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「日本は中国で何をしたのか―山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆の姿」講演会の報告(3/5)

中国農民の軍隊(抗日民主連軍)に参加して日本の侵略を知る

3月5日(日)東京国分寺労政会館で「日本は中国で何をしたのか―山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆の姿」講演会が開かれ、約50名が参加した。今年88歳とは思えない山邉さんは力強い口調で話され、中国革命の歴史を伝えるドラマチックで情熱的な内容であり、聴衆を引き込んだ。主催は河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会。

山邉さんは、1941年、父親の仕事の都合で中国東北部に家族と共に移住し、16歳で敗戦を中国で迎えたが、当時日本が侵略者である自覚はまったくなかった。敗戦の翌年、家族と離れ単身で東北民主連軍(いわゆる八路軍)に看護婦として参加し、足かけ8年にわたって国共内戦の中国全土を行軍した。

その中で土地を奪われた中国の農民が侵略者(日本軍)から解放する兵士たち(東北民主連軍)を強く信頼していることを知った。なぜならば、民主連軍の兵士は日本によって自分の農地を奪われた農民たち自身であったからである。また、満州開拓団が中国農民に対する泥棒であり、略奪者であったことも分からなかった。彼女は「匪賊を処刑」というニュースを何度も聞いたが、それがこのような農民たちの兵士が処刑されたとは知らなかった。彼女たちの衛生隊は傷ついた兵士たちを農家で治療し、衛生隊の医師や看護婦が指導したが、実際に看護したのはその家の家族たちであった。農民は自分のベッドも患者に提供し、家族は看護婦らと一緒に土間に藁を敷いて寝た。そのように農民たちは兵士と同じ家族と考えていた。 続きを読む 「日本は中国で何をしたのか―山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆の姿」講演会の報告(3/5)

講演会「日本は中国で何をしたのか―山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆の姿」(3/5)

  • ・とき   3月5日(日)13:30開始(13:15開場)
    ・ところ  国分寺労政会館第4会議室(JR国分寺駅南口徒歩5分)
          TEL 042-323-8515        地図
  • ・参加費  500円
    ・講師 山邊悠喜子
  • ・主催 河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会 
    ・連絡先 090-3543-8743(根津)

今年88歳になる山邉さんは、1941年、父親の仕事の都合で中国東北部に家族と共に移住し、16歳で敗戦を中国で迎えました。翌年、家族と離れ単身東北民主連軍(いわゆる八路軍)に参加し、足かけ8年にわたって行動を共にしました。その中で多くのことを学び、行く先々で中国民衆の誠実さや温かさに触れた彼女は、「八路軍が私の大学だった」といつも言っています。1953年、同じ部隊の仲間である夫とともに帰国しましたが、日本は中国帰国者に冷たく、いつまでも溶け込めませんでした。
そして、定年退職を迎えるのを待って、日本語教師として再び中国へ渡りました。長春滞在中に関東軍防疫給水部(731部隊)が抗日戦士を人体実験したと書かれた新聞を掲示板で見て衝撃を受けた彼女は、事実を自分の目で確かめるため、その後黒竜江大学に留学しました。そして、中国の学者に同行して731部隊で犠牲となった人々の手がかりを求め歩いて調査・聞き取りを続けました。
「もし日本が攻めてこなかったら、私たちはこのような大きな苦しみを受けることはなかった」という被害者たちの叫びに、山邉さんは日本人としての責任を痛感し、「命ある限り戦争被害を解決する努力をしなければならない」と強い思いを抱き、日本に戻った1990年代、731部隊展の企画、続けて毒ガス展の企画に精力的に取り組みました。山邉さんはその活動を、中国での調査・聞き取りも含め、今も変わることなく続けています。
この国の首相は、日本が行った侵略の事実を直視せず、謝罪せず、「あの戦争には何ら関わりのない私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と言います。そして、新安保法に依拠して南スーダンに自衛隊を派遣し、中国・朝鮮の「脅威」を喧伝します。
こうした今、私たちは山邊さんのこれまでやってこられたことを伺い、日本が行った侵略の事実に正面から向き合いたいと思います。
お忙しい時期だと思いますが、是非ご参加くださるようお願いします。

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佐々木有美