カテゴリー別アーカイブ: 強制連行

10月1日、キャンプ・シュワブ前で「日中友好・不再戦」を掲げて辺野古基地反対の大集会で内田雅敏さんはアピールした

「佐渡おけさ」をもう一度 日中が「敵対的な相互依存」から抜け出すには

内田雅敏・弁護士
2022年9月29日

 日中共同声明調印後、上海に向かう田中角栄首相(当時)ら政府代表団を空港で見送る子供たち=中国北京の北京空港で1972年9月29日、同行特派員団撮影日中が国交正常化した50年前には、保守の政治家にも先の大戦で日本が中国を侵略したことについての申し訳なさがあり、また中国の文化への敬意もあった。50年前にお互いが何を約束したのか、そこに立ち返る必要がある。
 1972年の日中共同声明は「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省」とした。そのうえで、お互いに覇権国家とならないとし、台湾問題については、日本は台湾が中国の一部であるとする中国側の見解を尊重するとした。尖閣諸島の帰属については棚上げした。
 その後も両国はこの姿勢を繰り返し確認してきた。2007年の温家宝首相(当時)の国会演説では尖閣諸島問題について「両国は係争を棚上げし、共同開発をする原則にのっとって(中略)平和・友好。強力の海にすべきです」と述べている。

 台湾問題についても、日中共同声明に戻れば、日本の立場は明らかだ。いたずらに台湾有事とあおり、防衛費を増額し、米国の軍事産業から兵器を「爆買い」していれば、中国の軍拡派の口実になるだけだ。不信の連鎖を喜ぶ人たちが両国にいる。敵対的な相互依存関係になってしまう。これでは外交とは言えない。
 08年の胡錦濤国家主席(当時)が来日した際の共同声明では「日本側は、中国の改革開放以来の発展が日本を含む国際社会に大きな好機をもたらしていることを積極的に評価し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築に貢献していくとの中国の決意に対する支持を表明した。中国側は、日本が、戦後60年余り、平和国家としての歩みを堅持し、平和的手段により世界の平和と安定に貢献してきていることを積極的に評価した」と互いにエールを交換した。
 それほど昔のことではない。たかだか14年前のことだ。胡氏は早稲田大学での講演で「我々は歴史を刻みつけなければならないと強調するが、恨みを持ち続けるべきではない」とも言つている。
 こうしたことをお互いが理解していれば、両国関係はまた違った形になるはずだ。この50年だけをとってみても、日中関係が現在のような状況になったのは、つい最近のことだ。

民間交流の積み重ね

 中国人強制連行。強制労働など戦後補償問題の訴訟に関わってきた経験から言えば、歴史問題は判決とその執行だけで解決するものではない。一つめに事実関係を認め、責任を求めて謝罪をする。二つめに謝罪の証としてなんらかの金銭的な補償をする。二つめに同じ過ちを起こさないために将来に向かっての歴史教育を行い、その被害者に対する追悼事業を継続する。
 この二つは並列ではなく、三つめをすることによってはじめて、一つめの謝罪が本当に被害者とその遺族に理解されてくる。謝罪した側も二つめのことを遂行するなかで、もう一度、加害の事実を捉え返す。
 私が関わった花岡事件の訴訟でも、西松建設や三菱マテリアルの訴訟でも、裁判で和解した時点では被害者側には不満もある。しかし、たとえば花岡事件では地元の自治体が毎年、追悼事業を実施し、その事業を地元の市民が下支えしている。交流するなかで、中国の遺族も「本当に反省してやってくれている」と感じるようになる。

 国交正常化40周年の12年の時は尖閣諸島の国有化の問題があり、日中関係は非常に厳しかった。広島県安芸太田町で実施している西松建設の強制連行を巡る追悼式では、中国側が参加しない懸念もあった。しかし実際には、人数は減ったものの来てくれて「来てよかった」と言ってくれた。国の関係が厳しい時であっても、民間の交流を途絶えさせてはならない。
 日中国交正常化の際、田中角栄首相は周恩来首相に「私は長い民間交流のレールに乗って、今日ようやくここに来ることができました」と述べている。中国側もレセプションで田中氏の地元の「佐渡おけさ」を演奏することで応えた。
 そのような関係が50年後のいま、どうして変わってしまったか。もちろん日本の政治家が歴史を十分に認識していない問題があるが、中国側にも問題はある。たとえば四つの基本文書(※ )の一つである98年の日中共同宣言では中国は日本のODA(政府開発援助)に謝意を表明している。こうしたことを中国はどこまで認識しているか。
 四つの基本文書の内容は日本でも中国でもまだ十分理解されていない。このような平和資源を双方の民衆が自分のものにして、それぞれの為政者に迫っていく。一見遠回りに見える道しか方法がないのではないかと思つ。

※四つの基本文書

(1)国交を正常化し、中国が戦争賠償請求を放棄した1972年の日中共同声明(2)紛争解決を武力に訴えないことを確認した78年の日中平和友好条約(3)両国首脳の相互訪問を決めた98年の日中共同宣言(4)戦略的互恵関係の推造を約束した2008年の日中共同声明――の四つを指し、日中関係の礎と位置付けられている。習近平国家主席も14年11月11日の安倍晋三首相(当時)との日中首脳会談で「四つの基本文書を踏まえ、戦略的互恵関係にしたがって日中関係を発展させたい」と述べた。

<トップ写真>
10月1日、キャンプ・シュワブ前で「日中友好・不再戦」を掲げて辺野古基地反対の大集会で内田雅敏さんはアピールした

6月29日と30日を日中友好の日にしよう!

ー 中国人殉難者慰霊式に参加して ー

渡部公一(目黒区職員労働組合 前委員長)

花岡事件と出会う

私は、山形出身ですが、東京に就職するまで花岡事件について何も知りませんでした。30年ぐらい前になると思いますが、芝居「勲章の川」で知りました。その後、目前のことに追われ、再びこの事件に直面するのが日中労交の一員として「中国人殉難者慰霊式」(以下式典という)の参加でした。
日中労働者交流会の会長、伊藤彰信さんからメーリングリストで送られてきた参加要項やパンフ、事務局長の藤村妙子さんから紹介された本の中から野添憲治の一冊と大館市のホームページで昨年と一昨年のコロナ禍の式典をビデオで見ました。そこで、前日の6/29フォーラムと6/30式典とフィールドワークにどのように参加しようかなと考えました。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 01
大館市郷土博物館「のびゆく大館」の中央のホワイトボードに「花岡事件」の解説

大館市が式典を継続

オンラインzoomの日中友好カフェで、戦争中、強制連行など中国人や朝鮮人を過酷な作業と環境の中で使役させ、多くの犠牲者を出してきたことは紛れもない事実で、国をはじめ、数ある自治体の中でなぜ大館市が自治体として慰霊の式典を継続してきたか、話題にしました。1950年から山本花岡町長が個人ではじめた慰霊が、隣接する矢立村と合併、平成の大合併を経て今日の大館市になるまで、保守革新を問わず、継続して式典を開催していることは、とても素晴らしいことだと思います。今回の訪問で少しでも知りたいと考えました。
たまたま私は、往復飛行機だったので、6/29の10時過ぎに到着と15時から始まるフォーラムの間に大館市郷土博物館に行き、大館市の歴史、この中で花岡事件ついて見学したいと思い、幸い往復ともバスに乗車できました。郷土博物館は、「のびゆく大館」のコーナーに「花岡事件」、「花岡ものがたり(版画と解説)」があり、丁寧な展示だと思いました。また、「鉱山と曲ワッパづくり」の街として栄えていたことが知れ、「先人顕彰コーナー」で安藤昌益、小林多喜二(生誕地、5歳から小樽に移住)らの紹介もあり、期待どおりの展示でした。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 02
大館市郷土博物館「花岡ものがたり」版画と解説の連作

