大阪で中国人強制連行受難者追悼会

  10月13日(日)に第27回大阪中国人強制連行受難者追悼会が開催されました。

 以下、大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会の冠木克彦代表のあいさつと日中労働者交流協会の伊藤彰信会長のあいさつを掲載します。

 「彰往察来」の碑で集合写真
  伊藤会長のあいさつ

大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会

      代表  冠木 克彦

 本日は第27回大阪中国人強制連行受難者追悼会に御参列いただき心より敬意を表します。また、本日は、中華人民共和国大阪総領事様の御参列をいただきました。心から御礼を申し上げ、後に御挨拶をいただきます。

 さて、この追悼会も27回を数えることになりましたが、最近、日中労働者交流協会から、この冊子「南京に『日中不再戦の誓い』の碑を建てて」が出版されました。私はこれを読み、日本軍国主義のすさまじい中国侵略により殺戮・強奪等筆舌に尽くしがたい被害を加えられた中国の人達と、加害国民である私達がいかにして信頼と友好を作り上げてきたか、その歴史を詳しく知ることができました。中国は1972年9月29日調印された「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」以来、日本軍国主義と日本人民を明確に区別して友好を広げ深めていただいてきたことに心から感謝を申し上げたいと思います。

 そして、私達日本国民側は、政府の冷たい仕打ちに屈せず、労働組合を中心として、自主的に中国人民との信頼関係を作り上げてきたことを確認できます。日中国交回復がなされた1972年9月、北京に到着した田中角栄首相は「私は、長い民間交流のレールに乗って、本日、ようやくここに来ることができました」と語りました。

 日中友好の主役は私達民衆であることを確認することができると思います。

 ところで、私達の意思とかけ離れたところで、日中間を離反させ、対中国に対する嫌中意識をあおり、台湾有事などとありもしない危機意識をたきつけて、再び軍事的挑発をしようとする勢力がうごめいています。

 このような動きに対し、私達は、日中間には安定的な発展と未来を切り開く、「日中共同声明」(1972)、「日中平和友好条約」(1978)「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」(1998)、「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」(2008)という4つの重要な基本文書が日中間でとり交わされているということを声を強くして主張し、日中間自体には何ひとつ戦争の火種になるものはなく、問題は、ただ一つ、アメリカが日本を先兵としてこき使おうとして軍事的要求を強めていることをくりかえし批判しなければなりません。

 私達の追悼実行委員会の活動は、ささやかな活動ではありますが、その「心」としては、広く、大きく、そして、穏やかな、日中友好の活動です。可能なかぎり、当初結成した頃のように労働組合に深く浸透し、多くの支援をいただきたいと考えております。今後とも御支援のほどをお願いし、代表挨拶といたします。


日中労働者交流協会

    会長  伊藤 彰信

 日中労働者交流協会会長の伊藤です。以前、全港湾という港で働く労働者の労働組合で中央執行委員長をしていました。私は今回初めて大阪の追悼会に参加しました。実行委員会が1998年より毎年追悼会を開催していることに敬意を表します。そして、このような席で発言の機会をいただいたことに感謝いたします。

 はじめに、私は、中国からここ大阪の地に強制的に連行され、粗末な宿舎や食事しか与えられず、危険な重労働に従事させられ、亡くなられた方々に心からの哀悼の意を表します。大阪に連行された中国人の多くは港湾労働に従事させられていました。日本に強制連行された中国人は約4万人です。土木建設、鉱山、港湾、造船で働かされました。日本で6830人が亡くなりました。1931年の満州事変以降、中国本土で日本軍の捕虜となり、また拉致されて強制連行・強制労働させられた中国人は約4000万人といわれています。日本に連れてこられたのはその0.1%ですが、私たちは日本にいて戦地における加害の状況を知ることができるこの事実から目を背けることは許されません。

