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南京大虐殺から83年・証言を聞く東京集会―歴史を忘れず、現在の戒めとしよう

南京大虐殺から83年 証言を聞く東京集会

「歴史を忘れず、現在の戒めとしよう」と「南京大虐殺から83年 証言を聞く東京集会」が12月13日、東京都内で開かれた。コロナのため予約制の集会であったが50名弱が参加した。

主催者の「ノーモア南京の会」を代表して田中宏先生(一橋大学名誉教授)が次のように開会のあいさつをした。

田中宏先生(一橋大学名誉教授)
田中宏先生(一橋大学名誉教授)

南京の紀念館がオープンしたのが1985年8月15日、戦後初めて現役の中曽根首相が靖国神社を公式参拝した日です。84年4月に靖国懇がつくられ、神道の参拝形式でなければ憲法違反にならないという答申を受けて、参拝に踏み切るわけです。中国で南京紀念館の建設準備が進んでいることに、日本の外交ルートもマスコミも気が付いていなかった。

靖国懇のメンバーで哲学者の梅原猛さんが新聞にエッセイを書いている。靖国懇に外務省を呼んで「靖国参拝はせっかく良くなってきている日中関係を悪化させることになりはしないか」と聞いたところ、外務省は「何も心配ありません」と答えた。梅原さんはその後、中曽根首相に会ったとき「私の言ったとおり日中関係は悪化してしまった。靖国懇の委員を辞めておけばよかった」と言ったところ「行くなと言っても私は参拝した。そうしなければ自民党はもたなかったから」と言ったと書いている。

歴史と向き合あうことに日本社会は非常に鈍感です。私が初めて南京に行ったのは1987年ですが、南京大学の先生に「なぜ紀念館をつくったのですか」と聞いたら「それは教科書問題です」と二つ返事でした。1987年に韓国に独立記念館ができます。パンフレットを読んでみると「日本で歴史の改ざんが始まった。私たちは歴史を正しく伝えるために記念館をつくった」と書いてあった。1982年が教科書問題でした。宮沢官房長官が「政府の責任で是正する」と談話を発表して収めた。検定基準の中に近隣諸国条項を入れて対応した。教科書がどうしてこんなに問題になるのか分かっていない。

今も歴史とどう向き合うのかという課題は続いている。その重みを感じてほしい。

 集会は、日本軍が行った南京安全区の中国軍敗残兵掃蕩作戦に巻き込まれ、父と兄を殺害された石秀英さんの証言ビデオ「石秀英さんの被害の現場を訪ねて」(ノーモア南京の会制作)と東史郎日記の現場を訪ねる任世淦さんの活動を追った「故郷鎮魂」(山東テレビ制作)が上映された。その後、細工藤龍司さんが「山東省にもあった南京大虐殺」と題して、東史郎日記と任世淦さんの活動について解説した。

南京大虐殺から83年・2020年東京証言集会に行ってきました―― 藤村妙子

第2回「中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い」開催(11/19)

第2回「中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い」が11月19日、東京都港区の芝公園で開催されました。

約7000人の中国人が日本で命を落とす

 第二次世界大戦の末期、日本は国内の労働力を補うために約4万人の中国人を強制連行し、全国135か所の土木工事、鉱山、港湾、造船などで、劣悪な環境のもと過酷な労働を強制しました。そして、約7000人(政府報告書は6830人)の中国人が日本で命を落としました。1949年8月、中国人の遺骨が秋田県花岡(現・大館市)で初めて発掘されました。遺骨発掘70周年を記念し、中国から、遺族、宗教者ら50人が来日し、日本から80人が参加して第2回の「日中合同追悼の集い」が行われました。第1回の「日中合同追悼の集い」は10年前に行われました。

靴並べを行う中国からの参加者
靴並べを行う中国からの参加者

 前日の天気と打って変わり、雨も上がり、風もおさまった朝9時から公園で、6830足の靴並べ、テント張り、祭壇、受難者名録壁(拓本)の準備が進みました。10時30分からは庭儀を行ない、雅楽奏者、導師を先頭に遺影を掲げた遺族、日本側参加者が続き、増上寺の周辺道路を行進しました。公園に戻り、献花をして、11時40分から法要が行われました。