プレ企画、フォーラムin大館

「フォーラムin大館」は、同じ飛行機に搭乗していた池田香代子さんが岩間さん(認定NPO花岡平和記念会)とセッション、主なテーマは池田さんの著書「花岡の心を受け継ぐ(2021年7月発刊)」にある、大館市が中国人犠牲者を慰霊し続ける理由でした。
その後の参加者交流会で驚いたのは、認定NPO高麗博物館(東京、大久保)の仲間たち15人で、多くがシニア世代で10人は女性の参加です。しかも交流会の席は、お仲間で固まらず、他団体の席に相席するなど、知的好奇心・自己実現の旺盛な人たちでした。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 03
6/29「中国人強制連行 フォーラムin大館」に全国から60人余が参加
中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 04
6/29参加者交流会の様子「熱烈歓迎 日中友好 花岡事件生存者遺族関係者様 御一行」ステージは高麗博物館の仲間たち(前列のテーブル席が、李克金(故人)さんの遺族3人、大館市長代理:福祉部長ほか)

式典を日中友好の日に

ところで日本は、地理的に北方領土でロシア、竹島で韓国、尖閣諸島で中国と領土問題を抱えています。ロシアのウクライナ軍事侵攻が長期化する中、自公政権は、バイデン大統領の中国敵視政策と一体化し、「台湾有事は、日本の有事」と南西諸島のミサイル基地化、防衛費GDP5%など東北アジア平和外交を放棄し、軍備拡大路線まっしぐらです。あわせて、北朝鮮(共和国)の拉致問題も日本自らの課題とし対話すらしていません。
今年の式典は、参議院選挙直前の日程になってしまいましたが、例えば、中国と友好を求める全国の仲間へ、6/30大館市の式典と前日6/29「フォーラムin大館」を中国と日本の友好の日と位置付け、参加を広く募ったらと思います。また、参加者の中に映像作家や、ビデオカメラマン・監督もいました。せっかくの「フォーラムin大館」を有料配信も含め、リモート視聴による参加もできたらなと思いました。

中国人殉難者慰霊式に参加して 渡部公一 05
「中国人殉難者慰霊式」 前列、右から3人までが、李克金(故人)さんの遺族、その隣が福原淳嗣大館市長、その隣の女性(左から2人目)が中国大使館の参事官

現地ボランティアに感謝

最後に「フォーラムin大館」は、大館労働福祉会館で開催され、実行委員会の中に認定NPO花岡平和記念会の人たちをはじめ、大館市職労の若い委員長や、連合大館の役員の皆さんが参加していました。6/29のプレ企画だけでなく、6/30式典後のフィールドワークの案内やバスや昼食の手配などたいへんお世話になりました。
ありがとうございました。

「中国人強制連行フォーラムin大館」の新聞報道

 6月29日は、「中国人強制連行フォーラムin大館」に参加しました。翌30日は、
大館市主催の中国人殉難者慰霊式に参列し、その後、フィールドワークに参加し
ました。3年ぶりに県外からの参加者を迎え入れての開催でした。
 日中労交としては、初めての参加でしたが、非常に勉強になった2日間でした。
参加者から、報告と感想が寄せられると思います。私は、地元の秋田県北部の新
聞である「北鹿新聞(ほくろくしんぶん)」の切り抜きを添付して、先ず、雰囲
気を伝えます。
 大館の報告会は、7月23日(土)19時30分からの日中友好カフェで行います。
伊藤 彰信

慰霊を続けることが同じ過ちをしない誓いとなる  ー花岡慰霊(2022.6.30)の旅に参加してー

藤村 妙子 日中労交事務局長

花岡フォーラム 池田さんと実行委員の方

 日中労交は、6月29日~30日秋田県大館市で開催された1945年6月30日にあった花岡鉱山鹿島組において働かされていた中国人労働者が蜂起した「花岡事件」犠牲者の慰霊式に参加した。日中労交からの参加者は東京から3名、小名浜から2名だった。
「花岡事件」とは、戦争末期日本は鉱物資源の採掘、生産のため足りなくなった労働力を補うため中国から捕虜や農民などを強制連行し鉱山などで働かせた。この一つが現在の秋田県大館市花岡鉱山鹿島組の現場である。ここでは、最盛期986人(別に来日までに死亡者7人)が使役され、粗末な食事と過酷な労働のなか酷使された。中国人労働者達は、座して死を待つより闘おうと1945年6月30日深夜に蜂起した。しかし、翌日から行われた山狩りで検挙され、共楽館前の広場に集められ3日3晩食事も水も与えられずに置かれ、中心人物とみなされた人たちは過酷な拷問にあった。蜂起までに130名が死亡しており、蜂起後7月~敗戦までに116人、敗戦後166人合計419人が死亡している。

6月29日フォーラムと交流会 
「歴史に学ぶ」という事は、現実を直視することでもある

 地元をはじめ全国各地から集まった人たちは、まず大館市労働福祉会館「2022.6.30現地実行委員会」主催で開かれた「中国人強制連行 フォーラムin大館」参加した。まず、川田繁幸現地実行委した員長が「今のロシアのウクライナ侵攻は1931年~45年までのわが国ととても似ている。実際は侵略戦争なのに宣戦布告することなく「満州事変」などといい、今回ロシアはウクライナへの侵攻を「特別軍事作戦」と称している。こうした時だからこそ、実際にこの地あったことを慰霊することは大切なことである。そして、私たち市民が中国との関係をことは、今だからこそ大切です。」と開会の挨拶をした。
その後、田中宏一橋大学名誉教授が「歴史に学ぶとはどういうことだろう」と題する基調講演を行った。田中氏は、伊藤博文が1千円札の肖像画となったときに、在日コリアンの友人に「日本人の薄気味悪さを感じる。私たちの国を侵略した象徴的人物をお札に刷り込み毎日使うことに違和感を持たない。」という話をされたときに、自分がいかに歴史を学んでこなかったのかを意識した。1965年12月21日に国連総会において人種差別撤廃条約を採択した後一週後の12月28日文部省は「民族性又は国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校は、わが国の社会にとって、各種学校の地位を与える積極的意義を有するものとは認められないので、これを各種学校として許可すべきではない」という文部次官通達を出している。そして、2010年には朝鮮人学校を高校無償化から排除している。などの例を挙げながら日本政府が未だにアジア諸国で起きたことを反省していないことを問題にしながら、この大館地で毎年開かれている市主催の慰霊式は、国を超えた大切な行事であると語った。