 日中労交は1974年8月、総評系の産別24組織、9地県評、中立労連、海員組合が参加して結成されました。初代会長は市川誠総評議長、初代事務局長は兼田富太郎全港湾委員長です。日中労交は、総評の解散、天安門事件の影響もあって機能停止に陥りましたが、個人加盟の組織として再建しました。その後も解散の危機に陥ることもありましたが、なんとか今年結成50周年を迎えることができました。

 日中労交の50年の歴史を残すために編集委員会を組織して「南京に『日中不再戦の誓い』の碑を建てて」と題する本を発行しました。本を書くにあたって、二代目事務局長であった平坂春雄が、この人は全港湾関西地本の書記長をした人ですが、残してくれた日中労交の機関誌「日中労働者交流」を読み返しました。平坂資料の整理を担当したのは、元全港湾大阪支部副委員長の平石昇です。「日中労働者交流」2005年11月5日号に実行委員会代表の冠木弁護士が「追悼記念『彰往察来』碑の建立除幕」と題する文章を寄稿しています。50年史の中に「彰往察来」碑のことを書き残しておかなければならないと思いました。大阪市との交渉に関する資料も出てきました。櫻井さんから大阪における強制連行の実態や1950年代の慰霊祭、「彰往察来」碑建設に関する資料を提供していただき、第9章を書くことができました。櫻井さんに改めてお礼申し上げます。第9章は平坂春雄が関西で取り組んだ活動を記述した章になっています。

 「日中労働者交流」に兼田富太郎が寄稿した「日中友好運動の黎明」という文章があります。兼田富太郎は1953年3月、朝鮮戦争が膠着状態になったとはいえ休戦する前の時期に、在華同胞帰国協力船の乗船代表として、中国に残留していた日本人を帰国させる事業の中心的役割を果たします。その時の手記です。50年史にこの手記を全文掲載しましたが、この帰国事業と中国から強制連行されて日本で亡くなった方の遺骨送還運動とが、労働者による日中友好運動をつくっていきました。ここまで書くと、国交正常化と戦後補償裁判について書かざるを得なくなって、日中共同声明を国家間の和解、戦後補償裁判を民間企業・国家との司法上の和解と捉えてみました。強制連行裁判での中国側原告の請求は、①加害の事実と責任を認め謝罪する、②金銭的な給付を支払う、③慰霊碑を建て、将来に向けて歴史教育を行うの三つでした。「彰往察来」碑は、まさに「過去を明らかにすることによってこそ、正しく未来を察することができる」という意味をもつものです。

 日中共同声明の第5条は戦争賠償請求放棄の条項ですが「中華人民共和国政府は、中日両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」と書かれています。日中友好のために賠償請求を放棄したのです。周恩来総理が中国人民を説得した論理は、日本軍部と日本人民の「二分論」です。悪いのは軍部であって日本人民ではない。「賠償請求すれば苦しむのは日本の民衆だ。苛酷な賠償に苦しんできた中国民衆はそのことを良く分かっている。中国は日本から賠償金を取らなくても建設できる」と周恩来総理は民衆を説得したといわれています。中国が苛酷な賠償に苦しんだというのは日清戦争のことです。

 日中労交は、1985年8月15日に市川会長が侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の開館に際して贈った「誓い」の精神に基づいて活動しています。1985年8月15日は、中曽根康弘総理が初めて靖国神社を公式参拝した日です。中国はA級戦犯を靖国神社に合祀したこと、教科書の日中戦争の記述を「侵略」から「進出」に書き換えたことなどを日本軍国主義の復活と捉えています。

 「誓い」には「われわれは、1931年および1937年を契機とする日本軍国主義の中国侵略戦争を労働者人民の闘争によって阻止し得なかったことを深く反省し」と書かれています。周恩来総理は1972年9月25日、田中角栄首相を迎えた歓迎晩さん会で「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略によって、中国人民はきわめてひどい災害を蒙り、日本人民も大きな損害を受けました」とあいさつしています。中国は、日中戦争を50年戦争として捉えています。日清戦争時の1894年11月、日本軍は旅順で約2万人の市民を虐殺しています。1923年9月1日に起きた関東大震災で、6000人を超える朝鮮人、800人近い中国人、社会主義者、労組合活動家が虐殺されました。世界でも例のない震災を契機とした虐殺をどう見たらよいのか。「ヘイトだ」「差別だ」と捉える差別排外主義批判だけでは不十分だと思います。戒厳令が発令されたということは、内乱の鎮圧であり、植民地の反乱分子、間接侵略を企てる者は虐殺しても構わないということだったと思います。