 12時から追悼の集いに移り、黙祷のあと、主催者を代表して一橋大学名誉教授の田中宏さんが「日本で死亡した中国人俘虜殉難者は靴を履かないまま帰国せざるを得なかった。靴を履いて安らかに旅立ってほしいと願い、靴を並べた。1953年に花岡から殉難者の遺骨を返還する際に倣って、今回初めて庭儀として導師を先頭に遺族が入場する儀式を行なった。強制連行を閣議決定した日本政府の責任を追及していく」とあいさつしました。

遺影を掲げ庭儀へ出発
遺影を掲げ庭儀へ出発
主催者あいさつをする田中宏さん
主催者あいさつをする田中宏さん

1945年、花岡鉱山の中国人労働者が蜂起

 遺族を代表して花岡受難者聯誼会の韓建国さんが「1945年6月30日、花岡鉱山の鹿島組に収容されていた中国人労働者が蜂起し、補導員を殴り殺し、森に逃げ込んだ。軍隊、警察など2万人に包囲され捕られ100人以上が惨殺された。花岡鉱山では強制連行された986人のうち419人が死んでいる。1949年夏、花岡鉱山付近で中国人殉難者の遺骨が次々と発見され、その遺骨は日本の民間団体の運動によって返還されることになった。日本政府は謝罪を口にしたことはない。絶対に許せない」と裁判(現在大阪高裁で係争中)の経過を含めてあいさつしました。

三菱被害労工遺族代表の載乗信さんが「父は市井のラッパ吹きだったが、1944年6月、日本軍に捕まり帰ってこなかった。1945年12月に日本から帰ってきたが、病を患い、手足は痺れ、一生苦労をした。家族も悲惨な目に合った。日本政府は歴史の責任を負わなければならない」とあいさつしました。

多くの遺骨が山野に埋もれたまま

 在日華僑を代表して林康治さんが「花岡で遺骨が発見されてから、日本の友人、朝鮮の友人、在日華僑は、全国的に遺骨収集の作業をした。1953年から1964年まで9回にわたって2300余の遺骨を中国に返還した。しかし、なお多くの遺骨がこの国の山野に埋もれたままになっている。平和を愛する人は、歴史に正しく向きあい、二度とこのような悲劇を起こしてはいけない。永久平和のために中日両国人民の子々孫々までの友好を築きましょう」とあいさつしました。

追悼の歌唱、舞踊と演奏
追悼の歌唱、舞踊と演奏

 追悼の歌唱、舞踊と演奏が披露され、市民団体からの訴えの後、アピールを採択しました。

歴史を戒めとして、日中友好を築き、アジアの平和を

 最後に村山首相談話の会の藤田高景さんが「安倍首相は、日中戦争を侵略戦争と認めず、従軍慰安婦、南京大虐殺は無かったといっている。花岡和解も怪しからんというのが本音だ。韓国の徴用工問題にしても日本が頭を下げる必要はないという。歴史を歪曲し、侵略・植民地支配の反省をしない安倍が、隣国と平和友好を築けるわけがない。歴史を心に刻み、戒めとして、日中友好を築き、アジアの平和をつくろう」と閉会のあいさつをしました。

参加者は、全員でインターナショナルを歌い、「日中合同追悼の集い」を閉じました。中国からの参加者は、その後、バスで花岡に向かいました。

並べられた6839足の靴
並べられた6839足の靴
殉難者名録壁(拓本)の前で法要
殉難者名録壁(拓本)の前で法要

日中合同追悼の集いアピール( 191119 )

第4次「日中不再戦の誓いの旅」報告(2)・渡辺学

侵略の歴史と戦後の日中友好運動の長い伝統を認識

渡辺学(全労協青年委員会代表・全国一般南部支部)