 花岡の心を受け継ぐ       

 続いて『花岡の心を受け継ぐ』(かもがわ出版)の著者のひとり池田香代子さんのお話があった。池田さんは、2000年に鹿島と和解したことを知り「花岡事件の場所を見てみたい」と初めて花岡の地を訪れた以降何度も来て、何も知らないからいろいろな人たちにインタビューをした。この皆さんの声が結実したものがこの『花岡の心を受け継ぐ』となったと語った。そして、「延べ24000人の人たちが決起して逃げている中国人を探して動員された、まさに地域が加害者となったことをインタビューの中で実感した。しかし、戦後花岡町は、慰霊を行い、骨を収集し、慰霊碑を建設した。これは、保守・革新の違いを超えた『人として当たり前のこと』として現在も受け継がれている」と語った。そして会場にいる当時を知る地元の人も証言をした。「1940年生まれの自分は当時5歳。母親からブドウ畑にあった豚小屋の中に隠れ豚の餌を食べている中国人がいたと聞かされた。自分は、中国人の人たちが捕まえられて並ばされていた共楽館前の広場に行き『チャンコロ捕まった』とはやし立てたことを覚えている。」と語り当時、町中を巻き込んで中国人狩りが行われていた姿を語った。記念館を作った川田NPO花岡平和記念会理事長は「加害の歴史をしっかり伝えていくことが大切であると記念館を作った」と語った。池田さんは「慰霊式は謝罪する場などではなく、痛み続ける傷を癒し『あなたが受けた扱いは不当な事であった』と分かち合う場。その本質を胸に刻み市民の皆さんが手を携え合って臨みましょう」と結んだ。
 この後、参加した団体・個人の自己紹介がありこの集まりに花岡に心を寄せる人たちがたくさん来ていることを確認してこの日の行事を終えた。

6月30日 慰霊式
「事件を後世に語り継ぐことは市民の使命」大館市長の哀悼の辞

 6月30日は中国殉難烈士慰霊碑がある大館市花岡町の十瀬野公園墓地の「中国受難者慰霊式」に参加した。式では福原大館市長が「どのような状況下であっても人の自由、尊厳を奪い傷つける心無い行為は決して許されるものではない。長い年月が経過しようとも、事件を後世に語り継ぐことこそが私たち市民の使命」と哀悼の意を示した。遺族を代表して日本に住んでいる3名の方が参加した。「今年は日中国交正常化50周年。戦争に反対し、平和を守ることが共通の願い。」と慰霊の言葉を述べ、献水が行われた後、全参加者による献花が行われた。

花岡 中国殉難烈士慰霊之碑
花岡 中国殉難烈士慰霊之碑

受難の地を見学 
この場所で働き傷つき、立ち上がり 死んでいった人たちに思いをはせる

 続いて花岡体育館(旧共楽館)で昼食を食べた後、バスで信正寺と花岡記念館に向かった。信正寺は、決起後捉えられ、炎天下に晒され又は拷問された結果死亡した中国人労働者遺骨を安置した寺である。この寺の裏山には1949年鹿島が作った粗末な供養塔の前に2001年に建立された供養塔が建っていた。そばにある碑文には決起の日が7月1日となっていた。このことについて質問すると、「決起は6月30日の夜中に起きた。警察や町が知ったのは翌朝の7月1日だったので当初7月1日に起きたとも言われていたが、生存者の証言により6月30日夜であったことが確定している」とのことであった。

花岡 信正寺 新旧供養碑
信正寺 新旧供養碑
花岡 信正寺 慰霊の記
信正寺 慰霊の記

 続いて花岡平和記念館に行った。記念館は、2010年4月にオープンした。当時の花岡町の様子や労働者の姿や決起後死亡した人たちの氏名などが展示され、当時の死亡者についての記録もあった。

花岡平和記念館 中国人労働者
花岡平和記念館 中国人労働者
花岡平和記念館 当時の様子の木版画
花岡平和記念館 当時の様子の木版画

 次に中国人労働者たちが劣悪な環境の下に置かれた中山寮があった第二滝野沢ダムと寮を見下ろす山の上に建てられた「日中不再戦友好の碑」に向かったが、残念ながらクマが出没していて、バスを降りることは危険だと判断されていくことができなかった。是非、次回は行ってみたいと思った。
 次に「滝之沢暗渠跡」に行った。これまで中国人労働者が働いていたのは花岡川の改修工事だと言われていたが、鹿島建設と藤田組(現同和鉱山)の工事請負契約には「中国人使役条件」として「排水暗渠」「築堤」「山腹水路」に300人をと書かれている。使役とは強制連行して働かせることである。1944年8月8日に299人が中山寮に到着している。ここに働いていた生存者の証言でもこの場所で働いていた事が示されている。花岡川改修工事は、1944年11月から始まり、ここへは第二次強制連行以降であるという事が最近判明したとのことであった。

この史実を多くの人に伝え続けたい

花岡 滝ノ沢暗渠跡
滝ノ沢暗渠跡

  私は、市主催の慰霊式には中国人の人たちも参加している事の大切さを感じた。蜂起の中心人物だった耿諄大隊長が以前訪日した後『花岡は第二の故郷だ』と語ったというように、日本人が侵した行為によって奪われた命はもう戻らないが、こうした慰霊を続けていくことが二度と同じ過ちをしないという誓となると思った。しかも、市主催で行われている事の大切さを感じた。そして、この史実を是非多くの人たちに伝え続けたいと思った。

内田雅敏弁護士が「元徴用工 和解への道―戦時被害と個人請求権」を出版

 日中労働情報フォーラムの会員でもある内田雅敏弁護士が本を書きました。
「元徴用工 和解への道―戦時被害と個人請求権」ちくま新書、880円+税です。

内田雅敏弁護士
内田雅敏弁護士


 「韓国人元徴用工問題を解決済とする日本政府。一方で元徴用工が補償を求める個人請求権が存在することも認めている。彼らの訴えに耳を傾けることが、戦後75年間、民間人の空襲被害や外国籍の人々への戦後補償を放棄してきた日本社会に問われているのではないか。著者は弁護士として中国人強制労働事件の和解交渉にかかわった経験を踏まえ、元徴用工問題和解への道を探る。」(カバーのそで)

「元徴用工 和解への道―戦時被害と個人請求権」


 内田弁護士は、本書に特徴があるとすればと「1、同種の中国人強制連行・強制労働問題における和解事例を参考にしながら元徴用工問題の解決を模索、2、和解、勝訴判決、付言、など、被害者に向き合った裁判官たちの心情、及びその後の和解事業への参加による感慨、3、和解に応じた企業のトップ、担当者らの思い。」の3点あげています。また、「被害者への謝罪と和解金のお届け、追悼、という和解事業の実践の中で、判決がうまくいかないから和解ではなく、歴史問題の解決は和解こそふさわしいということを実感してきました。歴史問題の解決は安全保障にも資するということも含めてです。」と言っています。
 私たちは、内田弁護士から中国人強制連行裁判の経過などを教わってきましたが、先生がこの間発表してきた内容をまとめた本と言えます。先生も「ある意味、45年間の弁護士生活のまとめのようなもです。」と言っています。
 和解なくして友好は築けません。私たちの活動も「日中不再戦誓い」をもとに和解と友好の内実を探る活動です。会員の皆さんにおすすめの一冊です。

伊藤 彰信(日中労働情報フォーラム代表)

