旅順大虐殺と南京大虐殺の現場を訪ねて
明治期に遡る大日本帝国の暴虐の系譜
乗松聡子
「週刊金曜日」2018.1.19(1168号)より転載
南京大虐殺から80年を迎えた昨年12月12日から19日にかけて、日本軍の中国侵略を30年以上調査研究してきた松岡環氏が主宰する「第33次銘心会南京友好訪中団」に参加し、上海、南京、大連、旅順を訪ねた。
このうち、南京で12月13日(注=1937年南京城陥落の日)に開かれた追悼式典は、2014年から「国家公祭日」と指定され、国の行事となっている。同日早朝、式典が開かれる「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」に向かうバスの中で、松岡氏は「侵略戦争において、“惨案”(ツァーアン)と呼ばれる虐殺は、南京だけではなく中国全土で起こりました。調査でわかっているだけでも、100人以上の虐殺があったのは390か所、10人以上の虐殺があったのは2300か所にも及びます」と説明した。この日は、全国で南京大虐殺犠牲者を追悼する日でもある。南京では午前10時ちょうどに街中の車がクラクションを鳴らし、10時1分から1分間の黙祷をする。
約1万人が参列した同紀念館での式典は献花、荘厳かつ感情に訴えかける音楽演奏、3000羽もの放鳩、平和の鐘・・・と続いた。紀念館自体が虐殺の地に立つ。代表演説に立った全国政治協商会議の兪正声主席は、「戦争の歴史を学ぶことによって、人々がよりよく歴史を認識し、平和を大事にすることができる。日本軍国主義が発動した中国を侵略した戦争は中国人民に巨大な災難をもたらしたが、日本人民にも同じく大きな災難をもたらした。」と語った。
証言できる「幸存者」の減少
13日の午後は、魚営雷や中山埠頭など、揚子江沿岸の虐殺現場を訪ねた。この日は紀念館の主会場の他、市内17か所の虐殺現場で同時に追悼式典が開催された。行く先々で真新しい献花に覆われた追悼碑を見るたびに、虐殺事件がいかに広範囲で大規模に行われたかを肌で感じた。
現在この事件を証言できる人は少なくなってきている。同紀念館が把握している「幸存者」と呼ばれる生存者は、17年9月末現在で98人だ。今回私たち訪中団はこのうち劉民生さん(83歳)と王津さん(86歳)のお2人を自宅に訪問する機会に恵まれた。劉さんも王さんも、幼かった当時、日本軍に父親を連れ去られて殺され、大変な苦労をして生きてきた。
多くの家庭ではこのように一家の大黒柱が殺され、残された者たちが極貧生活を余儀なくされた。80年前の出来事の影響を、今も被害者やその家族は心身の傷と共に背負って生きている。劉さんが語った「今の日本政府の高官たちは歴史をなくそうとしている。みなさん、この目で見た歴史を日本で伝えてください。一緒にがんばり平和な世界をつくりましょう」との言葉を心に刻み、南京を後にした。
次に、遼東半島の大連市と、行政的には大連の一部となっている旅順口区を訪ねた。清朝は1881年に旅順に軍港を建設し、そこに北洋艦隊を編成する。1894年から95年にかけての日清戦争後、遼東半島は日本に割譲されたが「三国干渉」で清国に返還。98年になってロシアが強制的に租借権を得た。そして日露戦争(1904年-05年)の勝利で、日本は再びこの地域の権利を獲得する。
この日清戦争は、清国の影響を排除して朝鮮を日本の支配下に置くための侵略戦争であった。1894年7月23日、日本軍は朝鮮王宮の門を破壊して占領。その二日後に日本海軍は黄海の豊島沖で北洋艦隊を攻撃し、続いて朝鮮の清国軍に日本陸軍第一軍が奇襲をかける。
伊藤博文が虐殺を隠蔽
朝鮮を制した第一軍は朝鮮・清国境を超えて10月24日、清国に侵攻し、これとは別に同日大山巌率いる第二軍が遼東半島花園口に上陸して金州に攻め入り、虐殺や強かん、略奪を行う。さらに第二軍は11月21日に北洋艦隊拠点の旅順を占領するが、その日からおよそ4日間にわたり、南京と同様の大虐殺に手を染めた。年寄りから子どもまでの無差別市民殺戮、女性の強姦、武器を捨てて無抵抗状態の清軍兵士・捕虜の虐殺で、約2万人が殺されたと推定されている。
この事件は、軍に同行していた「伯爵写真家」亀井茲明が多くの写真のみならず、「日本兵は、兵農を問わず容赦せず殺した…流れる血、血なまぐさい匂いが満ち満ちて、のちに遺体は原野に埋葬した」という内容の日記も残している。第二軍の山地元治第一師団長も、「土民といえども我軍に妨害する者は残らず殺すべし」と命令していた。山地の上官の大山も虐殺をやめさせようとしなかった。
当時、新聞記者のジェイムズ・クリールマンが『ニューヨーク・ワールド』という新聞で報道しており、12月20日付の新聞には、日本兵が「少なくとも2千人の無力な人々を虐殺」「市街端から端まで略奪」「街路は切り刻まれた男、女、子どもの死体で埋め尽くされその一方で兵士らが笑う」といった内容が書かれている。参戦していた日本軍夫の日記にも、子どもが裸で死んでいる有り様を見て目に涙をためたり、若い娘が露わな姿で死んでいるといった記述が残されている。