 愼蒼宇(法政大学教授)は「1894年甲午農民戦争からの植民地戦争」と言います。山田朗(明治大学教授)は「植民地戦争とは、植民地獲得の侵略戦争と植民地における治安戦争の二側面をもつ」と言い、「後者についてはハーグ陸戦規定が適用されなかった」と言っています。植民地における虐殺は国際法上許されていたということです。安倍元首相は「侵略の定義はいろいろあるので、日中戦争が侵略戦争だったとは言えない」として、南京大虐殺は無かった、慰安婦はいなかった、強制連行は無かったとしています。「大東亜戦争」は植民地解放のための正しい戦争であったという皇国史観です。浅井基文(元外務省中国課長)は「植民地支配を謝罪した宗主国はない」といっています。「植民地支配は良いことだった」という宗主国の考え方が、歴史認識問題と和解の壁として横たわっています。

 戦争は突然始まるものではありません。仮想敵国の設定、外敵や内敵への憎悪・排斥、軍備拡張、治安維持強化などを経て始まるものです。1921年、大阪では石炭荷役に従事する中国人労働者を雇用することを禁止しました。1922年、東京の隅田川沿岸水揚水夫は中国人を退去させるよう陳情しています。第一次大戦後の不況の中で、日本の港湾労働者は低賃金では働くことを厭わない中国人労働者を排斥・追放する運動の先頭に立っていました。天皇の軍隊である皇軍の兵士は、労働者・農民です。中国人を殺りくしたもの、中国人を強制労働に駆り立てたのも労働者・農民です。中国人強制連行裁判では、企業も労働者も「国の政策に従ったままであり、私たちには責任がない」と言っています。しかし、今私たちは、国民主権を謳った日本国憲法の下で暮らしているわけです。戦争を「労働者人民の闘争によって阻止する」主体的な取り組みが問われています。

 戦争は、帝国主義間戦争、植民地戦争、そして今は「テロとの戦い」と変化してきています。イスラエルのネタニヤフ首相は、パレスチナに対する侵攻を「これは文明と野蛮の戦いだ」といっています。日清戦争のときに福沢諭吉が言った言葉と同じです。

 今年の春闘の特徴は、大企業のほとんどが満額回答だったことです。ある産別では要求を上回る回答がありましたが、それは防衛予算が増額されたからです。賃金を上げるには、防衛産業で働くこと、防衛力強化に協力することが一番早い道になってしまいました。防衛産業強化法、経済安全保障情報保護法が成立しました。敵基地攻撃能力をもつことは、軍官民挙げて戦闘態勢をつくりあげることです。日米安保条約によって統治される日本は、「拡大抑止」と称してアメリカの核の傘のもとで核戦争を行う準備をはじめています。すでに「戦う覚悟」のレベルではなく、「戦う社会・産業体制」が出来上がっています。

 平和は守るものではなく、創り出すものです。日中共同声明も日中平和友好条約も反覇権・平和共存5原則を明記しています。反覇権・平和共存5原則は、相互尊重を前提とする平和外交の基本です。価値観を共有する者が同盟を結び、敵対を煽るのではなく、社会制度の相違を認め合いながら、様々な価値観を持つ多民族・多文化が共生する世界を築くことです。「憎悪と敵対の悪循環」を断ち切り、「友好と平和の好循環」を創り出さなければなりません。そして、「子々孫々、世々代々」の日中平和友好交流を続けていくことだと考えています。

 ご清聴ありがとうございます。