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「日中労働組合交流史―60年の軌跡」(山田陽一著)を読んで - 前川武志

 山田氏は総評・連合・国際労働財団・日中技能者交流センターと労働組合の真ん中で中国との交流にかかわった人である。その立場から、この文をまとめられた。
 残念ながら、日中労働者交流協会の文字は一回も出てこなかった。その点については、彼の視点の狭さを指摘するよりも、日中労交の先輩や現役の我々が資料の保存が出来ていないことや、活動のアピール不足によるところが多いと考える。

 本論にはいって、山田氏は交流活動を政治的背景や交流のレベルにより、6つの時期に分けている。
第1期は、アジア連帯強化と対中交流への挑戦(1949~1958年)
第2期は、平和運動下の労組交流(1959~1964年)
第3期は、中ソ対立・文化大革命による日中労組交流(1965~1972年)
第4期は、最良の日中関係下の労組間交流(1978~1989年)
第5期は、天安門事件での「頓挫」交流再開(1989~2000年)
第6期は、グローバル時代の日中労組交流(2001~2013年)

 時期区分については、ほぼ同意できる。しかし、表のこれらの活動にあたって、日中労交が果たしてきた役割について、捕捉しておく必要がある。
 その第1は高野実が日中友好に果たしてきた役割である。1955年、バンドン会議(アジア・アフリカ会議)で高野は周恩来と会談の機会があり、それ以降中国との友好関係の樹立に努力をしている。病気治療も中国からの招きで中国で行っていたほどである。本書では、「中国メーデーに派遣された、高野実総評事務局長が率いる代表団は、メーデー前日の交歓会に出席し、高野事務局長はあいさつで『アジア諸国会議とA・A会議の成果の上に、日本労働代表は、各国の労働者とともに、アジア労働者階級の団結のために努力する』と述べた。」(本書26頁)と触れている。
 第2に、全港湾委員長の兼田富太郎が日中労働者交流協会を設立し、国交回復運動と交流促進を行ってきた。日本の労組と中国総工会との懸け橋となっていたことが、「総工会との間で1958年10月に兼田副議長が話し合い」(46P)「親中的な兼田代表団の訪中」(80P)、「今後の交流の窓口を中国側は中日友好協会、日本側は兼田委員長とすることも確認」(71p)と本書でものぞかせている。
第3に、市川誠総評議長が日中国交回復国民会議を代表委員として尽力し、、吉岡徳治副議長も兼田氏を引き継いで尽力した。
こうした日中労交の流れが表面しか触れられていないのである。

 最後に、グローバル時代の日中労組交流では、具体的活動はNTT労組の「砂漠を緑に」活動が紹介されている。「砂漠を緑に」することは黄砂が日本の環境に与える影響を考えるとき重要な活動である。しかし、それだけが労組交流の中身とするなら少し寂しいものがる。我々も事業半ばというより、手を付けたばかりであるが、労働条件向上、地位向上にための具体的交流、表層の交流ではなく、草の根交流により労働者を取り巻く社会環境を変革する取り組みが求められている。
そのための理論活動を強化していかねばならない。

(筆者は日中労働情報フォーラム事務局長)

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日中労働組合交流史日中労働組合交流史―60年の軌跡
山田 陽一【著】
価格 \3,996(本体\3,700)
平原社(千代田区)(2014/08発売)
<目次>
第1部 アジア連帯強化と対中交流への挑戦―1949~1958年
第2部 平和運動下の労組交流―1959~1964年
第3部 中ソ対立・文化大革命による交流の中断―1965~1978年
第4部 最良の日中関係下の労組間交流―1978~1989年
第5部 天安門事件での「頓挫」と交流再開―1989~2000年
第6部 グローバル化時代の日中労組交流―2001~2013年
<著者紹介>
山田陽一[ヤマダヨウイチ]
1935年大阪生まれ。1961年東京大学法学部卒。1961年総評書記局、調査部長、国際局長を歴任。1989年連合国際政策局長。1995~2001年(財)国際労働財団専務理事。1995~2002年日本女子大学非常勤講師。2001~2011年(財)日中技能者交流センター常務理事。2012年~(公財)日中技能者交流センター特別参与(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)