総工会は返信でこのように回答した:「式典参加の希望の要望に、我々は大変感動した。あなた方のこのような心情を南京市民に伝えたい。」
高幣真公が経緯を思い起こし、多方面からの尽力で、1985年8月13日、日中労働者交流協会の日本代表が正式に紀念館開館式参加の招待を受けることができたと述べた。
2
「紀念館は日中不再戦、日中友好の新たな出発のために」
1985年8月15日、協会が送り出した団長市川誠、団員平坂春雄と山田順三の3名の代表が、記念館建設完成の開幕式に参加した。
彼らは式典に参加した3人のみの外国の友人でもあった。
後に、市川誠は式典参加にいたる過程を1編の記事『紀念館は日中不再戦、日中友好の新たな基点としよう』に書き上げた。それにはこのように書かれている:
1985年8月15日、中国人の方からすると、この日は反ファシスト戦争に勝利した40周年記念日。午前8時半開館式典が正式に始まり、私たちは列の2列目に立っていた。
まず、中華人民共和国国家斉唱、つづいて南京市長張耀華の言葉。
彼はこのように述べた「侵略戦争のこの歴史は永遠に次世代の心に刻む。中国人民と日本人民がともに過去の歴史を肝に銘じ、歴史の悲劇を繰り返さないよう、共に努力する。」
式典参加の代表の一人平坂春雄が回顧録の中で書いている「日本軍侵略戦争を理解しない日本人からすると、紀念館は彼らに大きな衝撃を与えるだろう」。
式典に参加した日本の友人から南京に1つの「鎮魂の時計」が贈られた。上には「中国侵略戦争を反省、謝罪、犠牲者の御霊に弔意を捧げます」 の刻印がある。
3
「中国では平和の願いを表明するが、日本ではほとんどがこの表明を見ていない」
―時は瞬く間に34年経過。
高幣真公はすでに76歳の老人になり、一人の日本人友人の伊藤彰信と再び南京に来訪し、歴史の場所にインタビューで訪れた。
高幣真公は述べる:「日本では南京大虐殺に関する書籍や映像を見たことがある。今回の来館訪問での収穫は大きく、紀念館に展示される多くの詳細な資料が歴史を再現している。多くの日本人が訪れて見学することを希望する。」
伊藤彰信は記念館を知らなかったわけではないと話した。2005年に初めて南京を訪問し、2009年に再度団を率いて記念碑除幕式のために来館した。2014年以降は毎年南京大虐殺死者国家公祭で南京を訪れていた。
伊藤彰信は述べる。「2005年紀念館はまだ小さな館であったが、数年経て紀念館はどんどん新たな展示でリニューアルを繰りかえし、見学者が歴史の理解を深めることができるようになっている。参観した中で印象深かったのは、日本軍南京大虐殺遇難同胞紀念館だけでなく、中国人民抗日戦争紀念館でも、展示の最後に平和の表明で締めくくり、「過去は忘れず、未来の師とする」と表明していたことだ。日本の博物館では、このような表明はあまり見ない。」
4
中日両国の人々の交流強化を呼びかける
中日友好の交流推進について、高幣真公が述べる:「日本人はもっと中国に来て変化を見るべきで、中国人も日本に来て日本の変化を知ってほしい。双方は交流を基礎にしてのみ、歴史への思考を深め、学習することが可能だ。」
伊藤彰信は特に中日友好の根幹は若い人々にかかっていると強調する。彼は述べる:「日本の世論調査で、日本の若者層が中国への認識に比較的大きな隔たりがあり、より多くの日本の若者が中国を見に来て、学び、青年同士の交流に力を入れてほしい。」
写真=伊藤彰信(左)、高幣真公(右)が紀念館でインタビュー、高幣真公が協会で 撮影した紀念館建設写真を披露
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