7.7盧溝橋事件80年を記念して「中国全面侵略戦争80年と東京裁判」シンポ開催(7/7)

中国全面侵略戦争80年と東京裁判」シンポジウム(2017/7/7 衆議院第1議員会館大会議室)

 「侵略戦争を忘れない、繰り返さない」を誓った300余名の参加者

1937年7月7日、盧溝橋事件=中国全面侵略戦争が発生した。それからちょうど80年目の日午後3時半から6時半まで衆議院第一議員会館の大会議室(定員300名)に立ち見客があふれる中で「中国全面侵略戦争80年と東京裁判―日本は国民レベルで、あの中国・アジアへの侵略戦争の総括をなしえたのかー」が開かれた。主催は村山首相談話を継承し発展させる会。

藤田高景さん(村山首相談話を継承し発展させる会・理事長)

開会のあいさつに立った藤田高景さん(村山首相談話を継承し発展させる会・理事長)は、「安倍首相は国会議員になってから一度も日本が侵略戦争を行ったと言ったことはない。・・・盧溝橋事件は自己のみを正当、無謬だする自己絶対化が戦争拡大する重大な原因になった。事件はあの悲惨な結末をもたらした根源であることを80年経た今日、本シンポジウムを通じて皆さんと一緒に噛みしめたい」。

鎌倉孝夫さん(埼玉大学名誉教授)

続いて鎌倉孝夫(埼玉大学名誉教授)さんが主催者を代表して「世界の趨勢に逆行して金融独占の利益追求を支える安倍政権の戦争遂行政策を阻止しなければならない」と語った。その後来賓として共産党、社民党、沖縄の風、平野貞夫さん(元参議院議員)が本集会に連帯と激励のあいさつを行った。

薛剣さん(中国大使館公使・政治部長)

さらに、各界からの激励あいさつとして中国大使館薛剣(公使・政治部長)さんは「村山首相談話は明確に日本の過去の侵略の歴史を認め、深く反省とお詫びの意思を表明された。この談話は日本の侵略の被害を受けた中国国民とアジアの諸国民から非常に肯定的な評価を得ている」と述べた。

福山真劫さん(平和フォーラム代表)

平和フォーラム代表の福山真劫さん、「安倍政権の本質は2つあり、1つ目は憲法を壊して日本を軍事大国にすること。2つ目はお友達による、お友達のための、お友達の政治、つまり権力の私物化だ。しかし、安倍政権の崩壊が始まっており、崩壊まで進めていきたい」と述べた。

白西紳一郎さん(日中協会理事長)

日中協会理事長の白西紳一郎さんは「2つのことを言いたい。日中間で大事なことは、正しいことを言うということ。日本が中国を侵略したのであって、中国が日本を侵略したのではない。2つ目は約束を守るということ。2014年北京で開かれたAPECの際の習近平主席と安倍首相の首脳会議で合意した4項目がある。その第3項で釣魚島(尖閣諸島)の帰属について互いに意見が違うことを認めあった。その後その約束を日中どちらが守っているのか?考えてほしい」と述べた。

粟屋憲太郎さん(立教大学名誉教授)

基調講演は2人で、最初に粟屋憲太郎(立教大学名誉教授)さんが「東京裁判と日中戦争」と題して約30分講演した。(略)続いて、山田朗(明治大学教授)さんが「日中戦争80年・なぜ戦争は拡大したのか」と題した講演を行った。山田教授の講演を以下に要約する。

「日中戦争80年・なぜ戦争は拡大したのか」 山田朗教授

山田朗さん(明治大学教授)

