2015年8月15日
内田 雅敏
「百年以上前の世界には西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、19世紀、アジアにも押し寄せました」。2015年8月14日、安倍首相によって発せられた戦後70年首相談話の冒頭部分である。
正直、驚いた。「戦後」70年談話であるから、当然、これまでの首相談話等 ― 「日本側は、過去において、日本国が戦争を通じて、中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」(1972年日中共同声明)、「1945年6月26日、国連憲章がサンフランシスコで署名された時、日本は唯一国で40以上国を相手に絶望的な戦争を戦っていました。戦争終結後、我々日本人は、超国家主義と軍国主義の跳梁を許し、世界の諸国民にも又自国民にも多大な惨害をもたらしたこの戦争を厳しく反省しました」(1985年、中曽根首相、国連総会演説)、「先の戦争が終わりを告げてから50年の歳月が流れました。今あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。」(1995年、村山首相談話) ― と同様、先の戦争の反省、それはつまるところ、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」(憲法前文)の精神から導き出されるものであるが、から説き起こされると思っていたからである。
西欧列強の植民地政策を批判する安倍首相談話の冒頭部分は、「アジアで最初に立憲政治を打ち立て独立を守り抜」いた日本が戦った「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」へと収斂する。これは靖國神社の歴史観と軌を一にする。
靖国神社遊就館の展示室15、(大東亜戦争)の壁に、「第二次世界大戦後の各国独立」と題したアジア、アフリカの大きな地図が掲げられ、以下のような解説が付されている。
「日露戦争の勝利は、世界、特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。アジアの独立が現実になったのは大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で、一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。」
「大東亜戦争」は侵略戦争でなく、植民地解放のための戦い、聖戦だったというのだ。そして戦後独立したアジアの各国について、独立を勝ち取った年代別に色分けし、彼の国の指導者、例えば、インドのガンジ一氏などの写真が展示されている。ところが日本の植民地であった台湾、韓国、朝鮮「民主主義人民共和」国については色が塗られてなく、彼の国の指導者の写真も展示されていない。ただ、朝鮮半島については南北朝鮮につき小さな字で、1948年成立と書かれているだけである。「大東亜戦争」が白人の植民地支配からのアジア解放の戦いであったとするならば、朝鮮、台湾の植民地支配はどう説明されるのか。ポツダム宣言で履行されるべきとされているカイロ宣言(1943年11月27日)では「三大国(米・英・中)は朝鮮人民の奴members/隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」と述べている。これらの点について、遊就館の展示は《黙して語らず》である。
この点は安倍首相談話もまったく同様である。同談話は、前記「アジアやアフリカの人々を勇気づけ」た、に続け、「世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました」と、日本は、この植民地支配に全く関係がなかったかのようにあっさりと「客観的」述べる。しかしこの時期こそ、日本が韓国の植民地支配を強化し、また欧州の戦乱に乗じ、中國に対し、悪名高き「対華二十一ヶ条の要求」を突き付け、大陸への侵略に乗り出した、日本の「曲がり角」であった(松本健一『日本の失敗』岩波現代文庫)。安倍首相談話は、このような歴史的経緯に全く触れることなしに、日本の植民地支配の強化、大陸侵略を容認したベルサイユ条約体制に抗議した、1919年、ソウルでの「三・一独立運動」、北京での「五・四」運動もスルーし、一般的に「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。事変、侵略、戦争。如何なる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に決別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」と述べるのみである。これでは人々、とりわけ、日本の植民地支配と侵略によって蹂躙されたアジアの被害者たちの心にはとうてい届かない。2004年、韓国の3・1、独立運動の記念式典で廬武鉉大統領は、「日本はもう謝罪した。これ以上日本に謝罪を求めない。ただ、謝罪に見合う行動をとってほしいと」演説した。誠にその通りである。日本の戦後史は、政府によって謝罪がなされると、それに反発するたとえば、「植民地支配は正しかった」等々妄言が繰り返されるのが常であった。安倍首相談話が、加害の事実に具体的に言及し、且つ被害者の「救済」が具体的になされたのかをも検討することなしに、いかに「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない苛烈なものです」と感傷的に述べ、
