タグ別アーカイブ: 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館

南京で見た加害者としての日本

猪股 修平(東海大学4年)

〈国家公祭〉

国家公祭終了後の会場。 2019年12月13日 南京紀念館前で筆者撮影

南京大虐殺犠牲者国家公祭儀式。2014年から国家行事として執り行われており、今年で6回目。式典は南京大虐殺から82年目となる12月13日午前10時から始まった。侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館前の広場で中華人民共和国国歌斉唱、儀仗隊による犠牲者へ向けた花輪の献上、中国党中央宣伝部の黄坤明(ホワン・クンミン)部長の演説があった。黄宣伝部長は南京大虐殺について「30万人の同胞が殺戮された。人類の歴史に暗黒の1ページとして永遠に刻まれる恐ろしい犯罪だ」とした上で「中日両国は新しい発展の時代に入った。相互信頼を深め、平和友好の共通路線に沿って関係を発展させていく」と対日関係を念頭に置いたとみられる発言もあった。

会場には我々だけでなく、韓国や欧米諸国からの来賓者も散見された。また、南京市内の小中高生たちも出席。白い礼服を着込んだ高校生たちは式典中、歴史の記憶と平和を守ることについて宣言した。入場者は厳しいセキュリティーチェックを受ける。持ち込み制限や服装規定、拍手のタイミングなどがあらかじめ伝えられる。

余談だが、式典終了後、そばにいた中学生たちがさっきの真剣な表情とは打って変わって周りの同級生たちと談笑していた。国家レベルの式典参加に際し、相当の緊張感と厳粛さを感じ取っていたのだろう。彼、彼女たちは今後、歴史を伝える担い手になる。

〈南京紀念館の展示〉

展示室内の壁に掲示された南京大虐殺犠牲者の顔写真 2019年12月13日 南京紀念 館で筆者撮影

1985年8月15日開館。館内のメイン展示となる「南京大虐殺の史実展」は南京大虐殺80年を迎えた2017年にそれまでの展示内容を更新する「陳列更新プロジェクト」を経て同年12月13日に公開が開始された。同展の図録によると、更新後の展示は「南京失陥前の情勢」「日本軍の侵攻と南京保衛戦」「南京陥落後の日本軍の暴行」「人道主義的救援」「世界に知られた事実と日本の隠蔽」「大虐殺後の南京」「戦後の調査と裁判」「人類の記憶と平和への祈願」の8つから成り立つ。およそ2000枚の写真と900点あまりの文書が展示されている。

館内に入るとまもなく犠牲者一人一人の名前が映し出される壁が目に入る。この壁には12秒に1滴ずつ滴り落ちる雫の映像が映写されている。これは、亡くなった犠牲者の数を南京大虐殺の期間に当てはめた時、12秒に1人が殺害された計算になるためだという。

順路進むと次に見えるのは壁一面に犠牲者の顔が表示されている大広間。ここには生存者が残した足型も展示されている。犠牲者数「30万」の数字は単なる数字ではなく、失われた人生が積み重なったものであると痛感した。

以降はパネル、実物、証言、文書、映像などが展示された空間を進んでいく。この中には守衛側に回った中国軍の攻防も紹介されていた。軍事による蛮行を悼む国家公祭に軍人が参加するのは、人民を守るために立ち向かった兵士を慰霊するためとみられる。

展示室の中央には地中に埋められた遺体がそのまま保存されている、もちろん白骨化しており「発掘時に発見された状態」と言うのが正しい。しかし、来館者は目の前にある23柱の遺骨を見て、82年前の蛮行に思いを至らせずにはいられなくなる。この展示空間は、虐殺を象徴する、「ブラックボックス」と紹介されている。5年前まで義務教育・高等教育の社会科を学んできた私は一切学んでこなかった歴史が詰まっている場所。大虐殺の悲惨さだけでなく、日本の教育のお粗末さにも気づかされる場所である。

中でも一番愕然とした展示は、占領後の南京で日本軍兵士と住民たちが和やかに触れ合っているかのように報じた日本メディアの記事たちである。兵士と子どもが手を繋ぐ写真を報じ「戦地とは思えない」とまで言及していた。いずれも、日本政府の方針から虐殺の隠蔽に加担したもの。大虐殺の歴史が伝わっていないのは、言論機関の責任でもある。来年から記者になる身として、他人事ではない思いが込み上げた。

南京大虐殺生存者の李秀英さんが残した言葉。 2019年12月13日 南京紀念館で筆者撮影

展示の最後には南京大虐殺生存者の李秀美さんが残した言葉があった。「歴史をしっかり明記しなければならないが、恨みは記憶すべきではない」。負の歴史をつなぐ一方で憎しみの連鎖をいかに絶てば良いのか。次世代を担う我々に問いかけられている気がした。