 個人的にもはじめての中国訪問でしたが、今回の日中不再戦を誓う旅(第4次「日中不再戦の誓いの旅」2017/12/11~15)に参加できて本当によかったです。南京大虐殺から80年目の12月だったということ、安倍政権が憲法9条改悪を具体的な政治日程にあげてくるなかで、かつての日本軍による侵略の歴史と戦後の日中友好運動の長い伝統を感じ、その大切さを認識することができました。

 <天津の在日殉難烈士労工祈念館>

在日殉難烈士労工に供花(2017/12/12 天津)

2日目(12/12)に訪問した天津の在日殉難烈士労工祈念館の展示は驚きと怒り、感動がありました。花岡事件など強制連行されてきた中国人労働者の暴動決起。残虐な弾圧。戦後補償を要求した裁判闘争と日中の連帯。中国共産党の支部を建設して活動した労働者もいたとのこと。
そのたたかいに決起した労働者たちはどんな気持ちで、どんな計画で活動していたのか?知らないことばかりです。あらためて勉強し直してみたいなと思いました。
中国人労働者の強制連行にサインをしたのは東条英機内閣の商工相・岸信介でした。安倍首相が尊敬してやまない祖父です。閣議決定によって強制連行された中国人労働者は日本の鉱山や港湾、工場、土建などの現場で奴隷労働を強いられました。かつて、山谷や釜ヶ崎などの寄せ場で活動した船本洲治(1945-75)が「われわれは強制連行された朝鮮人労務者・中国人労務者の中に労務者としての歴史的・普遍的な運命をみる」を言いましたが、労働者・労働組合として、戦争責任や戦後責任を考える時に重要な視点であることを再確認することができました。
その労働者の帰還運動や遺骨返還運動を1953年から行ってきたのが、日本赤十字や宗教団体、炭労や全港湾などの労働組合だったそうで、日中労働者友好運動の原点のひとつだという言葉が心に残りました。

 <南京大虐殺国家公祭>

南京大虐殺犠牲者追悼国家公祭に参加した団員(2017/12/13 南京 )撮影:渡辺学

3日目(12/13)は南京大虐殺国家公祭に参加しました。習近平主席ら中央政府要人が来ているというので、警備はものものしく、参加者も兵士や人民解放軍の幹部候補の学生、警察の幹部候補の学生などが多く、まわりを固めていて、個人的にはいやな雰囲気でした(笑)。毎年そういうわけではないようです…。
そうしたなかで、式典は大虐殺の幸存者(生存者)の方たちも参列し、厳かに儀式が行われました。今年は習近平主席は演説はせず、政治協商会議全国委員会の兪正声主席が演説しました。安倍政権発足以来、ようやく好転しつつある日中関係に配慮したもののようです。当時、南京に滞在していたジョン・マギー牧師やジョン・ラーベの孫も参加していました。日本からも地道に日中友好運動と南京大虐殺の真相究明に取り組んできた団体が参加。わたしたちもその一団でした。現場で何名かの知り合いと再会できたことも偶然でうれしいことでした。ニュース映像にもたくさん登場したようです。2014年の習近平演説は日本語で読むことができますが、日本軍国主義と日本人民を分けて考える姿勢を堅持しつつ安倍政権に釘をさしています。夜はキャンドル祭が南京市内の各所で開かれました。わたしたちは記念館のキャンドル祭に参加しました。日中の宗教者たちが祈りを捧げていました。

南京大虐殺記念館で行われたキャンドル祭(2017/12/13 南京)撮影:渡辺学

 <中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館>

南京大虐殺記念館内の展示(2017/12/14 南京)