「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国はそう誓いました。自由で民主的な国を作り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました」と述べようとも、靖國神社、すなわち、「日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守っていくためには悲しいことですが、外国との戦いも何度か起こったのです。明治時代には『日清戦争』『日露戦争』、大正時代には『第1次世界大戦』、昭和になっては『満州事変』、『支那事変』そして『大東亜戦争(第2次世界大戦)』が起こりました。 戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくためには、戦わなければならなかったのです」と、先の戦争をアジア解放のための「聖戦」だとし、A級戦犯らを「護国の英霊」と祀る靖國神社への参拝、あるいは供物の奉納などを続けていては、それは言葉の遊びでしかない。
2014年5月30日、シンガポールでのアジア安全保障会議で安倍首相は、基調講演で、「国際社会の平和、安定に、多くを負う国ならばこそ、日本は、もっと積極的に世界の平和に力を尽くしたい、“積極的平和主義”のバナーを掲げたい…自由と人権を愛し、法と秩序を重んじて、戦争を憎み、ひたぶるに、ただひたぶるに平和を追求する一本の道を日本は一度としてぶれることなく、何世代にもわたって歩んできました。これからの幾世代、変わらず歩んでいきます」と述べた。この認識は、靖國神社の前記「聖戦」史観と完全に重なり合う。
安倍首相は、村山首相談話等、歴代の日本政府の歴史認識を正しく承継すべきであるという国内外の圧力に屈し、渋々、談話中に「植民地支配」、「侵略」、「痛切は反省」、「心からのお詫び」というキーワードをいれたものの、他の言葉でこれを薄めようと苦心惨憺している。安倍首相談話を一読して思うことは、「言葉は形容詞によって腐る」という開高健の名言である。一体「何のために出したのか」(2015年8月15日朝日新聞社説見出し)。すでに、本年4月20日付け、ニューヨークタイムズ社説は
「今回の訪米が成功するかどうかは、また同時に、安倍首相が日本の戦争中の歴史にいかに正直に向き合うかにもかかっている。・・・安倍首相は戦争への反省を公に表明し、性奴隷問題を含めた過去の侵略について日本が過去行った謝罪を継承すると述べている。だが、彼はその言葉を修飾する曖昧な文言を追加し、真面目に謝罪する気持ちがなく謝罪を薄めようとするつもりではないかとの疑いをもたらしている」(共同配信)と指摘していた。談話発表後の記者会見で、安倍首相は、「具体的にどのような行為が侵略に当たるか否かについては歴史家の議論にゆだねるべきだと考える」とやった(2015年8月15日朝日新聞)。
「歴史とは、実に取り返しのつかない苛烈なもの」等々の空疎、冗長な言葉はいらない。真摯に歴史に向き合い、率直に被害者に謝罪をし、その上で被害者の寛容を乞う、「戦後70年首相談話」にはこういう姿勢こそが求められたはずである。まさに「杖(よ)るは信(しん)に如(し)くは莫(な)し」(村山首相談話)である。
追記 「お友達」への弁明としての「終止符」発言
安倍首相の「お友達」たちは、安倍談話中に「植民地支配と侵略」、「心からのお詫び」、「痛切な反省」という語句が入ったことに不満を募らせながらも、談話中の「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに謝罪を続ける宿命を負わせてはなりません」の一節を取り上げ、これで謝罪に終止符を打ったと評価しようとしている。これは歴史に向き合うということを全く理解しないものである。奇妙なことに、彼らは、しばしば、1985年5月8日、ヴァイッゼッカー西独大統領(当時)のなした有名な演説「荒れ野の40年」中でも、安倍談話の前記部分と同旨が語られていたと主張する。この見解は「荒れ野の40年」をまともに読んだことのない牽強付会でしかない。確かに、ヴァイッゼッカー大統領は「荒れ野の40年」で「当時生まれていなかった世代」の責任について「今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下していない行為に対して、自らの罪を告白することはできません。ドイツ人であるということだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情を持った人間にできることではありません」と述べてはいる。しかし、それに続けて、
「しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。罪の有無、老若いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
心に刻み続けることが何故かくも重要であるかを理解するため、老若互いに助け合わねばなりません。また助け合えるのです。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるはずはありません。後になって、過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし、過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」と訴えている(『ヴァイツゼッカー大統領演説集』岩波書店 永井清彦訳)。歴史に真摯に向き合うことによって、被害者からの寛容を求めることはあったとしても、過去をなかったことにしたり、過去に終始符を打つことなどできはしないのである。安倍談話も前記「終止符」発言に続け、「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わねばなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」と述べざるを得なかったのである。「お友達」に対する弁明としての「終止符」発言、見苦しいこと、この上ない。