12・16緊急講演会「日本の中国侵略と靖国神社」のご案内

 連日のご奮闘に心から敬意を表します。
 さて、2019年8月19日、靖国神社を訪れた中国人作家、胡大平さん(54歳、出身安徽省、代表作小説『愛黄山』)は、靖国神社が、A級戦犯を合祀し、遊就館の展示内容に中国人を侮蔑する「支那」を多用するなど、日本軍の中国侵略を今も美化していることに怒りを募らせ、作家としての止むに止まれぬ思いから拝殿の布幕に墨汁をかけて、逮捕されました。胡大平さんは建造物侵入・器物損壊で起訴され、11月20日に第1回裁判が東京地裁で行われ、胡被告人と弁護人は抗議行動には正当な理由があるとして無罪を主張しました。
 この間、靖国神社では、2009年には台湾の高金素梅・立法委員らダイアル族約50名による大規模な抗議活動があり、昨年12月には靖国神社で横断幕を広げて抗議しこれを撮影し報道した香港人(郭紹傑さん、嚴?華さん)が建造物侵入で起訴されています。これで両岸三地(中国/香港/台湾)の靖国神社への抗議が揃い踏みしたことになります。
 なぜ中華世界で靖国神社への抗議が相次いでいるのか。12月16日の講演会で、纐纈厚・明治大学教授が、日本の中国侵略の歴史から靖国神社問題の本質を丁寧に解き明かします。

<12・16 緊急講演会>
◆日時:2019年12月16日(月曜日)午後6時半~
◆講演:“日本の中国侵略と靖国神社”
◆講師:纐纈(こうけつ)厚 先生
     (明治大学特任教授/前山口大学副学長)
◆会場:文京区民センター2A会議室 (資料代500円)
     (都営地下鉄春日・東京メトロ後楽園下車)
◆主催:胡大平救援会 
◆協賛:村山首相談話を継承する会

●《裁判日程》第2回公判 本年12月10日(火曜日)午前10時~12時
 ※傍聴券交付法廷:裁判所前で開廷30分前締切。傍聴券抽選が行われます。

●《カンパ》胡大平さん救援運動への皆様のカンパをお願いします!
 口座名義:「救援連絡センター」
 口座番号:「郵便振替00100-3-105440」
 【他銀行からの振込みは「ゆうちょ」銀行0一九(ゼロイチキュウ)店
  当座0105440」】
 ※本口座は共用なので送金の際は必ず「胡大平救援カンパ」と明記して下さい。

●お願い……会場は定員200名です。定員になり次第、締め切らせていただきますので、恐縮ですが、出席ご希望の方は、至急、出席申し込みのご連絡を、下記のメールアドレスまたは携帯にお願いいたします。
 E-mail  murayamadanwa1995@ybb.ne.jp
 携帯 090-8808-5000

第2回「中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い」開催(11/19)

第2回「中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い」が11月19日、東京都港区の芝公園で開催されました。

約7000人の中国人が日本で命を落とす

 第二次世界大戦の末期、日本は国内の労働力を補うために約4万人の中国人を強制連行し、全国135か所の土木工事、鉱山、港湾、造船などで、劣悪な環境のもと過酷な労働を強制しました。そして、約7000人(政府報告書は6830人)の中国人が日本で命を落としました。1949年8月、中国人の遺骨が秋田県花岡(現・大館市)で初めて発掘されました。遺骨発掘70周年を記念し、中国から、遺族、宗教者ら50人が来日し、日本から80人が参加して第2回の「日中合同追悼の集い」が行われました。第1回の「日中合同追悼の集い」は10年前に行われました。

靴並べを行う中国からの参加者
靴並べを行う中国からの参加者

 前日の天気と打って変わり、雨も上がり、風もおさまった朝9時から公園で、6830足の靴並べ、テント張り、祭壇、受難者名録壁(拓本)の準備が進みました。10時30分からは庭儀を行ない、雅楽奏者、導師を先頭に遺影を掲げた遺族、日本側参加者が続き、増上寺の周辺道路を行進しました。公園に戻り、献花をして、11時40分から法要が行われました。

 12時から追悼の集いに移り、黙祷のあと、主催者を代表して一橋大学名誉教授の田中宏さんが「日本で死亡した中国人俘虜殉難者は靴を履かないまま帰国せざるを得なかった。靴を履いて安らかに旅立ってほしいと願い、靴を並べた。1953年に花岡から殉難者の遺骨を返還する際に倣って、今回初めて庭儀として導師を先頭に遺族が入場する儀式を行なった。強制連行を閣議決定した日本政府の責任を追及していく」とあいさつしました。

遺影を掲げ庭儀へ出発
遺影を掲げ庭儀へ出発
主催者あいさつをする田中宏さん
主催者あいさつをする田中宏さん

1945年、花岡鉱山の中国人労働者が蜂起

 遺族を代表して花岡受難者聯誼会の韓建国さんが「1945年6月30日、花岡鉱山の鹿島組に収容されていた中国人労働者が蜂起し、補導員を殴り殺し、森に逃げ込んだ。軍隊、警察など2万人に包囲され捕られ100人以上が惨殺された。花岡鉱山では強制連行された986人のうち419人が死んでいる。1949年夏、花岡鉱山付近で中国人殉難者の遺骨が次々と発見され、その遺骨は日本の民間団体の運動によって返還されることになった。日本政府は謝罪を口にしたことはない。絶対に許せない」と裁判(現在大阪高裁で係争中)の経過を含めてあいさつしました。

三菱被害労工遺族代表の載乗信さんが「父は市井のラッパ吹きだったが、1944年6月、日本軍に捕まり帰ってこなかった。1945年12月に日本から帰ってきたが、病を患い、手足は痺れ、一生苦労をした。家族も悲惨な目に合った。日本政府は歴史の責任を負わなければならない」とあいさつしました。

多くの遺骨が山野に埋もれたまま

 在日華僑を代表して林康治さんが「花岡で遺骨が発見されてから、日本の友人、朝鮮の友人、在日華僑は、全国的に遺骨収集の作業をした。1953年から1964年まで9回にわたって2300余の遺骨を中国に返還した。しかし、なお多くの遺骨がこの国の山野に埋もれたままになっている。平和を愛する人は、歴史に正しく向きあい、二度とこのような悲劇を起こしてはいけない。永久平和のために中日両国人民の子々孫々までの友好を築きましょう」とあいさつしました。

追悼の歌唱、舞踊と演奏
追悼の歌唱、舞踊と演奏

 追悼の歌唱、舞踊と演奏が披露され、市民団体からの訴えの後、アピールを採択しました。

歴史を戒めとして、日中友好を築き、アジアの平和を

 最後に村山首相談話の会の藤田高景さんが「安倍首相は、日中戦争を侵略戦争と認めず、従軍慰安婦、南京大虐殺は無かったといっている。花岡和解も怪しからんというのが本音だ。韓国の徴用工問題にしても日本が頭を下げる必要はないという。歴史を歪曲し、侵略・植民地支配の反省をしない安倍が、隣国と平和友好を築けるわけがない。歴史を心に刻み、戒めとして、日中友好を築き、アジアの平和をつくろう」と閉会のあいさつをしました。