国家公祭とキャンドル祭の間、午後の時間帯に中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館を見学しました。南京大虐殺犠牲者の遺骨発掘現場に建てられた施設です。ちょうど80年前、南京攻略戦(包囲―殲滅戦)の過程で、あのすさまじい民衆虐殺を行ってしまった日本人の子孫として、二度と侵略戦争をさせないとあらためて決意しました。
一方で、資料館のなかには「国が弱く、軍隊が弱かったからこうなった」という趣旨の「歴史の教訓」もあり(大多数は世界の人々のと平和友好の先頭に立とう、というものでしたが)、複雑な気持ちになりました。しかし、安倍政権の「戦争する国」づくりは、中国政府からみたら、「人民を守る強い国家・軍隊」が必要だということになってしまうことはたしかです。資料館は中国共産党直轄の施設なので、その時々の情勢によって展示内容が変わります。そういう意味でもろに「政治的」なのです。
80年前、7月7日にはじまった 日中全面戦争。8月に、上海から南京(約300キロ)への本格的な進撃を開始した日本軍は、中国側の猛烈な抵抗に苦戦し、4ヶ月後にようやく南京を占領(12月13日)。宣戦布告はなく、「北支事変」「支那事変」と、わい小化して呼ばれました。さらに、戦争遂行の目的は「暴支膺懲」などとされ、「暴戻支那(ママ)ヲ膺懲ス」(暴虐な中国を懲らしめよ)と、近衛文麿首相が声明を出しました。

南京大虐殺記念館内の展示(2017/12/14 南京)

当初の日本軍の作戦計画は、上海付近の中国軍を撃破するというものでした。ところが、3ヶ月の激戦の末に、上海の戦線を突破し中国軍が後退をはじめると、功にあせった現地司令官たちは南京入りを競い合って、次々と陸軍参謀本部が設定した「制令線」(指揮命令線)を越えていきました。そのため、南京に急進した各部隊はじゅうぶんな後方補給施設をもたず、食糧などを徴発=略奪でまかないました。すでに、上海~南京の300キロの地域で、日本軍は略奪、虐殺、レイプ、放火などを行っていました。そして、日本軍は南京を完全包囲し、殲滅戦を行いました。12月12日に南京防衛軍の唐正智司令官は南京を脱出。日本軍は南京を占領し、そこから2ヶ月に渡って、国際法で禁止されている捕虜の集団虐殺、非戦闘員への虐殺、レイプや放火、略奪をしていきました。

 <まごうことなき侵略戦争であった>

これが歴史の事実です。中国側は犠牲者を「30万」としていますが(これはこれで根拠がある)、1人だろうが、100人だろうが、1万人だろうが、外国から押し寄せてきた軍隊が捕虜や非戦闘員を殺せば虐殺です。南京大虐殺の事実は、沖縄戦などとならび、日本軍=神聖な天皇の軍隊の正統性を根本からゆるがす汚点です。だから、日本の極右勢力は「あれはまぼろしだった」などと歴史を歪曲するのに躍起です。歴史教科書からも抹消していきます。
当時から、国際世論はこの日本軍の蛮行を非難していました。しかし、日本政府は厳しい言論統制、報道統制を敷き、日本国民にこの事実を知らせないようにしました。多くの日本人は「南京陥落」を喜び合い、提灯行列までしました。歴史を直視し、あの戦争が日本による「正義の戦争」「解放のための戦争」では絶対になく、まごうことなき侵略戦争であったことを対象化していきたいと思います。

 <日中不再戦、日中平和友好、反覇権の誓いとともに…>

日中労交(日中労働者交流協会)が建立した南京大虐殺祈念館の敷地内にある碑文にある「われわれは1931年および1937年を契機とする日本軍国主義の中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止し得なかったことを深く反省し、南京大虐殺の犠牲者に対して心から謝罪するとともに、哀悼の意を表し、ご冥福を祈ります。
われわれは、日中不再戦、反覇権の決意を堅持し、子々孫々、世々代々にわたる両国労働者階級の友好発展を強化し、アジアと世界の平和を確立するため、団結して奮闘することをあらたに誓います」という誓いをかみしめました。

 <利済巷慰安所旧址陳列館>

利済巷慰安所旧址陳列館(2017/12/14 南京)