事件後、当時の首相の伊藤博文は隠蔽工作に奔走する。伊藤の命令で陸奥宗光外相は海外メディアに、「平服を着て殺害された大部分は兵士だった」「住民は交戦前に立ち去っていた」「清軍捕虜を厚遇している」など、嘘に満ちた内容の画策電報を送った。松岡氏は、「これらの虐殺の否定の仕方は、南京大虐殺の否定派と全く同じです。」と強調する。
さらに旅順では、地元の地域史研究家の姜広祥氏の案内で、虐殺や埋葬の場を訪ねた。姜さんが40年務めた遼寧造船場は1883年に建設された遼東半島一の清国の軍艦造船所だった。日本軍は清国軍兵士のみならず造船所労働者、その家族を沼地に追い込んで殺害した。造船所は約2000人の工人がおり、それぞれ数人の家族がいたであろうことを考えると、被害総数は相当のものになっていたであろうと松岡氏は語る。
「坂の上の雲」の虚構
日本軍が虐殺の犠牲者の遺体を焼却処理した場所の一つに、旅順港近くに位置する白玉山東の麓の「萬忠墓」がある。最初は1896年に清国官吏が墓碑を建て、地域で死者を追悼する場となった。その後も何度かの修築を経て1994年、虐殺100周年に「旅順萬忠墓紀念館」が建立され、その壁には「1894.11.21-24」と刻まれている。
南京大虐殺を生み出した日本軍の野蛮な性質と、アジアの隣人を人間として扱わない差別感情は、決して「15年戦争」と言われる期間に限定されない。旅順大虐殺に象徴されるように、明治期から1945年の敗戦まで脈々と続いた、大日本帝国とその軍隊の本質そのものだったのだ。明治初期から日本軍は1874年の台湾出兵、1875年の朝鮮を威嚇した江華島事件をはじめとして国外に武力行使し、日清戦争は初の本格的侵略戦争であった。その後も日露戦争や山東出兵、満州事変、日中全面戦争と侵略戦争を広げていく。
広く読まれている司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響によって流布された、明治という時代と日清、日露戦争を美化する歴史観が、大日本帝国の本質を見えなくしている。安倍政権はこれを利用して「明治維新150年」の祝賀ムードを演出し、明文改憲にも利用としているかに見える。しかし、「100人中100人が知らない」(松岡氏)と言っても過言ではないほど日本人が無知な旅順大虐殺だけを取っても、明治の「古きよき時代」という神話はいとも簡単に崩れ去るはずだ。再び侵略国家にならないためにも、侵略戦争に明け暮れた70年余に及ぶ大日本帝国の歴史と実像を、冷徹に振り返りたい。
*乗松聡子さん(「アジア太平洋ジャーナル」エディター)のブログ「ピース・フィロソフィー・センター」(カナダ・バンクーバー 2007年設立)は平和で持続可能な世界を創るための対話と学びの場を提供します。
乗松聡子さんの記事を掲載するにあたって
伊藤彰信(日中労働情報フォーラム代表)
「週刊金曜日」(2018年1月19日)に掲載された「旅順大虐殺と南京大虐殺の現場を訪ねて」と題する乗松聡子さんの記事を、著者並びに「週刊金曜日」編集部のご了解をいただき、日中労働情報フォーラムのホームページに転載することにしました。
乗松さんとは、私が団長を務めた日中労働者交流協会の「第4次日中不再戦の誓いの旅」で、昨年12月13日に南京大虐殺犠牲者追悼国家公祭に参加した時にお会いしました。カナダ在住のジャーナリストで、「琉球新報」などにも記事を寄稿されている方です。沖縄から参加した副団長の福元(沖縄高教組委員長)さんも「お名前は存じております」と名刺交換をしていました。
「週刊金曜日」に記事を書いたら送ってくれると約束して別れたのですが、送られてきた記事を読んで私はショックを受けました。旅順大虐殺のことを私は知りませんでした。南京大虐殺が兵站を無視した軍部の無謀な作戦の結果と説明することは事の一面しか表していません。日本の侵略戦争そのものが「虐殺」を孕んでいたことが分かります。南京大虐殺以前の多くの残虐行為も、その本質を知ることができたように思います。
中国に行くと「日本と中国の関係は2000年以上の友好交流の関係の間に50年の不幸な関係がありました」という言葉をよく聞きます。私たちは中国との不幸な関係を日中戦争の15年間と捉えがちですが、1894年の日清戦争以降の50年間をもう一度見つめ直す必要があると思います。
今年は明治維新から150年です。前半の77年が戦争に至った時代、後半の73年が戦争をしていない時代です。日本が再び戦争をしないように、日中友好の意義をもう一度考えてみたいと思います。