日本に強制連行され、長崎で被爆死した中国人

(松尾直樹)

アジア太平洋戦争中、日本に強制連行された中国人の数は約4万人と言われています。

 中国人が日本に強制連行された理由は、戦争激化に伴って日本人の成人男性は徴兵されて軍隊に入隊、または徴用によって軍需工場で働きに出るなどしたため、国内の労働力不足は圧倒的不足したためです。

   【刑務支所の塀あと】

 当時、植民統治下にあった朝鮮半島からも、「徴用令」によって約70万人近い人たちが日本に強制連行されて働かされましたが、それでも労働力が足りない状況には変化はありませんでした。

そこで、当時の東條英機首相は、1942年11月に中国人を日本に強制連行して働かせるという閣議決定を行ないました。その結果、中国人は翌43年から45年にかけて全国130か所以上の炭坑や鉱山での採掘、港湾の荷下ろしや鉄道建設などに従事させられたのです。劣悪な労働環境に加えて、衣食住の状態も極めて悪く、日本人職員の虐待もあり、約7000人が死亡したと言われています。

 【中国人慰霊碑①】

 

 長崎県には44年から中国人が強制連行され、県内の高島と端島、崎戸、鹿町の4か所の炭坑で強制的に働かされていました。しかし、45年になると飢えや虐待に耐えかねて逃げ出したり、日本人に反抗的な態度を取ったというだけで、当時、存在していた治安維持法と国防保安法に違反したとして、33人が逮捕されました。その取り調べは凄まじく、人間扱いからほど遠いものであり、拷問によって1人が死亡してしまったほどです。 なお、残った32人は、長崎刑務所浦上刑務支所に被告人として収監されることになりました。

 この長崎刑務所浦上支所は、長崎市松山町に1927年に建設された収監施設であり、敷地面積は2万平方メートル、13ある庁舎の総面積は1万3000平方メートル、高さ4メートルのコンクリート製の塀に囲まれていました。収監者の中には、九州管内の全ての死刑囚がおり、刑の執行を待っていたほか、朝鮮半島で抗日運動に加わっていた者や治安維持法に違反した者として13人がいたと言われています。

【中国人慰霊碑②*裏面】

 そして運命の日、8月9日11時2分に爆心地から100メートルあった浦上刑務支所の上空で原爆はさく裂し、その直撃を受けた浦上刑務支所は爆風と熱風により壊滅してしまいました。庁舎と塀は一瞬にして崩壊し、刑務支所にいた職員18人と官舎内にいた居住者35人、受刑者と被告人81人の合計134人は全員死亡しています。

  

 戦後、刑務支所の跡地は、平和公園内の一部となり、ほとんどは埋もれていましたが、1992年に平和公園の地下駐車場の建設工事を行なったところ、敷地の外周部のコンクリート製の塀の基礎部分、赤レンガ造りの刑務支所の基礎部分が発見されました。これを受けて、被爆者や市民団体から「被爆遺構」として保存を求める運動が起きました。

 【原水禁世界大会 長崎大会】

 そして、その要望を受けて、当時の本島等長崎市長が保存展示の意向を示し、翌年にはそれが実現することになったのです。2008年には、その本島元市長と市民有志によって、この刑務支所で亡くなられた中国人の追悼碑が建立され、盧溝橋事件の発生した7月7日前後には、毎年、追悼式を行なっています。  今回、この追悼碑を訪れた際、お茶とお水、そして献花を行ない、冥福を祈って合掌いたしました。