〈利済巷慰安所〉

利済巷慰安所の建物。壁にある雫状のアートは犠牲者たちの涙を模したもの。手 前の銅像は利済巷慰安所を証明した性奴隷被害者・朴永心さんらの姿をモチーフにしている。 2019年12月14日 利済巷慰安所で筆者撮影

訪問4日目の14日、南京市内の旧日本軍慰安所「利済巷慰安所」を訪問した。2003年、朝鮮人慰安婦被害者の朴永心(パク・ヨンシン=2006年死去)さんがこの場所を訪れ確認し、外国人慰安婦に証明された唯一の慰安所とされている。日本軍の性奴隷制度を記録・展示する施設として開館したのは2015年12月のこと(奇しくも同月には慰安婦被害者への賠償などを取り決めた日韓合意が安倍晋三・朴槿恵両政権下で締結されている)。記念館の外壁や展示室内には性奴隷被害者たちが経験した苦痛をイメージした「涙」の雫が描かれている。

日本軍が中国大陸で初めて慰安所を作ったのは1931年11月のこと。名前は「第一サロン」。慰安婦制度が確立する前に作られたため、一番長くその「機能」を持った慰安所である。建物は現在も存在しているという。1932年の上海侵略以降、大規模な強姦事件を防ぐため慰安婦制度が作られた。そのため、中国の慰安所は上海に多い。制度が拡大したのは南京大虐殺以降のこと。南京市内で日本軍兵士が多くの強姦事件を犯し、性病が蔓延したためだ。上海派遣軍参謀副長として侵略に加担した岡村寧次は「極めて恥知らずのまま慰安所を作った」と後年に回顧している。また、南京大虐殺時に商社駐在員として民間人の保護活動に尽力したドイツ人ジョン・ラーベは日本軍の性的暴行を記録している。

日本軍が使用していた「突撃一番」と名付けられた避妊具。 2019年12月13日 南京紀念館で筆者撮影

韓国留学を経験し、韓国側から日本軍性奴隷問題を見つめた私は、被害国としての中韓両国を対比しながら館内を見学した。韓国で性奴隷問題を詳細に扱っている施設としては、被害者が集う福祉施設「ナヌムの家」や民間団体が出資して設けた「戦争と女性の人権博物館」がある。2つの施設の主眼にあるのは「被害者の苦悩」である。展示内容は被害者の証言や被害者が描いた絵、少女像など、見る者の情念に訴えるものが多い。一方、利済巷慰安所の展示物は被害者が寄贈した慰安所の器具、慰安婦制度拡大までの経緯が記された資料など、現物を用いて歴史を紐解くものが多い。以上から、韓国は「記憶」を、中国は「記録」を重視している印象を受けた。慰安婦の中には南京金陵女子学校(現・南京師範大学)から強制的に連行された女学生もいたという。中には朝鮮半島から中国まで連れて来られた被害者の証言もある。中国国内の被害者は20万人。うち現在も生存しているのは20人程度だという。ちなみに当施設は侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の分館という位置付けで運営されている。南京大虐殺はユネスコの世界遺産記録に認定されているが、性奴隷問題は認定されていない。中国側は「他の国と連合して申請し直す案を真剣に検討する」としており、日本の加害の歴史は中韓の連携によって記憶されていくというおかしな状況が生まれようとしている。安倍晋三首相は先の日中韓首脳階段で三ヶ国の連携強化を訴えていたが、歴史的事実の継承について鼎の軽重が問われている。

旅順大虐殺と南京大虐殺の現場を訪ねて 乗松聡子

旅順大虐殺と南京大虐殺の現場を訪ねて

明治期に遡る大日本帝国の暴虐の系譜

乗松聡子

「週刊金曜日」2018.1.19(1168号)より転載

萬忠墓紀念館 旅順 2017/12/17 乗松聡子撮影

南京大虐殺から80年を迎えた昨年12月12日から19日にかけて、日本軍の中国侵略を30年以上調査研究してきた松岡環氏が主宰する「第33次銘心会南京友好訪中団」に参加し、上海、南京、大連、旅順を訪ねた。

このうち、南京で12月13日(注=1937年南京城陥落の日)に開かれた追悼式典は、2014年から「国家公祭日」と指定され、国の行事となっている。同日早朝、式典が開かれる「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」に向かうバスの中で、松岡氏は「侵略戦争において、“惨案”(ツァーアン)と呼ばれる虐殺は、南京だけではなく中国全土で起こりました。調査でわかっているだけでも、100人以上の虐殺があったのは390か所、10人以上の虐殺があったのは2300か所にも及びます」と説明した。この日は、全国で南京大虐殺犠牲者を追悼する日でもある。南京では午前10時ちょうどに街中の車がクラクションを鳴らし、10時1分から1分間の黙祷をする。

