カテゴリー別アーカイブ: 731部隊

日本の侵略の実相を観て考えた ~「日中不再戦の誓の旅」に参加して~ 藤村妙子

1932年の傀儡政府「満州国」の「成立」から85年、盧溝橋事件・南京大虐殺から80年そして日中国交回復から45年の今年、7月25日~30日中国へ行った。主な訪問地は、北京、中国東北部である旧満州のハルピン、瀋陽、撫順、大連。この旅は日本が行った侵略の実相を観て回る旅だった。

北京

まず、25日中国における私たちの受け入れ団体である中国の労働組合の全国組織「中国総工会」の下にある「中国職工対外交流センター」を訪問した。ここで、今回の旅の目的や訪問団の自己紹介などを行った。私からは共同執筆した「東京満蒙開拓団」を書いた動機や主な内容について話をした。北京の街は車があふれ、高層ビルが立ち並んでいた。この対外交流センターから派遣された李さんがこの訪問中の通訳をしてくれた。30代の日本滞在経験もあり、ユーモアと機知に富む青年だった。 続きを読む 日本の侵略の実相を観て考えた ~「日中不再戦の誓の旅」に参加して~ 藤村妙子

第3次「日中不再戦の誓いの旅」― 北京、哈爾浜、瀋陽、撫順、大連を訪問(2017/8/12)

日中労交の第三次「日中不再戦の誓いの旅」は、7月25日に出発し、北京、哈爾浜、瀋陽、撫順、大連を訪問して、30日に帰国しました。「日中不再戦の誓いの旅」としては、初めて旧満州を訪れました。訪中団は、団長=伊藤彰信(日中労交副会長、全港湾顧問)、副団長=藤村妙子(南部全労協事務局長、東京の満蒙開拓団を知る会共同代表)、秘書長=  千葉雄也(東京清掃労組元組合員)、団員=吉原節夫(元「国際労働運動」編集長)、清水英宏(全国自治体労働運動研究会運営委員長)、伊藤光隆(東京都公立学校教職員組合元執行委員)、春川広司(米沢市職員労組特別執行委員)、奥田耕司(NTT労組元組合員)の8名です。全員60歳以上の高齢者の団であったことは残念でしたが、元気に交流、見学の日程を消化してきました。 続きを読む 第3次「日中不再戦の誓いの旅」― 北京、哈爾浜、瀋陽、撫順、大連を訪問(2017/8/12)

日中戦争開始80年・国会前市民集会(7/7-8)

私たちは、同じ過ちを繰り返してはいけない。
同じ過ちの「兆し」を読み取り、未然に防がなければならない。
歴史から学ぶこと。歴史の忘却を促す動きに、歴史改ざん主義に抗うこと。
そういう誓いを(国内のみならず)アジアに、世界に発信する絶好の機会だと思います。

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日中戦争開始80年・国会前市民集会(メイン集会)
日時;7月8日(土)15時―16時30分
場所;国会議事堂正門前北側歩道(旧・陸軍省跡地付近)
呼びかけ;日中戦争80年市民フォーラム
連絡先;090-2647-3722(植松) メール;1937to2017@gmail.com
サイト; https://1937to2017.wordpress.com/
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王選さんが細菌戦被害者の草の根の闘いを語る  ―731部隊細菌戦の被害者との交流会(4/29)

 4月29日の午後、東京・なかのゼロで731部隊細菌戦裁判の元原告団代表の王選さんの報告会(主催:NPO法人731部隊・細菌戦資料センター)が開かれ、約40人が参加した。

王選さん(写真上)は1980年代に日本の筑波大学に留学していて流ちょうな日本語で報告した。彼女の父が浙江省崇山村に住んでいて日本軍の細菌戦によって13歳でペストに感染し殺され、彼女はその遺族として裁判の原告団長となった。1940~42年にかけて日本軍が中国の浙江省、湖南省などの多くの場所で散布して数万人の死者が出た。
1994年10月に浙江省義烏市の崇山村民が、旧日本軍による細菌戦被害に対する謝罪と賠償を求める連合訴状を北京の日本大使館に提出した。裁判は中国政府が被害者の救済に取り組まないなかで被害者たちの自主的な運動によって日本政府に対する罪の責任を認め、謝罪と被害者への保障を求めるものであった。その後、日本政府に対する裁判が1997年代に提訴され、東京地裁の第1審判決(2002年)、東京高裁の控訴審判決(2005年)が下され、そして最高裁で上告が2005年に棄却されている。1審、2審ともに日本軍が行った細菌戦がハーグ国際条約に違反するものであり、責任は重大だとしつつ、日本政府の謝罪と賠償の責任を否定した。 続きを読む 王選さんが細菌戦被害者の草の根の闘いを語る  ―731部隊細菌戦の被害者との交流会(4/29)