4日目(12/14)は南京市内にある利済巷慰安所旧址陳列館へ。ここで慰安婦として働かされていた女性の証言をもとに「南京市内の慰安所」として使われていたこの場所を「再確認」し、資料館とした場所です。アジア太平洋地域やヨーロッパなどに住む元日本軍慰安婦の被害女性たちの記録や2000年の女性国際戦犯法廷などの展示が充実していました。日本右翼の襲撃訪問を警戒してか、入場にはパスポートが必要で、ライターなども受付で預けなくてはなりません。ここも多くの人に訪問してもらいたいです。案内してくれた女性たちも「とても辛い場所なので自分からは行きたくはない。それでも来れてよかった」と言っていました。

 <若い世代に歴史を継承していく学習や議論を>

今回の訪中で、あらためて歴史認識を確立することの大切さを痛感しました。そのためにわたしたちやわたしたちよりもっと若い世代に歴史を継承していくための学習や議論を重ねていくことが求められていると思います。また、同世代ふくめて「中国の人たち」と語り交流したことも大きな財産になりました。この人たちやこの人とつながる人たちと戦争するわけにはいきません。

天津ー南京の高速鉄道車内での渡辺学さんと通訳の石晶晶さん

通訳兼ねて同行してくれた女性は、わたしとほぼ同じ年頃の子どもがいます。出張で家を留守にしているため、夜は中国版・lineでビデオ通話をしていました。北京や南京など、都市部では保育園不足が深刻で本当に困ってる早期に改善しなければ、と意気込んでいました。 わたしより少し若い彼女は、偽「満州国」のあった黒竜江省に実家があり、友だちには残留孤児の孫もいたそうです。天津から南京に向かう高鉄(新幹線)の中で少し話し込むことができました。中国共産党第19回党大会決定についてもレクチャーを受けました(笑)。北京市内の大学に進学し、「日本語をいかせる仕事を」と中華全国総工会に就職したそうです。こちらが答えにくい質問をしても誠実に、丁寧に、自分の言葉で答えてくれました。
彼女によると、習近平はたたきあげの苦労人だと。前の胡錦壽が共青中央からはじまったのに比べて、習近平は父親が抗日戦争や国共内戦で活躍した将軍だったのが、文革で農村に追われ思春期を労働改造所のような学校で過ごしたと。そして、地方の村の党の書記となり、下層の民衆と共に活動した経験があり、厦門市長の時は中央政府の要人が来た際の贅沢な接待を禁止し汚職をなくそうと努力した人だと評価していました。
中国共産党や中国政府のことを、「あれは社会主義ではない」と切って捨てるのはたやすいことですが、事はそう単純ではないようです。多くの人口と民族を国土に抱え、生活水準をあげるために改革・開放を打ち出し30年。アメリカの歴史的後退のなかで、中国が大国として台頭しようと挑戦してきたのがこの20年近くの経過ではないでしょうか。日本のわたしたちの側も激動する東アジアのなかで、どのような具体的・現実的な政策を打ち出し、磨き上げて、人々に訴えていけるか問われているんだと思います。それぞれの現場で四苦八苦しているところですが…。

 <日本社会の歴史認識・社会認識は歪んでいる>

あらためて、日本社会の歴史認識・社会認識は歪んでいるのだと思います。
日本は皇帝のいる国です。ここは中国との大きな違いです。2018年を明治維新150年などとはしゃぐようですが、アジア太平洋地域を侵略し、国内の民衆からの搾取・収奪をほしいままにしてきたのが日本帝国主義です。1945年8月15日に帝国主義間戦争に敗れた後、東西冷戦が東アジアに波及したこと(中国革命と朝鮮戦争)を受け、戦前からの支配層が政治・経済・教育・メディア・軍事・警察などの機関に復帰してきました。そうした人々はアジア蔑視・敵視を継続させながら、「鬼畜米英」のアメリカを最高位の同盟国とし、沖縄を犠牲にし、アジア地域に経済侵出しながら高度経済成長を続けてきました。このなかでつくられてきた日本人の精神構造は、象徴天皇制に支えられつつ、とても陰湿なものとして醸成されてきたのではないでしょうか。