約1万人が参列した同紀念館での式典は献花、荘厳かつ感情に訴えかける音楽演奏、3000羽もの放鳩、平和の鐘・・・と続いた。紀念館自体が虐殺の地に立つ。代表演説に立った全国政治協商会議の兪正声主席は、「戦争の歴史を学ぶことによって、人々がよりよく歴史を認識し、平和を大事にすることができる。日本軍国主義が発動した中国を侵略した戦争は中国人民に巨大な災難をもたらしたが、日本人民にも同じく大きな災難をもたらした。」と語った。

証言できる「幸存者」の減少

13日の午後は、魚営雷や中山埠頭など、揚子江沿岸の虐殺現場を訪ねた。この日は紀念館の主会場の他、市内17か所の虐殺現場で同時に追悼式典が開催された。行く先々で真新しい献花に覆われた追悼碑を見るたびに、虐殺事件がいかに広範囲で大規模に行われたかを肌で感じた。

劉民生さんの家で 2017/12/15 乗松聡子撮影

現在この事件を証言できる人は少なくなってきている。同紀念館が把握している「幸存者」と呼ばれる生存者は、17年9月末現在で98人だ。今回私たち訪中団はこのうち劉民生さん(83歳)と王津さん(86歳)のお2人を自宅に訪問する機会に恵まれた。劉さんも王さんも、幼かった当時、日本軍に父親を連れ去られて殺され、大変な苦労をして生きてきた。

多くの家庭ではこのように一家の大黒柱が殺され、残された者たちが極貧生活を余儀なくされた。80年前の出来事の影響を、今も被害者やその家族は心身の傷と共に背負って生きている。劉さんが語った「今の日本政府の高官たちは歴史をなくそうとしている。みなさん、この目で見た歴史を日本で伝えてください。一緒にがんばり平和な世界をつくりましょう」との言葉を心に刻み、南京を後にした。

次に、遼東半島の大連市と、行政的には大連の一部となっている旅順口区を訪ねた。清朝は1881年に旅順に軍港を建設し、そこに北洋艦隊を編成する。1894年から95年にかけての日清戦争後、遼東半島は日本に割譲されたが「三国干渉」で清国に返還。98年になってロシアが強制的に租借権を得た。そして日露戦争(1904年-05年)の勝利で、日本は再びこの地域の権利を獲得する。

この日清戦争は、清国の影響を排除して朝鮮を日本の支配下に置くための侵略戦争であった。1894年7月23日、日本軍は朝鮮王宮の門を破壊して占領。その二日後に日本海軍は黄海の豊島沖で北洋艦隊を攻撃し、続いて朝鮮の清国軍に日本陸軍第一軍が奇襲をかける。

伊藤博文が虐殺を隠蔽

朝鮮を制した第一軍は朝鮮・清国境を超えて10月24日、清国に侵攻し、これとは別に同日大山巌率いる第二軍が遼東半島花園口に上陸して金州に攻め入り、虐殺や強かん、略奪を行う。さらに第二軍は11月21日に北洋艦隊拠点の旅順を占領するが、その日からおよそ4日間にわたり、南京と同様の大虐殺に手を染めた。年寄りから子どもまでの無差別市民殺戮、女性の強姦、武器を捨てて無抵抗状態の清軍兵士・捕虜の虐殺で、約2万人が殺されたと推定されている。

この事件は、軍に同行していた「伯爵写真家」亀井茲明が多くの写真のみならず、「日本兵は、兵農を問わず容赦せず殺した…流れる血、血なまぐさい匂いが満ち満ちて、のちに遺体は原野に埋葬した」という内容の日記も残している。第二軍の山地元治第一師団長も、「土民といえども我軍に妨害する者は残らず殺すべし」と命令していた。山地の上官の大山も虐殺をやめさせようとしなかった。

当時、新聞記者のジェイムズ・クリールマンが『ニューヨーク・ワールド』という新聞で報道しており、12月20日付の新聞には、日本兵が「少なくとも2千人の無力な人々を虐殺」「市街端から端まで略奪」「街路は切り刻まれた男、女、子どもの死体で埋め尽くされその一方で兵士らが笑う」といった内容が書かれている。参戦していた日本軍夫の日記にも、子どもが裸で死んでいる有り様を見て目に涙をためたり、若い娘が露わな姿で死んでいるといった記述が残されている。

