松尾直樹
8月5日の朝7時45分に広島市の平和記念資料館前に集合し、バスで広島県山県郡安芸太田町に移動しました。車内では、地元のRCC中国放送が2014年に制作した「和解~広島・中国人強制連行問題の軌跡」を見て、1時間ほどで現地に到着しました。そして、「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」の川原洋子事務局長の案内でフィールドワークが行なわれました。
1937年7月7日の盧溝橋事件による日中全面戦争、さらに1941年12月8日のアジア太平洋戦争の開戦に伴い、日本では働き手となる成人男性の多くが徴兵されてしまった結果、国内の炭鉱や土建、港湾では、労働力が圧倒的に不足しました。日本政府と企業は、それを解決するため、約70万人の朝鮮人を強制連行したものの、それでも全く足りず、1942年11月27日に当時の東条英機内閣は、「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定し、翌1943年より、中国人の日本への強制連行を開始しました。
日本への移送には、日本軍も協力しており、河北省や山東省を中心に捕虜となった中国兵や農民、商人などを収容所に集め、企業の要望する人数に合わせて日本に強制連行しました。
そして、日本では、主に鉱山労働や港湾荷役、発電所、飛行場建設など、全国135か所で危険な重労働に従事させており、その数は約4万人と言われています。過酷な労働や虐待、飢えと病気により、日本の敗戦までに約7000人が死亡したという説明に、参加者は驚いていました。
そして、バスを降りて、この安野発電所についての説明も行なわれました。もともと、戦争遂行に必要な電力をまかなうため、当時の日本発送電と西松組(現西松建設)が建設したものであり、滝山川の水を上流から山中の導水トンネルで7.7キロ下流まで運び、65メートルの落差を利用して発電する水力発電所であり、敗戦後に工事を再開し、現在も稼働しています。
1944年8月6日、ここに357人の中国人(3人が移送中に死亡)が連れて来られ、主に導水トンネル堀りの作業に従事させられました。そして中国人は、4か所に分かれて24時間監視付きの収容所に入れられましたが、食事や衣服、靴も満足に与えられずに衛生状態も悪く、けが人や病人も多く発生したそうです。
さらにひどいのは、大隊長や中隊長といった役職者を設けて、同じ中国人同士を分断する差別的な支配を行なうなどしたため、辛く苦しい労働や生活に耐えきれずに逃げ出したり、大隊長や中隊長に対する殺人事件まで発生しています。
そして、この事件によって、中国人19人が国防保安法違反と傷害致死事件の容疑者として、広島市内に送検されることになりました。そして運命の日、1945年8月6日には、14人が広島刑務所で被爆しましたが幸いにも生存。残りの5人は、爆心地近くで取り調べを受けていたため、全員が死亡しています。
日本の敗戦後、安野発電所の中国人は解放され、集団で帰国しましたが、14人の被爆者は、原爆症による体調不良や後遺症に苦しみ、補償もなくそのまま放置された状態だったのです。ようやく事態が動いたのは、1992年であり、河北大学が西松組安野出張所作成の連行者名簿に基づいて生存者と遺族を探し出す調査を開始しました。
その結果を受けて、1993年には生存者2人が来日し、西松建設との交渉に入ったのですが、決裂したため裁判となりました。当初、西松建設は、「当時の国策に従っただけであり、企業には責任はない」と頑なに責任を認めませんでしたが、2009年に西松建設が深甚なる謝罪と和解金を支払うことで、中国人360人との間にようやく和解が成立しました。そして、翌2010年には、この安野発電所に、「安野中国人受難之碑」が建立され、生存者や遺族を招いて慰霊祭も行なわれています。
また、2017年4月には、日本で亡くなられた中国人の遺骨約2800人分が安置されている天津市烈士陵園内の「在日殉難烈士・労工紀念館」で、安野発電所建設中に亡くなられた29人を追悼する会が行なわれています。今回は、発電所近くで5人分の遺骨を預かり、弔っていた善福寺の藤井慧心住職が、私達にその時の様子を語ってくださいました。
なお、和解成立後も毎年10月には、この碑の前で、「追悼の集い」も開催されており、歴史問題の和解について考える機会を設けているとの説明があったので、私も再び現地を訪れたいと考えています。