江蘇省教育技術工会との懇談(12月14日 南京)

4日目(12/14)の夜、南京で白酒(パイチュ)をとにかく大量に乾杯して、杯を乾かすために(苦笑)とにかく飲み続けました。おかけで最終日は夕方までひどい二日酔いでした。南京~上海までのマイクロバスでの車中はそれはそれは大変でした。旅の恥はかき捨てとばかりに迷惑うぃかけまくりました。それから、お土産の「爆買い」もしました。もう二度と中国人観光客のことを悪く言いません。
歴史学習、日中友好運動お歴史の重みと世代継承、そして中国というスケールの大きなひとつの社会を旅し、交流ができました。お世話になったすべてのみなさんに感謝申し上げるとともに、これからの運動の実践の中でその恩を返していきたいと思います。

(写真提供:団員 押田五郎-清掃・人権交流会会長)

トップ写真:井良強江蘇省副主席と握手する渡辺団員(12月14日 南京)

<参考> 第4次「日中不再戦の誓いの旅」~北京、天津、南京を訪問~ (2017/12/21)

ブックレット「『平和資源』としての日中共同声明」が発売されます(7/7)

当会の会員でもある内田雅敏弁護士が、日中両政府が結んだ4つの基本文書をたどりながら、日中間の平和で安定した未来を切り拓くため、ブックレット「『平和資源』としての日中共同声明」を著しました。
A5判128ページで、資料も充実しています。1972年の日中共同声明、1978年の平和友好条約、1998年の平和友好協力パートナーシップ宣言、2008年の戦略的互恵関係声明、2014年の合意文書が全文収録されています。その当時の新聞記事も掲載されており、社会状況もわかります。また、井上ひさし作の「シャンハイムーン」を引き合いに日中関係を見つめなおすことも資料に加えられており、政治文書の解説だけではなく、日本が中国とどう向き合うのかを問いかける内容になっています。 続きを読む ブックレット「『平和資源』としての日中共同声明」が発売されます(7/7)

南京大虐殺79カ年 東京証言集会(12月15日)のお知らせ

「南京大虐殺79カ年 東京証言集会」が12月15日(木)に開かれます。
侵華日軍南京大虐殺遭遇同胞記念館の前館長である朱成山先生が講演します。

「南京大虐殺79カ年 東京証言集会」

日 時 12月15日(木)18時30分
場 所 韓国YMCA 9階国際ホール
東京都千代田区猿楽町(さるがくちょう)2-5-5
JR水道橋駅下車5分
内 容 幸存者証言ビデオ(侯占清さん、石秀英さん)
講演「世界記憶遺産と南京大虐殺ー中国の平和への取り組み」
    朱成山さん(侵華日軍南京大虐殺遭遇同胞記念館前館長)
会場費 1000円(高校生以下無料)
主 催 12月南京証言集会実行委員会
連絡先 ノーモア南京の会(FAX 03-3889-9499)

12/3 南京の記憶を今につなぐ―映画とトーク

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南京ドキュメンタリー映画『太平門 消えた1300人』上映会のご協力を!

昨年末、南京大虐殺がユネスコ世界文化遺産に登録されました。これを巡って日本側は「拠出金をもう出さない」などを述べる圧力をかける始末でした。安倍政権の約80%の閣僚が何らかの右翼団体に名を連ねています。政権を担う者から市民右翼までが広範に存在し、侵略戦争に対する歴史修正主義が広範にまかり通り、歴史を歪曲しています。学生たちが使用する歴史教科書や公民教科書もあからさまに捻じ曲げられ、歴史歪曲教科書の採用にまつわる疑惑も出ています。

この南京大虐殺のドキュメンタリー映画は、次の世代へ事実を伝え得る自信のある作品です。「事実は捻じ曲げられません」事実を広めていけるよう、各分野で活動されておられる民主的な労働組合や市民の皆さんへご協力を呼び掛けます。 続きを読む 12/3 南京の記憶を今につなぐ―映画とトーク