事件後、当時の首相の伊藤博文は隠蔽工作に奔走する。伊藤の命令で陸奥宗光外相は海外メディアに、「平服を着て殺害された大部分は兵士だった」「住民は交戦前に立ち去っていた」「清軍捕虜を厚遇している」など、嘘に満ちた内容の画策電報を送った。松岡氏は、「これらの虐殺の否定の仕方は、南京大虐殺の否定派と全く同じです。」と強調する。
さらに旅順では、地元の地域史研究家の姜広祥氏の案内で、虐殺や埋葬の場を訪ねた。姜さんが40年務めた遼寧造船場は1883年に建設された遼東半島一の清国の軍艦造船所だった。日本軍は清国軍兵士のみならず造船所労働者、その家族を沼地に追い込んで殺害した。造船所は約2000人の工人がおり、それぞれ数人の家族がいたであろうことを考えると、被害総数は相当のものになっていたであろうと松岡氏は語る。

「坂の上の雲」の虚構

萬忠墓紀念館 旅順  2017/12/17 乗松聡子撮影

日本軍が虐殺の犠牲者の遺体を焼却処理した場所の一つに、旅順港近くに位置する白玉山東の麓の「萬忠墓」がある。最初は1896年に清国官吏が墓碑を建て、地域で死者を追悼する場となった。その後も何度かの修築を経て1994年、虐殺100周年に「旅順萬忠墓紀念館」が建立され、その壁には「1894.11.21-24」と刻まれている。

南京大虐殺を生み出した日本軍の野蛮な性質と、アジアの隣人を人間として扱わない差別感情は、決して「15年戦争」と言われる期間に限定されない。旅順大虐殺に象徴されるように、明治期から1945年の敗戦まで脈々と続いた、大日本帝国とその軍隊の本質そのものだったのだ。明治初期から日本軍は1874年の台湾出兵、1875年の朝鮮を威嚇した江華島事件をはじめとして国外に武力行使し、日清戦争は初の本格的侵略戦争であった。その後も日露戦争や山東出兵、満州事変、日中全面戦争と侵略戦争を広げていく。

広く読まれている司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響によって流布された、明治という時代と日清、日露戦争を美化する歴史観が、大日本帝国の本質を見えなくしている。安倍政権はこれを利用して「明治維新150年」の祝賀ムードを演出し、明文改憲にも利用としているかに見える。しかし、「100人中100人が知らない」(松岡氏)と言っても過言ではないほど日本人が無知な旅順大虐殺だけを取っても、明治の「古きよき時代」という神話はいとも簡単に崩れ去るはずだ。再び侵略国家にならないためにも、侵略戦争に明け暮れた70年余に及ぶ大日本帝国の歴史と実像を、冷徹に振り返りたい。

*乗松聡子さん(「アジア太平洋ジャーナル」エディター)のブログ「ピース・フィロソフィー・センター」(カナダ・バンクーバー 2007年設立)は平和で持続可能な世界を創るための対話と学びの場を提供します。


乗松聡子さんの記事を掲載するにあたって

伊藤彰信(日中労働情報フォーラム代表)

 「週刊金曜日」(2018年1月19日)に掲載された「旅順大虐殺と南京大虐殺の現場を訪ねて」と題する乗松聡子さんの記事を、著者並びに「週刊金曜日」編集部のご了解をいただき、日中労働情報フォーラムのホームページに転載することにしました。

乗松さんとは、私が団長を務めた日中労働者交流協会の「第4次日中不再戦の誓いの旅」で、昨年12月13日に南京大虐殺犠牲者追悼国家公祭に参加した時にお会いしました。カナダ在住のジャーナリストで、「琉球新報」などにも記事を寄稿されている方です。沖縄から参加した副団長の福元(沖縄高教組委員長)さんも「お名前は存じております」と名刺交換をしていました。

「週刊金曜日」に記事を書いたら送ってくれると約束して別れたのですが、送られてきた記事を読んで私はショックを受けました。旅順大虐殺のことを私は知りませんでした。南京大虐殺が兵站を無視した軍部の無謀な作戦の結果と説明することは事の一面しか表していません。日本の侵略戦争そのものが「虐殺」を孕んでいたことが分かります。南京大虐殺以前の多くの残虐行為も、その本質を知ることができたように思います。

中国に行くと「日本と中国の関係は2000年以上の友好交流の関係の間に50年の不幸な関係がありました」という言葉をよく聞きます。私たちは中国との不幸な関係を日中戦争の15年間と捉えがちですが、1894年の日清戦争以降の50年間をもう一度見つめ直す必要があると思います。

今年は明治維新から150年です。前半の77年が戦争に至った時代、後半の73年が戦争をしていない時代です。日本が再び戦争をしないように、日中友好の意義をもう一度考えてみたいと思います。