12月11日「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」開かれる

「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」

                報告:高幣真公(日中労交会員)

 12月11日、東京お茶の水の韓国YMCA会館ホールで「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」が開かれ、約100名が参加した。


 冒頭、司会者から南京大虐殺記念からの今年の現地の式典で読み上げられる「平和宣言」(写真2)が紹介された。

「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」

続いて、会の主催団体「ノーモア南京東京の会」代表の田中宏さんが「日本人は過去の日本人が犯した重大な犯罪行為=南京大虐殺事件を決して忘れてはならない」と挨拶した。つづいて、南京大虐殺犠牲者の複数の生存者の証言ビデオが約20分間、上映された。

「ノーモア南京東京の会」代表の田中宏さん
「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」


 次に、東京都の高校歴史科元教諭某さんは、本年4月27日の閣議決定は、1993年の「慰安婦関係調査結果に関する河野内閣官房長官談話」(「歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい」)を否定した。また、文科省の歴史教科書の検定基準の改悪と新科目「歴史総合」の創設の意図などが解説された。

林伯燿さんが「南京特務機関と満鉄調査部―侵略戦争を裏で支えた謀略の先兵たち<概略>」
林伯燿さん

 最後に在日華僑で長く中国人へ侵略と暴虐を告発し続けてきている林伯燿さんが「南京特務機関と満鉄調査部―侵略戦争を裏で支えた謀略の先兵たち<概略>」と題する講演を1時間強にわたり行った。筆者はその講演の内容を要約することができないので、最も重要と思う冒頭の段落と結語を抜粋して報告に代えたい。

<冒頭>
 1937年の日本軍による南京攻略戦は、暴虐の限りを尽くした日本軍のその非人道的側面を正視すると同時に、この戦争がそのような非人道性を必然的にもたらした侵略戦争の本質、さらにそれを支えた、当時の天皇を頂点とする軍国主義体制下の軍・政府の政策とメカニズムを知る必要があるだろう。そこでは、軍や政府に無自覚的に呼応してきた民衆の責任も考えないわけにはいかない。
 1937年12月13日の日本軍による南京陥落の翌日14日に早くも南京に設立された「南京特務機関」は軍人、満鉄調査部員や外務省役人、領事警察などから構成されていた。「南京特務機関」は軍と政府の指令を受け、南京占領政策の頭脳となり実行役となり、軍に協力して中国人敗残兵の摘出、国際安全区の解散、傀儡政権の樹立、安居証の発行、民衆監視の保甲制の実施、虐殺死体の処理、日本人街の建設、満鉄および独占企業の進出への奉仕など矢継ぎ早に、天皇と軍と政府、独占資本が目指す占領政策を推し進め、38年1月1日の南京自治委員会の設置から始まって、その後の「中華民国維新政府」、1940年の汪精衛政権による「中華民国南京国民政府」の樹立まで背後で関与し、傀儡政権への監視、監督を担ってきた。
 一方、「満鉄」は中国東北を舞台にした日露戦争のあと、1905年締結されたポーツマス条約によって、ロシア帝国から日本が奪取した「東清鉄道南満州支線(南満州鉄道)」とそれを含む鉄道事業および付属事業を経営する目的で、1906年11月に設立された「国策会社」である。単なる国策会社にとどまらず、関東軍と協同して、東北三省における政府代行機関の役割を果たした。その活動は多岐にわたり対象範囲は中国東北だけにとどまらず全中国を視野に入れたもので、日本帝国主義の中国侵略政策に大いに奉仕した。その調査情報活動の中心を担ったのが「満鉄調査部」である。「満鉄調査部」は大陸における国策調査機関として1940年には正職員約1000名、雇用員も入れると2300名余という大所帯になっていた。この調査部は単に調査情報の収集分析ばかりでなく軍と協同して占領地での中国民衆への宣撫工作、治安維持会の結成、傀儡機構の樹立、植民地政策の立案等に従事した。同時に満鉄の意向を受けて、軍と協同して満鉄や日本の独占資本企業の大陸進出に手を貸した。
 今回インタビューに出てくる満鉄調査部上海事務所から派遣された北京大学出の丸山進氏は「自分は中国人が好きだ」、「20万の南京市民を飢餓から救った」と誇らしげに言う。この丸山氏の姿は、ナチス政権下でユダヤ人の大量輸送計画を指揮して、戦後逃亡先の南米で捕えられ、イスラエルの法廷で「ユダヤ人には敵意はない」、「自分は命令に忠実な公僕である」と語ったアドルフ・アイヒマンと二重写しに見える(1962年5月31日処刑)。
 「満鉄調査部」には多くの自由主義者やマルクス主義研究者あるいは転向した左翼人士が動員されたという。満鉄調査部長であった伊藤武夫氏は戦後日中友好協会の二代目の副会長を務めている。