参加者は、全員でインターナショナルを歌い、「日中合同追悼の集い」を閉じました。中国からの参加者は、その後、バスで花岡に向かいました。

並べられた6839足の靴
並べられた6839足の靴
殉難者名録壁(拓本)の前で法要
殉難者名録壁(拓本)の前で法要

日中合同追悼の集いアピール( 191119 )

中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い (11月19日)

2019年10月31日

村山首相談話の会の諸活動でお世話になっております皆さまへ

村山首相談話の会・理事長 藤田高景

連日のご奮闘に心から敬意を表します。
 さて、来たる11月19日(火)午前9時から、東京都港区の「芝公園23号地」で、「第2回・中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い」(詳細は添付のチラシをご参照下さい) を開催いたします。
 中国から遺族・幸存者・宗教者ら50名も来日し、参加されます。
 皆さま方のご出席をお待ちしております。

●なお、本集会開催の趣旨は下記の通りです。
 第二次世界大戦末期、日本は国内の労働力を補うために、4万人に近い中国人を大陸から強制連行して、全国135カ所の鉱山や港などで奴隷労働を強制し、酷い待遇と虐待で多くの中国人が異国他郷で亡くなりました。
 今年は、中国から日本に強制連行されて殉難した中国人の遺骨が、秋田県岡
で発掘されて(1949年8月)から、丁度70年目に当たります。
 戦後、日本政府が作成した「外務省報告書」によれば、日本に強制連行されて亡くなった中国人の数は6830名に上ります(実数はこれより遙かに多い)。戦後、在日華僑、在日朝鮮人、宗教界、友好団体、労働組合などが中心となって進めた遺骨送還運動によって、当時は国交未回復という状況の中にもかかわらず、多くの困難を克服しながら、計2300体余の遺骨が中国に送還されました。故周恩来総理は、日本から来た遺骨捧持代表団を北京に招き、その友好と人道の精神を賞賛しました。現在、これらの遺骨は2006年に新たに建設された天津の在日殉難烈士・労工紀念館に、日本軍国主義の中国侵略の鉄証として大切に保管されています。
 しかし、なお多くの遺骨がこの日本の山野に埋もれたままになっています。
 この為、2009年の第一回慰霊法要に引き続き、今回、中国より約50名の御遺族をお招きし、中国人俘虜殉難者の為の日中合同追悼の集いを開催する事となりました。多くの日本の皆さんのご参加をお待ちしております。
(なお、当日は、午前9時から会場で追悼の6830足の靴並べを行ないます。中国から来られたご遺族とともに、日本の市民の皆さんもご一緒に追悼の意味をこめて靴並べを行ないたいと思いますので、早朝で恐縮ですが、当日は、午前9時までに芝公園23中国人俘虜殉難者日中合同追悼の集い号地に御集合いただきますようお願いいたします。)

          記

主催:中国人俘虜殉難者日中合同慰霊実行委員会

共同代表:田中宏(一橋大学名誉教授)
     内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授) 
     林康治(熊本華僑華人総会名誉会長)

後援:中華人民共和国駐日本国大使館  
   真宗大谷派運行寺(なつめ寺)
   公益社団法人日本中国友好協会(会長 丹羽宇 一郎)
   中日合同慰霊法要旅日華僑協賛会
   南京大虐殺60ヵ年全国連絡会、 
   山谷労働者の会、 他

協力:村山首相談話を継承し発展させる会(理事長:藤田高景)

会場:芝公園23号地(港区芝公園3の4)
    都営三田線「御成門」徒歩5分
    都営浅草線、大江戸線「大門」徒歩8分
    JR「浜松町」徒歩12分

●お願い……「当日の配布資料」や「追悼の生花」の調達・準備のため、ご出席いただける方は、恐縮ですが11月12日までに、下記のメールアドレスまたは携帯に、ご連絡を、お願いいたします。
 E-mail  murayamadanwa1995@ybb.ne.jp
 携帯 090-8808-5000(藤田高景)

第6次「日中不再戦の誓いの旅」に参加しました ―  町田貞一

町田貞一(東京東部労組ディベンロイ労組支部委員長)

北京市内は緑が多い

中国訪問は初めてでした。北京空港について初めに感じたことは、空港そのものが広いことでした。異動はマイクロバスでした。北京市内に向かうにつき驚いたことは、第一に、緑が多いことです。どこまで行っても高速道路の両脇は大木でおおわれていました。北京中心部に来ても緑の多さは変わりありませんでした。ギンドロという街路樹だそうです。遠くから見ると記の表面が白く一見白樺の木のようにも見えます。葉っぱはポプラのようにも見えます。今回訪問した各都市にはこの木が大変多く植えられていることを見ました。

北京市内の車の渋滞
北京市内の車の渋滞(8/19)

 次に感じたことは、車が多いことでした。空港を出たときはそれほどでもなかったのですが、北京の中心部に近づくと車の渋滞にはまり、動きは鈍くなっていました。一般道路でも車の渋滞はひどく、各都市中心部ではどこも渋滞していました。

やたら高層住宅とビルが多い

次に気づいたのは、バイクが多いことでした。しかも、電動バイクです。免許証も、ナンバーもいらないということで、大変多くが走っていて、市民の足としての役割を果たしている感じがしました。以前映像で見た中国は自転車の行列でしたが、今はレンタル自転車が至る所にあるが、圧倒的に電動バイクが多いのに感心しました。又、電動三輪車もあり簡単に乗り出すことが出来るようです。

高層ビルが並ぶ瀋陽の街並み
高層ビルが並ぶ瀋陽の街並み

 次の感じたことは、やたら高層住宅、高層ビルが多いことです。空港を離れると高層ビルがあちこちに立っていて、昔見た中国の光景とは結びつきませんでした。今回通訳とツアーの案内をしてくれた李さんは3LDKの130平米に住んでいるそうです。日本の住宅の平均の2倍近くあり非常に羨ましいことだと感じました。この高層ビルが、私たちが訪問した各都市に次々と建設されています。内需の巨大さに驚きました。どの都市に行っても高層ビルが10や20は建設途中のものがあり、これからもどんどん建設されていくさまが見て取れました。

住民を残らず殺しまくった痕跡

撫順炭鉱の露天掘り
撫順炭鉱の露天掘り

 さて肝心の旅の感想ですが、本では知っていましたが、日本が戦前中国に何をしたかということを、見てきました。それは虐殺の連続だと感じました。日本は明治以来天然資源を奪うため中国のその地に住んでいる住民を残らず殺しまくった痕跡が、いまもはっきりと形として残っています。日本ではよく知られています撫順炭鉱近くの平頂山の住民の大虐殺だと思います。私は、あっても1カ所か2か所ぐらいかと思っていましたが、中国の資料では、至る所に大量虐殺の跡がある事を知りました。撫順に次ぐ規模の炭鉱の阜新炭鉱でも万人坑があると、瀋陽の方から紹介されたときには、びっくりしました。阜新炭鉱そのものを知らないし、想像もできませんでした。

1894年旅順占領が侵略と虐殺の始まり

 旅順の203高地は日本人にはよく知られていますが、旅順の萬忠墓記念館は日本人には知られていない模様です。私も知りませんでした。1894年旅順を占領し、百姓の家を捜索し、女性、子供、老人、あった人全員を殺しました。侵略と虐殺の始まりです。日本の記者は書いています。「市内には日本兵ばかりだ。死体の他に支那人が見つからない。ここの支那人は殆ど絶滅した。」(日本「中央新聞」1894,12,27)と。白髪の老女から子供までが暴行されて殺されたとあります。見るに堪えがたい写真です。

