10月18日、広島市内の広島弁護士会館で、広島安野・中国人受難者を追悼し歴史事実を継承する会(継承する会)主催の「和解を導いた力Part5 被爆者・孟昭恩さんの生涯をふりかえる集会」が開催され約70人が参加しました。
八路軍兵士で日本軍の捕虜となり、1944年8月に安野発電所建設のために強制連行された孟昭恩さんは、過酷な労働や虐待によって発生した中国人大隊長と班長への傷害致死容疑で逮捕され、45年8月6日に取り調べを受けるために収監されていた広島刑務所内で被爆しました。孟昭恩さんは2006年に逝去されたが、今回、その三男である孟憲法さん(55歳)が来日し、父親の半生を語りました。45年末に帰国した孟昭恩さんの妻子は行方不明であり、年老いた両親のみが残されていました。再婚して5人の子どもを設けたものの、生活は苦しく、周囲の目も冷たかったそうです。また、食事の時には腹ばいになって食べる時があり、その理由を尋ねると、「監獄で身に付いた習慣だ」と答えたり、孟憲法さんが成長し、「人民解放軍に入隊したい」と希望したところ、「兵士として苦労するのは私だけでいい」と言って、決して許さなかったとも証言していました。また、RCC中国放送が、強制連行と中国人被爆者について1993年に制作した「トンネルに風が吹いた日」も上映されました。製作者の柴田和弘さんは「歴史を共有することができて良かった」と語りました。
獄中被爆の真相について中国新聞特別論説委員の岩崎誠さんが話しました。岩崎さんは孟昭恩さんを取材したときの思い出話も語りました。「西松建設に対する三項目要求(公式謝罪、追悼碑と記念館建設、しかるべき賠償)のうち一つに絞るとしたらどの項目か」と質問したところ、孟さんがつかさず「追悼碑と記念館建設」と答えたこと。孟さんが安野中学校で強制連行と被爆の体験を話した時に中学生に「二度と戦争を起こさないよう、できることから始めてください」と訴えたこと。西松建設の作業については中国人大隊長と班長が指示をしており、日本人は直接命令することをせず、中国人を分断していたこと。孟さんたちは「日本が戦争に勝てば奴隷労働が続く、中国が戦争に勝てば我々は日本に殺される。決起する以外にない」と思って大隊長を襲ったこと。
翌19日には、安芸太田町の安野中国人受難之碑の前で、「第18回 中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」も行なわれ、約45人が参加しました。最初に受難者への黙とうが行なわれ、続いて、継承する会の足立修一代表世話人は、「今年は被爆80周年という節目の年であり、今後も和解事業で築かれた日中間の友好と交流を深め、被害者の追悼と歴史の継承を継続していきます」とあいさつ。孟憲法さんも、「父は1993年にこの地を訪ねたが、映像を見ると何回も泣いている父の姿があり、苦労し難儀した光景を思い出したのだと思った。私は歴史の教訓をくみ取り、正面から向き合うことを希望する。私たちは戦争を起こさないように最大の努力をしなければならない。平和を望み平和を愛している。中日友好を世々代々に渡って伝えていきましょう」と参列者に呼びかけました。来賓として、地元安芸太田町の木村富美副町長と魏有美中国駐大阪副総領事、善福寺の藤井慧心住職、広島県教職員組合の頼信直枝委員長がそれぞれあいさつ。中国の二胡の演奏に合わせて、集いに参加した人が献花を行ないました。
そして、集いが終了した後、近くの善福寺に移動し、中国の線香を使用した追悼法要も行ないました。藤井住職は、「良き未来に繋がる日中友好を願い、交流を深める場所であり続けるためにも、追悼しつつ安野の歴史を継承し伝えていかなければならない」と訴えました。



