会員の活動が毎日新聞に載りました。
会員の藤村妙子さんが共同代表を務める「東京満蒙開拓団を知る会」の活動と、著書「東京満蒙開拓団」の内容紹介などが。毎日新聞の下記の記事に掲載されました。
「公文書を生かす 情報公開法成立20年」第5回 公的記録少ない満蒙開拓 市民活動が解明補う
2019年8月26日毎日新聞朝刊
1932(昭和7)年から推計約27万人が農業移民として中国東北部に送り出され、敗戦後の逃避行で約7万2000人の死者を出したとされる「満蒙開拓団」。寒村の救済策とのイメージでとらえられがちだが、東京発も全国9位の約1万1000人いた。
どんな人たちが東京から大陸に渡ったのか、長らく実態は分からなかった。「東京府(都)の文書の中に開拓団の資料が残っていないからだ」。この問題に詳しい加藤聖文・国文学研究資料館准教授は解説する。「(開拓業務を所管した)拓務省がなくなると、戦後は外務省、農林水産省、厚生労働省などにばらばらに引き継がれ、文書が廃棄または所在不明になっていった。地方も同じような事情だったのだろう」
例えば39年に作られた農業移民のための訓練施設「東京府拓務訓練所」(東京都日野市)と訓練を受けた人々について、公的にはどう記録されているのか。日野市郷土資料館で助言を受けた後、東京都公文書館(世田谷区)を訪ねると、いくつかの文書が見つかった。用地購入を巡る書類のほか、府(都)公報に設置や廃止の記載があった。それによると山林や畑を買収して開設。「訓練所規定」では、訓練生は定員100人で6カ月間、農業実習のほか、「皇道精神」や「農民道」を学び、教練や柔剣道をすることになっていた。訓練を受けた人々の姿が分
かる文書は見つからなかった。公文書からたどることに限りがある中で、東京発の開拓団の全体像をつかんだのは、東京都大田区でミニコミ誌「おおたジャーナル」を発行していた今井英男さん(2013年に死去)たちのグループだった。地元から開拓団が出ていたことに驚いて07年、調査を始めた。公文書館だけでなく、史料館、図書館などに通って新聞・雑誌の記述、民間の資料を収集したほか、生還者の証言を集めた。12年に書籍「東京満蒙開拓団」(ゆまに書房)にまとめた。
この本を読むと、32年に恐慌による都市の生活困窮者が送り出されたのが始まりで、戦争が始まって職を失った中小の商工業者、最後は空襲で家を失った人々が集められたことが分かる。今井さんたちによると、東京府拓務訓練所は、ブラジルへの移民が頓挫して満州への大量移民が始まる時期に、初の府直営施設として誕生。移民送り出しに重要な役割を果たした。送られた人たちには、過酷な運命が待ち受けていたのだろう。
後世にこうした事実を受け継ぐことはできるのか。「東京満蒙開拓団」の著者の一人、藤村妙子さん(65)と7月、日野市程久保の訓練所跡地を訪ねた。多摩都市モノレールの駅から坂を登って30分近く。福祉施設や養護学校に変わっていた。施設職員らに訓練所跡について尋ねたが「何もない」「分からない」と言われた。藤村さんは「ここに来ても訓練所のことが分からない。過去にあったことの表示をすべきだ」と話した。
藤村さんは、大陸に渡った人、亡くなった人たちの氏名が一部しか伝えられていないことも気にかける。「正確な歴史を伝えることが悲劇を繰り返さないようにすることだ」と話す。
満蒙開拓団
関東軍が1931年に満州事変を起こして作った中国東北部のかいらい国家「満州国」の支配を確立するため日本の国策で32~45年に送った農業移民団。敗戦後の逃避行で集団自決などがあったほか、残留孤児・婦人約1万1000人(推定)を出した。敗戦間際に軍に召集された人の多くは旧ソ連により抑留された。