侵華日軍731部隊罪証陳列館の前で
侵華日軍731部隊罪証陳列館の前で

哈爾濱では侵華日軍731部隊罪証陳列館、瀋陽では9,18事変陳列館、撫順戦犯管理所、平頂山惨案遺跡記念館、大連では大連現代博物館を見学してきました。どれも、日本の歴史を学ぶ上で重要な施設と展示であったと思います。

軍国主義の戦争なのか、納得がいかない

 私たちは軍国主義が悪かったから戦争になった、と思い込んでいます。軍国主義の戦争だと思い込んでいます。そのことに、私には今ひとつ納得がいかないのです。江戸幕府が終わり、明治になってイキナリ軍国主義になったのか?不思議でなしませんでした。1870年代(明治)、1910年代(大正)にかけて資本の発展があったことがあり、その行き着いた先に資本と軍が結びついた戦争があったのだと思いましたが、今回、資本と軍が一体的に中国の資源を奪いに行ったことがハッキリしました。1872年(明治5年)には日本の鉄道は開業しています。当然石炭は鉄道にも使われるし、工場動力としても、蒸気のエネルギーとしても必要であった。この年は富岡製糸工場も出来ています。ですから、100年以上も露天掘りをしている撫順炭鉱が欲しかったことは想像がつきます。だからと言って農民、住民を虐殺して奪ってきていいとは思いません。

哈爾濱から瀋陽まで約600キロ大平原の穀倉地帯

ハルピンから瀋陽へ・新幹線の速度計は304キロを示す
ハルピンから瀋陽へ・新幹線の速度計は304キロを示す

もう一つ哈爾濱から瀋陽に新幹線で移動しました。その移動の間中無限に広がる畑が見えました。穀倉地帯であることが分かりました。北部はトウモロコシ畑、南に降りてくると水田が多くなりました。見渡す限り畑のみどりです。小さな畑を耕し苦労している日本人なら広大に広い穀倉地帯が無限に広がっているように見えても不思議ではない光景でした。満州の満鉄が奪った石炭を運び、穀物を運んだことは想像がつきます。新幹線で哈爾濱から瀋陽まで、時速300キロでノンストップなら2時間、約600キロ大平原の穀倉地帯。日本の本州を超える広さの平原で穀倉地帯。想像をはるかに超えていました。広大です。だから積出港としての旅順が最初に攻撃されたのです。

 1868年明治になったその年もコメは不作で飢饉でした。この年も食糧難で多くの日本人は海外に移民を始めていました。明治政府は海外から大量の製糸機械や、蒸気機関車など買いあさり、代金を支払うため農民により重税を敷いていったのです。日本国内は数年おきに不作、冷害が繰り返され農民は娘や妻を売らざるを得ませんでした。農村を破壊し工場労働者を奴隷のようにこき使うことが、1800年代の工業化を支えました。工業化は発展してきたが、農村の疲弊は激しくコメの不作、冷害、基金は工業製品を消費できませんでした。そこで目を向けたのが満州であった。市場として、そして、資源の供給地、食料の供給地としての満州が日本の生命線としていった。資本が作り出したプロパガンダです。

過去に学び同じ過ちを繰り返さない

実際やったことを中国東北部を見てくることで、日本がここでやったこと、そしていまだにその責任を1つもとっていないことに非常に怒りを覚えます。それどころか過去のことはなかったことにしようとの政府の姿勢が許せません。すべてを認めたところから出発するしかないのに、1つも認めようとしない政府と、一部の日本人は、過去に学ばなければ取り返しのつかないことを繰り返してしまいます。過去に学び同じ過ちを繰り返さないようにしたい。

左から池田和則さん、町田貞一さん、津和崇さんの団員3名
左から池田和則さん、町田貞一さん、津和崇さんの団員3名

 掲載写真はすべて津和崇さんが撮影

第6「日中不再戦の誓いの旅」参加報告 ― 池田和則

池田和則(N関労西執行委員)   

はじめに

列車から見た東北の田園地帯
列車から見た東北の田園地帯

 標記の旅行が8月19日~25日にあり、参加してきました。行き先は、北京、ハルピン、瀋陽、大連(と旅順)でした。さすがに大陸は広く飛行機、高速鉄道(中国の新幹線)での移動でした。午前に移動で、午後に見学という感の旅行でした。鉄道での移動は、15年戦争(アジア・太平洋戦争)中、「満洲国」と日本で呼ばれたところでした。車窓に広がるのは見渡す限りの大平原で、土は黒く、耕されていて「トウモロコシ」と「水稲」(ハルピンは稚内と同じくらいの緯度だそうですが、熱帯・亜熱帯性の稲をしかも陸稲ではなく、水田で作っていました)が植えられており、葉葉(はば)が一面に揺れていました。日本も欲しかったのでしょうが、よそ様のものを奪ってはいけません!

 さて、旅の主催は「日中労働交流協会」で、中国側の受け入れは「中国職工対外交流センタ」でした。そのため、私も「N関労西執行委員」の肩書での参加でした。また、歓迎夕食会がセットされる形式がとられて、先方のそれなりの幹部の方も参加されるので、各「宴会」では肩が凝る思いでした。が、我慢して聞いていますと、社交辞令とともに日中間の今日的な情勢の反映などもありで、双方に微妙な意見の違いなども垣間見られ、一般的な観光旅行ではえられない経験ができました。考えさせられるところがありました。が、初めて触れた私には難しくて最後まで十分に理解したとは言えないところです。少しずつ慣れて「肩の凝り」は減りました。

 参加の動機について

 鳥取県においては1987年より「反核・平和の火リレー」を始めましたが、‘85年から始めていた広島県から学んだことが多かったと思います。「原爆被爆者の被害の実相に限りなく近づく」を私たちの姿勢として強調しつつも、「加害責任」を忘れてはならないとも言われました。栗原貞子さんの詩「ヒロシマというとき」が紹介され、「<ヒロシマ>というとき、<ああヒロシマ>とやさしくこたえてくれるだろうか、(中略)<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>(中略)<ヒロシマ>といえば血と炎のこだまが返ってくるのだ(中略)<ヒロシマ>といえば<ああヒロシマ>とやさしいこたえがかえって来るためにはわたしたちはわたしたちの汚れた手をきよめねばならない」でした。さらに、「中国帰還者連絡会」が紹介され、鳥取でも会員のかたの講演を企画したりもしました。鳥取高教組青年部員の勧めで、旬刊「中帰連」を会の解散・廃刊まで購読しました。「撫順の奇跡」はもとより、「三光作戦」、「戦時性奴隷」、「731部隊」、「毒ガス作戦」、「南京事件」、「重慶爆撃」……と中国に対する加害と犯罪が特集されていたし、当時の日本の「右翼」側の「妄言」への冷静な反批判なども載っていました。いつか直接現地に行って見たいと思っていました。今回それが実現しました。