紙芝居「静かなる悪魔 知られざる731部隊」について

根津公子 (元八王子市立石川中教諭)

 「これからお話しする事実は、戦争中に東大など最高の学問を身につけた医者たちが行った犯罪である事を、心にとめてください。」で始まる紙芝居。細菌実験、凍傷実験、ネズミの飼育、少年兵の教育、生体解剖・・・、13の場面を描き、ことばにする。1994年、八王子市立石川中の2年生12人が作成したもの。

1994年5月末、「陸軍中野学校と731部隊展」実行委員会から、「731部隊について中学生に何かのかたちで発表してもらえないか。部隊展は9月。」と私宛に話がありました。当時私は2年生の担当、石川中学校は平和学習に力を入れており、3年次のひろしま修学旅行に向け、修学旅行実行委員会が立ち上がったところでした。同実行委員会からの依頼に、「今は無理」と断ろうかとも思ったのですが、生徒たちへの依頼を私一人の判断で断るのもどうかと思い、修学旅行実行委員会で話をしました。すると、「先生が『日の丸』を下ろした(注)から声がかかったこと。勉強して紙芝居を作ろうよ」。一人が発言すると、皆それに大賛成。不安は実行委員会担当の私だけでした。 続きを読む 紙芝居「静かなる悪魔 知られざる731部隊」について

日本は中国で何をしたのか― 山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆の姿 

河原井さん・根津さんらの「君が代」解雇させない会 講演会 (2017/3/5) <山邉悠喜子さんのレジュメ報告・抜粋>

日本人医療隊として侵略の道を辿って「日本鬼子」を自問自答

私たちは四平~北票へ、そして義県から汽車で山海関へ、天津近郊の北倉で、北京での大規模な戦闘に備えて準備を整えましたが、北京が無血解放されて、再び南下しました。関里に入ると、その印象は全く変わりました。白山黒水資源に抱かれた東北は、ある意味で豊でした。でも三光政策が実施された華北の大地は、東北と同じではありませんでした。蹂躙された農地は乾いて農民の耕作を待って居ます。彼らの懸命に作業する姿が見られました。私たちの部隊は、相変わらず農家の作業を手伝いながら、農民から訴苦を聞く毎日でしたが、部隊の殆どが医師、看護婦の日本人主体の医療隊です。途中で病人が居れば簡単な治療方法を教えたりしましたが。住民も同僚の中国人医師も、私たちに対して決して非難がましい事は言いませんでした。寧ろ慣れない労働を労ってくれましたから、私たちはこの待遇を自然に享受しました。でも関里はそうはいきません。 続きを読む 日本は中国で何をしたのか― 山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆の姿 

「日本は中国で何をしたのか―山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆の姿」講演会の報告(3/5)

中国農民の軍隊(抗日民主連軍)に参加して日本の侵略を知る

3月5日(日)東京国分寺労政会館で「日本は中国で何をしたのか―山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆の姿」講演会が開かれ、約50名が参加した。今年88歳とは思えない山邉さんは力強い口調で話され、中国革命の歴史を伝えるドラマチックで情熱的な内容であり、聴衆を引き込んだ。主催は河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会。

山邉さんは、1941年、父親の仕事の都合で中国東北部に家族と共に移住し、16歳で敗戦を中国で迎えたが、当時日本が侵略者である自覚はまったくなかった。敗戦の翌年、家族と離れ単身で東北民主連軍(いわゆる八路軍)に看護婦として参加し、足かけ8年にわたって国共内戦の中国全土を行軍した。

その中で土地を奪われた中国の農民が侵略者(日本軍)から解放する兵士たち(東北民主連軍)を強く信頼していることを知った。なぜならば、民主連軍の兵士は日本によって自分の農地を奪われた農民たち自身であったからである。また、満州開拓団が中国農民に対する泥棒であり、略奪者であったことも分からなかった。彼女は「匪賊を処刑」というニュースを何度も聞いたが、それがこのような農民たちの兵士が処刑されたとは知らなかった。彼女たちの衛生隊は傷ついた兵士たちを農家で治療し、衛生隊の医師や看護婦が指導したが、実際に看護したのはその家の家族たちであった。農民は自分のベッドも患者に提供し、家族は看護婦らと一緒に土間に藁を敷いて寝た。そのように農民たちは兵士と同じ家族と考えていた。 続きを読む 「日本は中国で何をしたのか―山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆の姿」講演会の報告(3/5)