<結語より抜粋>
 日本軍部は早い時期から「満蒙」を足場に中国全土の分割統治を狙っていた。
「満蒙問題解決のための戦争計画大綱(対米戦争計画大綱)」(関東軍参謀部1931年4月)
「支那本部にはなるべく兵を用いるを避け、威嚇により支那の排日および参戦を防止す」しかし、「前記の方法により解決しがたき場合においては一挙に南京を攻略し、中支那以北の要点を占領す」(石原莞爾=関東軍作戦主任)

 関東軍参謀長陸軍少将 板垣征四郎:関東軍の任務に基づく対外諸問題に関する軍の意見(1936年6月8日)
 支那大陸を人文および地分上の見地に基づき相分立せしめその分立せる個々の地域と帝国と直接相結び、帝国の国力により相分立せる勢力の相剋を阻止し、各地域内における平和の維持と民衆の経済的繁栄を図り、もって支那における排日の根絶と日満支提携の実を挙げんとするにあり。軍は支那をして常にわが友邦たらしむるこの政策を遂行するほか他に手段なきものと確信す。また本政策は現に帝国が行いつつある北支および満蒙工作をさらに積極的に進展せしめんがためにおおむね前述の果を収め得べく少なくも南京政権をして我に反駁せしむることを不可能ならしむるを得るにおいてさらに然りとす。

 根底にある思想
 福沢諭吉「日清の戦争は文野の戦争なり」(1984年7月29日 時事新報の社説)
(意訳)戦争は日清両国で起こったとはいっても、その根源は、文明開化を進めようとする者と、その進歩を妨げようとする者との戦いであり、決して両国間の争いではない。(・・・・)本来日本人は「支那人(中国人)に対して私怨も敵意もないが、いかんせん彼らは頑迷で道理を理解せず、文明開化を喜ばないだけでなく、反抗の意思表示をしたため、やむを得ず戦争になったのだ。

 以上林伯燿さんのレジュメの一部を引用したが、南京大虐殺や中国人の強制連行、従軍慰安婦など日本の中国侵略戦争の根本的原因を究明する深刻な日本人への批判を含むものであり、それは神戸で生きてきた華僑としての日中友好の信念に裏打ちされている。林伯燿さんから多くのことを学びたいと思った。

「南京大虐殺から84年 2021 東京証言集会」

 集会後、林伯燿さんに著書を紹介してほしいと言ったら、以下のパンフレットを頂戴した。彼の長年の中国人犠牲者への謝罪と補償の闘いを支援してきた活動を語ったブックレットであり、皆さんにお勧めしたい。


「死者の恨・生者の恥辱ー私と死者との出会い」講述 林伯燿

 A5版 107ページ
 定価 300円
 発行:日中草の根交流会
 電話:090-8829-2109 (山内) 
 メール:nanjingpeace@gmail.com
郵振:00900-4-210304 日中草の根交流会

死者の恨・生者の恥辱ー私と試写との出会い