ハルピン

731部隊犯罪陳列館
731部隊犯罪陳列館

ハルピンでは、郊外にある「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」を見学しました。「陳列館は1985年に開館し、2015年に新しい陳列館がオープンしました。陳列館の展示は、細菌研究基地の建設、細菌戦部隊の設立、特別移送扱い、細菌研究の実験と生産、細菌戦の実施、731部隊の逃走、細菌戦犯罪者の裁判と系統的に展示されています。731部隊は約3000人の「マルタ」を虐殺しましたが、敗戦を目前にした撤退時に生き残っていたすべての「マルタ」を殺し、建物を破壊して証拠隠滅を図りました。罪証陳列館に多くの遺品が展示されていました。また、本部、研究棟、生物飼育場、農場、飛行場、鉄道駅、宿舎、運動場、小学校まであり、広大な敷地を占めていました。」。(伊藤団長文より引用)

その後、スターリン公園から松花江を眺め、中央大街を散歩しました。団員のT氏が松花江の先の「チャムス」の生まれとのことで、思いもひとしおであったのだろうと思います。

瀋陽

 次に瀋陽に移動しました。「はじめに」でも触れましたが、高速鉄道は時速300キロだそうです。この区間に限れば(広い大陸ですから、チベットなど条件は種々違うでしょうが)、起伏も少なく、トンネルもなく、カーブも少ないとなれば建設コストも比較的にかからずで、スピードも出やすいとのことでした。

9.18歴史博物館の前で
9.18歴史博物館の前で―左から2人目が池田和則さん

「午後から9・18事変陳列館を見学しました。1931年9月18日、柳条湖において鉄道爆破した関東軍は、これを中国軍の仕業と偽り、一気に遼寧省、吉林省、黒竜江省を占領しました。いわゆる満州事変です。その経過が描かれ、日本の侵略に抵抗して闘った抗日軍民の様子が展示されています。」(伊藤団長文より引用)

「養父母の像」((9・18歴史記念館)
「養父母の像」((9・18歴史記念館)

 「同陳列館」の出口の手前に日本人孤児を真ん中に両側から手をつないでいる養父母の像がありました。私は涙がこぼれました。「奪いつくし、焼き尽くし、殺し尽くした」日本人の子どもを育てる中国人の夫婦。養父母の貧しさは、想像できますし、親兄弟、親戚、親友を日本人に殺されたり、傷つけられたりしていたかもしてないのに。次の「撫順戦犯収容所」でも触れますが、中国の人の心の奥底にある「究極の人としてのやさしさ」に心打たれました。どの民族であれ究極の人間らしさは持ち合わせていると思いますが、世界のすべての人が、日本人が、その中の私がとなると確信はありません。売店で買ったその「像」を自宅の本棚に飾りました。

 また、「同陳列館」の「あとがき」にあたる文章には「中華民族の団結」、と「中国共産党の功績」が主張されているように感じました。間違いではないのですが、ただ、強調しすぎると「民族主義」は「排外主義」につながりますし、世界第二位の大国の「民族主義」は「覇権主義」ともなることもありましょう。また、「抗日戦争」勝利は、中国共産党の功績ですが、だけでなく、国民党の功績もありましょうし、名も知れぬ中国民衆の抵抗、貢献もあったでしょう。在外華僑の支援もあったでしょう。世界の反ファッショ勢力の力もあったでしょう。

一歩引いた余裕もあったらとも思いましたが、いつまでも「安倍政権を許している」日本で活動している者が大きな顔して言わないほうがいいとも思います。つぶやきです。

撫順

 翌日、撫順を訪れました。撫順は、巨大な露天掘り(すり鉢状を想像していましたが、見学した露天掘り炭鉱はⅤ字カットでした。)炭鉱があり、石炭の町として有名です。余談ですが、撫順の石炭は満鉄で大連に運ばれ、八幡製鉄所で鉄作りの原料に供されたそうです。近くの鞍山に製鉄所があるのに?

撫順戦犯管理所の窓
撫順戦犯管理所の窓

 「午前は撫順戦犯収容所を、午後は平頂山惨案遺址紀念館を見学しました。

 撫順戦犯収容所は、日本人戦犯約1000人が収容され、教育、坦白、認罪という思想改造が行われたところです。食事、健康にも配慮した生活が行われ、戦犯は処刑されることなく日本に帰国しました。満州国皇帝であった溥儀も収容されていたところです。

 平頂山惨案遺址紀念館は、1932年9月16日、日本守備隊や警察は、抗日軍が日本人を襲撃したことに対する仕返しとして、平頂山村の住民約3000人を野原に集めて射殺し、遺体にガソリンをかけて燃やし、山を爆破して埋めるという虐殺事件の現場に建てられた記念館です。遺骨館には発掘された遺骨がそのままの姿で横たわっていました。折り重なるようになった遺骨には、子供や赤ん坊、妊婦の遺骨もあり、脇にある黒くなった坑木やガソリン缶が惨状をリアルに伝えていました。」(伊藤団長文より引用)

 「撫順戦犯収容所」では中国人の見学者が多いので当然ですが、「日本人戦犯」より溥儀をはじめとした「中国人戦犯」に力点がおかれていました。が、ともあれ、ここから「日本鬼子」に改造されていた「日本人戦犯」が再び、「人間」に還っていく場所であったと思い、私にとって、貴重なフィールドワークであったと思います。「中帰連」の皆さんが帰国後に果たした日中友好への功績は計り知れないものです。帰国が遅く、しかも革命後の中国からということで、「アカ」呼ばわりで周りから警戒されたり、公安に監視されていた人もいたといいます。そのために、安定した就職につけず生活に窮した会員もいたとのことです。日本側の革新団体の事情に翻弄されたこともあったようです。が、死ぬるまで、自らの加害責任・戦争責任に向き合い、講演をし、書籍を広め、加害地に赴き謝罪を続けるという真摯な態度は何よりも美しい。「日本鬼子」の限りを尽くした人達とその時代に甘い汁を吸った旧支配層とその末裔たちはその事実に触られたくないのでしょうが、「謝罪」することをせず、よりにもよって、あったことを無かったこととしようとする「再びの加害」をおこなっています。謝ってもいないのに、「何度謝ればいいんだ」と平気で言う。そこからは、中国とも、南北朝鮮ともアジア各国とも真の「和解」はあり得ない。日本は「戦後責任」を果たさないままで時を重ねてはいけません!私たち「老人」は、自分たちを経由して、若い人に「継承」していく責任があります。それが戦争責任・加害責任を背負う日本に生まれた私たちの責任です。かっこ悪くても、謝って、謝って、謝って、被害者からもういいから、気持ちは分かったからといわれてはじめて「許され」本当の「和解」になると思うのです。であるなら、そういう政府を作らねばなりません。

平頂山虐殺遺跡記念館の展示
平頂山虐殺遺跡記念館の展示

「平頂山惨案遺址紀念館」で観たものは覚悟をしていたとはいえ、あまりにむごいものでした。「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」でも感じたのですが、人はここまで残酷になれるものなのでしょうか。信じられないことが行われました。大陸に来る前は善良な農民であったり、妻子(つまこ)を愛する工員だったかもしれない。軍隊や国家に改造され、生きた人間を「解剖」し、撃ってもこない人々を機関銃でなぎ倒し、一人一人銃剣でとどめを刺す。そのことに何も感じない。(大体、日本は「侵略」されたことは有史以来ありません。もとい蒙古がありますか!「侵略」したことはいっぱいあります。)そんなことをさせる、軍隊も国家もなくてもいいのです。