日中戦争の原因を考えてみると、それは明治維新にさかのぼる。明治維新は日本の近代化の始まりであると同時に対外膨張政策の始まりでもあった。明治政府は朝鮮への侵略を目指して主にイギリスからの情報を元にロシアの脅威に備えて日英同盟を結び、朝鮮の領有するために日清戦争を始めた。日清戦争で台湾を獲得したのに続き日露戦争を始める。日露戦争は軍費の半分を英米両国からの借款で賄って勝利した。その結果、韓国を併合する。以前に朝鮮半島は日本の「利益線」(勢力圏)と言ってきたのが、そこが主権線になった。その結果、その外側の満州が新たな勢力圏に設定されることになる。
満州さらに華北へと日本軍がどんどん膨張していく始まりであった。1920年代に国民党による中国の民族統一の動きが北伐として始まると、日本では満蒙の権益を守れという意識が高まり、一部軍人たちは武力占拠しようと考える。1927年、軍部により山東出兵と満州の軍閥、張作霖の爆殺事件が起こる。しかし、この時政府が占領を認めなかったので、成果がなかったので、1931年に関東軍が再び満州事件を起して占領する。そして、満州国を設立するが、これを支配者は大きな成功例と考え、さらに南部の華北5省の獲得方針へと変わっていく。時の岡田内閣もこの方針を承認した。この華北5省併合の方針が1937年の盧溝橋事件が日中全面戦争に突入していく背景にあった。
日中戦争は目的のない戦争であった。日本は盧溝橋事件をきっかけに華北を分離させようと戦争を拡大し、さらに中国国民政府を打倒のために上海、南京へと戦争を拡大していった。日本政府は「蒋介石政府を相手にせず」と宣言して出口のない戦争を続けることになる。1938年、政府は「東亜新秩序」声明を出して、戦争の目的を後付け国民に明らかにした。これはヨーロッパでの独伊の新秩序に模したもので、これまで利権を分け合っていた英米露に対して日本が中国を独占するという宣言であった。これに対して欧米は「蒋介石政権支援」で日本に対抗した。東亜新秩序声明によって日中戦争は単に日中間の戦争ではなく、日本と中国を支援する欧米諸国との戦争にだんだんと性格が変わってくる。当時「支那通」と言われる人びとを含めて日本人の大方は、中国人の民族意識の高まりと欧米との戦争へ拡大していることに気づかなかった。
中国で満州国を作り、さらに日中戦争を拡大した1937年末には、日本軍は華北に50万人を派遣し、満州と本土を含め全部で100万人の軍隊を抱えることになった。当時の通常兵力は25万人だったので、4倍の兵力であった。日本軍は兵士の質が低下したので、それを補うために毒ガス兵器や細菌兵器を使うことになる。膨大な軍隊を維持する物資が送れないために「現地調達」が基本になり、その結果日本軍による中国民衆への略奪が常態化していく。略奪と性暴力や虐殺が広がり、それが大規模化して「三光作戦」となる。日中戦争の記憶が戦後国民の間に継承されないのはこの原因にある。戦後に兵士は仲間内では話せても、親や子供に自分が中国でどんなことをやったのかを話せない。日中戦争は日本人にとって「語れない戦争」となった。中国大陸には100万人を超える日本軍がいたが、多くの人がその記憶を語れない。また、語るなという上部の指示も出ていた。それが今でも日中戦争の記憶が希薄化している要因である。
そして、日中戦争こそが欧米との戦争の原因になった。なぜなら日中戦争で獲得した広大な中国の領土を失いたくないからであった。そして、英米と闘うために1940年に独伊と三国同盟を締結し、その後仏印(ベトナム)に侵攻する。<中略>
おしまいに、日本がやった戦争は自衛のためだという人がいますが、明治時代以来の膨張政策が日中戦争を生み、日中戦争による日本軍の侵略(南進)と欧州大戦に便乗した三国同盟が対英米戦争を不可避とした。

第2部:6名のパネラーによるシンポジウム

休憩の後、第2部として評論家・森田実氏のコーディネイトのもと、粟屋憲太郎、山田朗、田中宏(一橋大学名誉教授)、高嶋伸欣(琉球大学名誉教授)、纐纈厚(山口大学名誉教授)ら6名のパネラーによるシンポジウムを約1時間行った。残念ながら、内容紹介を省略する。
最後に伊藤彰信(日中労働情報フォーラム代表)さんが「15年にわたる悲惨な日中戦争を通じて戦後日本人は2度と戦争しない決意で日本国憲法を作った。この思いをもう一度噛みしめて行きたい」と閉会のあいさつを行った。

<報告・写真 高幣真公>

<参考資料>
山田朗(明治大学教授)講演「日中戦争80年・なぜ戦争は拡大したのか」レジュメ