大連・旅順

 次に大連に移動しました。高速鉄道は上野駅を模して造られたという大連駅まで延伸していたそうです。

大連駅(上野駅を模して造られた)
大連駅(上野駅を模して造られた)

「大連現代博物館を見学しました。アヘン戦争以後、遼東半島は、渤海の防衛拠点として重要な位置を持ち、清が旅順を開発、日清戦争で日本が旅順を占領、「三国干渉」でロシアがハルピンから旅順までの鉄道敷設権を得て大連を開発、日露戦争で日本統治へと目まぐるしく変わります。日本軍国主義の残虐行為を展示するだけでなく、大連の歴史を民衆の視点から「多元文化の交流と融合」と見る博物館の捉え方に敬服しました。近くの星海広場を散策し、景勝地の老虎灘をドライブしてホテルに戻りました。」(伊藤団長文より引用)

 翌日、大連から1時間ほど離れた旅順を訪れました。旅順と大連と合併して、「旅大」となり、さらに、「現在は大連市の行政区だそうです。1894年11月21日に旅順を占領した日本軍は、4日間にわたって民間人を含めて約2万人を虐殺しました。その犠牲者を祭った墓が萬忠墓です。萬忠墓紀念館は、日清戦争の経過と虐殺の様子、その報道、萬忠墓の建立経過が展示されています。日本の中国侵略は、当初から虐殺を伴っていたことが分かりました。なぜここまで残忍なことができるのか?

 差別意識とナショナリズムの恐ろしさを改めて考えさせられました。」(伊藤団長文より引用)

 さらに、詳しく、藤村秘書長は「日清戦争、日露戦争の戦場となった大連、旅順」と題して、次のように記述されています。「日本は1894年日清戦争、1904年日露戦争を行いました。今回の旅でこの二つの戦争は、戦場が大連、旅順のある遼東半島であり、この半島の領有を争うものであったことを改めて実感しました。日本軍は、日清戦争時の1894年11月に旅順を占領しました。この際、日本軍は旅順で中国人たちを虐殺する大量殺人を行っていたことを「大連現代博物館」や「萬忠墓記念館」で知りました。当時の日本人新聞記者は市内の死体が放置されている様子をスケッチしていました。また日本兵は手紙の中で「市内は日本兵ばかりだ、死体の他に支那人(当時中国人を指す蔑称)が見つからない。ここの支那人はほとんど絶滅した」ということを書いていました。アメリカ人やイギリス人たちもこの惨状を伝えています。私は、中国国内の炭鉱などや日本軍による虐殺などで中国人が沢山殺されていることは知っていましたが、それは1932年の以降のことだと思っていたので、日清戦争の時既に皆殺しの行為を行っていたことを知り、暗澹たる思いがしました。そして、戦争が人間性を破壊することを改めて感じました。」

 そうなのです、日露戦争はロシアの領土でも、日本の領土でもなく、中国の領土内で行われました。理不尽と思いませんか。家を焼かれ、工場や店を破壊され、田畑を荒らされる中国人の視点が必要だと思いませんか?

旅順大虐殺(大連博物館)
旅順大虐殺の写真(大連現代博物館)

昔、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を面白く読んだのですが、ここでも「中国人の視点」は全くありませんでした。だからといって司馬氏に押し付けて、「責任」のがれをするわけにはいきません。旅順港を一望できる白玉山に上がりました。旅順港の出入口は本当に狭く、つい、広瀬中佐が「杉野はいずこ、杉野はいずや」と部下を探し回り、砲弾の直撃を受け戦死したことを思ってしまいます。また、203高地はこっちの方向と説明版にあると、昔見た映画の仲代達矢演ずる乃木大将の悲壮な表情を思い出してしまうのです。

 しかし、先に引用したお二人の文のとおりで、日清戦争の旅順陥落で2万人の中国人が日本軍に虐殺されたことを、今まで知りもしませんでした。司馬氏の本であったか定かではありませんが、日露戦争では、欧米各国の評判を気にし、捕虜を丁重に扱ったと読んだ記憶があります。第一次世界大戦でのドイツ人捕虜の徳島での収容所での扱いの話、ベートーベン「第9」の初めての演奏とまあ「事実」なのでしょう。私も無差別の民間人も含めた日本軍による虐殺行為は満洲事件前後からだろうと思い込んでいました。澤地久枝さんの「記録ミッドウェイ海戦」だったと思いますが、澤地さん本人の解説で、「日本軍に捕虜となったアメリカ兵は0人であった。なぜなら、捕虜は取らない全員殺したからだ。」とのことでした。

でも、やはり当初から日本の中国侵略は、虐殺を伴っていたのです。なぜここまで残忍なことができるのか?ロシア人やドイツ人の扱いには、気を使うが、中国人(や、朝鮮人、さらに、アジア人)には、別の扱い方をする、殺しても構わないとすれば、日本人はアジア人だが、欧米グループ内、悪くても大東亜の盟主ということでしょうか?差別意識、蔑視感は明治維新からわずか25年で定着したと見なければならないでしょう。改めて恐ろしさを感じました。

 おわりに

 いくら「おもてなし」だからといって、宴会の料理が多すぎる宴会以外の食事も)。朝食など3/4も残ってしまう。もったいない。地球の資源は有限です。

ショッピング客でにぎわうハルピンの中央大街
ショッピング客でにぎわうハルピンの中央大街

 ハルピンで、マトリョショカのストラップを買ってしまった。近くの店員さんに購入品を記載してもらい、カウンターで金を払い、その領収書を再び店員さんに見せて、品を袋に入れてもらう。旧ソ連の国営店の方式?

 やはり後発国は有利でした。

日本では有線での電話網を国土の隅々に張り巡らすのに膨大な費用が掛かりました。国土の広い中国はもっと困難だと思われましたが、携帯・スマホで有線網の必要が少なくなり同様の負担の必要はなくなりました。また、スマホといえば、この旅行中わが団のお世話をしていただいた李さんはたばこ一箱をスマホで購入されていました。キャッシュレス化は日本より何歩も進んでいます。さて、日本の銀行は、人員削減のため、ATMを社会の隅々まで配置したが、キャッシュレス化で不要となるでしょう。ATMの廃棄は、たいへんな負担となるのではないでしょうか!

さらに、ガソリン車から電気自動車への転換も急でしょう。ハイブリッド車は飛び越えられようとしている。日本の自動車会社はついていけるのか。

戦争責任に向き合い心からの「謝罪」の上の真の「和解」が不可欠

日本は世界第2位の「経済大国」から滑り落ち、予想年は忘れましたが、インドにも抜かれるそうです。過去の栄光を引きずって、アメリカ合衆国の子分であり続けても、取り残されるだけでしょう。今後、発展が有望視される、中国、統一されるであろう朝鮮、そして、アジア諸国との友好が、日本の「少しの成長」と「安定」の土台となるでしょう。そのためには、大日本帝国の犯した加害責任、戦争責任に真摯に向き合った心からの「謝罪」の上の真の「和解」が不可欠だと思います。結局、またここに還って来ました。

いい旅行でした。皆さんにお薦めします。が、先の長い若い人に特に、お薦めです。

掲載写真はすべて団員の津和崇さんが撮影